2019-07-05

●「Head Popping Illusion(頭すっぽん新感覚)」小鷹研究室(沖野凌可、森光洋、小鷹研理)の動画が公開されていた。(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=IO2GXiM70BY

この日記の、その体験記。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181225

Netflixオリジナルとして、三宅唱が「呪怨」シリーズを監督する、そして脚本は高橋洋一瀬隆重というニュース(映画ナタリー)

https://natalie.mu/eiga/news/337029

《イベントでは、Netflixがホラー映画「呪怨」をドラマシリーズ化すると発表。「きみの鳥はうたえる」の三宅唱が監督を務め、オリジナル版スタッフである高橋洋一瀬隆重が脚本を担当する。ドラマシリーズ「呪怨」は、2020年春にNetflixで配信予定。》

正直、「呪怨」は既にいろいろやり尽くされていて、もうこの設定からは新しいものは出てこないんじゃないかとも思うのだが、このメンバーだとまた別の話になる。『きみの鳥はうたえる』も『霊的ボリシェヴィキ』も本当にすばらしかったのと同時に、この二つの映画はまったく似ていないので、「呪怨」と三宅唱高橋洋という組み合わせのから、一体どんな化学反応が可能なのだろうかという期待が湧く。

 

2019-07-04

●昨日の日記で、不思議な「納得の形式」がある、ということを書いたが、それで思い出したのは少し前に読んだ、「飛行機がなぜ飛ぶか」分からないって本当?(日経ビジネス)という記事だった。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/061400036/?P=1

ここでは物理学者の松田卓也が、「なぜ飛行機が飛べるのかを科学的に説明できていない」という風説に対して、いや、実はちゃんと説明できているのだとして、非常にややこして説明をしているのを、山中浩之という記者が書いている。

それはそれとしてとても面白いのだが、ここで取り上げたいのは、この記事の最後に、人間にとって「合理的に考えること」がなぜ自然ではないのか(合理的に考えることがなぜ難しいのか)ということの説明として引用されている、マイケル・シャーマーという人の言葉だ。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/061400036/?P=9

《人間はバカだというけどそれは違う。バカはバカなりに合理的なのだ。これは遺伝的に組み込まれているんだ。2人の原始人が300万年前、アフリカのサバンナを歩いていたとしよう。そこに藪があった。前を通り掛かったら、ガサゴソという音がした。これがライオンか風なのか分からない。

それで1人はばっと逃げた。もう1人は合理主義者で、『これは風かもしれない。だったら逃げる必要はない。ちょっとテストしてみよう』と石を投げてみた。そうしたらライオンが出てきて食われてしまったと。だから、そういう合理主義者、理屈に従う人間は淘汰される。怖がって、理屈も何も無い、何でもいいからぱっと逃げるほうが生き残る》

「合理主義者が淘汰される理由」として、上のたとえ話は「合理的」ではないように思われる。藪からガサゴソと音がして、それがライオンか風か分からない場合(つまり、ライオンである可能性が一定以上高い場合)、まず「逃げる」のが合理的な判断ではないか。これはライオンかもしれないが、しかし風でしかないかもしれない、ならば、まずは逃げよう、というのが合理的な思考ではないか。たとえ風であったとしても、逃げるために必要な---無駄かもしれない---労力は、ライオンに襲われるリスクと比べれば大したことはないものだろう。「テストしてみよう」と石を投げるとしても、とりあえず安全を確保できる位置まで逃げて(たとえば---サバンナには希少かもしれないが---高い木の上に逃げて)、それから石を投げてみるというのが、合理的な人のすることなのではないか。ライオンである可能性があるのに、いきなり石を投げてしまうのは、たんに迂闊な人(何も考えていない人)でないとすれば、一か八かに賭ける極度のギャンブル好きということになると思う。とはいえ、このギャンブルに勝っても---生死を賭けたスリルという快楽以外---配当は大したものではないが。

(「石を投げる」という行為は「賭け」であって、「テスト」という概念にはならないのではないか。)

