2019-09-20

U-NEXTで『利休』(勅使河原宏)を観た。なにをおもしろがればいいのかよくわからない映画だったが、茶室や、利休や秀吉の居住空間などの再現は、かなり精密にきっちりとやってあるように思われた(藤森照信の茶室学』を読んだばかりのにわか知識による判断だが)。建造物監修に 中村昌生という名前があった。

(中村昌生は、茶室や数寄屋建築の研究者、『藤森照信の茶室学』でも度々参照されていた。)

映画には、京都に行った時に高台寺で観た時雨庵(二階建ての茶室)も登場していた。実物はオープンエアーに建っていて、雨風でかなり痛んでいたのだが、その空間をよい条件で見られた。

美術工芸品なども実物が使用されているようで、とにかく豪華なつくりの映画ではあって、そういうものを観ていれば退屈はしない。映画が作られた89年の日本にはお金があったのだなあと思った。

 

2019-09-19

●茶室(茶室を研究すること、茶室から影響を受けること)は、戦前からの、あるいは明治以降の、「近代化」された日本のメジャーな建築家たちにおいては、軽くみられていた、あるいは敬遠されていた、という指摘も興味深い。茶室というものの不思議な位置。

●『藤森照信の茶室学』の巻末に収録されている、磯崎新との対談より。

藤森照信の発言。「妾」の建築としての茶室

《僕が茶室に興味を持った理由はいくつかあるんですが、一つは、磯崎さんの先生世代は一切茶室にふれなかったことなんです。丹下(健三)さんも前川(國男)さんも(アントニン・)レーモンドさんもそうです。だいたい丹下さんや前川さんから茶室を思い浮かべることすらできない。前川さんの茶室なんて見たくもないですし。板倉(準三)さんが一人茶室を作ってるんです。戦前に作った、等々力にある團伊能さんのお妾さんの家。あれは発表されたときはお妾さんの家ということは分からなかったんですが、お妾さんの家であれば茶室を作るのが戦前の社会を知る人ぞ知るルールです。戦前のお妾さんっていうのは花柳会界の人たちで、貧しい家の優秀な子女は花柳界に行くしかなくて、そこでいい旦那さんにつくというのがコースでした。京都の中村昌生先生が茶室の研究を始めるとき、妾の建物を研究するつもりかって、周りから批判された。井上章一さんに聞いたら、今でも京都では言われているって。

辰野金吾さんは茶室について何て言っているかというと、「あんなヤニっぽいもの」やっちゃいけない。ヤニっぽいって、辰野さんの故郷の唐津の方言で「女々しい」の意味です。だから辰野さんはやらなかったし、丹下さんもやらなかった。戦後復興という建設の時代をリードしたモダニストのレーモンド、前川、丹下はやってないんです。彼らは伝統を論ずるときに、絶対茶室に触れない。桂か伊勢、法隆寺系です。》

磯崎新の発言。反建築、あるいは盲腸としての茶室

《大江()さんは茶室研究の第一人者であるモダニスト堀口捨己を師にして、助手までやって、伝統的な日本建築の正統を見いだし、父親である大江新太郎の仕事を継いで、日本建築の現代化を模索されていたことが分かりました。建築の正統は堂・祠・居であって、能楽堂はこれに入るけど(国がパトロンになり得るわけです)、茶室は崩れていてここには含まれない、とはっきり言われています。堀口捨己を師と言いながら、その師の茶室にかかわる全仕事を否定しているのです。伊勢神宮で、神楽殿や美術館の設計はやっているけど、同じコンプレックスにある数寄屋や茶室は出掛けていない。区切りがはっきりしています。》

《ついでながら、堀口捨己は茶室について「非都市的なもの」を手掛かりにしています。僕はこの語り口を学んで「反建築」(カウンター・アーキテクチュア)を言うことにしました。(…)建築=都市=国家という等符号を付けた概念規定を近頃やっているのは、日本の近代になって、その主流がみずからを正統として位置づける枠組みを無意識に組み立ててきたためだろうと気づいたからです。この正統を正当化するやり方に茶室は入りません。》

《プランで歴史的にお茶室が発生する状態を見たら、これは書院造りのきちんとした端っこにちょこんと付いている盲腸ですよ。いらないものなんだけど、くっついているっていうのがお茶室じゃないか。そうするとその盲腸をどう扱うのか。》

