2019-02-07

●お知らせ。226日発売予定の『アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門』(高瀬康司=編著・フィルムアート社)という本に参加しています。

http://filmart.co.jp/books/manga_anime/ncb_animator/

そして、『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』(古谷利裕・勁草書房)も発売されています。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b383340.html

●『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)(大江健三郎)を読んでいると、『寓話』(小島信夫)が連想される。

『寓話』では、主要な登場人物が皆、自分が登場している当の小説である『寓話』の読者でもある。それは、『寓話』が月刊誌に連載されていて、登場人物はそれを読んで、作者に何かしらの働きかけをし、それをまた作者が書いて雑誌に掲載される、という形で成立していた。小説の登場人物たちの行動が「(進行中の)当の小説」を前提としてなされ、登場人物たちの間に「当の小説」が共有されている、ということになっている。

『晩年様式集』では、もっとクローズドなサークルのなかで、『「晩年様式集」+α』という冊子が共有される。『「晩年様式集」+α』は、話者=主人公である作家が書いている「晩年様式集」という小説の草稿と、その作家の(私小説的な形式でフィクションを交えて書く)スタイルによって長年「書かれる対象」であった女たち(作家の妹・妻・娘)によって書かれた、作家に対する異議申し立ての文章が織りなされることで成り立っている。話者=主人公である作家は、書かれつつある「当のこの小説」の草稿を三人の女たちに示し、それに対して(あるいは、過去に話者=主人公の書いてきた小説に対しても)、自分たちの意見や見方を「三人の女たちのよる別の話」というテキストを書いて、話者=主人公に提示する。話者=主人公によって書かれる「晩年様式集」と、女たちによって書かれる「三人の女たちのよる別の話」が交互に差し挟まれて、冊子『「晩年様式集」+α』が成立する。

(「三人の女たちによる別の話」を実際に執筆するのは、その都度、妹だったり娘だったりするが、そのテキストは三人によって共有され、討議され、三人の承認を経た上で、冊子にまとめられる。それを実際に編集するのは娘であるが。また、この三人の女たちは、後半では、テキストだけでなく、『「晩年様式集」+α』の主題に関係するかぎり、日常の会話もすべて録音し、三人で情報を共有し、討議する。)

この『「晩年様式集」+α』という冊子は、話者=主人公と三人の女たちだけでなく、ギー・ジュニアやリッチャンという、他の主要な人物たちにも共有され、読まれている。ここで、ほとんどすべての主要な登場人物たちによって共有されている『「晩年様式集」+α』こそが、読者が、今読んでいる当の小説『晩年様式集』の草稿であるという位置づけになるだろう(話者=主人公の長江古義人と、作者の大江健三郎とは、かぎりなく曖昧に一致する)。だから、「この小説」の登場人物たちは、書かれつつある「この小説の草稿」を、その進行過程のただなかにおいて知って(読んで)おり、それを意識した上で、それぞれが「この小説のなか」で行動していることになる。

(「この小説」には、「この小説の草稿が書かれつつある成り行き」が書かれている、とも言える。)

●この小説は一人称一視点ではなく、一人称多視点で書かれていると、とりあえずは言える(一見、そのように見える)。「三人の女たちによる別の話」の部分の話者(視点)は、主人公の作家ではなく、その妹だったり娘だったりするからだ。常識的な小説では、ここで話者と作者との分離があらわれるのだが---妹や娘の視点も、結局は作者が「書いて」いるのだから---、しかしこの小説では、妹や娘の語りの部分---書かれたものや録音されたもの---を、主人公=話者もまた読んだり聞いたりして共有しているというのだから、そこまで含めて話者=主人公の視点に取り込まれているとも言える(この意味でも、話者=長江古義人と作者=大江健三郎はかぎりなく曖昧に一致する)。話者=主人公は、妹や娘が書いたテキストを引用し、編集している、と考えられる。

しかしそれは逆に、話者=主人公の視点---書いたものや喋ったこと---が、他の登場人物たちに共有されているということでもある。特権的位置にいるようにみえる話者の視点もまた、あらかじめ他の人物と共有され、そこに取り込まれてもいる。つまり、必ずしも話者=主人公ではなく、他の(「この小説」のなかで進行中の『「晩年様式集」+α』を共有している)登場人物もまた、「この小説」の話者となりえる可能性がある。登場人物の誰もが、録音や他人のテキストを引用し、編集することで、「この小説(『晩年様式集』)」の話者であることが、権利上はできることになる。

