2019-07-13

●身体というのは「喩」のことなのではないだろうか。というか、身体性というのは、「喩」の成立によってもたらされるのではないか。それは、図と地の関係のようなもので、図が成立することではじめて地がもたらされるのと同様に、「喩」が成立することではじめて身体がもたらされる、のではないか。

(なにもない、無限定な空間が、鳥が横切ることで空となる。この時、「空」は「鳥」によってもたらされ、「鳥」は「空」の「喩」となる。)

(ここで「喩」とは、パース的に言えば記号のことになるだろう。ならば、「喩」は、記号と対象と解釈項という三項関係の成立によって生じることになる。そしてこのとき、記号も対象も解釈項も、すべて「わたし(の身体)」ということになる。記号・喩としてのわたしの身体があり、その対象としてのわたしの身体があり、それを解釈する解釈項としてのわたしの身体があって、記号過程の三項関係が成立する時、わたしの身体性たちあがる。)

(だが、「記号としてのわたしの身体」という言い方は結果を先取りしてしまっている。「記号としてのx」があり、「対象としてのy」があり、「解釈項としてのz」があり、それらが重複して、一つの場において記号過程の三項関係としてあらわれる時、その重複によって「わたしの身体」が生じる。)

わたしに可能な身体的技能、たとえば、歩ける、泳げる、自転車に乗れる、ハンマーで釘を打てる、踊れる、等々は、それ自体の実行において必ずしも「喩」を必要としないかもしれない。しかしその行為が意識的になされる時、あるいは、行為する身体が意識される時、意識された「わたしの歩く身体」は、対象としての「わたしの歩く身体」の「喩」となる。

(この時、「喩」としてのわたし歩くの身体は「鳥」であり、対象としてのわたしの歩く身体は「空」であると言える。)

 

2019-07-12

●『営繕かるかや怪異譚』(小野不由美)。図書館に用事があって行った時、棚にさしてあるのが目について、なんとなく気になって借りてみた。面白かった。読みやすい古井由吉みたいな感じもある。

オカルトとホラーの違いということを考える。ここでホラーとは、ラブクラフトみたいなホラーではなく、Jホラーのようなホラーのことで、「怪談」と言った方がよいのかもしれない。

オカルトは疑似科学であり、それは科学の鬼っ子であり、「疑似」ではあっても科学の装いをもち、つまりそこでは理論や説明が要請され、体系が要請されている。対して、ホラー(怪談)は、ある亀裂やゆがみの露呈であって、理論や体系以前にあるもので、理論化、体系化されたら消えてしまうものを扱っているように思う。

だからホラーにおいては、まとまりのない、解決のつかない、隙間の多い、断片がそのまま放置されているような状態の、短いものの方がリアルである。それは、人間と非人間的な何かの、出会いであり、出会い損ないであろう。それは深淵の露呈であり、図柄の問題ではなく、地そのもののゆがみの問題である。そこにあるのは恐怖そのもの、あるいは奇妙さや違和感そのものであって、その説明や解決ではないだろう。

そこにあるのは、非人間的なものそのものではなく、非人間的なものが、人間的なもののなかに侵入してしまうという出来事だろう(科学は、非人間的なものそのものを説明しようとする努力だろう)。それは逆に言えば、人間が非人間的なものに触れてしまうということだ。非人間的なものに触れてしまうような時、人間は、本来触れ合えないものに触れてしまう、特異な感情の状態にあったり、特異な状況にあったりする(ある種の「切羽詰まった」状態にある)と言える。つまり、非人間的なものの露呈という出来事は、結果として、同時に人間におけるある感情や状態のリアルな表現にもなる。

(だがそれは、あくまで「結果として表現することになる」のであるから、ホラー的な出来事を、人間の感情や状況の表現へと還元し切ることは出来ないだろう。そこには非人間的な何ものかが確かにある、と考えられる。)

