2019-02-12

●続き。引用、メモ。『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)から。

●モノの活動が可視化される状況のリスト(これはまさに「物語の作り方」みたいな感じだ)。

《(…)社会的という語を、新たな連関が作られているときにしか見えない流動的なものとして新たに定義すること》。

《(…)行為に与しているモノの存在を明らかにするためには、モノを報告に入れる必要がある。他のエージェントに対して目に見える影響を及ぼさないのであれば、そのモノは観察者にいかなるデータも与えない。モノは黙ったままであり、もはやアクターではない。》

《(…)モノの場合は、どんなに重要であろうと、効率的であろうと、中心的であろうと、必要であろうと、得てして、すぐに背景に退き、データの流れを止めてしまう---そして、その重要性が高まるほど、早く姿を消してしまう。このことが意味するのは、モノが作用を止めるということではなく、その作用の様態がもはや目にみえるかたちで普通の社会的な紐帯と結びつけられないということである。というのも、社会的な紐帯が頼りにしているのは、通常の社会的な力とは違っているからこそ選ばれる力であるからだ。(…)モノは束の間にのみ、相互につながることができるようにみえる。》

《(…)〈モノが話をする〉ようにするために、つまり、モノに、自分自身の記述を生み出させ、他のもの---人間や非人間---にさせていることのスクリプトを生み出させるために、具体的な策を練らなければならない。》

《第一の解法は、職人の作業場、技術者の設計室、科学者の実験室、マーケティング担当者の事前調査、ユーザーの自宅、そして、数々の社会技術に関する論争に見られるイノベーションを研究することである。こうした場では、モノは、会合、計画、見取り図、規則、試行を通じて明らかに複合的な生を得ている。(…)イノベーションや論争の場では、モノが、すぐに不可視の非社会的な中間項になってしまうことなく、報告の対象となる分散的、可視的な媒介子として、他の場より長く維持されうるという点で、どこよりも恵まれた場の一つとなる。》

《第二に、どれほど日常的で、伝統的で、何も言われないものであろうとも、道具や機器は、隔たりがあるために扱い方がわからないユーザーがアプローチするときには、当たり前のものでなくなる---たとえば、考古学の場合に見られるような時間的な隔たり、民族学の場合に見られるような空間的な隔たり、技術習得の場合に見られるような技能の隔たりがある場合を考えてほしい。(…)少なくとも分析する者にとっては、イノベーションと同じ新奇な状況を生み出してくれる。つまり、見知らぬ道具、外来の道具、古めかしい道具、謎めいた道具が、いつものやり方に不意に入り込んでくるのだ。》

《第三の種類の機会は、事故や故障やストライキによって生まれるものである。そこでは、まったく表に出てこなかった中間項が、突如として、一人前の媒介子になる。そして、ちょっと前には完全に自動的、自律的に見え、人間のエージェントがまったくいなかったモノですら、今や、重装備で死のもの狂いに動く大勢の人間に取り囲まれる。(…)ANTにとっては幸いなことに、「リスクのある」モノが近年になって増えていることで、そうしたモノが他のアクターを駄目にしてしまうときにしていることを、聞いて、見て、感じる機会が増えてきた。》

《第四に、モノがすっかり後景に退いてしまったときには、アーカイブ、文書記録、回顧録、博物館の収蔵品などを用いて、モノに光を当て直すことができ、そして、歴史家の説明を通して、機械や装備や道具が生まれた重大局面をいつでも人工的に作り出すことができる---ただし、他の機会よりは難しい。(…)今日に至るまで、技術史は、社会史や文化史の物語られ方をいつだって覆してきたはずだ。》

《最後に、最終手段として、フィクションを頼みにすることで---仮想の歴史、思考実験、「サイエンティフィクション」〔SF〕を用いることによって---今日の堅固なモノを、流動的な状態にするこができ、人間との結びつきが少なくとも想像可能になる。》

