2019-10-21

●『ラブホテル』(相米慎二)。ここ十年かそれ以上、ずっと観直してみたいと思っていたのだが、レンタル店などではソフトが見つからなかった。それがU-NEXTのラインナップにあったので観た。

相米だからかっこいい映画には違いないのだけど、正直、これで一体何がやりたかったのだろうかという疑問は残った。出典の示せない、うろ覚えの不確かな記憶なのだが、たしか何かのインタビューで、ロマンポルノを撮ると決まってから、日活へ通って多量の脚本のストックを読み返して、そのなかで石井隆による「名美と村木」モノに改めて興味を持ったとかいうことを、昔、相米が語っていたのを読んだように思う。

石井隆による「名美と村木」モノとは一般に、男女が、様々な意味で「間違った出会い方」をし、その、最初の時点の間違いを取り戻すように再度「出会い直し」を画策しようとする、という展開を基本線としたヴァリエーションとして物語が組み立てられるシリーズで(物語の基本線と登場人物の名は共通するが、人物の設定や年齢などは各作品でバラバラである)、全体として強く感傷的であるように思える。

「名美と村木」モノにおける、物語の構造から湧出してくる感傷---取り戻せない何かを、そうと知りつつ取り戻そうとする感傷---と、相米の映画における、映画としての躍動のなかから唐突に、にじみ出たり、吹き出したりしてくるエモーションとは、どちらも「感傷的」なものであるとしても、基本的に異質なものであるように思われ、この映画では結果としてその両者が相殺されてしまっている感じがあるように思われた。相米の演出が物語の構造や人物の心理に気を遣いすぎて抑えられているようにもみえ、一方、その演出は、物語が要請する感傷の細かい襞のようなものに届くということろまではいっていない、という感じ。

(特に、名美という人物を、ドラマや心理の描写を通じて成り立たせようとしているのか、映画としての身体の運動や存在感として成り立たせようとしているのか、どっちつかずになってしまっている感じはした。)

ただ、とはいっても、映画としてかっこいいシーンはいくつもあって、そのたび、おおっと思って身を乗り出す。夜と昼とで二度繰り返される横浜の埠頭の場面。夜の場面では暗いので、ある種抽象的な空間としてあった埠頭が、昼間の場面で繰り返される時にはその空間が「どうなっているのか」がはっきり見えるので、こんな危険な空間で、俳優たちにこんな危険な動きをさせていたのか、と驚いてしまう(ちょっとバランスを崩すだけで海に落ちてしまいそう)。それによって映画的な空間のスリリングさが増す。

(そして、この二度目の埠頭の場面によって、名美の村木に対する態度---感情---が大きく動く。)

ラストの場面は鳥肌が立つほど素晴らしかった。おそらく十数年ぶりに観直したのだが、ラストの場面がどんな感じであったのかは憶えていた。しかしそれでも、また改めて、はじめて観たかのように驚くくらいすばらしい場面だった。

 

2019-10-20

●『1R134秒』(町屋良平)。難しい小説だと思った。つかみどころのない文章で、どう読んだらよいのだろうと探り探り読み進めるのだけど、とうとう最後まで、「こんな感じかなあ」というような読み方の呼吸を掴めないままだった。

それで、これはもう一度最初から読み直そうと思って、そして、今度は気になった部分を書き写しながら読んでみようと思った。結果として、書き出しから最初の14ページ目くらいまでは、八割くらいを書き写すことになった。でも、そのおかげで、なんとか「入り口」はくぐれた感じはあった。

(一回目を読み終えてすぐに、二回目を読み出したのにもかかわらず、二回目を読みながら、お話の内容をほぼ憶えていないということに、我ながら驚いた。それくらい「読み方」をつかめてなかったのだろう。)

その後も、気になったりひっかかったりした部分を書き写しながら読みすすめていくと、しだいに「読める」感じにはなってきて、中盤以降、書き写す部分は徐々に減っていった。しかしまた、ラストの8ページは、ほぼ全部書き写すことになった。

で、これはちょっとすごい小説なのではないかと思った。お話そのものはありふれていると言ってもいいと思うのだけど、こんなことが書かれている小説は他にあまりないのではないか。その「こんなこと」が具体的に(あるいは比喩的にでも)どんなことなのか、現時点でうまくつかめてはいないのだけど。