《僕の盲腸はもう切られちゃったんだけど、漢方では切っちゃいけないって言いますね、あれは生体を維持する見えない役をしているんです。建築における茶室の作用のメタファーは盲腸っていうのはあるような気がしますね()。》

 

2019-09-18

(昨日からのつづき)「悟り」という概念は、「わたしが悟る」というのではないにしても、少なくとも「悟り」が「わたしにおいて」現れる、あるいは「わたしのところに」生じるのでなければならない。だから、悟りを願う者は、たったひとりのこのわたしとして、この世の無常と向き合う必要がある。禅宗の影響を受けた人たちが独居することを求め、そのための草庵を必要とし、あるいはそこまでいかなくても、一時ひとりになれる場所として(「市中の山居」として)邸内に草庵を必要としたということは納得できる。そこは、社会的、経済的、血縁的な諸関係を一時的にでも切断して、悟りを求める孤独な「わたし」として、単独的に世の無常と向き合うことを可能にするための場所であっただろう。だから、たとえそこに親しい誰かを招いたとしても、その親しさは社会的関係性とは異なる、個と個の関係としての親しさであることになるだろう。

このようなものとして成立していた草庵が、「一座建立」ではなくあくまで「一期一会」を主張した利休の茶室成立へと至る下地として必要であったということには説得力があるように思われる。だが、利休は「一人茶室」という方向へは行かなかった。

●以下、『藤森照信の茶室学』より引用。

(…)待庵の二畳は、主・客の二人を前提としていたが、どうしてもっと踏み込んで一人用にまで突き進まなかったのか。畳二枚であれば、一人で煮炊きし寝ることもできる。》

(…)同時代の丿貫は、米を炊いた鍋の底についたオコゲをかき落としてから湯を沸かして茶を点て、その一人茶ぶりに利休は引かれて、訪れている。先に、珠光のわび茶について、その先には岩の上で一人茶を飲む道があり得たと述べたが、丿貫はその境地に近づいていた。そもそも堺の茶室の手本になった西行や長明や兼好の草庵は、独居だった。》

《一人は個人を、二人は個人と個人の関係を、三人は社会関係を意味するとするなら、なぜ利休の茶室は、一人用の一畳台目でも三人用の三畳でもなく二畳なのか。その二人がなぜ自分と秀吉だったのか。利休のわび茶は秀吉を必要としていたのではないか。》

《発端はやはり信長の堺攻めだったにちがいない。利休の茶の拠りどころだった堺を力で押しつぶし、金で名物道具を買いあさった。》

《年譜を見ると、永禄一一年(一五六八)九月、信長が京に入り、一〇月、堺に失銭二万貫を課し、結局、翌年一月、堺は全面降伏しているが、一〇、一一、一二、一月の四ヶ月間に、堺ではさまざまな意見が出て、内訌が生まれ、策略が交わされたはずだが、四六歳の茶好きの納屋衆も態度を迫られたにちがいない。そしてこの冬、利休は逼塞したという。》

《信長の下に就くことを決めた堺と堺の茶界の大勢に抗し、隠居して一人茶の方向に進むかいっそ禅門に入るか、どっちの可能性も利休にはあった。にもかかわらず信長の茶頭の一人に上がったのは、心に期するところがあったにちがいない。でも、信長は、すでに述べたように茶の内容にも茶室にもまるで関心を示さなかった。》

《信長が倒れ、茶好きの秀吉が登場したとき、利休は勝負に出た。道具でも軸でもなく茶室を土俵に選んだのは、これもすでにふれたように安土城体験だったと思われる。》

《極小茶室は信長を相手にするときだけ作ったことが分かっている。山崎の待庵を皮切りに、秀吉が安土城に負けまいと築いた大坂城聚楽第に一つずつ作った。》

《もし極小茶室が中から外の庭を見ることのできるオープンな作りだったら、都の力と贅のただ中で鄙びた風光を楽しむ亭(あずまや)の一種と見なせるが、しかし極小茶室から外を眺めることはできない。茶室において障子は決して開けないし、もし開けても視線の高さをはずして作ってあるから外は見えない。》

《小さな入り口からもぐり込む閉じた空間は壺中天にちがいない。壺中天は、小さくともその中にこの世とは別のもう一つの宇宙がすっぽり入っている。壺中天としての極小茶室。》