●不毛な二分法、不十分な議論。

《(…)自転車が大きな石にぶつかるとき、社会的なものはなにもない。しかし、自転車に乗る者が「停止」標識を守らないときには、社会的である。新しい電話機の配電盤が設置されるとき、社会的なものは何もない。しかし、電話機の色が議論されるときには、デザイナーが言うように、その種の選択には「人間的な側面」があるので、社会的になる。ハンマーが釘をたたくとき、社会的なものは何もない。しかし、ハンマーの像が鎌の像と交わると、「象徴秩序」に入るので、社会的領域に移行する。このように、あらゆるモノが二手に分かれ、科学者と技術者は、そのもっとも大きな部分---効果、因果、物質面でのつながり---を受け持ち、その残りくずが「社会的」次元ないし「人間的」側面の専門家に残される。》

《(…)私たちの行為の進行に与する何百万もの参与子が、以下三つ---三つしかない---の存在の様態を通して社会的な紐帯に加わるしかないというのであれば、到底信じられない。つまり、マルクス流の唯物論に見られるように社会諸関係を「規定」する「物質的下部構造」として加わるか、ピエール・プルデューの批判社会学に見られるように社会的な区別立て(ディスタンクシオン)を「反映」しているだけの「鏡」として加わるか、アーヴィング・ゴフマンの相互作用論敵な説明に見られるように人間の社会的アクターが主要な役を演じる舞台の背景として加わるか、の三つである。当然、こうしたかたちで集合体にモノを参入させることはどれも間違っていないが、しかし、こうしたやり方は、集合体を作り上げる紐帯の束を粗くパッケージ化しているにすぎない。いずれのやり方も、人間と非人間の数々の絡み合いを記述するには不十分なのだ。》

2019-02-11

●引用、メモ。『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)から。

●権力や不平等は結果であって原因ではない。

《「ANTは権力や支配をどこにやってしまったのか」と詰問する人がいるかもしれない。しかし、私たちは、そうした非対称性を説明したいと望んでいるからこそ、非対称という語をただ繰り返して満足したくはないのである(…)。ここでも、原因と結果を混同したくないし、説明する側と説明される側とを混同したくない。したがって、とりわけ重要になるのが、こう主張することである。権力は、社会と同じく、あるプロセスの最終結果なのであって、おのずから説明をもたらしてくれる貯水池、備蓄庫、資本なのではない。権力や支配は、生み出され、作り上げられ、組み立てられなければならないものだ。》

《いわく、社会は不平等であり階層的である。いわく、社会は一部の人びとを不当に抑えつけている。いわく、社会にはすべて慣性がある。支配されることで身体や精神が押しつぶされると述べることと、以上の階層、非対称、慣性、権力、残虐な仕打ちが社会的なものでできていると結論することは、まったく別の話である。(…)はなはだしい資源の非対称性があるからといって、それが非対称的な社会的関係によって生み出されていることにはならない。資源の非対称性があることは、真逆の結論をもたらす---不平等な関係が生み出されざるをえないとすれば、それは社会的なアクター以外のアクターが関与していることの証左である。》

●権力が社会的な紐帯だけに頼らざるをえないならば、長期にわたって行使されることはない

《(…)社会的というのは、ある特定の領域の呼び名にされており、わら、泥、糸、木、鋼などのような一種類の材料の呼び名にされている。だいたいの場合、何かしら想像上のスーパーマーケットに入って、「社会的な紐帯」が詰め込まれた棚を指させるし、別の通路には、「物質的」「生物学的」「精神的」「経済的」な結びつきが取りそろえられている。ANTの場合、もうすでにおわかりのように、社会的という語に違った定義を与えている。つまり、実在する領域や特定の対象を指し示すものではなく、むしろ、移動、転置、変換、翻訳、編入の呼び名なのである。事物同士のつながりは、通常の意味での社会的なものであるとはまったく認識できず、事物が配置し直される一時に限って社会的なものと認識できる。(…)ANTにとって、社会的という語は、それまで「連関していなかった」力同士の束の間の連関を指すものなのである。》