(追記。つまり、主要なすべての登場人物---アカリを除く---の視点は、他のすべての登場人物の視点を取り込んでいるとも言えるから、互いが、互いの視点をひとしく取り込み合っている。)

●このような形式をもつことが、前作『水死』に対する、この作品の展開であると思う。

 

2019-02-06

●別の用事で図書館に行って、棚にさしてあった『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)(大江健三郎)がたまたま目について、なんとなく手に取って最初のところを読んだら面白くて、読みふけってしまい、そのまま借りてきて、帰ってからもつづきを読んだ。半分くらいまで読んだ。

●これまでの大江小説に比べると文章が淡彩的であるのだが、それでもなお独自の読みづらさは変わらない。意味がとりにくいということと、書かれていることが憶えにくい。記述が複雑なので、何が書かれているのか理解しようとする頭の使い方は、いったんそれを理解したところで一定の満足を得て、そこで捉えられた内容を保持し続けようとするところまで手が回らない。まったく忘れてしまうということはないが、しばらく読み進んで、以前あった場面と関係のある記述に行き当たると、確か前にはこんなことが書いてあったはずだから、この部分とはこういう関係があるのだなと、いちいち頭の中で改めて確認する必要があり、そこでその都度呼び出される記憶も、たしかこんなような意味のことが書いてあったはずだけど…、と、どこか掴みがたく自信が持てない感じで思い出す。

大江小説においては、物事や出来事が記述される時、描かれるその順番や段取りや繋がり、そして視点の取り方がかなり特異なので、それが、すんなりした理解(読解)と結びつかず、そのような特異な理路(経路)を経て取得され、そのような「見慣れない形」として納得された内容は、そのままではすんなりとは(自分なりの)記憶の形に結びつかないから、すんなりと定着しない。だから、読み取ること(今、読んでいる部分に書かれていることを理解しようとすること)と、思い出すこと(今、読んでいる部分が、それまで書かれていたこととの関係や対比から、どのような意味をもち、展開を示すのか、を探るために記憶を呼び出すこと)という、二重の過程で、ぼく自身の通常の物事の理解の仕方や記憶の仕方---や取り出し方---に対して変形が強いられ、強い負荷がかかり摩擦が生じる。

そして、その過程こそが、淡く書かれたようにもみえるこの文体から密度が生じる理由だろうと思う。この感じから、「まさに大江健三郎の小説を読んでいる」という感触、「大江健三郎を読むことでしか得られない特異な感覚」が生じる。

 

2019-02-05

野木亜紀子の脚本ということで、『重版出来!』をU-NEXTで三話まで観たのだけど、「これは普通のテレビドラマだなあ」と(終盤にいくにしたがって、いろいろな仕掛けが開示されるのかもしれないが…、ドラマを十話分観るためにはけっこう時間がとられるしなあ、と)。今後、野木作品を過去に遡って掘っていく(追って)のがいいのか、それとも、オリジナル作品である『獣になれない私たち』や『アンナチュラル』に絞って、繰り返し観て、深く考えていった方がいいのか、迷う。

(いままで観たところでは、『獣になれない私たち』が圧倒的にすごい。)

(もう一つ、『フェイクニュース』というオリジナル脚本のドラマがあって、それが最新作のようなのだが、まだ、ネット配信にはどこにも上がっていないようだ。)

●猫舌SHOWROOM「豪の部屋」のゲストが大森靖子だった。ぼくは、アーティストとしての大森靖子にほとんど興味をもてないし、よく分からないのだけど(ああいう世界は苦手)、アイドルオタクとしての活動というか、アイドル界隈の人としては外せない重要な人だということには違いない。

(以下の動画で話されていることは、一定の基礎知識がないと、何を言っているのかよく分からないかもしれない。)

https://www.youtube.com/watch?v=Is7uNQ5fyyo&t=2754s

●「豪の部屋」第一回目の放送(2018年6月19日)。ゲストは、(元)乃木坂46川後陽菜

https://www.youtube.com/watch?v=Z3LBtJiTvi4&t=6398s

●「矢口真里の火曜The NIGHT」の神回。「吉田豪激推し2019年注目アイドルSP」

https://www.youtube.com/watch?v=LmmftfZNaOk&t=4271s

 