●たとえば次のような部分。

主人公は、デビュー戦で勝利した後、二敗一分けという成績で臨んだ四戦目に負けたばかりのプロボクサー。引用に出てくる主人公の友人は映画をつくっていて、いつもiPhoneで主人公を撮影している(「青志くん」とは主人公が四戦目に負けた相手)。ウメキチは、現役のボクサーでありながら、主人公の次の試合に限ってトレーナーを買って出ている男。

(この二つの引用部分は、身体---の動き---のなかから、記憶と、記憶の合成によって生まれる新たな何か、が、ふっと浮き上がってくる瞬間が、とても高い精度で描かれていると思う。)

 

「映像を撮っているとき、撮った映像をみているとき、その両者をながれる時間、その関係性においてだけ、おもいだせることがある。おれもおれをおもいだせてない。なんで映画を撮りはじめたのか? でも、ときどき、いつでもきもちが澄みわたれば、おもいだせるんだぜって自信はあるんだ。なあ、ちょっとシャドウをしてくんない?

ぼくは、いわれたとおりにした。帰路もトンネルにさしかかる。赤い街灯に照らされて、「みせる」用のわかりやすいシャドウをする。こんなシャドウをしていてはだめだ。アップにも練習にもならない。三分保たない。だけど、いつも気づいたらこんなシャドウをしている。いつしか相手がいた。青志くんだった。おもいだした。こないだの試合。一ラウンド。いまなら動ける。いまなら勝てる。シャドウというよりいわくいいがたい、ボクシングの動きになった。それはウメキチに教わった技術だ。ぼくは青志くんを追い詰めた。

さいごのパンチは打てなかった。だって、現実には勝てていない。虚妄のなかで再戦して、勝ってしまえたところで、なんになる? ぼくははたと動き止めた。友だちもなにもいわず、iPhoneをしまい、「そろそろおれもなんか作品にまとめよっかな」といった。ぼくは心がじくじく痛い。昂っただけムダだ。人生をいき急いで、墜落したい、そんな欲動がものすごくムダだ。幻想にすぎない、つきあってられない。みんな夢をみる。他人のボクシング像に、幻想に、つきあっていられないんだよ。

 

ある日、シャドウをしているとめずらしくウメキチがそばにいて、いつもは声をかけられることもないのだが、「おまえ、ショートアッパー打ちたいの?」といわれた。

ボンヤリ動いていて気がついていなかったが、そのことばでぼくははたと心至った。ぼくは自分が青志くんに倒されたパンチをたびたび追い求めていた。ビデオでみたあわれな自分の姿がよみがえる。ぼくのほうからくっついた状態で、限りなく細く斜めの軸でかちあげるアッパー。右拳を頬下につけた状態から、腰の回転だけで垂直にちかい斜線を結ぶ、回転力と相手の体重が乗算される、パワーの丁度噛み合った地点にぼくの顎があった。利いた。マウスピースがなかったら、脳がこわれていたかもしれない。そういえば、バイトをやめてからだいぶ頭痛は治まった。

「右拳で相手の右の顔の輪郭を擦るような感覚か?

ウメキチのことばは、疑問形ながらぼくのからだにちょっとしたワンダーをもたらした。おもわず許可もえないまま、ウメキチの顔面にアッパーを、ゆっくり入れる。

「ウン。右の軌道がカーブして、肩を、そうだなあ、噛ます? 肩を舐めるようなつもりで? 自分の舌で。べろっと」

もう一回。たしかに意識のうえでは弧をえがく軌道を意識したほうが、現実にはまっすぐの線が結べる。肩を舐める(つもり)

「うーん。肩はやりすぎかな?

ウメキチ自身も、自分でアッパーを動く。鏡にむかって。二三度打ったあと、ぼくにむかいゆっくりアッパーをくりだした。さっきぼくがしたように、わざと相手の顔面右側にずらす。

ぼくは戦慄した。それは青志くんにもらったアッパーを想起させた。似ているという感覚ではない。まったく同じものだ。どばっとなんかの脳内物質がでた。倒されたときに吹き飛ばされた記憶が、試合後三週を経ていま、まさに戻った。あの無念。無常。

 

●そして、記憶とその想起の反復は、必然的な「たら・れば」的な並行世界をたちあげる。

 