《でも、普通イメージされる壺中天の別世界性とはちがう。ただ別世界を作りたいなら草庵茶室と共鳴する郊外の田園風景の中に作ればいいのに、どうしてわざわざ大坂城聚楽第でなければならなかったのか。》

《ゴムマリに小さな穴を開け、そこからズルズルと中を引き出すとまたマリに戻るが、しかし同じではなく、内と外が反転している。ゴム膜が反転することによって以前の外部がマリの内側に入り込んでいる。》

《この反転の空間的面白さを作品としてはじめて試みたのは赤瀬川原平で、一九六三年、「宇宙のカンヅメ」を発表した。》

《普通の壷中天ではなく、反転によって外側のすべてが中に封じ込まれた壷。この反転を可能にするのは、穴が小さいこと、中が閉じていること。そしてもう一つ、反転が意味を持つのは、外が真空状態ではなく物や力や富といった世俗があふれていること。》

《反転は、利休一人では外が真空状態と同じで意味を持たず、秀吉という物と力と富の所有者が小さな穴を通して入ってきてくれないと反転の秘儀は成立しない。入ってくれば、世俗の物と力と富が茶室という茅屋の内に封じ込められ、極小が極大を含み、極小の中に極大もまたあることになる。》

《反転現象は、待庵以前から堺のわび茶の領分では実現していた。都市の外の田園の中にもともとの草庵はあり、それを小さな庭を付けて都市の中枢部に持ち込んだのが紹鴎の四畳半の草庵茶室だった。》

《堺では、町の中に外の田園と草庵が反転して入り込み、利休の極小茶室では、大坂城聚楽第が、さらに秀吉という存在も反転して呑み込まれていた。》

 

2019-09-17

●引用、メモ。『藤森照信の茶室学』より。

禅宗の影響からくる「草庵」---俗を捨てて悟りを求める人が、都を離れて山里に“独居”するため建物---としてあったものが、トポロジカルなねじれによって、「堺」という商業都市の内側に(いわば「内にある外」として)再帰的に組み込まれる。町屋の裏庭に「市中の山居」としての(「内にある外」である)草庵が結ばれるようになる。外が内へと畳み込まれ、内が外へと開き出される。このようなトポロジー的ねじれ---反転---によって生まれた「市中の山居」としての草庵の成立が、(利休による)茶室という特異な空間が生まれるための下地としてあった、と。おもしろい。

《日本の建築の長い流れの中に短い安土桃山時代を置くと、まず信長により国籍不明の天守閣が突発的に出現したこと、次に秀吉の聚楽第で書院造りがピークに達したこと、そして利休の茶室が生まれたこと、この三つをもたらした時代といっていいだろう。》

(…)困惑の理由は利休の茶室で、どうして、和漢洋混在の天衝く建物と豪華絢爛の大建築と並んで、広さ畳二枚のような建物が登場するのか。利休は、社会的には信長と秀吉の茶頭として和漢洋混在と豪華絢爛の中心にいながら、なぜあのような美学を生み出したのか。》

《この時代は今から思うと不思議な時代で、内戦の最中なのに国際関係は充実し、中国、朝鮮、東南アジアとの貿易、交流に加え、地球の反対側からやってきた東回りのポルトガルと西回りのスペイン、さらにはイギリス、オランダなど西洋諸国と貿易し、人と文化の交流を果たす。内戦の最中なのに、国内経済はにわかに盛り上がり、それに国際貿易が加勢し、そうした富の力を背景に芸術と文化の領分も煮えたぎり、沸騰する。》

《やがて利休によって完成される草庵茶室の元をたどると、鎌倉時代の草庵に行きつく。都を離れ、草深い中に作る極小住宅のことを庵といい、中でも草を結んで建てたような貧相極まりないのを草庵と呼ぶ。草庵には“世捨て人”が独居した。力と財と名と色のこの世を捨て、出家し、仏教の僧として独居することが多かったのは、インドにはじまった仏教には伝統の神道などとちがい“悟り”の考え方があったからだ。》

禅宗鎌倉時代に日本に入り、草庵独居の思想と文化がはじまる。先駆者は西行北面の武士として朝廷に仕えた後、この世の無常を感じ、出家し、自分の得た境地を多く歌に詠んだ。「寂しさに耐えたる人のまたもあれな 庵並べむ冬の山里」。(…)この歌には二つの含意が隠されている。》

