2019-10-12

●台風の予想進路をみると、住んでいるところにぴったりと直撃なので、危機感をもっていた(実際には、少しズレたが)。

そうはいっても、さしあたって出来ることは何もないし、本を読むなりなんなり有意義なことをしていればいいのだが、結局は、台風が通過して辺りが少し静かになるまで、パソコンの前にずっと貼り付いて台風の情報をチェックしてしまう。

(それが可能だったということは、自分の居る場所では停電もなく、特に被害がなかったということだが。)

川の近くに住んでいる。気象庁のホームページで、その川の水位を十分単位でチェックできるのだが---はん濫危険水位を越えると赤くなる---数字の推移を切迫感をもって見守っていた。数字は、台風が通過した後もしばらくじわじわ増加して嫌な感じだった。

2019-10-10

●お知らせ。1012日から、聖蹟桜ヶ丘のキノコヤではじまる井上実展に寄せてテキストを書きました。タイトルは、「月や空が大きいのでもなく、草の露が小さいのでもない 井上実の絵画」です。

井上実展@キノコヤ

https://www.facebook.com/events/570210896849472/

 

 

月や空が大きいのでもなく、草の露が小さいのでもない 井上実の絵画

古谷利裕

 

《魚が水を行くとき、いくら泳いでも水に果てしがなく、鳥が空をとぶとき、いくらとんでも空に限りがない。しかしながら、魚も鳥も、いまだかつて水や空を離れたことがない。働きが大きいときは、使い方も大きいし、働きが小さいときは、使い方も小さい。》

《それにもかかわらず、水を究め、空を究めてのちに、水や空を行こうとする鳥・魚があるとしたら、水にも空にも、道を得ることも所を得ることもできない。そうではなく、この所を得れば、また、その道を得れば、この日常現実がそのまま永遠の真実となる。この道、この所というのは、大でもなく、小でもなく、自分でもなく、他のものでもなく、初めよりあるのでもなく、いま現れるのでもないから、まさにそのようにあるのである。》

(道元正法眼蔵』「現成公案」現代語訳・玉城康四郎)

 

何もない無限定な広がりに、何か動くものが横切る。その時はじめて、広がりは「空」となり、動くものは「鳥」となる。鳥という形()が生じ、それ以外の部分が空となり、地として後退する。空がまずあってそのなかに鳥がいるのではなく、動くもの、形としての鳥が生まれることで、同時に空も生まれる。その意味で、鳥()とは、表現された空()の一つの側面であると言える。

現代のアートにおいて「美」というものが軽んじられていることを不当だと感じる。美は一種の予定調和であり、美に回収されない余剰としての、崇高、外部、他者、政治、権力、コンフリクト、プロセス、等々にこそリアルがある、と。だが、もはやこのような論理のあり方こそ紋切り型ではないか。

たとえば、図と地というものを考える時、地は図の外部なのではない。図は、地の一部であり、地の一つの側面を表現するものだ。図と地の関係によって一つの形態=美が生まれる。そこで、図によって地のすべてを汲み尽くすことはできないとしても、(把握できる)図によってこそ(その背後に広がる)地のもつ潜在性の一部が表現される。目に見える形があり、その形に把捉されない残余・外部として地(リアル)があるのではなく、地が図を含んでいるように、図もまた地を含んでいる。つまり、図と地は相互包摂的であり、図は底が抜けている(図自身が汲み尽くせない深さをもつ)。そのような、地を含んだ(底の抜けた)図=形態こそが、美であり、リアルなのではないか。

エリー・デューリングは、そのように潜在性として地を含んだ図を「プロトタイプ」と呼ぶ。また道元は次のように表現する。《人が悟りを得るのは、たとえていえば、水に月がやどるようなものである。月もぬれず、水もやぶれない。悟りも月も、広く大きな光ではあるが、小さな器の水にもやどる。月全体も大空も、草の露にもかげをおとし、一滴の水にもうつる。》(同前)