ぼくはしっている。つぎの相手がきまるまで、この試合の日の記憶と、いまビデオをみていた真夜中の記憶の中間で生きる。それ以外の人生はない。減量よりなにより、実際これがいちばんきつい。試合の記憶とビデオの自分の動きとの符合と差異、ありえたかもしれないKO勝ち、ありえたかもしれない判定勝ち、ありえたかもしれない引き分け、ありえたかもしれない判定負けを、パラレルに生きるほかないのだ。それでも日々は待っている。バイトと練習の日々が、待っている。

 

 

夜の窓をあける。木が爆発せん勢いで入ってき、緑のにおいが部屋中に溢れた。記憶が重なってはほどける。部屋にくらすぼく。ぼくはぼくをかえりみる。ライセンスをとった。木にみせた。木はさわさわよろこんだ。星がよろこんだ。リゲルとペテルギウスのあいだの距離が祝福。冬だった! さむくてすぐ閉めた。初戦KO勝ち。いけるぞ!

でも木はライセンスのときほどよろこばなかった。だって、いつか敗ける日がくるんだし……。そのような木にはぼくの記憶が宿っていて、デビュー戦のころのぼくの明日へのつよい希望が、ライセンスをとったころのぼくの濃密なよろこびの感情が、記録されていた。当時の記憶と、生長しつづけながらいつもそこにいた木とのあいだで、友情が結ばれていた。木はその葉のかたち、幹のひび割れ、皮の剥がれ、枝の色あい、他の生き物との共生、そのありかたによって、ぼくがいまのぼくでないぼくを生きている可能性を、語っていた。この部屋でボクサーにならなかったぼくも暮らしている、初戦に敗けてボクサーを止めちゃったぼくも暮らしている、勝ちつづけて或いは引っ越してここにいないぼくすらも暮らしている、そのような木とぼくとこの部屋の間で、あらゆる並行世界がこのくるしい情緒のなかで、シャキッとした冷徹な想像力において、たしかに在るものとして、ぼくにはわかった。パラレルなぼくに想像力を託して、現実のぼくとはぐれたぼくに思考を任せた。そもそもライセンスをとらずボクサーですらなかったぼくは、ボクサーであるいまのぼくの現状を憂えている。勝っても敗けても次が弱い。勝ちつづけないことには明日が薄い。そうしてべつの人生を生きることも可能だったぼくの言外に思いを馳せることで、なんとか過去を、いまの自分の感情に接続することができ、それなしでは目の前の状況すらおぼつかないでいる。

 

●反復され増殖する記憶と想起、現実と並立的にある可能的に世界。それと同時に、まさに一つのものとして到来する現実がある。

(小説のラストの部分はここには引用しないけど。)

 

それにしても今回は食いすぎている。しかしトレーニングを積めている成果か、精神的な安定の副産物か、一定のリズムで体重は落ちていた。あとはウメキチとの練習が実を結ぶかどうかだ。ギアなしでのスパーではだいぶ手応えを得ていたが、出稽古ではボコボコにされた。ちょっとでも距離が狂うと修正できない。サウスポーとのミドルレンジ(なぜサウスポーといまさらスパーをせねばならないのか)では話にならなかった。開き直ってガチャガチャにくっついてしまい、むしろ優勢にすすめられる日もあった。言語化できる地獄に地獄はない。少しずつカロリーを落としながら集中を切らせないウメキチとの日々は、確実に精神を削いだ。そのようにしてひととおりの練習を終え、試合前にひといきの安堵と偽りの達成感がおとずれる。なんとか怪我も謎の不調もなく練習を終えられた。ウメキチは大仰な労いや試合に向けた意気込み等をいわなかったし、いわせなかった。わかっていた。いままでやってきたことのすべてとリングの上で再会する。すごした時間をただしくふり返られる数分間を、穏やかな心でむかえたい。勝つシーンの想像だけが上手くできるほど呑気に勝ててきたボクサーではお互いないのだから。

 

 

2019-10-19

●お知らせ。「樫村晴香 ソロトーク vol.2(聞き手 保坂和志・山本浩貴)」があります。(10月23日追記 満席になったそうです。)

樫村晴香ソロトークをもう一度だけやります。今回は、私と山本さんからの質問に樫村さんが答える時間を30分くらいみて、樫村さんの語り90分・質疑応答30分、という配分を考えています。》(保坂和志)

【日時】114 16:00~18:0018:00~20:00まで懇親会予定)