2019-02-04

●つづき。『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)。引用、メモ。

人形使いと操り人形。

人形使いが、自分の操り人形を完全にコントロールしているかのようにふるまうことはほとんどないだろう。人形使いは、「操り人形が、思いもよらない動き方を教えてくれる」といった妙なことを言うだろう。ある力が別の力を操るからといって、あるひとつの原因が結果を生み出しているとは限らない。(…)こう言ったからといって、操り人形が人形使いをコントロールしていることにはならないし---それでは単に因果関係の順序を逆にしているだけだ---、もちろん、弁証法の出る幕でもない。つまり、ここで興味を引く問いは、誰がどのように行為しているのかを決めることではなく、行為についての確定性から行為についての不確定性に移行することである。》

●行為は常に非局在的である。

《つまりは、行為は自明なものではないということだ。行為は、意識の完全な制御下でなされるものではない。むしろ、行為は、数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看取されるべきものであり、このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある。》

《生来の活力を回復しようとする社会科学にとって決定的に重要なのは、アクターを超えたあらゆるエージェンシーを、それ自体が社会的であろう何らかのエージェンシー---「社会」「文化」「構造」「界」「個人」など、名前は何でもよい---に合成してしまわないことだ。行為を、驚くべきこと、媒介、出来事のままにしておくべきだ。だからこそ、おそらくはいつものように、「社会による行為の規定」「個人の計算能力」「無意識の力」から始めるのではなく、ここでもやはり、行為の未決定性から始めるべきであり、そして、「私たち」が行為するときに誰や何が行為/作用しているのかについての不確定性と論争から始めるべきなのだ---そして、もちろんのことながら、この不確定性の発生源が分析者にあるのかアクターにあるのかを決めることはできない。》

《アクターネットワークという表現における「アクター」とは、行為の源ではなく、無数の事物が群がってくる動的な指標である。》

《「アクター」という語を用いることで表されるのは、私たちが行為しているときに、誰が行為し何が作用しているかは決して明らかではないことだ。舞台上の役者(アクター)は決して独りで演じていないからだ。演技すること(プレイ・アクティング)からして、複雑な局面に身を置くことになり、そこでは、誰がその演技を実行に移しているのかという問いは解決しえないものになっている。(…)このようにアクターのメタファーを展開することを認めるならば、アクターという語自体が、行為の完全なる散開(ディスロケーション)に注意を向けさせてくれる。そして、行為は首尾一貫しておらず、制御されておらず、均整がとれておらず、きれいに仕切れないことを知らしめてくれる。そもそも、行為は決して定置されず、常に非局所的(ディスローカル)である。行為は、借用され、分散され、提案され、影響を受け、支配され、曲げられ、翻訳される。あるアクターがアクター-ネットワークであると言われるならば、何よりも強調されるべきは、行為の起源に関する不確定性の発生源である》。

《ある犯罪者が「私のせいじゃない。私には駄目な親がいた」と言うときに、私たちは「社会が彼女を犯罪者にした」と言ったり、「自分自身の罪から逃れるために、社会という不特定性のなかで自分の過失を減らそうとしている」と言ったりすべきなのか(…)。しかし、その犯罪者はそんなことは言っていない。「私には駄目な親がいた」と言っただけである。その言葉をまじめに受け取るならば、ひどい子育てを何か他のものに自動的に翻訳することはできず、確実に社会には翻訳できない---さらに、その犯罪者は「子を去勢する母親」とも言っていない。私たちが抗わなければならない考えは、アクターによる色とりどりの言葉のすべてをごくわずかな数の社会的語彙に翻訳できる辞書がどこかに存在するという考えだ。》

《つまり、驚かされるがはっきりとした表現を、その背後に隠れているとされるよく知られた社会的なもののレパートリーに取り替えてはならないということだ。アクターには個別言語しかないが、分析者にはメタ言語があり、そこにアクターの言語は「埋め込まれている」などという振りをしてはならない。》

