2019-05-11

See Saw gallery + hibitで開催される井上実展のオープニングのトーク(井上実、柄沢祐輔、古谷利裕)のために名古屋へ。

http://www.seesaw-gallery.com/exhibitions/2019/1335

●ぼくは、井上実の作品は(すくなくともぼくが知っている限り)世界的にみても非常に特異で重要な達成を示していると思う。しかも、少しずつ確実に進化(深化)している。これ以上に重要な画家が他にどれだけいるのか、と。ただ、ぼくは井上くんとは古くからの友人なので、ぼくがこんなことを言っても「友達だから評価を大げさに盛っているんだろう」と思われてしまいがちだ。まあ、そう思われるのはある程度仕方ないことかもしれないのだが、しかし実際にその作品を観てみれば、そんなことはないことがすぐに明らかになるのではないかと思う。そうであるにもかかわらず、多くの人が井上実の作品に注目していないという事実が、ぼくには不可解だしとても不満だ。

ごく素朴に、誰が観ても普通にすごいでしょ、くらくらくるでしょ、こんなの他では観たことないでしょ、と思うのだが。

●井上実の作品のすごいところは、「地にはスケール感がない」ということを、限定されたフレーム(パースペクティブ)をもった絵画によって示していること、つまり、視覚的には表現不能であるはずの「底の抜けた地のスケール感のなさ」を、「図によって(視覚的に)表現する」ということが実現されているところにあると思われる、という話を(具体的な細かい話に入る前に)トークの冒頭でした。

これだけだと何を言っているのか分からないかもしれないのだが、これは、たとえばストラザーンが『部分的つながり』でカントールの塵などを例に挙げて、「フレームのスケールと関係なく、図の情報量は一定」と言ったりしていることと関係がある。トークでは、よりわかりやすく、説得力があると思われる、以前(改めて調べたら2016年だった)清水高志さんがツイッターに書いていた『正法眼蔵』の引用と解説をお借りして説明した。

以下、引用元URLと引用。これは重要で、とてもわかりやすいので、何度でも参照され直す価値があると思う。

https://twitter.com/omnivalence/status/813770452132712448

たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。

https://twitter.com/omnivalence/status/813771047912673280

かれがごとく、萬法またしかあり。(『正法眼蔵』弁道話)うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。

https://twitter.com/omnivalence/status/813771136861253632

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(同)

https://twitter.com/omnivalence/status/813772139710943233

(訳)たとえば、船に乗って山のない海に出て四方を見ると、ただ円く見える。他の形が見えることはない。そうではあっても、この大海は、円いのでもない、四角いのでもない、残った海徳(海の徳)は尽くしがたい。宮殿のようであり、瓔珞のようだ。ただ私のパースペクティヴのおよぶところ、

https://twitter.com/omnivalence/status/813773902396596224

円く見えるのである。あらゆるものがそんな風なのだ。」「魚が海をゆくとき、泳いでも海の果てはなく、鳥が空を飛ぶとき、飛んでも空の果てはない。そうはいっても、魚も鳥も、いまだ昔から水や空を離れることはない。ただ大きく用いるときは大きく使い、少ししかいらないときは少しだけ使うのだ。

https://twitter.com/omnivalence/status/813776043257364481

そうであるのに、水〔の果て〕を極め、空〔の果て〕をきわめてから水や空を行こうとする魚や鳥がいるとしたら、水にも空にも道を得られないだろうし、居場所を得ることもないだろう。ここのところが分かれば、日々の生活が仏道の成就となるのだ。」

https://twitter.com/omnivalence/status/813777810795819008

魚や鳥は、「大きく用いるときは大きく使い、少ししかいらないときは少しだけ使う」という風にして、それぞれの環界を作って海や空と融和し、それらと離れることなく生きている。それは、彼らの自己制作であり、彼らが海や空を制作しているのだ。

https://twitter.com/omnivalence/status/813778835363667968

限られたパースペクティヴしか持たないからと言って、それを足したり増したりして海や空の果てを極める必要はない。そんなことをしても、道も居場所も得られない。自分が制作し、それによって自分自身をも制作する環界は=客体は、パースペクティヴが多である以前に、一であるが全でもあるのだ。

 