(仮に、その藪の先に、自分たちの生活に必要な希少資源---たとえば湧き水---が隠されている可能性があるという場合、リスクを負ってでも石を投げてみるという選択が合理的である場合もあるだろう。しかしそのような前提は示されていない。)

たんに、もっと上手いたとえ話はなかったのか、という話でしかないのだけど、少なくとも、これをもって、何も考えず直観的に判断する人が生き残って、理屈をこねて考える人が淘汰される説明(根拠)とすることが合理的でないことは明らかであるように思う。ぱっと逃げる人が直観的に行動する人だとして、もう一方の石を投げる人は、ただ迂闊な人かギャンブル好きな人で、このたとえ話のなかには合理的に考える人が登場しない。だからこの比較から「合理的な人が淘汰される」という結論はでてきようがないように思う。

(たとえば、考える人は、結果として逃げるとしても考えているその時間分の遅延があるから、ライオンに襲われる確率が高くなる、という話ならまだ理解できる。)

(さらに言えば、「石を投げる」一か八かに賭けるギャンブル好きという性質も、淘汰されることなく、現に今の人類にまで広く残っている。)

(もしかすると、300万年前のまだ猿人と言われる時期の原始人は、「藪が動いた逃げる」という思考を介さない自動的な行動をとるか、思考したとしても、せいぜい「風かも」「試してみよう」くらいの思考の萌芽---ワンステップがツーステップくらいの思考---しかもっていないという前提が、このたとえ話にはあるのかもしれない。そうであれば、原初的な思考の萌芽をもった者は淘汰されるというたとえ話になることはなる。しかし、猿人は既に道具を使用していたと考えられており、道具の製作と使用には---物事の相関関係にかんする---何ステップもの合理的な思考の過程が必要だろうということを考えると、その前提は疑問だと感じる。また、意識的思考をもつ者が淘汰されるとしたら---たとえそれが必ずしも合理的なものではないとしても---それを持つ我々の方が現在まで生き残っていることと整合的ではない。)

最初に道具を使った人類はアウストラロピテクス(ナショナルジオグラフィック)

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150127/433311/

(この場合、迂闊な人とは、たんに何も考えていない人ではなく、テスト-実験の場と、自分の生命が賭けられた現実的実践の場との区別がついていない人、ということかもしれない。300万年前の猿人が未だ、個としての自分の存在や命に重きを置いていなくて、集団のなかの交換可能な一つの存在としてしか自分をみなしていないのであれば---「死」を恐れてはいない段階にあるのだとすれば---自分の命を賭けた行為を複数回再現可能な一種の実験とみなすこともあるのかもしれない。その場合であれば、この「石を投げてみる」という行為を、個というよりも、一つの集団のなかに生じた合理的思考-実験であると考えることは確かにできるかもしれない。)

(モデル-実験の場と、自分の生命が賭けられた現実的実践の場との区別は実質的に「ない」ものとして考える場合、つまり、特定の個や種にとっての合理性ではなく、地球上の「進化」という過程それ自体の全体を大きく一つの合理的思考過程---アルゴリズム---として考えるのならば、「ぱっと逃げる人」も「石を投げてみる人」も、どちらも等しく大きな思考過程の一部であり、どちらか一方が合理的だとは言えないはず。)

このような、たとえ話としてさえ成り立っていないような話を、この記事を通じて複雑な理屈を丁寧に語ってきた、合理的であるはずの物理学者が最後になって不用意に持ち出してくるという事実にとまどうのだ。それまでの論理の厳密さに対する、この粗雑さのギャップはどこからくるのだろうか、と。

おそらく、話が「たとえ話」という次元に移行したとたんに、「納得の形式」のありようが変化するのではないかと推測される。うまい言い方のたとえ話(ここで示されたたとえ話が「うまい」とは思えないが)は、適切であるかないかとは関係なく、その「うまさ」そのものによって納得力をもってしまう。これも(ここではネガティブな意味での)フィクションの力なのではないか。