●エージェンシーをめぐる論争を地図に示すためのリスト

《どんな人や物が私たちを動かしているのかが確実にわかることは決してない。しかし、起きていることに対してなされる相反する主張には常にみられる特徴があり、それをリストにすることはできる。つまり、①エージェンシーは報告によって定義される、②エージェンシーには何らかの姿形が与えられる、③エージェンシーは他の競合するエージェンシーと対置される、④エージェンシーは何かしらの明確な行為の理論をともなう、である。》

《第一に、エージェンシーは、何かをするものとして、常に報告に現れる。つまり、ある事態に何らかの変化〔差異〕を作り出し、Cによる試行を通してABに変換するものとして現れる。(…)差異を作らず、変化を生まず、痕跡を残さず、報告に入らない不可視のエージェンシーは、エージェンシーではない。(…)ANTの場合、次のように言うことはできない。「誰にも触れておらず、確証はないが、ここでは何らかの隠れたアクターが背後で動いていることはあきらかだ。」これは、陰謀論であって、社会理論ではない。》

《第二に、エージェンシーとその形象化は別物である。作用を及ぼしているものは、報告のなかで、常に、何かしらの肉付けと容貌が与えられ、何らかの姿や形をまとうことになる(それがどんなに漠然としたものであろうと)。「形象化」は、「社会的説明」という条件を無効にするために導入しなくてはならない専門用語の一つである。というのも、擬人的な形象以外にも多くの形象が存在することを把握することが極めて重要であるからだ。(…)どんな個人についても、どれだけの数の力がそこで同時に働いているのかは誰にもわからないのだ。逆に言えば、統計データの点の集合にどれだけの数の個別性が存在しうるのかがわかる人はいない。形象化によってエージェンシーに姿が与えられるわけだが、必ずしも、具象画家の作品さながらになめらかな描写手法がとられるわけではない。社会学者が自分の仕事をこなすためには、アクターを「描く」際に、現近代美術における形象化に関する議論と同じくらい豊かな多様性が必要である。》

《第三に、アクターもまた、他のエージェンシーを批判することに与しており、そこでは、他のエージェンシーが、偽物である、古びている、馬鹿げている、非合理的である、作為的である、錯覚であるなどとして非難される。グループの遂行的形成(パーフォーメーション)が、自分の社会的世界を作り上げる反対グループを地図に示し、調査者に益するのと同じように、エージェンシーが報告される際には、新たな存在が絶えず加えられるとともに、他の存在が非正統的であるとして取り消される。(…)次の言明を検討してみよう。(…)「市場の力は、官僚よりもずっと有能だ」、「無意識によるこの巧みな言い間違いが、本心をあらわにしている」「人間よりも天然のサケを守りたい」。以上の文の一つひとつが、この世界で正統な役割が授けられたエージェンシーのリストに足し算や引き算を行おうとしている。》

《第四に、アクターもまた、エージェンシーの影響がどのように及ぶのかを説明する独自の行為の理論を提示する力を有している。熟達した一人前の反省的な形而上学者であるアクターは、---ANTの新たな基本姿勢が示すように---エージェンシーがどのように作用するのかに関する独自のメタ理論をもっており、このメタ理論は、伝統的な形而上学者を唖然とさせてしまうものだ。アクターは、どんなエージェンシーが及んでくるのかをめぐる論争に加わるだけでなく、その現れ方に関する論争に加わる。さらに、ここでもまた、そのエージェンシーが---現在、形象化、敵対するエージェンシーが与えられること---中間項として扱われるか、媒介子として扱われるのかによって、大きな違いが生まれることになる。分析者がどちらに決めるのかによって、アクターによる報告の結果は大いに違ったものになる。》