2019-05-10

U-NEXTに、観たいと思う映画が次々と追加されるのだけど、マイリストが増えるばかりで、それを観ている余裕がない。

U-NEXTで『さらざんまい』、第五話。大きな展開があった回と言える。しかし、一話から四話までで既に与えられている様々なモチーフを検討すれば、この展開はある程度は予測可能であり、いわば想定内の展開であると言える。

(一稀が、偽装と役割の転換、取り替え、という役割をもつ人物であること、弟の春河との関係にならかしらの「しこり」があることが、より明確に、より詳細に示されたと言える。)

おそらく、この回は「展開」の開始を告げる(モチーフの提示部分から展開部分へと物語が移行したこと告げる)もので、さらに予想を超える展開がこの後につづくものと考えられる。五話の展開はこれまでの提示部分を受けての展開であり、提示部分から展開部分へのブリッジとなるような役割をもち、故に四話から五話への展開はある程度「読める」ものだったが、五話から次の六話への展開は、現時点では「読めない」。それは、一話から五話までで与えられているものとは別の「新たな要素(飛躍)」が、次の六話では与えられるのではないか、ということだ。

つまり、次の一手をどの方向に進めるのかということによって、この作品が進もうとしている方向性(あるいは、この作品に秘められた潜在的なもの)が、かなり明らかになるのではないか。

(現時点で、主人公の三人のうちで最もその性質や属性が明確になっていないのが燕太であり、つながりを媒介する役割をもつと思われる彼が、今後どのような活躍をみせるのかは興味深い。)

(この回で生じた大きな謎として、春河がなぜ、一稀の「本当の母親」と同じ匂いをもつ匂い袋を持っていたのか、ということがある。「春河の内面」に関しては、ここまでまったく触れられていないのだが、春河の内面なり行動なりが、今後の展開に大きな影響を与えることはあるのかもしれない。)

●第五話で新たに明らかになったこと。

一つは、今まで明らかではなかった吾妻サラというキャラクターの存在の位相がある程度確定されたこと。彼女は、バーチャルな存在ではなく、この物語世界に実在し、その様式はケッピと同様の怪異的なものであるようだ、ということ。

(吾妻サラは、朝の情報番組の「ラッキー自撮り占い」において、その夜に出現するカパゾンビの「欲望の対象」を予言する。ここでは、ゾンビをゾンビ化する呪いの対象が「ラッキーアイテム」として反転的に示されるのだが、見かけ=形態的にはあきらかにカッパの側にいる彼女が、なぜカワウソ側のゾンビ化の企てを予言できるのか。また、カッパ対カワウソの対立において、彼女はどのような立ち位置にいるのだろうか。)

もう一つは、今までほとんど一心同体で、一つの存在の二つの側面であるかのようにみえていた玲央と真武との間に亀裂がみえたということ。つまり、二人で一つという存在ではなく、それぞれに個別の背景をもつ、別の存在であるらしいことが示された。

 

2019-05-09

●名古屋See Saw gallery + hibitでの井上実展のトークでどんなことを話そうかと考えていて、この日記に、思いつくいくつかの単語で検索をかけてネタを探した。自分で書いたことの多くを忘れているので、あるところでは、自分で書いたとは思えない感じで、へえと感心しながら面白く読み、また別のところでは、あまりに無内容で、つまんねーな自分、と思ったりする。

(井上実の作品について、過去の自分は何と言っているのかを探すのと同時に、それと関係しそうな別のいくつかの単語で検索していたら、なぜか、グレアム・ハーマンについて書いた部分がたくさん引っかかってきて、ハーマンの読解について整理し直す、みたいな結果にもなってしまった。そして改めてハーマン推しを自覚する。)

三人でのトークなので、話がどういう風に転がるのかはその場にならないと分からないから、使えそうないくつかのネタを用意することと、自分としては最初に「この話から入る」というとっかかりだけを決めようと思う。

とりあえず最初に、道元の「正法眼蔵」を引きつつ「(図と地の)地にはスケールがない」という話をして、そのことと井上実の絵画の特異性とがどう繋がっているのかという話を提示しようという、そこまでの作戦は立てた。

See Saw gallery + hibit 「井上実展」

http://www.seesaw-gallery.com/exhibitions/2019/1335