《社会的な力という概念を解体して、束の間の相互作用ないし新たな連関で置き換えることには、大きな利点がある。それは、社会という合成概念のなかで、その持続性に関わるものと、その実質に関わるものとが区別できるようになるということだ。確かに、持続的な紐帯は存在していよう、しかし、だからといって、そうした紐帯が社会的な材料でできていることにはならない---真逆である。》

《権力が社会的な紐帯だけに頼らざるをえないならば、長期にわたって行使されることはない。(…)非対称性を維持すること、権力関係を確固たるものにして持続させること、不平等を強いることが非常に困難であるからこそ、弱くてすぐに朽ちてしまう紐帯を他の種類の結合へと移し替えるべく、実に多くの仕事が常につぎ込まれているのである。》

《権力は、眠らない事物と壊れないつながりを通して行使されてはじめて、さらに長く続き、さらに遠く広がることになる---そして、そうした離れ技を成し遂げるためには、社会契約よりもはるかに多くの道具が考え出されなければならない。》

《持続的に広がる力が社会的な紐帯にあるのかを疑い始めれば、すぐにモノの果たす役割が中心に見えてくるだろう。逆に、社会的なまとまりが「社会的な力」に支えられて存続できると考えるやいなや、モノが視界から消える。》

●何よりもまず、どんな人やモノが行為に参与しているのかということを検討しなければならない

《「志向的/意味的」で「意味に満ちた」人間が行うことに行為がアプリオリに限定されるならば、ハンマー、かご、ドアの鍵、猫、敷物、マグカップ、リスト、タグなどがいかに行為しうるのかを見定めるのは難しい。モノは、「物質的」で「因果的」な関係の領域に存在するとされて、「反省的/再帰的」で「象徴的」な社会関係の領域には存在しないということになりかねない。対照的に、アクターとエージェンシーをめぐる論争から始めるという決意を貫くのであれば、差異を作り出すことで事態を変える事物はすべてアクターである》。

《もしも、真顔になって、ハンマーを使って/使わずに釘を打つことは、どちらもまったく同じ活動であると主張し、ヤカンを使って/使わずにお湯を湧かすことも、かごを使って/使わずに食料品をとってくることも、服を着て/着ずに街路を歩くことも、(…)やはり、どちらもまったく同じ活動であり、そんなありふれた道具を見せられても、自分の課題を理解する上で「重要なことは何も」変わらないと主張できるのであれば、すぐにでも、(…)この月並みの土地からでていけばよい。他のすべての社会的な構成子にとっては、実際に試してみれば差があり、したがって、以上の道具は、私たちの定義ではアクターであり、もっと正確に言えば、いつ形象化されてもおかしくない行為の進行への参与子である。》

《(…)モノがアクターであるということが意味しているのは、完全な原因として存在していることとまったく存在していないことのあいだに、数々の形而上学的な陰影が存在するであろうということである。「人間の行為の背景」として働いたり「規定」したりする他にも、事物は、権限を与えたり、許可したり、可能性を与えたり、促したり、容認したり、提案したり、影響を与えたり、妨げたり、できるようにしたり、禁じたりしている。ANTは、モノが人間のアクターに「代わって」あれこれしていると主張する机上の空論ではない。(…)何よりもまず、どんな人やモノが行為に参与しているのかということを徹底的に検討しなければ、社会的なものの科学は始まりはしない》。

●モノはところどころでしか痕跡を残さない(共約可能性と共約不可能性のあいだで)

