2019-08-07

●お知らせ。noteに、『ものごころと蜘蛛の巣/「いかれころ」(三国美千子)論』をアップしました。初出は「新潮」20197月号です。

https://note.mu/furuyatoshihiro/n/n78236ee2ef8e

●引用、メモ。『新記号論(石田英敬東浩紀)より、石田英敬の発言。《笑うかしゃべるかは、そこで進化論的に分岐した別のふたつの活動なのです》。なるほど。

《答えは、ウマは笑わない、チンパンジーなら笑う、なのですが、これはなぜかというと、四肢の歩行運動と横隔膜筋の運動がずれたときに笑いが動物に生まれたからです。つまり、第一講義で述べた直立二足歩行への進化の問題と関係している。笑いは、直立二足歩行によって呼吸と運動が脱-分節化(脱臼)したときに発生するんですね。だから、ウマは笑わないんです。》

《さらに言うと、ヒトの場合、笑うかしゃべるかは、そこで進化論的に分岐した別のふたつの活動なのです。じじつ、ぼくたちは笑っているときしゃべれないし、しゃべるまえとかあととか合間に笑うわけです。》

《したがって笑いは言語の問題でも表象の問題でもない。だから、言語や表象を研究する大学院では、笑いの研究は残念ながらできないんだよ、とぼくが言うと同僚たちは凍りつく()。》

 

2019-08-04

●『待ち遠しい』(柴崎友香)を読んだ。面白いがとても難しい。これはもう一回読もう。以下、きわめて大雑把な印象のメモ。

『公園へ行かないか、火曜日に』も、三回くらいは読んだはずだけど、うまく感想が書けずにいる。

『待ち遠しい』は、現場レポートのような感触をもつ「公園へ…」とは違って、直接的な時事ネタのようなものは出てこないし、小説としてとても練られた「かたち」をもっている(大御所感さえ漂うように思う)。しかしそれでも、ここにはとても直接的に、なまなましく「現在」が反映されているように感じられた。

(ここで「現在」とは、まさに現在の日本や世界の具体的なありようのことだ。ここではあえて「現実」という言葉は避ける。)

『待ち遠しい』に出てくる三人の話の、つづきをもっと読みたいと感じる。たとえば、沙希の子供が小学生くらいになった時の三人(とその周辺)の関係がどうなっているのか、など。でも、仮にそれが書かれるとしたら、この小説に刻まれている「現在」から十年経った後の、十年後の「現在」が直接的に反映されている必要があるように思われる。つまり十年待って、その後に書かれるしかないのではないか。

おそらく『待ち遠しい』では、「現在」が直接描かれているというよりも、「現在」は作品の存立基盤として、つまり「図」としてというよりも「地」としてあり、そのような地としての「現在」に強く規定されているように思われる。なまなましい「現在」の反映とは、そのような意味でだ。

だからそれは、「現代」を描くというよりも、「現代」のなかで(「現代」という規定を強く意識したしたなかで)書く、ということではないか。

(勿論、以前の柴崎作品もまた、現在のなかで書かれているのだが、その現在の組成が変わっている、と言えるのではないか。たとえば『寝ても覚めても』の舞台はあくまで「現在」だか、ここで描かれているのは「現在」というよりもっと普遍的な何かだと思う。だが近作では、なんというのか、登場人物たち一人一人にとっての現在よりも、より大きな「現在」が彼女や彼らを包み込んでいいて、彼女や彼らは---必ずしも当人が意識しているわけではない---大きな「現在」に規定されている。だが、その大きな「現在」が直接描かれるのではなく、それは個々の登場人物たちそれぞれを、それぞれのやり方で規定・拘束するものとして書かれていて、しかしそれら個別の問題の共通する地として---それらを遠く共振させるものとして---それらのさらに背後にある、何かを強いる力としての「現在」がかすかにみえてくる感じ、というのか。)

ごく表面的なところに注目するならば、過去の柴崎作品にはあまり登場しないような人物---沙希のようなヤンキー---が出てきたり、今までの作品で割合と希薄だった、社会的拘束のなかの個、家族的拘束のなかの個、経済的拘束のなかの個、という側面が強めに出てきているし、立場の違いによる対立的な構図も強めに描かれるところがあるというような点に気が行く。そしてそれらは、それぞれ個別的な問題であり、個別の来歴からくるものだろう。

でもこれらは、それ自体が書かれることが目的であるというよりも、《「現在」という規定---図としてのではなく地としての---を強く意識したなかで書く》ということの結果として、出てきたものなのではないかと感じられる。