《一つは、最初から平気で一人で生きられるような人と庵を並べたいわけではない。多勢と共に生きることの楽しみと喜びを経験しながら、しかしそれを捨て、一人で生きる覚悟を得た者とならば庵を並べよう。もう一つも論理は変わらず、この世への欲望のもともと薄い人が欲望を捨てても悟りとはいえず、力、財、名、色からなるこの世界を欲望全開にして生きた者のみが、世を捨てて冬の山里の庵に入ると悟ることができる。》

《草庵での超俗とは、俗の世を存分に生きる力とその体験を前提としながら俗を抜けて別の場に移ることを意味する。(…)社会的に見れば、別の場とは俗の世の対極に位置し、俗の世を批判し相対化する作用を果たす。》

《利休の活動に先立つ頃、草庵は多く都の郊外に結ばれ、隠居した僧や文化人や裕福な町人などが独居していた。忘れてはならないのは、都との距離で、もちろん都のにぎわいは届かないものの、山の奥までは入り込まず、たとえば都の周辺の寺の裏山などの夜になると都の明かりが遠くに望まれるような距離を保っていた。対極としての緊張感が感じ取れるような距離。》

(…)どうして、中世初頭の京に源を発する草庵と茶の二つ流れは、中世から近世への端境に、ほかならぬ堺で合体したんだろう。》

《都の灯がほのかに見える辺りに立地していた世捨て人独居のための草庵は、やがて、都市の充実、過密化のなかで、都市の中心部に住まう裕福な商人が、自分の住まいの一画にも求めるようになる。人工物としての都市が、都市の中に草庵の“草”を求めた。具体的には、通りに面して軒を連ねる町屋の裏には必ず通風、採光、作業のための空き地が取られているが、その空き地に植物を植え石を並べて小さな庭を作り、庭の隅に草庵を結ぶ。一人になりたいときや親しい友人が訪れたときは、そこに入ってひとときを過ごす。(…)経済的にも文化的にも恵まれた「市中の隠」が営んだこうした庵のことを「市中の山居」とか「市井の山居」と呼んだ。》

《激しい都市化は、(堺が)商業都市だったことによる。京のような都は政治都市であり、庭付きの大きな宮殿とか政庁とか、大きな行列が通り国の威風を見せる大通りや広場などを不可欠とするが、逆に商業都市は、ヴェネチアアムステルダム、ニューヨーク、上海などの世界の国際貿易都市を思い浮かべれば分かるように、必要最低限の公共面積のほかはすべて店と倉庫と住まいに当てようする。いきおい、過密化は避けられない。》

《富と建築のギュウ詰め状態が、それまでの草庵にはなかった市中の山居をもたらしたのだった。》

《海外の国際貿易都市でも自然を求める気持ちは強く、そこここに緑が取り込まれているが、市中の山居はそれとはちがう。緑と一緒に草庵が持ち込まれたことに注目してほしい。緑だけなら通風と日照のためのただの裏庭にすぎないが、草庵の投入によって、その一画は通りに面した母屋同様、小なりといえ一軒の家が入ったことになり、ただの小さな裏庭が、本来の草庵の周りに広がるはずの森や緑や水といった屋外の自然と通底することになる。都市の外に広がる大きな自然が、草庵を一つの穴として市中へなだれ込む。》

 

2019-09-16

RYOZAN PARK巣鴨樫村晴香単独トークイベント。現場ではいっさいメモをとらずにひたすら聞いていたので、以下は、記憶を頼りに、ぼくの解釈を交えて書いたもの(正確な、ちゃんとした記録は、おそらくそのうち発表されるでしょう)

●一番偉い哲学者というのは存在しない、ということが言われた。人によって、土地によって様々なやり方で考えられ、そのどれもが強い部分もあり、弱い部分もある。微積分的に考える哲学者もいるし、トポロジカルに考える哲学者もいる。それらを「一番偉い哲学者」として統合することはできない。

●樫村さんの話は、常に具体的な情景、あるいは場面と結びついているように思われる。それは、樫村さん自身によってこの世界のどこかで経験された情景であったり、誰かの著作物や作品のなかにあらわれる場面であったりする。