《確かに、あるレンガが別のレンガに及ぼす力、軸を中心とした車輪の回転、塊に対する梃子の効果、滑車における力の反転、リンへの着火といった作用のありようはいずれも、自転車に乗っている人に「停止」標識が及ぼす力や、個々人の心に対する群衆の力とは明らかに異なるカテゴリーに属するように見える。だから、物質的な存在と社会的な存在を二つの別々の棚に置くのはまったく理に適っているように見える。しかし、ものの数分のうちに、次のように、どんな人間の行為も物質とひとつに紡ぎ合わさる可能性を認めるやいなや、理に適ってはいるが、馬鹿げたものになる。たとえば、レンガを積めという大声の命令、セメントと水の化学的な結合、手を動かすことでロープを伝う滑車の力、同僚がくれたタバコに火をつけるためにマッチを擦るなどである。ここで、物質的なものと社会的なものという一見理に適った区分が、まさに、ある集合的な行為を可能にするものの探求をすっかり混乱させてしまうのだ。もちろん、ここでの集合的という語は、均質な社会的な力によって持ち込まれる行為を意味するものではなく、逆に、相異なるためにひとつに紡ぎ合わせられる種々の力を集める行為を意味するものである。したがって、ここからは「集合体」という語を「社会」の代わりに使いたい。》

《社会的な慣性と自然界の重力は結びつかないように見えるかもしれないが、しかし、労働者たちの一団がレンガの壁を築いている時には、両者は明らかに混ざり合っている---壁が完成した後ではじめて両者は再び別々になる。(…)ANTはこうはっきりと述べる。「理に適った」社会学者よりも少しでも社会的な紐帯について実在論的(リアリスティック)でありたいならば、受け入れるべきことがある。それは、どんな行為の進行であれ、その継続性が人と人との結びつきによって成り立つことはまれであり(…)、モノとモノの結びつきによって成り立つこともまれであり、おそらくは両者がジグザグになって成り立っているということだ。》

《私たちにとって、対称的であるというのは、人間の志向的/意図的な行為と、因果関係からなる物質世界のあいだにまがい物の非対称性をアプリオリに押しつけないということであって、それ以上の意味はない。》

《ここでのモノへの関心は、「主観的」な言語、象徴、価値、感情に対置される「客観的」な物質に与えられる特権とは無関係である。》

《(…)ANTによる研究は、諸々の行為/作用の様態の連続性と非連続性の両方に取り組まなければならない。種々雑多な諸々の存在の滑らかな連続性に注意を向けるとともに、結局はいつまでも共約不可能なままでいる諸々の参与子の完全な非連続性に注意を向けられるようになる必要がある。分析者にとって、流動的な社会的なものは、連続的で実体的な存在ではなく、むしろ、その痕跡にわずかに姿を見せるものであり、言わば、検出器に残される軌道の束によって物理的な粒子が把握できるのと同じである。》

《(…)社会的な紐帯と共約可能とされる限りにおいて非人間を報告に入れなければならないし、そのすぐ後には、非人間の根本的な共約不可能性を受け入れなければならない。》

2019-02-10

●Huluで、アニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』の三話まで観た。事前知識はまったくなくタイトルだけに惹かれて。

すでにありふれた、既視感のある要素をゆるく組み合わせているだけだし、切り口や構築の仕方にしても、いくらでも駄目出しができてしまうようなつくりで(その理屈はいくらなんでも通らないよね、と何度も思ってしまった)、どのような方向からみてもよいとは言えない作品だと思うけど、でも、こういうのはどうしても嫌いになれないんだよなあ、とも思った。

(つまり、けっこう楽しんで観てしまったということだが。前のめりにはならず、時々うーんとなって首をかしげつつ半身を後ろに反らす感じではあるけど、惰性でついだらだら観てしまうような緩さ。このくらい感じの緩いつくりのアニメがもっとあってほしいとも思う。)

2019-02-09

●八十年代の竹内まりやの『Plastic Love』という曲が最近とても流行っているらしくて、トーフビーツやFriday Night Plansがカバーしたりしもしているけど、ぼくは、9m88という人のカバーが、なんか好きだ。よく知らないけど、台湾出身でニューヨーク在住という人らしい。

9m88- ‘Plastic Love’ Cover Version(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=dadU79KQzO0

