2019-03-11

●『正しい日 間違えた日(ホン・サンス)DVDで。

一人の男と一人の女の出会いが、二つの異なるパターンで示される。一つは、「あの時は正しく、今は間違い」として示され、もう一つは「今は正しく、あの時は間違い」として示される。つまり、悪い例と良い例として。だが、この二つは可能性として等価ではないと思う。まず最初に一つめの例があり、それを受けて、二つ目の例がある。一つめがあるから、二つめがある。この順番を変える(たとえば、上映の順番を逆にする)ことは考えられないのではないか。

一つめの出来事では、最初はいろいろいい感じで進んでいたが、後々、隠していたことやうわべだけ取り繕っていたことが露呈して、いい感じが台無しになってしまった。二つめの出来事では、はじめから正直に言い、不用意な発言や態度によって波乱が起きたりはするが、後には、それによって物事は結果としてかえってよい方向へ転がる。

そのことから言えるのは、一つめの出来事こそが現実的であり、二つ目は、それに対する改善案のようなもの、あるいは、上手くいかなかった出会いに対する反省のようなものとしてあるということだ。二つめは妄想的とも言える。まず、一つ目の出会いの失敗があり、それに対して、あんなに格好をつけることなく素直に振る舞えばよかったし、あんなに気を遣うことなく思ったことをはっきり言えばよかった、そうすればもっといろいろなことが上手く転がったはずだ、と。二つがワンセットで、一種の教訓話のようになっている。

だからこの映画では、『それから』のような時制の混乱はないし、『夜の浜辺でひとり』のような、「夢」の次元が「現実」の次元に鋭く食い込んでくるようなこともない。一つ目と二つ目との順番は確定しているし、二つの出来事、二つの可能性、二つの次元の違いの「関係」は、あらかじめ安定している。

ただ、この映画が示す二つの可能性の関係に、たんなる教訓話には収まらない面白さがあるとすれば、それが「作品の推敲---あるいは生成---過程」を思わせるという点ではないかと思う。我々は、このようなトライ&エラーを繰り返しながら、その都度展開を組み直し、作品がより良い方向へ転がっていくように試行錯誤しているのだ、と。

●あるいは、また別の見方をするならば、二つめの出来事のような奇跡的な出会いは、(ほとんどの場合がそうなってしまう)無数に存在する「一つめの出来事」のような凡庸な展開のどれもがたまたま起こらないでいてくれた、ということによって、はじめて成立するのだということを、この映画は示しているのだと考えることもできる。

このように考える場合も、二つの可能性は等価ではない。一つめの出来事は、無数にある凡庸な出来事のうちの一つであり、二つめの出来事は、希にしかない奇跡的な出来事のうちの一つであろう。われわれの人生のほとんどは、一つめの出来事によってできている。この場合、「間違い」と「正しい」とは二項対立ではなく、われわれが遭遇する出来事はほとんどの場合が「間違い」であり、そのなかにごくまれに「正しい」があるということになる。

(サイコロを三つ振って、すべてが「一」になる可能性は1/216だが、この映画では、そのような特異なピンゾロの例と、それ以外の215通りのうちの任意の一つの例とが、あたかも等価であるかのように並んでいるとも言える。)

この映画が、等価な二つのものを並置しているのではないとすれば、二つの異質なものの対置が示しているものは何であるのか。それは、二つめの出来事の「希さ」なのではないか。希である出来事を、たんに、われわれの欲望に沿った(われわれがそう望んでいるという形で都合良くつくられた)「美しい出会いの物語」として示すのではなく、その出会いを「(確率的に)希であることの貴重さ」として示そうとしているのではないか。

 

2019-03-10

●『クレアのカメラ』(ホン・サンス)をDVDで。ホン・サンスはこんな風にさらっとした映画もつくるのか。初期ヌーベルヴァーグの短編みたいな、さらっとしていて瑞々しくて、とてもよい感じ。それ以上でもそれ以下でもないとも言えるが、それ以上でもそれ以下でもない、ちょうどいい具合が奇跡的。いけしゃあしゃあとちょうど良い。この映画、とても好きだ。

(『3人のアンヌ』の時には、ホン・サンスイザベル・ユペールにちょっと気を遣っている感じ---いまいちピタッとはまっていない感じ---もあったのだけど、この映画ではイザベル・ユペールホン・サンスの世界にきれいにはまっている感じ。)