この場合、具体的な情景(場面)とは何か。まず、とても強い印象を人に与える場面があり、その描写がある。その印象的な描写は、連続的に、そのような情景にかんする(非常に精密で高い解像度を感じさせる)分析・分節へと移行していく。その分析・分節は、その情景にかんする分節化でありながら、抽象度を増していくことで、その限定を越えて、この世界、この宇宙がどのようにあるのかという、そのあり方を示すものとなっていく。しかしここで、具体的な情景が世界を説明するモデルとなるのではなく、情景についての分節化がそのままこの宇宙についての分析と重なってしまうというように、「具体的情景の分節」と「この宇宙への問い」との間にフラクタル的な関係が成り立つような形になっている。

ある特定の情景への分節が、そのまま「この宇宙はどうなっているのか」という問いとフラクタル的に重ね合わされ、情景の描写がそのまま「この宇宙とは何か」という問いとなる。そして、この二つ(描写と分節、情景と世界)がぴったりと重なった時、一つの大きな反転が起こる。「この宇宙とは何か」「この世界はどうなっているのか」という問いが、それを「問うている何か」「何かを問うということそのもの」への問いへと逆流する。「そもそもそれを問うているものはなになのか」「それを問う者とは何なのか」「それを問うものとして発生しているこのこれ---わたし---とは何か」という形で、問いが発生している場所としての「わたし」の方へと、「この情景の印象の強さ」と「世界への問いの重さ」としてあった力と強さが、「問うことへの問い」として、そのまま「わたし」の方へとのしかかってくる。その強烈な逆流による圧迫が起こる場こそが「人間」という「存在」が生じている場所ではないか。

(世界の説明からオントロジーへの反転。)

この反転によって生起する気持ち悪さ、いやな感じ、あるいは恐怖。樫村さんはおそらくこの感じを、ニーチェにおいて繰り返しあらわれる「悪魔」や、月の光や蜘蛛の巣とともにやってくる永劫回帰への認識(繰り返し何度もやってくるものを、何度も忘れ、何度も思い出す)に近いものとして捉えているのではないか。

チュニジアの海岸で海を見ている。フランスやギリシアから海を見ていると、太陽が海の方向にあるので、風景は強烈な色彩としてやってくる。しかし、アフリカの側から海を見ていると、太陽は背後にあって海に射しているので、海は光というより波のさざめきでとしてあり、波動としてはっきりと見えてくる。海水は透明で、海の底の地形も見える。それらが明確に見えるので、海をずっと見ていると、次の波がどのような形を描き、砂浜のどこまで届くのかを正確に予測できるようになってくる。

波は予測した通りにやってきて、予測した通りの形を描き、予測した通りに引いていく。この状態をしばらく経験していると、現在の状態は過去の状態によって完全に決まっており、未来の状態もまた、現在の状態によって完全に決まっているという、「ラプラスの魔」のような決定論が強く想起される。想起されるというか、そのような世界のなかにあることが強く(逃れようもなく)実感される、ということだろう。そしてさらに、その「すべてが決定されている(決定されているすべて)」の中に、今、それを見ている自分も含まれているということが認識される。認識というか、今見ている風景が---ほかのようにではなく---そのようにしか見えないのと同じくらいの確実さで、そのような実感が強要される、という感じではないか。

「あらかじめすべてが決まっている」この宇宙のなかに、「すべてが決まっている」という強烈な実感をもってしまう自分が含まれている。あらかじめすべてが決まっている以上、この実感は強いられたものであり、逃れようもないが、しかしそのような実感が生まれてしまうことの奇妙さ、そのような実感「として」存在してしまっていることの不可解や腑に落ちなさ、そしてそのような実感が---とこかから?風景から?---やってきてしまうことに対する「いやな感じ」。

この「いやな感じ」こそが、ニーチェ永劫回帰に通じるものであり、また、「~とは何か」という問いを立ててしまう(問いを立てざるをえない)存在として、「問うことの元基」としてある人間という奇妙な存在の怪異を感じるほかないのではないか。

(この話を聞きながら、樫村さんの楳図かずお論のとこを想起した。というか、この話を聞いて、楳図論というのはそういうことだったのかと納得できた気がした。)

