2019-10-28

引用、メモ。『超人の倫理』(江川隆男)、第四章「超人の原理」より。

●自由意志の否定

《人間は、一般的には自由意志によってより善く定義されると言えます。ところが、人間は実は「自由意志」(free will)といった能力をもっているわけではありません。》

(…)絶対的意志である自由意志とは、自然の世界における原因・結果の系列に対して、その外側から介入して新たな別の系列を開始する原因となるようなもののことです。》

《心や精神のうちに、自分の身体を動かしているものとしての意志を認め、また知性や認識とはまったく別の、それらから自律した能力としての自由意志を認めることに、人々はそう苦労はしませんでした。》

《私たちが普段から理解している意志とは、次のようなものです。目の前の或る物は、だれにでも必然的に知覚され認識されるが、その物を肯定するか(意欲するか)、否定するか(意欲しないか)は、その物の認識や知覚の後で、それらとは別の能力である意思によって為されるのだ、と。》

《これに対して、ニーチェが提起する力能の意志は、自由意志や意志一般とは直接には何の関係もありません。力能の意志は、むしろ認識と意志との、あるいは知性と意志との、あるいは感性と意志との同一性をあらわしていると言ってもよいでしょう。そして、この同一性が、遠近法主義における解釈と言われているものなのです。》

●自由とは

(…)意志とは何でしょうか。それは、何よりも〈肯定する能力〉あるいは〈否定する能力〉です。》

《しかしながら、(…)意志は、認識能力と別の能力ではありません。言い換えると、物の観念そのものが、つまり或る対象の観念それ自体が、肯定・否定の意志的な作用をもつということです。》

《精神のこうした決意は、現実に存在する諸々の観念が生じるのと同一の必然性をもって精神のなかに生じる。だから、精神の自由な決意で話をしたり、黙っていたり、その他いろいろなことを成すと信じる者は、目を開けながら夢をみているのである。》(スピノザ『エチカ』第三部、定理二・備考)

《観念の背後にも、観念の上位にも、自由意志といった主観性の別の作用など存在しないということです。》

《意志を結びつけて自由を考えることは、道徳的思考のもっとも典型的な表象だと言えます。逆に言うと、道徳的思考や感情は、自由を意志と関係づけることでしか考えられないのだとも言えるでしょう。端的に言うと、道徳とは、知性や感性から意志を区別することそのもののうちにあると言えます。》

《これに対して、これまで述べてきたような倫理作用の発揮にこそ自由があると考えること、これは、それ自体がまさに非人間的な様態の産出であり、超人の感性の産出につながっているのです。(…)自由とは、個人が、たとえ人間の道徳のうちにあっても、部分的に個人化して超人の倫理へと移行することなのです。》

《人々が一般的に意志と知性とを区別しようとする理由は、何とか愚鈍(=判断力の欠如)に陥らないようにと努力し続ける道徳的な〈人間=動物〉の産出のためだったわけです。》

スピノザ、自由意志の由来と否定

スピノザは、およそ以下の四つの観点から、人々が知性と意志とを区別したがる理由を挙げています。》(1)(4)

《これに対するスピノザの考え方を追うことにしましょう。》(a)(d)

(1)意志は知性よりもその及ぶ範囲が広いということ

というのも、知覚していない事物について同意しようとするとき、現に有している同意能力(意志)より大きな同意能力を改めて必要とはしないが、そうした事物を知覚しようとすれば、現に有している認識能力より大きな認識能力を必要とするからです。》

(a)意志は知性と同一である以上、意志作用は観念それ自体がもつ作用であり、したがって個々の観念しかないのと同様に、個々の意志作用しか認めることができないということ。

というのも、認識能力も同意能力も、物を知覚し肯定する場合は、つねに一つずつ順次に認識し肯定する以外の仕方はないからです。》

(2)人間は実際に知覚している事物について判断を控えることができるということ。

というのも、人は、或る事物を知覚しただけでは誤っているとは言われず、ただその者がそれに同意(肯定)したり、あるいは反対(否定)したりする限りで誤ると言われるからです。》

(b)判断をおこなうのは、意志ではなく、知覚や認識それ自体であるということ。したがって、人間に判断を控える自由な力があると考えることは否定されます。

というのも、判断を保留する場合、それは、自由意志によってではなく、その物事を十分に認識していないことによって判断が差し控えられているからです。》

(3)個々の観念は相互に異なった実在性あるいは完全性を含んでいるが、これに対して意志の肯定はあらゆる観念に対してつねに同一であるということ。

というのも、観念は必ず何かについての観念である以上、個々の観念はその対象が異なっているだけ異なった実在性を含んでいるが、意志の場合には一方の肯定が他方の肯定よりもより多くの実在性を含むとは考えられないからです。》

(c)肯定・否定の意志作用は相互に差異を有しており、それは、知覚や観念相互の差異とまったく同じであるということ。

というのも、事物aの観念の肯定と事物bの観念の肯定との間には、事物aの観念と事物bの観念との間の差異と同様の差異があるからです。》

(4)どれほど決定不能な状態(どちらか一方を選択できないような状態)を知覚したとしても、人間はその状況のなかで宙吊りにされることはなく、自らがもつ意志の力によって自由に決断することができるということ。