2019-03-09

巣鴨保坂和志のソロトーク、二回目。運命について、始まりと終わりについて、源流は濃いということについて、など。

書き写す、ということについても話されていた。吉増剛造吉本隆明の『言語について美とは何か』をずっと書き写していて、もうすぐすべて書き写し終えるという(そして、終わったら次は『共同幻想論』に行く、と)。

たとえば、数学の教科書をただ「読む」だけでは数学の勉強をしたことにはならなくて、ノートに式を書き写したり、練習問題を解いてみたりすることで、はじめて「勉強している」と言える。

それと同じことが、数学でなくても言えるのではないか。本当は、ただ本を読むだけでは「読んだ」とは言えず、すべて書き写すくらいの精度で読んではじめて「読んだ」と言えるのではないか。

(実際に、ただ読むだけでは、けっこう誤読する。特に理屈がややこしいところや、解釈が多義的であるようなところではなく、明快に書かれているようなところでも、人はかなりの確率で誤読する。)

何かを丁寧に読もうとするときに、「書き写してみる」と「要約してみる」の二種類のやり方がある。どちらが良いというわけではなく、どちらも「練習(あるいは学習)」の方法として重要だが、この二つはかなり方向が違っている。

(吉本隆明は、よりよく読むために、「要約する」よりも「書き写す」方が良いと思わせるような著述家だと思う。)

書き写すということは、内容的にも文体的にも、いったん違和感を呑み込んでとりあえずすべてを受け入れるということだ。これは、何かを学習しようとするときの一番はじめに重要なことだと思う。呑み込んでも呑み込んでも呑み込みきれない違和感というものもある。最初の接触で生じる違和感は玉石混淆であり、直感が正しいこともあるが、思い込みだったり、臆見だったり、誤読だったり、自分の欲望だったりに、影響されてしまっていたりすることも多々ある。あるいは、勢いに流されて違和感に気づかないこともある。この違いに気づくのはけっこう大変なことで、そのためには「書き写す」みたいなことをする必要がある。

あるいはもっと重要なのは、違和感をすべて呑み込むということをつづけていることによって、ようやく(新たに)育ってくる違和感というのがあるということだ。これは、練習することで自分が変化しているということであり、もっと言えば、それによってはじめて自分が生まれているということでもある。

2019-03-08

●『夜の浜辺でひとり』(ホン・サンス)をDVDで。これはしみじみと良かった。最初のうちは、肩の力を抜いた感じで、キム・ミニをどう撮るのか、みたいな映画なのかと思っていたら、だんだんと引き込まれていき、最後にはうーんとうならされる。

いわゆる「夢オチ」なのだけど、『アバンチュールはパリで』の時も思ったけど、ホン・サンスの映画に出てくる夢はすごく生々しい。夢ってこうなんだよなあという納得を喉元に突きつけられるような感じで、リアルに「夢」だ。時々、こういう核心的な(自分自身を突きつけられるような)夢をみてしまって、目が覚めてからもしばらく愕然としてしまうことがある。そういう時の「夢」がまさにこれだ、という感じ。

2019-03-07

●『それから』(ホン・サンス)には、三人の女と一人の男が出てくる(以下、ネタバレしています)。男は、社員が一人しかいない小さな出版社の社長でもあり、文芸評論家でもある。女の一人は男の妻で、もう一人は愛人だ。この三角関係が、この映画を形作る環境として最初にある。愛人は、出版社のたった一人の社員であり、三角関係の行き詰まりから一ヶ月くらい前に失踪している。そしてこの映画は、主に次の三つの出来事で出来ている。

出来事一。三人目の女が、男の経営する出版社に新入社員としてやってくる。その出勤初日に、愛人の存在を確信した男の妻がオフィスに乗り込んできて、新入社員を愛人と勘違いして叱責し、殴打する。男は、愛人の存在を認めながら、この人は違う、人違いだと妻に説明するが、妻は信じない。妻が立ち去った後、夜になって、新入社員はこの会社には居られないと辞意を示すが、男は謝罪し、会社に人手が必要であり、公私をちゃんと分けるからと慰留する。新入社員はそれを受け入れる。

出来事二。そこに、唐突に愛人が帰ってくる。男と愛人は抱き合い、これからは二人で一緒にやっていこうと誓う。そして男は、(舌の根も乾かぬうちに/手のひらを返したように)うちの会社は小さいので一人しか雇えないから辞めてもらうと、新入社員に告げる。新入社員は、出版社の本をたくさん紙袋に詰め(昼間、社長から、好きな本をどれでも持って帰っていいと言われていた)、タクシーで帰る。帰り道、タクシーのなかから雪が降るのを見る。