《この違いがあらゆるエージェンシーに(その形象化がどんなものであろうとも)及ぶことを理解することは、これから本書で述べていくことにとって決定的に重要である。いわば「興味を引かないありふれた力の場」が媒介子として報告に加えられることもあれば、身近で、個別的で、「温かく」、「生きられた」志向性を有する人が単なる中間項として使い古されることもある。言い換えれば、どの形象化が選択されるのかを見ても、それだけでは、どの行為の理論が引き合いに出されるのかを予測することはできない。重要なのは、形象の種類ではなく、展開させることのできる媒介子の範囲である。(…)どのエージェンシーを選ぶべきかを主張するばかりで、それぞれのエージェンシーがどのように作用するかについては十分に主張してこなかったのである。ある人が、「生産諸力のありようが、社会的表象のありようを規定する」と断言することで、この使い古された表現がもっと能動的になる場合もある。(…)したがって、形象化と行為の理論は、このリストに登場する二つの異なるアイテムであり、ひとつに合成すべきではないのだ。》

 

2019-02-03

●『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)を読み始めた。以下、引用、メモ。

●「社会的なものの社会学者」と、「連関の社会学(ANT)」。

《社会的なものの社会学者は「社会的慣性」に訴えることを好み、まるでどかで紐帯が貯蔵されており、その蓄えは長い時間をかけてはじめて減少していくものであると言わんばかりだ。ANT(アクター-ネットワーク-理論)に言わせれば、グループを作り続けることを止めれば、グループはなくなってしまう。「社会的な力」から生まれる力の蓄えが助けてくれることはない。社会的なものの社会学者にとっては、秩序が常に見られるのであって、減退、変化、創造は異例なことである。連関の社会学者にとっては、遂行が常に見られるのであって、説明されるべきは、つまり、問題をはらむ異例なことは、ありとあらゆる、長期に及ぶ、もっと規模の大きな安定性である。二つの学派では、背景と前景が逆さになっているかのようだ。》

《この反転のもたらす影響はとてつもなく大きい。慣性、持続性、射程、堅牢性、傾倒、忠誠、執着などが説明されなければならないのであれば、そうした安定性を生み出せる〔エージェンシーの〕移送装置、ツール、器具、材料を探すことが不可欠だ(…)。社会的なものの社会学者にとって、社会に訴えることの大きな利点は、この長期にわたる安定性をただでやすやすと示せることにあるが、その一方で、私たちの学派にとっての安定性は、まさに、手間暇のかかる諸々の手段に訴えて説明しなければならないものである。さらに、そうした器具はそもそも「社会的」であることとは別の特徴を有しているはずだ。》

《社会的なものの社会学者の場合、そうした用語が指し示すのは、同じ社会秩序がとりうる数多くの化像(アバター)であり、あるいは社会秩序が「表象」されたり「再生産」されたりする際に用いられる多様なツールである。社会的なものの社会学者にとってみれば、「社会的な力」は常にすでに背景に存在しているので、それを顕在化させる手段が極めて重要なのである---けれども、決定的に重要なのではない。》

《連関の社会学者の場合には、手段によって世界は大きく変わってしまう。というのも、元から存在している社会はなく、人びとを結びつけるものを貯蔵する倉庫もなく、以上見たようなグループのすべてをひとつに結びつける接着剤の入った頼もしい瓶もないからだ。今、祭りを開かなかったり、今日、新聞を印刷しなかったりすれば、グループの形成を維持することはまったくできない。グループは、修復が必要な建物ではなく継続が必要な運動である。(…)だから、直示的な定義と遂行的な定義との区別を持ち込む必要があったのだ。直示的な定義の対象は、傍らで見ている者の指標記号(インデックス)がどうなろうとも、変わらないままである。しかし、遂行的な定義の対象は、それが遂行されなくなると消えてしまう---もし消えていなければ、他のアクターがその中継を引き継いだことになる。そして、この中継は、当然「社会的世界」ではありえない。というのも、「社会的世界」こそが新たな中継を何よりも必要としているからだ。》

●「中間項」と「媒介子」

《この入門書で必要となる専門用語はごくわずかであるが、そのうち二つを用いれば、社会的なものを生み出す手段を中間項として捉えるのか、媒介子として捉えるのかによって、非常に大きな違いが生まれる。》