というのも、人間は驢馬のような自由意志のない動物ではない以上、知覚や認識を超えた内発的な意欲という能力を有しているからです。》

(d)もし動物に意思がないのであれば、人間にも意志がなく、したがって知性と意志が同じであると考える立場---第二章で述べた心身の並行論---から言うと、人間は知性ももたないということになります。

というのも、身体があれば、そこには精神が必ず並行論的に存在するからです。》

(…)自由意志は、どこから発生したのでしょうか。実は〈認識の欠如〉あるいは〈知覚の非十全性〉が意志を生み出したのです。》

《意志が認識の欠如や知覚の非十全性から発生したとすれば、意志はまさに虚偽の観念の一つになります。あるいは、知性と意志を区別するのは、虚偽の観念において成立する思想だということです。虚偽の観念は、認識の欠如によって成立する観念であり、それゆえいかなる積極的な形相も含んではいません。欠如や否定は、実在性を何も含んでいないからです。》

《改めて自由意志とは何かと問いましょう。それは、認識や知覚が非十全であればあるほど、つまりそれらが虚偽の観念から成立していればいるほど、そうした認識や知覚に対して或る決定の形相を与えていると強く実感すること以外の何ものでもありません。すなわち、意志とは自らの出自である欠如性を埋めようとする意識なのです。》

ニヒリズム

《人間は、自然現象の背後にはその本質としての自然法則があると考えてきました。そして、人間は、それを理解することこそが、自然そのものを、つまり自然(=神)の意志の表出を理解することであり、また自分たち自身が自然を支配することにつながると考えてきました。言い換えると、この限りで意志の問題は、究極的には神の位置を人間が占有することの問題へ帰結していくのです。》

《しかし、これはまさにニヒリズムの問題、とりわけ「反動的ニヒリズム」はいかにして「受動的ニヒリズム」に達するのかという問題のなかにあるのです。すなわち、それは、神の位置を占有した「人間」がいかにして死すべきかということです。》

(…)ドゥルーズに従って、ニーチェニヒリズムを三つの段階---否定的、反動的、受動的---に区別してみましょう。

これらの三つの段階は、二つの移行段階として理解できます。》

《第一は、否定的ニヒリズムから反動的ニヒリズムへの移行、すなわち神から神の殺害者(=反動的人間)への移行です。》

《第二は、こうした反動的ニヒリズムから受動的ニヒリズムへの移行、すなわち、こうした神の殺害者であり、神の位置を奪ってそこを占有する存在者となった人間から最後の人間(=受動的消滅)への移行です。》

ニヒリズムとは、(…)否定性からしか物事を理解しないし行動に駆り立てられることのないような生物、つまり人間の道徳的な営為全体についての名称なのです。》

ニヒリズムとは何でしょうか。》

《第一にそれは、自分たちより高い存在---すなわち、個々の人間の生を超越した価値、例えば〈善〉あるいは〈真〉---を想定して、自分たちの現実の状態、つまり実存の価値を低く見積もるという人間に本質的な傾向性のことです。》

《第二にそれは、そうした諸価値がまやかしだと気づいて、自分たちの実存を遅ればせながら肯定しようとするが、実際にはすべてが手遅れで静かに死に行くことしか残されていないことに人間が気づいていく仮定でもあります。》

《私たちがいる地点は、実はこの第二の過程のほんの入り口にあります。しかしながら、それでも重要な問題が、この地点ではじめて提起可能になります。つまり、こうした受動的消滅に対して、別の仕方での消滅を考えることができるということです。それは、まさに積極的な消滅の仕方、すなわち「能動的破壊」です。》

●〈無への意志〉と〈意志の無〉

《〈無への意志〉と〈意志の無〉は、まさにニヒリズムが有するもっとも本質的な二つの意味なのです。》

《〈ニヒリズム(nihilisme)における〈ニヒル(nihil)は、力能の意志の質としての否定を意味している。したがって、その第一の意味とその根本においてニヒリズムが意味しているのは、生によって捉えられた無の価値、生にこの無の価値を与える優越的諸価値という虚構、これら優越的諸価値のうちに表現される無への意志である。》ドゥルーズニーチェと哲学』

(…)人間の生、人間の実存は、つねにこうした優越的諸価値によって否定され、過小評価されてしまいます。》

ニヒリズムは、さらにその第二の意味を有しています。》

ニヒリズムは、第二のより流布した意味をもつ。それが意味するのはもはや意志ではなく、一つの反動である。人々は超感性的世界と優越的諸価とに対して反動的に活動し、それらの存在を否定し、それらのあらゆる妥当性を否認する。もはや優越的諸価値の名による生の価値低下ではなく、優越的諸価値そのものの価値低下。価値低下は、もはや生によって捉えられた価値低下ではなく、諸価値の無、優越的諸価値の無を意味するのである。新しい大規模な価値低下が広がっている。(…)このようにニヒリストは、神、善、そして真実さえも、つまり超感性的なもののあらゆる形態を否定するのだ。》ドゥルーズニーチェと哲学』