●とはいえ、人間には、違和感そのもの、恐怖そのものを、そのままそれ自体として放置しておくことは難しいだろう。放置すると自身が崩壊してしまう危機になる。そこに、何かしらの形での解決、あるいは、解決にまでは至らないとしても、納得、あるいは腑に落ちる感じ、が必要とされるだろう。あるいは、それを見なくても済むようにする覆いのようなものが必要となる。

(継続可能な「わたし」が再度つくり直されるために。)

ここで問題となるのが、必ずしも合理的とは言えないような、何かしらの「納得の形式」であるように思われる。ここでオカルトと異なるのは、説明ではなく納得であるというところだ。説明できなくても納得できれば(腑に落ちれば)、とりあえずは、よい。あるいは、解決(解明)できなくても、(人間的世界が)崩壊せず持ちこたえられるような身のこなし方があればよい。

この時の「納得の形式」は、人間の原初的な直観の形式に近いものである必要があるのではないか。神話において作動しているような、人間が、世界を捉え、認識する原初的な形式が、現代的な感情や状況のなかで作動する時に、その形式に沿った所作が、人間的な世界に開いた深淵への亀裂()から、身を逸らし、目を逸らすための行為となるのではないか。魔そのものは消えないとしても。

●人間と非人間的なものとの接触によって、人間的なものに亀裂が生じ、そこに深淵が開かれる(魔があらわれる)。その時、その人間の置かれている特異な感情や状況が「結果として」リアルに表現される(感情や状況にリアリティが与えられる)。そして、そこに開かれた深淵に再び蓋をするためには、人間にそなわった原初的な「納得の形式」を作動させて、継続可能な「わたし」がつくり直される必要がある。

『営繕かるかや怪異譚』という連作の一つ一つが示しているのは、そのような筋道であるように思われる。この小説では、リアルな亀裂だけが示されるのではなく、その最低限の解決も示される。ただそれは、解決とは言えないような、「魔」との関係も明確ではない、納得のための最低限の筋道と所作でしかない。しかし、これ以上の解決を示せば、深淵は「謎」へと格下げされた上で「説明」されることになり、怪談としての魔のリアリティと食い違ってしまう、ということなのではないか。

 

2019-07-11

●『サザエさんうちあけ話』、すごく面白い。長谷川町子の自伝が、絵物語とマンガと絵文字(?)で、断片的に、エッセイ風に語られる。1979年に出た本。

前半の、戦前から戦後すぐくらいまでの話がとにかく面白い(『この世界に片隅に』の元ネタみたいなエピソードも描かれている)。中盤になると、やや中だるみも感じられるが、終盤、二人の姪やデンキ屋のオジさんのエピソードなどで前半に匹敵する活気をとりもどし、そして、認知症になった母のエピソードによる幕切れも味わい深い。

(ちょこちょこと挿入される、犬や猫、ニワトリなど、家の動物たちの話もとてもよい。)

長谷川家はふしぎと女ばかりの家族となる。三姉妹で、父親は(三姉妹の真ん中の)長谷川町子14歳の時に亡くなり、姉の夫は戦死し(夫婦の生活は一週間)、妹の夫も35歳で病死する。そして、妹と妹の夫の間の子供も、二人とも娘だ。母、三姉妹、二人の姪という家族。

長谷川家は、庶民とは言えない。長谷川町子はエリートの娘という感じだろう(その、エリートである父がはやく亡くなってしまうのだが)。母が、破天荒というか、豪胆な人物として描かれているのだが、この浮世離れした豪胆さも、お嬢様的な育ちの良さから来ているのではないかと感じさせる。昭和の初期から(戦中も含め)昭和50年代くらいまでの話が描かれるのに、日本的な因習による束縛をほとんど感じさせないところに(意識的にそういう部分は描かないということもあるだろうけど)、生まれつき「持てる者」がナチュラルにもつリベラルな空気というものがあると感じる(母がキリスト教の信仰をもっているということも大きいのだろう)