YouTubeには他にも、「九頭身日奈」という曲のMVがある。9m88 - 九頭身日奈(日本語字幕)

https://www.youtube.com/watch?time_continue=240&v=nC8zfpgeGbs

●ライブもいい。

9m88 『 Plastic Love 』 @ HMV record shop 新宿 ALTA (2018.01.12)

https://www.youtube.com/watch?v=LrzEzBAi0Mg

9m88 『 九頭身日奈 』 @ 青山月見ル君想フ (2018.01.09)

https://www.youtube.com/watch?v=9xDQ8TeDdhc

9m88 『 Save Your Love For Me 』 @ 青山月見ル君想フ (2018.01.09)

https://www.youtube.com/watch?v=T74KjOmJF0I

9m88 『 陪妳過假日 』 @ HMV record shop 新宿 ALTA (2018.01.12)

https://www.youtube.com/watch?v=PQZE6NUiYVA

台北生まれNY在住、今台湾の若者たちを虜にするソウルシンガー9m88インタビュー

https://www.herenow.city/taipei/article/9m88/

2019-02-08

●『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』(大江健三郎)の、ほぼすべての主要な登場人物は、主人公である作家、長江古義人の小説(そこにはしばしば「自分」が登場する)の読者であるだけでなく、自分がその内部にいる---今、書かれつつある、進行中の---当の「この小説(『晩年様式集』)」の草稿に当たるとされるもの(『「晩年様式集」+α』)の読者でもある。草稿(『「晩年様式集」+α』)と、それにまつわる情報(録音され、録画されたもの)は、基本的にすべての人物に対して開かれていて、共有されている。

だから、この小説では例えば、二人だけの場面での会話も、登場人物の内省として書かれた部分も、他の登場人物たちに読まれている(知られている)ことが前提となる。わたしの心のなかだけのつぶやきや、Aさんは知っているけどBさんには内緒にしてある、ということは成り立たない。この小説に書かれたすべての文はすべて、主要な登場人物たちに共有されている。

(ただ、アカリさんだけが、すべての情報にアクセスできるとは言えないが、しかしそれでも、周囲の者たちを通じて、その大まかな流れは掴んでいるだろう。)

このことによって、ある特定の話者による特権的な視点が成り立たなくなる。「わたしだけが知っている」「わたしだけが見ている」ことは小説には書かれない。わたしがAという人物に対して行う描写、回想、その印象や批評は、その視線の対象であるAにも、A以外の、BやCといった人物にも読まれることがあらかじめ分かっている。というか、既にそのような人物たちの目をいったん通過したものとして、「この小説における独白」はある。

(たとえば、小説の序盤で、古義人が、深夜の自宅の階段の踊り場にたった一人でいて、声をあげて泣く場面があるのだが、その場面の一人称の描写について、終盤にギー・ジュニアから批評される。「深夜にたった一人で泣く」一人称的行為について、その場にいなかった他人から---伝聞を通じてではなく、直接その場面、一人称的記述について---批評されるのだ。すべての人物が---一人称的な内面を含む---すべての場面をお見通しだ。)

ただこれは、小説内の出来事、小説の登場人物たちの間でのみ成り立つ関係だ。小説内で書かれて(進行して)いる『「晩年様式集」+α』という文章と、われわれが読んでいる当の小説、『晩年様式集』が同じものだ(同じやり方で書かれている)という保証はない。ただ、小説内に描かれている作家=長江古義人と、当の「この小説」を書いている作家=大江健三郎の生きている環境が、(たとえば、三・一一以降の社会のありようなども含めて)限りなくあいまいに一致している(ようにみえる)ということを除いては。

『晩年様式集』という小説は、われわれが現実として生きている次元に「作品」としてあらわれている何かであり、『「晩年様式集」+α』という冊子は、その作品=小説の効果によってつくりだされる虚構の世界のなかで成立しているものであるから、あきらかに次元を異にしている。しかし、その次元の異なる二つのものが、ぴったりと重なった、一つの同じフレームとしてあらわれている。異なる次元のものがまったく同じ器を共有している。

(小説内に描かれている作家=長江古義人と、当の「この小説」を書いている作家=大江健三郎との、「かぎりなく曖昧な一致」は、フレームの一致の効果としてあらわれていると言える。)