●この話と、ラカンの海に浮かんだ鰯缶の輝きの話(「見えているもの」そのものが防衛である)や、「オイディプス王」の話(「真理」は目からではなく耳からやってくる)は、やや次元を異にしていると思われる。これらは、存在の元基としての永劫回帰の次元よりは、既に幾分か人間が「人」の形へと構成され、世界が「世界」として構成された---あるいは、されつつある---次元の出来事であるように思われる。

(ラカンと「オイディプス」については、もっとじっくりと詳細な話をしてもらえると大変にうれしい、という願いをもっています。)

ブッダアングリマーラアングリマーラ99人もの人を殺し、その99本の指をつなげて首にかけていたような人物。ブッダアングリマーラに会いに行く。アングリマーラブッダを殺そうとするが、ブッダはゆっくりと身をかわすだけなのに、アングリマーラは決してブッダに追いつくことができない。二人の時間が異なっている。

アングリマーラブッダの弟子となる。ブッダアングリマーラに、重篤な病人に向かって、「私は、この世のどのような悪にも染まっていない、その徳によってあなたは救われるだろう」と言うように命じた、と。

現在の日本の知的な環境では(というか、たんにぼくの興味の範囲では、ということか)、仏教について考えようとする時、参照するのは龍樹であり「華厳経」であることが多いように思われるが、樫村さんは、もっと初期の、ブッダの仏教がおもしろいと言っていた。

●『饗宴』のアガトンについて。アガトンは、美しく、穏やかで、博識で聡明であるが、欲望がない。あるいは、「問うことの元基」としての「いやな感じ」をもたないだろう。樫村さんは、人工知能をそのようなものとして捉えているようだ。そして、将来はそのような---アガトンのような---存在によってあらゆることがらは解析され、実行されるだろう、と。ただ、この部分については時間が押しており、駆け足に語られたもので(ぼくは『饗宴』を読んでいないということもあり)、細かいニュアンスまでは読みとれなかった。

(復習として『饗宴』は読まないと……)

 

2019-09-15

NHKのドラマ(といっても、ぼくはU-NEXTの配信で観ていたのだが)『だから私は推しました』を、最後まで観た。

いわゆる「地下アイドル」を題材としたドラマで(オタク気質というわけではない普通のOLが、ちょっとした偶然から地下アイドルにハマってしまう話)、ドラマとしてすばらしく面白いというほどではないのだけど、細かいところまで丁寧に取材が行き届いていて、そのレベルでとても感心させられてしまった。

紋切り型、無知からの思い込み、偏見といったものが、それらをかわすようにして丁寧に避けられて、作られている。普通のOLが主人公であり、オタク向けにつくられているドラマではない(基本的に、地下アイドルになど興味がないであろう視聴者に向けたつくりになっている)のだが、おそらく、けっこうディープなオタクが観ても、それほど違和感はないのではないか。

(ぼくはネットの情報しか知らない「にわか」で、地下アイドルにそんなに詳しいわけではないので、深いオタクの人に意見を聞いてみたいのだが。)

それだけと言えばそれだけのことなのだが、的確な取材に基づく思い込みや偏見の解除というのは、それだけでとても重要なことなのではないかと思う。地下アイドルという文化にかんする偏見を避けて通りながら、決して、それを手放しに肯定しているというわけでもなく、危ういところは危ういものとして描いているところも、バランスがとれていると思う。

(アイドルだってオタクだって、別に普通の人だよね、というスタンスでつくられている。)

地上波のドラマなので、そこまで深い掘り下げがあるということではないし、きれいな絵や話にしすぎていると思うところもないではない---必ずしもリアリズムではない---が、無駄な偏見をあおるような紋切り型を安易に使わないということを徹底する、というところは実現されていると思う。

(たとえばNetflixで配信されている「TOKYO IDOLS」というドキュメンタリーはその逆で、ドキュメンタリーでありながら、制作者たちがあらかじめ持っている思い込みのようなイメージが、取材対象にそのまま押しつけられている---あらかじめ持っているイメージに沿ったところだけを適当に切り取っている---としか思えない、雑につくられた作品だと思う。「文化人」たちによって添えられたコメントもけっこう恥ずかしい。)

テレビ(地上波で放送されるテレビドラマ)という環境のなかで製作されたことを考えれば、これはかなり大したことなのではないかと思う。現代の日本でも、時代は確実に進歩していると思えるところも、多少はあると思えると、うれしい。