《中間項は、私の用語法では、意味や力をそのまま移送する〔別のところに運ぶ〕ものである。つまり、インプットが決まりさえすれば、そのアウトプットが決まる。実際のところ、中間項はブラックボックスとして捉えられるだけでなく、たとえその内部が多くのパーツでできているとしても、ひとつのものとして扱われる。他方で、媒介子は、きっかりひとつのものとみなすことはできない。媒介子は、ひとつのものとされるかもしれないし、物の数に入らなくなるかもしれないし、かなりの数のものとされるかもしれないし、無数のものとされるかもしれない。インプットからアウトプットをうまく予想することは決してできない。その都度、翻訳し、ねじり、手直しする。中間項はどんなに複合的であろうとも、実際には、きっかりひとつのものとみなされるだろう---あるいは、簡単に忘れ去られてしまうこともあるために、物の数に入らなくなる場合すらある。媒介子はどんなに単純に見えようとも、複雑になる可能性がある。媒介子は、多方面に広がり、自らの役割について加えられる諸々の相反する報告をすべて作り変えてしまう場合もある。》

《正常に作動するコンピュータは複合的な中間項の格好の例とみなせる一方で、日常の会話は、恐ろしく複雑な媒介子の連鎖になることもあり、そこでは、感情や意見、態度が至るところで枝分かれする。しかし、コンピュータは、壊れてしまえば、恐ろしく複雑な媒介子に一変するだろう。(…)これらから少しずつ明らかになるように、事物の根本的な性質に関するこの絶えざる不確定性---その事物は、中間項として振る舞っているのか、媒介子として振る舞っているのか?---は、私たちが目を向けることにしたすべての不確定性の源泉である。》

●ナイロンと絹。

《たとえば、ある社会的差異が服装の細部に「表現」ないし「投影」されており、この細部---たとえば、ナイロンにはない絹の輝き---が、何らかの社会的意味---「絹は高級な人向けだ」、「ナイロンは低級な人向けだ」---を忠実に移送する中間項と見なされるならば、生地の細部が取り沙汰されてきたことは無駄であった。生地の細部は、ただ例を挙げるために持ち出されてきたからだ。絹とナイロンに化学的な違いがなくとも、高級な人と低級な人の社会的差異は、どのみち存在し続けることになるだろう。その社会的差異は、その性質とはまったく無関係である布きれに、「表象」ないし「反映」されてきただけである。逆に、化学面、製造面での一つひとつの違いが媒介子として扱われるならば、絹とナイロンの感じ、手触り、色合い、輝きといった数々の違いがなければ、この社会的差異はまったく存在しないことになるだろう。この非常に小さな媒介子と中間項の区別から、最終的には、私たちが求めている二つのタイプの社会学の違いのすべてが生まれることになる。この対照をおおざっぱにまとめるならば、社会的なものの社会学者が信じているのは、一種類の社会的まとまりが存在し、多くの中間項があり、媒介子はほとんど存在しないことである。他方のANTの場合、他に勝る社会的なまとまりはなく、無数の媒介子が存在しており、そして、媒介子が忠実な中間項に変わるならば、それはいつものことではなく、めったにない例外的なことであり、何らかの特別な手間をかけて説明される必要があるということである---たいていは、さらに多くの媒介子を持ち出すことによって!

 

2019-02-02

逃げるは恥だが役に立つ』、U-NEXTで最後まで観た。

主人公ふたりによるラブコメ展開は、中盤過ぎくらいにクライマックスを迎え(星野源が童貞ではなくなるところで、一応の決着をみるわけだし)、終盤にかかるとやや飽きがくるような感じなのだが(ベタの上にベタを重ねることで押し切ってくるのもさすがに…、と)、だが、そうなる頃には今度は、主人公の周囲にいる、いわば「脇を固める」人物たちの動きが活性化してきて、周囲の人物たちのドラマによって面白さが支えられる感じに変化していく。

この、終盤の展開がぼくにとはても興味深かった。特に、最後の二話には(『獣になれない私たち』や『アンナチュラル』に通じるような)野木テイストが濃厚に感じられた。ギミックを効かせた最終話も、とてもよかった。

(一話の段階から、大谷亮平の存在がとても気になっていたのだが---このイケメンが実は一番闇が深いし味わい深いよねえ、と---最初は星野源に対するカウンター的な役割でしかなかったのに、彼の存在感は話数が進むにつれて徐々に大きくなり、最後まで観てみると、この物語は、新垣結衣星野源の物語というよりむしろ、結果として、石田ゆり子と大谷亮平の物語だったのではないかと思えるくらいに存在を主張してきた。)