ただし、この部分だけを引くと道元の表現はやや静態的にみえるかもしれない。潜在的な地から現れた顕在的な図は、その現れの具体性によって、地のありよう揺るがせもするはずだ。ここでは、部分と全体という関係は仮のものでしかなく相対的だ。つまり、《この道、この所というのは、大でもなく、小でもな》い。(草の露に内包されるので)月や空が大きいのでもなく、(月や空を内包するので)草の露が小さいのでもない。図と地の関係を互いに互いを含み合う相互包摂的なものとして捉える、このような世界のフラクタル的な様相こそが、井上が絵画によって実現しているものだと考える。

 

井上の絵画は多くの場合、見下ろされた状態として描かれている。絵画は垂直に壁にかけられているので、観者は、通常なら地面を見下ろすことで得られる像と、水平方向への視線で対面することになる。眼前にあるのは壁()なのか地面()なのか。ここで、重力と身振りに関する混乱が生じるだろう。

また、描かれた像としては、幾重にも複雑に折り重なる植物であるのに、塗られた絵の具は層構造を作らない。筆触はほとんど重なることなく並列的に置かれ、多くの部分に空隙(キャンバスの地の白)がみられる。まるで深い密林であるかのように、みっしりと、濃厚に折り重ねられた多層構造をもつ過剰なイメージが、しばしばブランクを挟み、並列的に置かれるあっさりした薄塗りの絵の具と白地のほぼ二層の構造によって構築されている。

見下ろす構図で描かれているため、図像的には画面の一番奥にあるのは土であり、黒に近い茶色が置かれる。つまり画面の一番奥が一番暗い。しかし、絵画の構造(絵の具の層)としては、一番奥にあるのはキャンバスの白であり、奥が一番明るい。薄塗りであるため絵の具の背後の白は常に意識されるし、それは筆触と筆触の隙間からチラチラ覗いてもいる。ここにも像と構造との乖離がある。

月や空が大きいのでもなく、草の露が小さいのでもない。井上の絵画によって引き起こされる目眩のような感覚の理由の一つに、そのような「底の抜けたスケール感」があると言える。それは、前述したような、重力と身振りの混乱、二重の意味での像と構造との乖離とその共存などから生じていると思われる。大きなキャンバスに描かれた片隅の雑草。それはしかし、決して拡大された細密描写ではない。それ自体として大きくもなく、小さくもなく、それは《まさにそのようにあるのである》。

大きくもなく小さくもない絵画を前にして、私たちは自身の身体のサイズの具体性を見失い、大と小が、地と図が、互いに互いを包み合う感覚を得るはずだ。そのような経験=美の質こそが存在のリアルに触れていると信じる

 

2019-10-09

●お知らせ。VECTIONによる「弱いアナーキズム」三部作が公開されました。基本的には西川アサキさんが書いた草稿を、四人による共同編集で仕上げました。以下、「本文への誘い」的な抜粋。

https://vection.world/

●①「日本人の不毛な働き方を激変させる?「同時編集」を私が薦める理由」より。

《筆者はここ数年、現状にパッチを当てるのではなく、全然違う社会制度を色々と妄想する集団(Vection https://vection.world/)を作り、週末ネット上で集まっては議論しています。いわば「俺らの考える理想の地球連邦政府」を設計する遊びです。

が、筆者にとっては投票に行く以上に真面目な政治活動でもあります。》

●②「政府は何%までクラウドファンディングだけで運営できるのか?」より

●政府のクラウドファンディング

100クラウドファンディング化政府は「(1)どうしても減らせない仕事」に属する社会的に必要な仕事を「どこまで」維持できるのでしょう?》

《ここでわざわざ「どこまで」と書いているのは、「できる・できない」のふた通りではなく、恐らくどれくらいできるのか?という比率が最も重要な問題だという点を強調しておきたいからです。》

《もともと「政府」というのは、そもそも市場では解決しにくいサービス(予算がつきにくい、社会的・長期的には必要だが個人的・利己的には不要なタイプの企画)を提供するのが目的で生じたという建前です。ですから、そうした事柄については、やはりエリートや選ばれた人々が、無私の精神で公のために尽くすことを期待すべきではないでしょうか?》