《神様を信じて、まっとうに暮らせば、やもめと、みなし児の家の粉は、つきることがない》という聖書の言葉を信じる母は、「良い」と信じることには惜しみなくお金を使うので(たとえば、家に来る大工や植木屋に、京都の良い建物や庭園を見学させるためにお金を出して旅行させたりする)、父が残した《アパートの一、二軒は建つくらいの貯え》をあっさりと使い切ってしまう。しかし結果として聖書の言葉は正しくて、長谷川町子には田河水泡の紹介による仕事が来るようになり、姉は菊池寛に認められて挿絵画家として仕事をするようになる(戦前の話)

そして戦後、地方の新聞に連載していたものを自費出版した『サザエさん』がヒットすることになる。ここで、戦争が終わって再度上京する時に福岡の実家を売ったお金の半分を使って『サザエさん』を出版しなさいと言い出したのも母なのだった。これにより「姉妹社」が生まれる。さらに、本を横とじの型にしたせいで本屋においてもえらずに、1巻がまったく売れないなかで、型が悪いのならばサイズを変えて2巻を出せばいい、お金がないなら借金すればいいと、ごり押しを指示するのも母なのだ。その2巻が売れたことで、遡行的に1巻も売れるようになる。

長谷川家が『サザエさん』によってお金持ちになると、母は今度は《えん日でワタアメ買うみたいに》、ふらりと出かけて「箱根の別荘」を(別荘番の一家つきで)買って帰ってきて、娘たちを驚かせたりする。

●そのような母も晩年は認知症になり、孫たちの名前も、娘の顔も分からなくなり、(この本で書かれている)娘たちとの生活のことも忘れる。そしてただ、《わたくしは父も母も島津はん士の家でして、母は、おヒメさまのおあそび相手に、ごてんにあがったこともありました…》と、自らの父母の出自を語るばかりとなる。このラストで、これまで描かれてきた出来事が記憶から消えてしまうのか、という無常観と同時に、この母の自由さや豪胆さは、やはり、生まれつき「持てる者」のもつ豊かさや矜持からきたものだったのだなあとも思う。

 

2019-07-10

●改めてsora tob sakana、よいなと思う。この演奏にこの声がのっているところがとてもよい。

サカナ日記27日目 「広告の街」ダンス映像

https://www.youtube.com/watch?v=2uZDeLwB2V8

sora tob sakana/夜空を全部(MV)

https://www.youtube.com/watch?v=umrWCP3itN4

sora tob sakana/魔法の言葉(MV)

https://www.youtube.com/watch?v=1d3003igO6Q

sora tob sakana/Lighthouse(Full)

https://www.youtube.com/watch?v=nmwBxs1d2Xo

sora tob sakana/夏の扉(MV)

https://www.youtube.com/watch?v=lZjpxaKRO8M

sora tob sakana/発見(Full)

https://www.youtube.com/watch?v=cI90_oRPEPM

sora tob sakana / ribbon(MV)

https://www.youtube.com/watch?v=fHBrIzHFff4

sora tob sakana/アルファルド(Full)

https://www.youtube.com/watch?v=xZIy6WY4sS0

sora tob sakana/New Stranger(4th anniversary oneman live「city light , star light」)

https://www.youtube.com/watch?v=_viFdvYD-UE

sora tob sakana / 夜間飛行(band set)

https://www.youtube.com/watch?v=MWACoSZpy9o

sora tob sakana/海に纏わる言葉~Lighthouse(2018.7.1 4th anniversary oneman live「city light , star light」)

https://www.youtube.com/watch?v=w79ajc_Jyd4

2019-07-09

●「シン・エヴァ」の冒頭10分の映像でマリが唄っていたのは、水前寺清子の「真実一路のマーチ」(1969年)、佐良直美の「世界は二人のために」(1973年)で、確か「エヴァQ」の冒頭では、天地真理の「ひとりじゃないの」(1972年)を、「エヴァ破」の冒頭では水前寺清子の「365歩のマーチ」(1968年)を唄っていた(「エヴァ破」ではそれとは別に、ラジオからザ・ピーナッツの「ふりむかないで」(1962年)、居酒屋のBGMとしてピンキーとキラーズの「恋の季節」(1968年)が流れてもいた)。庵野秀明は1960年生まれだから、これらの曲は、(14歳以前の)子供の頃に聴いた、耳なじみのある、耳に残っている昭和歌謡(「ふりむかないで」以外はいずれも昭和四十年代)ということなのだろう。14歳以前の頃、というのがなにげに重要なのかも。