(地としての「現在」は刻々と変化してその流れの内部に書き手も語り手もいる。たとえば『寝ても覚めても』では、いきなり物語の時間が十年飛んでも問題はないが、『待ち遠しい』においては、十年後の物語が書かれるためには、地としての「現代」に十年分の変化があった上で、「そのなか」で書かれる必要がある、というように感じられる。)

 

2019-08-02

Huluで『カメラを止めるな!(上田慎一郎)を観た。面白くないことはなかったし、よく出来たものだとは思うけど、そんなにバズるほど面白いのかなあ、という感想。苦手な伏線回収系の映画だったということもあるが。

お金も技術も足りないという時は頭を使うしかない。しかし、「頭を使う」という時には往々にして、前半に伏線をたくさん散りばめておいて、後半にそれを意外な形で巧妙に回収して、精密なパズルを組み替えるようにして前半に見えていたものとは「別の絵」をつくって示すという形になりがちだと思う。だけど、その伏線の張り方と回収の仕方は、あくまでも映画内のルールに従っているから整合的であるように見えるだけではないか(というか、映画内のルールに従って整合性がつくられているだけではないか)、という疑問をもってしまうようなところに陥りがちであるようにも思われる。

『カメラを止めるな!』は、上のような意味で細かく練り込まれたプランをもつ映画だと思う。しっかりと「頭を使った映画」であるが、そのような「(パズルのような)頭の使い方」を見せられても、なるほどとは思うけど面白いとまでは思えない。

ただ、この映画は、伏線とその回収についての作り込まれたパズル的な整合性をその存立の基盤としてもってはいるが、表面的な感触というか、映画としての見かけは、それと相反する、熱意と勢いで強引に押し切っているような、ある意味バッドテイストであるような、熱さと粗さの印象をももっている。おそらくそれは、実際に資金が足りず、撮影に多くの困難が伴ったということと関係があるのだろうと推測する。そしてこの「熱さと粗さ」の印象が、パズル的な整合性「でしかない」というようなリアリティのなさを上手くひっくり返すように作用しているとは思う。

この映画は、前半、中盤、後半の三つに分けられるだろう。前半がネタ振りで、後半が伏線の回収、そして中盤が伏線回収のための準備作業(事情説明)という役割をもつ。一度目は悲劇として(映画を撮っている映画・前半)、二度目は喜劇として(「映画を撮っている映画」を撮っている映画・後半)なされる反復が、ネタ振りと伏線回収(ネタばらし)として機能する。

(よく練られているとはいえ、このような構成自体が新しいというわけではない。)

その、30分ワンカットで撮られている前半のネタ振り部分が、低予算映画特有の「熱さと粗さ」のテイスト(テクスチャー)を強く持っている。観客はまず、この映画を「このようなノリ」の映画なのだと判断し、そのようなものとして楽しもうとするが、後にそれがネタ振りであることが分かる。ただ、この映画における「ネタ振り」部分は、たんに「ネタ」として仕込まれたものではない。この映画自身が低予算映画であることによって、《低予算映画特有の「熱さと粗さ」のテイスト》は、ネタであるのと同時にリアルなものでもあるのだ。

(もう一つ、「熱さと粗さ」をともなった勢いを発生させているエンジンは、映画内映画が30分ワンカット---しかも生放送---という形でつくられるという設定から来る切迫性がある。しかしこの設定自体は恣意的であり、まさに映画内ルールでしかなく、必然的はものとは言えない。普通に設定に無理がある。)

まったく同じシナリオであっても、ある程度潤沢な資金と既成の映画産業のシステムの内部で映画が作られたとしたら、もっとしらじらしいものになってしまったのではないか。結果としてネタとして機能する《低予算映画特有の「熱さと粗さ」のテイスト》は、効果のためにそのように作られたものではなく、実際にそうだからそうである、というようなものなのだろうと思う。この映画自体が低予算のインデペンデント映画であることが、前半部分にネタ振りである以上のテクスチャーとリアリティを与え、それによって後半のネタばらしが、パズル的なつじつま合わせであることに収まらない「勢い」をもつものになった、のではないか。

ネタが、たんにネタとして仕込まれたものではなくリアルなものでもあること(逆に言えば、リアルなものがネタとして転用-転生されていること)。この映画から、一定のリアリティが感じられ、パズル的整合性ゲームの退屈さから逃れ得ている熱さを感じられるとすれば、そのためではないかと思った。