「たとえ話」としてものごとを把握すること自体がネガティブであると言っているのではない(それどころか、ぼくは最近そのことにこそ積極的な興味がある)。ただ、それは合理的な把握とは異なる形式の把握の仕方であり、それをあたかも合理的であるかのように使おうとすると、おかしなことになるということだと思う。

(ここで問題にしているのはあくまで「(あたかも合理的に根拠を示しているかのような)たとえ話」が実は適切ではない---合理的な根拠になっていない---ということで、「人間は基本的に合理的思考が不得意である」という認識にかんしては同意できる。)

 

2019-07-03

●アニメ『Another(綾辻行人・原作)Huluで観た。

この物語では大雑把に言えば謎が三段構えになっている。(1)一体、この土地(学校)で何が起こっているのか?。これが謎であるのは外からやってきた転校生である主人公と、彼の視点から物語に参入する観客だけだ(主人公は、あらかじめ内部構造に組み込まれている外部からの視点、であるのだが)(2)ここで起こっている「災厄」をどうやったら止めることができるのか?。これは、全ての登場人物にとって切迫性のある謎である。(3)「災厄」を止める方法は突き止めたが、その時に鍵となる人物は一体誰なのか?。要するに「犯人」は誰なのか?。これについては、それを知ることの出来る能力を持った人物が一人だけ作中に存在する(しかし、その一人がいかにも犯人であるかのように誤解される位置にいるので、安全な探偵ではない)

この三つの謎が、合理的な因果性によって構築されていれば、この物語はミステリということになる。しかしこの物語では、謎とその答えは、いわばオカルト的(呪術的)な蓋然性によって関係づけられ、組み立てられている。つまり、謎とその答えとの間には、相関的な蓋然性の高さはあるが、合理的因果性はまったく考慮されない。この物語は、ミステリ的な合理性による骨組みの形を、オカルト的な相関性による接合を使ってつくりあげた、ハイブリッドな物語ということになる。

たとえて言えば、骨組みは合理的で論理的だが、骨と骨とをつなぐ関節部分には合理がない。だから、あくまで合理的に考えるならば、このような骨組みは成立せず、この骨組みでは立ち上がれずに崩れてしまうはずだ。しかし何故か、我々はこの物語を、ある意味で合理的なものであるかのように受け取る。非常に細かく張り巡らされた謎や伏線が、最後には見事に噛み合って回収され、意外な「犯人」(とはいえこの犯人には犯行の意思はまったくないのだが)に、驚かされつつも納得させられる。物語を最後まで辿り終える時、それ自体として非常に悲惨なものではあるが、一つの事件が確かに解決されたという一定の満足を得ることになる。

考えてみればこれはとても不思議なことだ。合理的に考えても、あるいは、常識的に考えても、この世界における物事と物事との関係、出来事と出来事との関係は、この物語が示すようなものとは違っていることを我々は知っている。勿論、あらゆる物事が必ずしも合理的に説明できるものではないことも、我々は知っている。その不可解さそのものにこそ強くリアリティを感じるということもある。しかしこの物語では、まったく非合理的で不可解な物事の連鎖が、あたかも合理的な整合性のあるひとかたまりの事件のようなものとして納得されるのだ。

この物語にあるのは、非合理的な出来事それ自体のもつ不可解なリアリティでもなく、非現実的で幻想的な出来事のもつ魅惑的な力でもなく、非合理的な出来事の連鎖を、あかたも合理的であるかのように納得させてしまう、ある種の「納得の形式」のもつ強さ、のようなものなのではないか。この「納得の形式」に沿って物語を組み立てれば、非合理的連鎖が合理的であるかのように納得される、というような。

(このような「納得の形式」を生むものは、合理性と象徴性のハイブリッドなのではないか。)

(あるいは、非合理的な出来事それ自体のもつ不可解なリアリティや、非現実的で幻想的な出来事のもつ魅惑的な力がないということではなく、それらよりも「納得の形式」の強さの方が勝っている、というべきか。)

 