【場所】RYOZAN PARK巣鴨(グランド東邦ビル)地下 東京都豊島区巣鴨1-9-1 巣鴨駅南口から徒歩3分)

【金額】3,000円(懇親会参加費は別途1,000円)

【予約フォーム】

https://www.quartet-online.net/ticket/hosakakashimuraharuka2

【お問い合わせ】hosakakazushi.official@gmail.com

●15日の日記で『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』(山田陽一)という本を引用したのだが、その引用部分に名前があったヴィージェイ・アイヤーという人は、《インド系アメリカ人のジャズピアニストであり、音楽認知に関する研究で博士号を取得》していると説明されていた。

検索してみたら有名な人みたいで、けっこう動画があった。いかにも現代ジャズという感じで(と、それ以上の解像度のことはぼくには何も言えないけど)、とてもかっこいい。

Vijay Iyer Trio: NPR Music Tiny Desk Concert

https://www.youtube.com/watch?v=SiDBiIsFiqU

Vijay Iyer Trio - Human Nature

https://www.youtube.com/watch?v=BXAMHE3i1q0

For Amiri Baraka / Combat Breathing - Vijay Iyer Trio - Live from Here

https://www.youtube.com/watch?v=UHaQs1voD98

●『リズムから考えるJ-POP史』(imdkm)という本を読んでいるのだが、そこに、宇多田ヒカルの『初恋』というアルバムにクリス・デイヴが参加しているということが書いてあった。

《『初恋』においてこうしたリズムにまつわる意欲的な試みが展開されたのは、演奏で参加したミュージシャン、とりわけクリス・デイヴの貢献が大きい。》

宇多田 彼と相性が良かった理由は、アカデミックな感覚で「何分の何というリズムでここを捉えて計算すると理解できる」ってしてくれたところ。違う二つのタイムシグニクチャーを鳴らして、どこかで融合して一緒にするというのが得意で、トリッキーなことでもできちゃう人だから。私のわけわかんないデモも、物理的にも感覚的にも理解してくれて、混乱なくやってくれたのがありがたかったな。》

《クリス・デイヴは現代のジャズにおいて最も重要なドラマーのひとりとされ、ジャズピアニストのロバート・グラスパーとの競演で知られるほか、自身のリーダー作も評価が高い。アデルやエド・シーランといったポップアクトから、2000年代以降のRBやネオソウルのグルーヴ感を規定したと言ってよい大御所、ディアンジェロのバックも務める。》

《前掲の宇多田の発言にもある通り、クリス・デイヴはクセのある宇多田のリズム感覚をスマートにバンド演奏へと落とし込んだ。それは単に生バンドのえもいわれぬグルーヴ感や質感を楽曲にもたらしたのみならず、宇多田のリズム感覚をより先鋭化させることにもつながったはずだ。》

●それで、久しぶりにクリス・デイヴの動画を観た(聴いた)のだが、やはり超かっこいい(という以外に具体的なことは何も言えないのだが)

Chris Dave and The Drumhedz - Jazz en Tete 2012

https://www.youtube.com/watch?v=NHyR_tPh_cs

 

2019-10-18

WINKが「500miles」のカヴァーをしていたなんて知らなかった。

WINK相田翔子鈴木早智子) 背中まで500マイル

https://www.youtube.com/watch?v=wgOwqtKPWgQ

●「500miles」をカヴァーしたWINKの曲のカヴァー。もともと、この動画を見つけたことで、WINKが「500miles」をカヴァーしていることを知った。

背中まで500マイル_Wink_カバー_さよならさんかく

   https://www.youtube.com/watch?v=SPMuDHj85nY

●話はちょっとずれるが、WINK系のカヴァーといえば、元WINK鈴木早智子の「雨音はショパンの調べ」のカヴァーが意外によかった。

鈴木早智子 - 雨音はショパンの調べ

https://www.youtube.com/watch?v=TlfzrDCEVA8

●ぼくが「500miles」という曲を知ったのは、細野晴臣忌野清志郎坂本冬美によるユニット、HISによってだった。「500マイル」が収録されたHISのアルバム「日本の人」が出たのは1991年。WINKの「背中まで500マイル」が収録されたシングル「悲しい熱帯魚」は1989年発売だから、WINKの方が先だ。