フィクションがフィクションとして成り立つためのその世界の外枠と、現実が、現実の内に存在するある特定のフィクションに対して与える内枠とがぴったり一致することによって、たんに「フィクションが現実の出来事を反映する」ということとは別のことが起こる。たとえば、この小説に書かれる「本当のこと」とは一体何なのだろうか。それは、フィクションという枠内で成り立つ本当のことなのか、それとも、現実とフィクションとが一致しているということなのか。おそらくそのどちらでもない。フィクション内の整合性とも、現実とフィクションとの一致(あるいは、現実のフィクションへの反映・表象)とも違う、両者が貫かれることではじめて生まれるフィクション=現実であるような「本当のこと」が求められるのだと思う。

というか、そのようなものが求められ得る土台をつくるためにこそ、「フレームの完全な一致」が必要になる。これはたんに形式の問題ではなく、形式の問題こそが内容を可能にする。

2019-02-07

●お知らせ。226日発売予定の『アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門』(高瀬康司=編著・フィルムアート社)という本に参加しています。

http://filmart.co.jp/books/manga_anime/ncb_animator/

そして、『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』(古谷利裕・勁草書房)も発売されています。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b383340.html

●『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)(大江健三郎)を読んでいると、『寓話』(小島信夫)が連想される。

『寓話』では、主要な登場人物が皆、自分が登場している当の小説である『寓話』の読者でもある。それは、『寓話』が月刊誌に連載されていて、登場人物はそれを読んで、作者に何かしらの働きかけをし、それをまた作者が書いて雑誌に掲載される、という形で成立していた。小説の登場人物たちの行動が「(進行中の)当の小説」を前提としてなされ、登場人物たちの間に「当の小説」が共有されている、ということになっている。

『晩年様式集』では、もっとクローズドなサークルのなかで、『「晩年様式集」+α』という冊子が共有される。『「晩年様式集」+α』は、話者=主人公である作家が書いている「晩年様式集」という小説の草稿と、その作家の(私小説的な形式でフィクションを交えて書く)スタイルによって長年「書かれる対象」であった女たち(作家の妹・妻・娘)によって書かれた、作家に対する異議申し立ての文章が織りなされることで成り立っている。話者=主人公である作家は、書かれつつある「当のこの小説」の草稿を三人の女たちに示し、それに対して(あるいは、過去に話者=主人公の書いてきた小説に対しても)、自分たちの意見や見方を「三人の女たちのよる別の話」というテキストを書いて、話者=主人公に提示する。話者=主人公によって書かれる「晩年様式集」と、女たちによって書かれる「三人の女たちのよる別の話」が交互に差し挟まれて、冊子『「晩年様式集」+α』が成立する。

(「三人の女たちによる別の話」を実際に執筆するのは、その都度、妹だったり娘だったりするが、そのテキストは三人によって共有され、討議され、三人の承認を経た上で、冊子にまとめられる。それを実際に編集するのは娘であるが。また、この三人の女たちは、後半では、テキストだけでなく、『「晩年様式集」+α』の主題に関係するかぎり、日常の会話もすべて録音し、三人で情報を共有し、討議する。)

この『「晩年様式集」+α』という冊子は、話者=主人公と三人の女たちだけでなく、ギー・ジュニアやリッチャンという、他の主要な人物たちにも共有され、読まれている。ここで、ほとんどすべての主要な登場人物たちによって共有されている『「晩年様式集」+α』こそが、読者が、今読んでいる当の小説『晩年様式集』の草稿であるという位置づけになるだろう(話者=主人公の長江古義人と、作者の大江健三郎とは、かぎりなく曖昧に一致する)。だから、「この小説」の登場人物たちは、書かれつつある「この小説の草稿」を、その進行過程のただなかにおいて知って(読んで)おり、それを意識した上で、それぞれが「この小説のなか」で行動していることになる。