(マリは、ゲンドウやユイと同じ世代なのではないかという説があるらしいけど、これらのことを考えると、むしろもっと上の世代---庵野秀明と同世代---と言えるのではないか。マリが70年前後の歌謡曲を好むのは、それが「エヴァの呪い」を受けるよりも以前の、幸福な記憶だからではないか、と。まあ、だとすると、74年くらいに既にエヴァに乗っていたことになるので、作品の世界観と矛盾するけど。)

(というか、これらのことは、物語上の伏線というより、庵野秀明が作品をつくるモチベーションにかかわることなのだろう。)

真実一路のマーチ

https://www.youtube.com/watch?v=mnDd_rOJNAs

https://www.youtube.com/watch?v=OB0TY-yWdB8

https://www.youtube.com/watch?v=lL3X9IPV7Jc

世界は二人のために

https://www.youtube.com/watch?v=434GlcJIVbY

天地真理 ひとりじゃないの

https://www.youtube.com/watch?v=RnfDem4gmes

水前寺清子三百六十五歩のマーチ(ワン・ツー・パンチ)

https://www.youtube.com/watch?v=jnl99gSiiiA

https://www.youtube.com/watch?v=1Skn0HuLkfs

ザ・ピーナッツ ふりむかないで

https://www.youtube.com/watch?v=7BicqEAn4gE

ピンキーとキラーズ  「恋の季節

https://www.youtube.com/watch?v=ddV5HYtTg_w

2019-07-08

●「シン・エヴァ」の冒頭10分の映像がすばらしくて、何度も何度も繰り返して観てしまう。「エヴァ」という、(比較的しがらみが少ない自由度で)お金も人材も時間も、大量に投入できるコンテンツだからこそ可能になった映像なのだろう。たんに予算が潤沢だということではなく、作り手本位に贅沢に作られている感じがある。

Evangelion 3.0 + 1.0 First 10 minutes preview High Quality Sub ENG (Japan + French Streaming Audio)

https://www.youtube.com/watch?v=r2UKYBNSRaI

まず、エヴァや戦艦がワイヤーで吊られて宙に浮いている感じになっているところが面白い。これは、実際にワイヤーで吊っているということではなく、重力制御を実現したヴンダーからのオペレーションによって宙に浮くことが可能になっているということの表現だろうと思うのだが(そして、こういう表現にしようというアイデアは特撮からきているのだろうが)、「ワイヤー」があることで、この戦闘場面において、浮遊感と重力感との絶妙な混合が実現されているように感じられた(飛行機が飛んでいるような飛び方でもないのだが、重力からまったく自由に浮いている感じでもない)。重力が働いているところで、重たいものが無理矢理に浮いている感じになっていることで実現されている、不思議な(無)重力感があると思う。

(たとえば、エヴァは宙に浮いているが、エヴァの持っている機関銃は落下する、など。)

それに対し、パリの街の描写ではがっつり重力が効いている。たとえば、ヴンダーからの制御を失った戦艦がエッフェル塔に直撃し、エッフェル塔が崩落するカットのすばらしさ(あと一秒くらい長く見せて欲しいと思うのだけど、いいところでスパッと切られてしまう)。このかっこいい崩れ方は、おそらく物理エンジンによるシミュレーションとかによってつくられたのではなく、アニメーターによって手で描かれることでつくられた「崩れ」なのではないだろうかと思う。物理的な正確さというより、描かれたアニメだからこその重力感が優先されている感じというか。