(新入社員が帰った後、愛人は、男の妻が勘違いしているなら、新入社員と付き合っていたことにして、新入社員をクビにすれば「愛人と別れた」と妻に思わせることができる、などと言う。)

初見では混乱するほどに回想場面が頻繁に挿入されはするが、ここまではたった一日の出来事である。

出来事三。それから、少なくとも一年以上の時間がたち(しかし、初見ではそれが分からないので、今までの出来事が全部無しになって、時間が振り出しにもどったのかとも思わせる)、社長が文芸評論の大きな賞を受け、そのお祝いを言いに新入社員がオフィスを訪れる。男(社長)は、最初は新入社員のことを憶えていないようで、初対面であるかのように振る舞うが---季節も出来事一、二と同じ冬であり、この振る舞いが時制を混乱させる---しばらくして思い出し、新入社員に自分と妻と愛人との関係の顛末を語る。しばらく愛人と同棲したが、結局は妻のもとに戻った、と。オフィスではまったく別の女が働いている。帰り際に社長は、新入社員に漱石の『それから』の新訳を渡す。

『それから』で語られるのは、たったこれだけのことだ。特に際立ったことや目新しい何かがあるわけではない。それがなぜ面白いのか。

時制と登場人物の同一性の混乱。この映画では、男(社長)が早朝から起き出し、まだ暗いうちに家を出る場面から、新入社員と昼食をともにする場面くらいまでは、物語の現在時が進行するなかに、愛人との過去の出来事が、時系列的にも因果的にもランダムに、頻繁に挿入される。初見でこの映画を観ているとき、これは現在時でこれは回想で、という風に場面を明確に分けられないだけでなく、そもそも「現在時」が成立しているのかどうかもよく分からない感じで、それぞれの場面を(意味的、因果的関連が分からないまま)受け止めることになる。そこで、愛人と新入社員のどちらがどちらなのかも、時に見失ったりする(髪型や服装などで見た目にはっきり対照的に設定されているにもかかわらず)。このような混乱が、男の妻の「取り違え」を誘発するかのようだ。この混乱のなかから、手探りするようにして徐々に「現在時」と「回想」とが分離していき、「新入社員」と「愛人」との対照性が際立ってくる様が、スリリングで面白いと感じられる。

この映画では、男と妻と愛人との関係は、非常に激しく、感情的なものとして提示される。それに対して、新入社員は抑制的で穏やかである(新入社員が激しく主張をする場面もあるが、全体としては、彼女は抑制的である)。激しい関係性のなかに、新入社員が場違いに迷い込んでしまったかのように存在する。三人の関係の激しさが新入社員の抑制的なたたずまいを際立たせ、逆に、新入社員の抑制性が、三人の関係の激しさを際立たせるといった、互いを引き立たせる対照が成立している。だがここで、たんに互いを引き立たせるというよりも、両者の交わらなさ、かみ合わなさが、鮮やかさというよりむしろ齟齬として、「気まずさ」や「居心地の悪さ」として現れるところが、ホン・サンスの特異性であるように思われる(激しい関係を呼び込んでしまう人と、そのような関係を避ける人との、かみ合わなさ)。

そもそも、多くの場面が齟齬によって成立しており、居心地が悪く、見ていていたたまれない感じになるし、それほどでもなくても、関係は遠慮がちで、よそよそしかったりする。男と愛人とは、激しく求め合うと同時に、激しくなじり合い、反発し合う。男と新入社員とでは、どこまでもかみ合わず、よそよそしいままだ。男と妻との間には断絶があるようにみえる。

社交的な、適度な距離を保った、なめらかな関係は成立せず、関係は常に、過剰であるか、どこか失調しているかする。そこから、人という存在のどうしようもなさ、いたたまれなさ、「業」のようなものが浮かび上がる。しかしここで「業」とは、それぞれの個に内在しているものなのか、特定の関係のなかで避けようもなく生じてしまうものなのか、そのどちらとも言い切れない。個としての性質にも、関係のありようにも還元し切れないものとして、両方にかかり、どちらかに解消されないものとして、業のような齟齬がある。同様に、個々の場面の齟齬が作品全体に波及しているのか、あるいは、関係のありようや映画としての構造が齟齬を際立たせているのか、どちらか一方ではなく、両方にかかっているように思われる。