(「この小説」には、「この小説の草稿が書かれつつある成り行き」が書かれている、とも言える。)

●この小説は一人称一視点ではなく、一人称多視点で書かれていると、とりあえずは言える(一見、そのように見える)。「三人の女たちによる別の話」の部分の話者(視点)は、主人公の作家ではなく、その妹だったり娘だったりするからだ。常識的な小説では、ここで話者と作者との分離があらわれるのだが---妹や娘の視点も、結局は作者が「書いて」いるのだから---、しかしこの小説では、妹や娘の語りの部分---書かれたものや録音されたもの---を、主人公=話者もまた読んだり聞いたりして共有しているというのだから、そこまで含めて話者=主人公の視点に取り込まれているとも言える(この意味でも、話者=長江古義人と作者=大江健三郎はかぎりなく曖昧に一致する)。話者=主人公は、妹や娘が書いたテキストを引用し、編集している、と考えられる。

しかしそれは逆に、話者=主人公の視点---書いたものや喋ったこと---が、他の登場人物たちに共有されているということでもある。特権的位置にいるようにみえる話者の視点もまた、あらかじめ他の人物と共有され、そこに取り込まれてもいる。つまり、必ずしも話者=主人公ではなく、他の(「この小説」のなかで進行中の『「晩年様式集」+α』を共有している)登場人物もまた、「この小説」の話者となりえる可能性がある。登場人物の誰もが、録音や他人のテキストを引用し、編集することで、「この小説(『晩年様式集』)」の話者であることが、権利上はできることになる。

(追記。つまり、主要なすべての登場人物---アカリを除く---の視点は、他のすべての登場人物の視点を取り込んでいるとも言えるから、互いが、互いの視点をひとしく取り込み合っている。)

●このような形式をもつことが、前作『水死』に対する、この作品の展開であると思う。

 

2019-02-06

●別の用事で図書館に行って、棚にさしてあった『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)(大江健三郎)がたまたま目について、なんとなく手に取って最初のところを読んだら面白くて、読みふけってしまい、そのまま借りてきて、帰ってからもつづきを読んだ。半分くらいまで読んだ。

●これまでの大江小説に比べると文章が淡彩的であるのだが、それでもなお独自の読みづらさは変わらない。意味がとりにくいということと、書かれていることが憶えにくい。記述が複雑なので、何が書かれているのか理解しようとする頭の使い方は、いったんそれを理解したところで一定の満足を得て、そこで捉えられた内容を保持し続けようとするところまで手が回らない。まったく忘れてしまうということはないが、しばらく読み進んで、以前あった場面と関係のある記述に行き当たると、確か前にはこんなことが書いてあったはずだから、この部分とはこういう関係があるのだなと、いちいち頭の中で改めて確認する必要があり、そこでその都度呼び出される記憶も、たしかこんなような意味のことが書いてあったはずだけど…、と、どこか掴みがたく自信が持てない感じで思い出す。

大江小説においては、物事や出来事が記述される時、描かれるその順番や段取りや繋がり、そして視点の取り方がかなり特異なので、それが、すんなりした理解(読解)と結びつかず、そのような特異な理路(経路)を経て取得され、そのような「見慣れない形」として納得された内容は、そのままではすんなりとは(自分なりの)記憶の形に結びつかないから、すんなりと定着しない。だから、読み取ること(今、読んでいる部分に書かれていることを理解しようとすること)と、思い出すこと(今、読んでいる部分が、それまで書かれていたこととの関係や対比から、どのような意味をもち、展開を示すのか、を探るために記憶を呼び出すこと)という、二重の過程で、ぼく自身の通常の物事の理解の仕方や記憶の仕方---や取り出し方---に対して変形が強いられ、強い負荷がかかり摩擦が生じる。

そして、その過程こそが、淡く書かれたようにもみえるこの文体から密度が生じる理由だろうと思う。この感じから、「まさに大江健三郎の小説を読んでいる」という感触、「大江健三郎を読むことでしか得られない特異な感覚」が生じる。