《そのような事業をここでは「市場の外部」と呼んでおきましょう。クラウドファンディングも市場(人気)による決定の一つですから、その外側ぐらいの意味です。》

《そもそも「「選ばれた人」は市場の外部を「集団」よりもうまく決められる」という前提はどの程度正しいのでしょうか? 》

《とても賢い個人(もしくは少数者)と、集団のどちらが、どういう局面なら「より賢い=市場の外部、長期的に必要なこと」を見つける力を持つのでしょう?》

《たとえば、明らかな国力差が調査で判明していたにもかかわらず日米開戦を防げず、戦争中も補給不足で兵士を無駄死にさせた「選ばれた人」には、少なくともその局面では「長期的視野で市場の外部を選択する能力」が欠けていたような気もします。》

《では、うまい具合に市場の外部を仕分けつつ、クラウドファンディング化の比率や予算配分を見つける仕組みはあるのでしょうか?》

●③「ミラーバジェットから弱いアナーキズムへ」より。

●ミラーバジェット

《「ミラーワールド」というのは、いわば拡大された『ポケモンGO』みたいなもので、世界に実際に存在するありとあらゆるオブジェクトの「ネット版=ミラーワールド」を作り、それを皆で共有して、色々役に立てようという構想です。》

《一方、「ミラーバジェット」は、いわばそれの「国家予算」版のようなものです。ミラーバジェット制度では、国民は「(選挙など)散発的なイベントごとの投票権」の代わりに、一人一人が「ミラーバジェット専用の暗号通貨100兆円分」を与えられます。日本を例にすると、最初から一億二千万人分の暗号通貨ウォレットがあり、国民それぞれのデジタルウォレットに「(日本の国家予算のうち一般会計分である約)100兆円」分の暗号通貨が入っているわけです。これを「ミラーバジェット」と呼びましょう。》

《そして、そのミラーバジェットを、どのような政府企画に投資するのか、各個人が勝手に決めます。その値はブロックチェーンを通じて自動集計され続け、ある時刻での「政府予算」が連続的に決定されていきます。それによって、予算の決定権を誰も持たず、しかも間に人が入らないで自動的に予算案が決まっていくのがポイントです。》

《もちろん、ミラーバジェットは、「ミラー」なので、現実の予算配分とは別物です。》

《現行の選挙制度で議員を選出した場合、その議員を通じた有権者の意思決定は、多くのケースで、最終的に「どの企画にどれくらい予算を投じるか?」という形へ落とし込まれます。だとすると、選挙というのは「議員を選ぶというインターフェース」を使った「特殊な(国民による)予算作成」です。》

《そう考えると、ミラーバジェットは、暗号通貨やウォレットという点からアイデアを得ていますが、お金というより、「投票用紙」がバージョンアップした、「ストリーミング予算投票」みたいなものだといえます。》

●弱いアナーキズム

《同時編集やミラーバジェットが、暴力革命、業界団体による圧力、議員を国会へ送ることを通じた民意の反映、といった古典的方法論に比べてどれくらい優位なのかは正直まだ分かりません。しかし、それがブロックチェーンAI、同時編集など、様々な技術基盤がないと、そもそも構想すらできなかった(技術的基盤によって新たに可能になった)「まだ試されていない大きな物語」の一つであることは確かでしょう。》

《「政府のクラウドファンディング化」や「ミラーバジェット」は恐らくアナーキズムの子孫です。そこで目指されているのは、やはり本来、民衆のためにある制度が、自己目的化して人々を圧するものとして振る舞うのを防ぐことですし、そこに現れるのは、やはり一種の限定的な「無政府」だからです。》

《ただし、「政府のクラウドファンディング化」にはアナーキズムのような「迫力」「自由のために死ね」と迫るような気合いはありません。ただ、GoogleDocsで文書を同時編集してみたら、と言ってみるだけ、その延長線上にあるものです。》