HIS 500マイル」

https://www.youtube.com/watch?v=K02Lh6RUjT8

●「500miles」をつくったヘイディ・ウェストによる演奏。

Hedy West- 500 miles

https://www.youtube.com/watch?v=neVpZBX1Clc

●演奏者によって少しずつ感じが変わっていって、ピーター・ポール&マリーくらいになると、ぼくなどがイメージするこの曲に近くなる、ということか。

Joan Baez ~ 500 Miles

https://www.youtube.com/watch?v=B_K6z3HiRAs

500 miles - Peter, Paul and Mary

https://www.youtube.com/watch?v=ADN1lLEp3H0

 

 

2019-10-15

●引用、メモ。グルーヴについて。『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』(山田陽一)、第二章「グルーヴィーな身体」より。

●グルーヴ、ゲシュタルト、パルス。

(ヴィージェイ・)アイヤーによると、グルーヴにもとづく音楽の特徴は、規則的で、実質的には等間隔で生じるパルスにある。いいかえるならば、グルーヴとは、音楽的なパフォーマンスにおいて規則的なパルスの知覚を生みだす音楽的要素ということになる。そして、この規則的なパルスは、グルーヴのコンテクストにおいてしばしば数ミリセカンドのレベルで微妙に変化させられる。アイヤーはその変化を「マイクロタイミング microtiming」とよび、そうした微細な尺度でのリズムの表出の仕方が、音楽にとって、たとえば音質や音高や音の大きさと同じくらい重要なパラメーターになると指摘する》。

《アイヤーが示しているのが、非常に高い技量をもつジャズ・ドラマーが裏拍を打奏したとき、それをふくむパルスが、しばしば微妙な偏りあるいは非対称性を示すという事実である。つまり、バスドラムが強拍を正確に打奏した場合、次につづくスネアドラムの裏拍は、バスドラムによる二つの連続するパルスのあいだの中間点よりごくわずかに「遅く」演奏されることが非常に多いというのである。(…)熟達したミュージシャンや聴き手であれば、そうした微妙な遅れをともなうドラム演奏について、「リラックスしている」とか「ゆったりした」など---つまりグルーヴィーだ---と肯定的な評価をあたえるという》。

《かれ(タイガー・ロホルト)によると、音楽のニュアンスとは、表現上の微妙なヴァリエーションとも言い換えることができ、音楽作品にではなく、パフォーマンスに属する特性である。たとえば、同じA音としてカテゴライズされる二つの音高のうち、一方が他方よりも高い(とはいえ、A#音とカテゴライズされるほど高くはない)場合、また同じ八分音符と分類される二つの音価のうち、一方が他方より長く持続する(とはいえ四分音符と分類されるほど長くはない)場合、そして、多くの種類があるが、そのすべてを適切に区別することのできないギターの歪んだ音質などが、音楽のニュアンスの例である。》

《この音楽のニュアンスこそ、グルーヴ現象の基礎になっているとロホルトは指摘する。つまり、グルーヴは、マイクロタイミングというニュアンスに基礎をおく「知覚のゲシュタルト」であり、それは、ある特定のやり方でニュアンスを知覚する経験のなかで生じる。(…)グルーヴが音楽経験のなかで実感されるためには、音楽のニュアンスの知覚経験---それもある決まったやり方で、つまり、グルーヴを引き起こすものとしてニュアンスを聴くこと---が何よりも必要とされているのである》。

《ロホルトによると、ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥー」には二種類の録音があり、両者は演奏のタイミングのニュアンスに大きな違いがあるという。最初の録音では、リンゴ・スターがドラムを叩き、二回目はアンディ・ホワイトが担当した。この曲のリズム・パターンは「ターン・タッタ・ターン・タッタ」という四拍子のスウィング・リズムにもとづいているが、リンゴの演奏ではほぼ常に、二拍目と四拍目の連続する八分音符(「タッタ」:正確には真ん中が八分休符となる三連符)のうち、(休符のあとの)二番目の八分音符がわずかに遅めに打奏され、ホワイトの演奏では逆に、同じ音符がわずかに早めに叩かれている。》

《ロホルトは、両者の違いがもつ音楽的意味が、いずれもリズムを「もたれかかった」ように感じさせる点にあると指摘する。リンゴが二つ目の八分音符をほんの少し遅めに演奏すると、リズムが後ろにもたれかかって引っ張られるように感じられるし、ホワイトが同じ音符をほんの少しは早めに叩くと、前にもたれかかって押されるように感じられる。(…)ロホルトは、こうした「もたれかかりの感覚」を理解する必要があり、そのためには、ドラマーたちの打奏タイミングのニュアンスを適切に知覚するやりかたを理解しなければならないと主張する》。