そして、なんといっても(誰の目にも明らかだろうが)、3DCGによってはじめて可能になる、自在にくるくるとまわるカメラワークがすごい。しかしこれも、3DCGをそのまま使っているというより、3DCGでつくったモデルをもとにして、2Dアニメ風に動くように改めて手で描き起こすことでつくられているのではないかと思われる。

(ちょっと「トップ2」を発展させたような感じで、この場面のエヴァの動きは鶴巻テイストなのかもしれない。)

(エヴァの肩が縦にも横にも360度自由に動くようになっているというデザイン---そして、それについてのマリのコメント---は、3DCGによる自由すぎる視点移動---と、それに対応させられるアニメーターの感想---からきているのではないか、とか。)

(メカ類のデザインの面白さとか、パリの街が城塞化する描写のかっこよさとか、エッフェル塔の描写の密度のすごさとか、言うまでもない。)

●物語的にも、割とポジティブな方向に向かえそうな感触があってよかった。「エヴァ破」の明るさは、嘘くさい、無理矢理に作られた明るさみたいに見えて、それが「エヴァQ」でどーんと暗い底まで落とされて、これこそが「エヴァ」だとは思うものの、そのままダークで終わるなら旧劇場版と変わらないことになってしまう。でも、最後にはちゃんと、いったん壊れてしまった世界を、なんとかみんなで少しずつリビルドしていこうみたいな、(嘘くさくはない程度の)希望を含んだ方向にもって行けそうのルートがみえた感じ。

(とはいえ、簡単に希望などとは言えない、非常に厳しくピリピリとした状況ではあることは確かで、ピリピリして刺々しく張り詰めた雰囲気の映画にはなりそうな感じ。登場人物たちもみんな---マリを除いては---ピリピリしているし。マリの過剰な「おちゃらけ」は、ギスギスした緊張を緩和するという意味でも、逆に、張り詰めた緊張を対比的に際立たせるという意味でも、重要なのだと思う。)

(その時に「敵」となるのが、いつまでも「若き日の夢」を忘れられないネルフのおっさんたち、ということになるのか。ただ、ベタに世代間抗争みたいな単純な話にはならないだろうけど。)

(ヴィレとネルフの闘いは、ちょっと、『ゼーガペイン』のセレブラムとガルズオルムの闘いに似ている気がする。)

(ただ、「シンジ」をどうするのか、というのは、そんなに簡単な問題ではないのだなあ。)

(九十年代に、「エヴァ」のテレビシリーズをつくっていた頃には、庵野秀明はシンジに自分を投影していたのかもしれないが、社会的にも充分に成功し、歳もとって、現在ではあきらかにゲンドウの方に近い位置にいる。おそらく、「エヴァ」をつくっている人たちのうち誰一人として、素直にシンジに自己を投影できる人はもはやいないだろう。シンジの感情だけを作品の推進力にするわけにはいかなくなっている。作品が成功して、あまりに長くつづいてしまったことで、どこに軸を置いて作ればいいのかが絞りにくくなっているのだろうとは思う。その意味でも、マリのような新しい人物が前景に出てきたり、いきなり14年も時間が飛んで、ヴィレのなかに---シンジたちよりも---若い世代が出てきていたりするという「飛び道具」的な展開にも、必然性があったのだと思える。)

●最初の10分くらいのクオリティの戦闘シーンが、本編にあと二回か三回くらいあってくれれば、話がぐだぐだでも納得するという気もする。

2019-07-07

●地元の七夕祭り。子供の頃に比べると、商店街はさびれてしまったし、普段シャッターが閉まっているところも多く、飾り物も昔よりかなりしょぼい感じになってしまった---毎年必ず話題になるような大がかりで力の入った飾りを出品することで有名だった商店の多くが、今では閉店してしまっている---けど、なぜか人手だけは相変わらずものすごくて、普段は閑散としている地元の、どこからこれだけの人が湧いて出てくるのかというくらい人があふれていた。人はやはり、人があつまるところにあつまるのだなあと思った。

 

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