 

2019-10-08

●あまり期待することなく、なんとなく『昭和歌謡大全集(篠原哲雄)U-NEXTで観てみたのだが、はじめから低い期待の、さらに下をいく面白くなさだったが、「ああ、これは駄目だなあ」と思いながら(こんなところでご都合主義的に市川実和子原田芳雄のキャラに頼るなんてあまりに安易だろ…、とか、頭のなかでいろいろツッコミをいれながら)、なんとなく観ていた。しかし次第に、この話は、題材を真面目に受け止め、それをがっつり論理的に詰めていくようなタイプの作家が(一から書き換えるようにして)映画にし直したら、かなり面白くもなり得る「種」のようなものはあるのではないかと思うようになった。

(イメージとしては、万田邦敏濱口竜介、あるいは、アルノー・デプレシャン、などが思い浮かんだ。)

この話の主題は、社会的に恵まれた地位を得ながら、その地位や社会に疲弊しているような中年の女性たちと、そもそもの社会に位置をもてない若い男性たちとの間にある、根本的な相容れなさというか、世界のなかでの「位置づけの違い(関係性)」による相互無理解の絶対性のようなものだろう。その両者の闘争の様を、どちらにも傾くことなく、観ていて胃がキリキリと締めつけられるように、執拗に(逃げ道を一つ一つ断っていくように)ロジカルにゴリゴリと詰めていくように展開する映画として構築されれば、観るのには気が重いが、観たら観たで、ずっしりと重たく説得されざるをえないというような作品になり得るのではないか、と。

(でも、この考えそのものが、そもそも、あまりに映画が面白くないので、集中できずに「なんとなく」観ながら、その程度の頭のテンションのまま、「なんとなく」思い浮かべていた程度の安易な考えに過ぎないのだが。)

 

 

2019-10-07

YouTubeに、筒井康隆の有名な短編小説を原作とした「熊の木本線」というドラマがアップされていて(石田純一主演の、かなり古いドラマだ)、ぼくは原作を読んでいないので、どんな話なのだろうと思って観てみた。奇妙な話というよりも、文学というものの典型のような話だと思った。

「真理」というものが信じられ、しかし真理は、真理であるからこそ忌避されている。そのような信仰を共有した集団がある。そこに、外から、その信仰とは無縁の、無知の者がやってきて、無知であるが故に(それとは知らずに)まったく偶然に、「真理」を口にしてしまう。「真理」は思わぬ回路からの事故としてやってくる。偶然にも口にされてしまった「真理」によって、その集団はいわば存在論的に凍りつく。

《ぼくが真実を口にすると ほとんど世界を凍らせるだらうという妄想によって ぼくは廃人であるさうだ》。ただこの話では、視点は、災厄として「真理」を受け取る集団にではなく、「無知の者」の側にある。観客も主人公ももはや「真理」など信じてはいなくて、「真理」を信仰する人たちは、忘れ去られ、閉ざされた、過去の側に存在する。だから本当ならば、それを口にしてしまったとしても、その人にとっては「真理」など意味がないはずだ。

しかしそうではなく、この物語は、一度は忘れた(抑圧した)はずの「真理」が、それを偶然に口にしてしまうという形で回帰してくるという話だと言える。つまり、偶然口にしたのではなく、本当は「真理」があることを知っていた。今でも「真理」を信仰しているが、それは抑圧されている。無知の者は本当は無知ではなく、だから、「真理」が口から出ることによって脅かされるのは、信仰を共有する集団ではなく、それを忘れたはずなのに口にしてしまった者の方なのだ。

この話にあるのは、そのような、ちょっとベタすぎるような精神分析的構造だろう。

(「真理」に意味はない。ただの呪文であり、それを口にした者には真理の意味は分からない。ただ「真理がある」という事実が「真理」として返ってくる。)

これでは単純すぎるというか、ベタすぎるように感じるのだが、しかしそれでも、このような構造があると、その物語には一定の力があるように感じられるというのが面白い。