2019-06-30

27日の日記に書いたことを自ら裏切るようだが、Huluでアニメ版『魍魎の匣』をなんとなくだらだら最後まで観た。アニメ版『魍魎の匣』は、何年か前にレンタルDVDで最初の何話かを観て、あまり面白くなくて途中でやめてしまったのだが、今回は、「エンターテイメントとしての物語の組み立て方の技術」というところに着目して観ていたら、最後まで観られた。

(魍魎の匣』は、実写映画版の出来がとてもひどいもので---最初の30分くらいして観ていないが---アニメ版は、少なくとも綿密にきちんとつくられたものではあると思った。)

京極夏彦の小説は、たしか三作目か四作目くらいまではリアルタイムで読んでいるから、二作目の『魍魎の匣』は読んでいる。読んではいるが内容はほぼ忘れている。しかし、さすがに「一番の大ネタ」だけは憶えていたし、この大ネタにかんしては、今でも面白いと思うし、すごいことを考えたものだと思う。

今回アニメ版を、(ほとんど忘れてしまっている)この「大ネタ」に至るまでの道筋や出来事の絡み合いがどんなになっていたのかを改めて確認するというか、「ああ、こことこことがこうつながって、これがこう展開していくのか」という感じで観ていた。どの程度原作に忠実なのかは確認していない、話はけっこうかっちりとつくってあった。

原作を読んだのは九十年代の中頃だが(京極夏彦は当時すごく話題になって売れている作家だった)、あれだけ分厚い小説を三作か四作かは読んだということは、それなりの強さで興味やリアリティを感じていたのだと思う。そしてその感じを、アニメ版を観ながら、ぼんやりと少し思い出していた。

魍魎の匣』は一応、合理的に事件が解決する(ことの顛末が因果的に説明される)ミステリと言えるのだけど、合理的に解決されるミステリとしてはルール違反であるような要素が(意識的に)微妙に仕込まれている。例えば、人の見た光景(記憶)を直観的に見ることの出来る能力をもつ榎木津という探偵が出てくるなど。合理性の底が少し破けているというか、基本的には合理的世界だが、完全に合理的な世界というわけではないという含みがもたされている。

でも、それより重要なのは、探偵(京極堂)の役割が、事件を解決する(説明する)というより、「憑きものをおとす」というところにあるという点だ。しかしここで、探偵は、呪術や魔術によって憑きものをおとすのではなく、あくまで「言葉」と「パフォーマンス」によって憑きものをおとす。たとえば、何か印象に残ることを言われてしまうと、そのことを忘れられない限り、その言葉に拘束されてしまうというような意味として「呪い」が問題とされ、それを、なにかしらの言動によってパフォーマティブに「おとす」ことが問題とされる。

だから、オカルト的な意味での呪いでもなく、かといって、合理的な因果関係の解明によっても解消され切れない、そのどちらでもない形で人を縛っているもの、そのどちらによっても捉えられないものが問題になっている。初期の京極夏彦の小説のリアリティは、そのようなものを捉え、顕在化しているところにあるのだろうと、改めて思った。

(そう考えると、その影響から西尾維新の「化物語」シリーズが出てくるということも納得できる。)

 

2019-06-29

●成田悠輔さん、施井泰平さん、丹原健翔さんによる(サロン的な雰囲気の)トークを聞きに行く(主催はr-lib)

●成田さんの記事。「生きる目的や倫理は蒸発する 人類が行きつく「幸福なデータ奴隷」とは?」(Forbes JAPAN)

https://forbesjapan.com/articles/detail/26062/1/1/1?fbclid=IwAR1Y3MGnGy49zBOTY7-7I-Lzrzp5W9U8mD2qs9RZkDfF7S0425--T3cWGdE

●施井さん、丹原さんの記事。「ブロックチェーン的」な世界を、アートから切り拓く:起業した美術家たちが考える「美と価値と公共」(WIRED)

https://wired.jp/2018/09/03/open-art-coalition/?fbclid=IwAR1RdmJ6zWv1FZZkboTnpJ1KF5ABLGhWZVM7s5Od8AlsYViVO15NBbGO1Zg