《スウィング・グルーヴの経験における二番目の八分音符の働きかたは微妙であるとはいえ、その位置はリズム全体に影響をおよぼす。(…)ロホルトは、両義的な知覚刺激の例は、ゲシュタルト現象それ自体であり、そのなかの両義的な要素だと指摘する。》

《両義的な解釈を許すゲシュタルトにおいては、二つの解釈の両方を同時に知覚することはできない。たとえば、見方によってアヒルに見えたりウサギに見えたりする「アヒル/ウサギ」の知覚のゲシュタルトにおいては、アヒルとウサギを同時に見ることはできない(…)「アヒル/ウサギ」の場合、注意をウサギの耳の部分に向け、それをウサギの耳として見るとき、アヒルの知覚への移動は妨げられる。(…)ゲシュタルトの移動が生じるためには、ウサギの一部が注意の対象であってはならず、ある意味で、ウサギのイメージは知覚の背後に退かなければならない。》

(…)ゲシュタルトの移動が生じるために、ウサギのイメージが背景に退かなければならないのと同様に、グルーヴの「もたれかかり」というゲシュタルトが知覚されるためには、二番目の八分音符は背景に退かなければならない。逆にいうと、二番目の八分音符に注意を向け、それを八分音符として聴くことは、もたれかかったグルーヴを知覚するのを妨げる。》

《ロホルトが主張しているもう一つの特定の知覚の仕方は、八分音符をパルスと関連づけて聴くことに関わっている。スウィング・リズムのパルスがもつ規則性は、それがずっと続くだろうという期待を生む。もし注意をあの八分音符だけに向けたなら、それはただ早いと聞こえるか遅いと聞こえるか、あるいは間違っていると聞こえたり、拍子はずれに聞こえたりするにすぎない。だがその八分音符を、パルスとの関係において「反響するreverberating」もの---すなわち不確かで曖昧で、それがパルスに影響をおよぼす場合にのみ経験のなかに存在するもの---として知覚するならば、パルスへの期待(すなわち規則的なタイミングへの期待)にたいして押したり引いたりするという特性、いいかえるならば一種の不均衡や緊張が生じる。もたれかかったグルーヴが経験のなかにあらわれるのは、まさにこのときである。つまりスウィング・グルーヴは、パルスの規則性によって引き起こされた期待を、八分音符が妨害することで生じる緊張の結果なのである》。

●共有されたずれのフィーリング、演奏のゲシュタルト的全体性、

《イギリスの音楽学者マーク・ドフマンは、比較的最近の議論のなかで、グルーヴをミュージシャンによって「共有されたタイミングの身体的経験」として捉えようとしている。かれによると、グルーヴは基本的にミュージシャンたちの身体の「あいだ」で生じるものであり、その意味で、それは相関的な身体現象である》。

《グルーヴは音楽的時間の共有に関わっているが、ある音楽をグルーヴィーだと感じるためには、演奏者のタイミングが完全に一致したり、メトロノームのように等時間隔的である必要はない。演奏者たちはよく、グルーヴを伸縮性のある経験と感じており、重要なのは、演奏者のあいだで深い協調感覚が生じるために、この時間の伸び縮み、すなわちタイミングの微妙なずれにたいするフィーリングが共有されることなのである。》

(…)従来の考えかたによると、グルーヴはリズム・セクションに固有のものであり、グルーヴという「地」のうえでソリストが「図」を演奏するという捉え方であった。だが、ドフマンによると、今日のジャズ演奏において、演奏者間の相互作用のありかたは、地と図というはっきりした対比を否定している。つまり、ソリストは主導権を保ってはいるが、現在の演奏におけるリズム・セクションとソリストの関係は、地と図モデルが示す状態よりもはるかに微妙で複雑である。また、グルーヴしているバンドの音楽は、ひとつのゲシュタルト的全体として経験される。グルーヴの産出においては、ベースとドラムが中心として注目されるかもしれないが、この全体的な音楽経験からソリストの演奏やベーシストの演奏だけを取り出すことはできない。グルーヴとは、集団的で間主観的な発現特性なのである》。