《この第二の意味においては、もはや〈善/悪〉といった超越的価値そのものが価値の低下のなかにあるのです。》

《ここではもはや意志は存在しません。意志そのものが無であることが露呈し始めたわけです。問題は、既に述べたように、否定的で反動的なニヒリズムからいかにしてこうした受動的ニヒリズムへと移行するのかということです。》

《それは〈無への意志〉に囚われた反動的な精神をそこから解放して、少しでも意志そのものが無であることを知ること、もはや意志しないことです。これがおそらく現代の人間がニヒリズムのなかでなしうる最大の一歩だと言えるでしょう。》

《自由意志は、このような否定的な仕方で、つまり〈意志の無〉として消滅する道を歩むことになります。》

 

2019-10-27

●引用。メモ。『超人の倫理』(江川隆男)、第三章「超人の認識」より。

●遠近法主義とは

《認識とは解釈が固定化したものです。認識よりも解釈の根源性を主張するのがニーチェの「遠近法主義」(Perspektivismus)です。》

《私たちは、日常的には認識と解釈をどのように区別しているでしょうか。物を認識すると言いますが、文学作品や映画については、それを解釈すると言います。》

《ところが、文学作品も映画も、まず文字の認識や映像の認識が成立した後で、解釈がおこなわれると考えることもできるでしょう。それゆえ、認識の方が解釈より基本的であると一般的に言えるわけです。つまり、ニーチェは、常識とは反対のことを言ったわけです。》

《遠近法主義とは、

(1)多様で特異な個々の遠近法の生成を肯定すること

(2)それら個々の遠近法が含むあらゆる解釈について解釈(あるいは認識)の一義性を刻印することです。》

《遠近法と遠近法主義とを区別して、次のように考えましょう。すなわち、遠近法は解釈の生成そのもののことであり、また、遠近法主義はそれらの生成に存在の性質を、すなわち一義性を刻印することです。》

●〈個別性-一般性〉と、〈特異性-普遍性〉

ドゥルーズは、〈個別性-一般性〉(particularite-generalite)と〈特異性-普遍性〉(singularite-universalite)とを批判的に区別しました。誤解を畏れずに単純化して言えば、個別性、つまり個別的なものとは代替可能なものであり、それゆえ、つねに一般性に還元されるようなもののことです。》

《これはまた、可能性という概念にもつながっています。》

《これに対して、特異性あるいは特異なものとは何でしょうか。それは、代替不可能なものであり、こうした〈個別性-一般性〉に還元不可能な或るもの、すなわち「このもの性」のことです。》

《これは、必然性の概念をともなっています。》

《さて、個別性と特異性との区別は、大抵は各個人の心理的な側面に、つまり彼らの記憶と習慣の多くに依存しています。或るものがその人にとって特異なものとみなされるとき、それは、その人にとってのまさに「このもの」---例えば、この私、この人、この猫、等々---として先ずは現れてくるということです。》

《要するに、その物の〈このもの性〉を支えているのは、各人の心理的な側面によってである、と一般的に考えられるわけです。》

(…)特異性は、個人の趣味の問題であり、個人の心理状態のうちに隠された私秘性のもとにあると言われるわけです。個別性は公共的で社会的なものであるが、特異性はきわめて個人的で私秘的なものである、と。》

(…)特異性あるいは〈このもの性〉は、個人によって実感されたり直感されたりするだけのものである以上、個別性に付着した単なる心理的な偶有性である、とさえ考えられてしまうでしょう。》

《この場合に、個別性から特異性を区別する普遍性の力は、そのほとんどが想像力や意見の力で充たされているわけです。ですから、すべては、実は時代や社会や特定の共同体の幻想に、あるいは家庭内や仲間内の幻想にすぎないかもしれない、と考えられてしまうようなことが時々あるのかもしれません。これは、そうした表象力や意見の過剰さに充たされた精神に応じた疑念であるかもしれません。》

●非心理的な特異性へ

《さて、スピノザの思想から肯定的に取り出してきた「倫理学の実験」とは、一言で言えば、こうした変化の秩序それ自体を変えることです。》

《ここではじめて、先ほど述べた特異性と対になった「普遍性」が何を意味していたのかが理解可能になるでしょう。端的に言えば、概念の一般性を超えた普遍性とは、力、力能、欲望のことです。つまり、この場合の普遍性とは、とりわけ個別性から特異性を区別し選択する力、あるいはそれらの一方から他方への変質と移行を実現する力能だといってよいでしょう。》

(…)普遍性とは、一つの働きであり、動くものなのです。》

《表象像の間の特徴的な差異によって特異なものへと動かされたならば、その出会いの結果に翻弄されるのではなく、次の段階では自分とその特異なものだけに適用しうるような概念を形成すべきなのです。それがその出会いを、単なる心理的水準において理解することを超えて、非心理的な実在性のもとで認識することにつながっているのです。》

(…)普遍性が働くということは、或るものの個別性からその特異性を取り出してくる水準、あるいはそれらを区別する規準そのものを変えるということです。》

《この普遍性は、とくに表象(想像)や意見から共通概念へ、さらに共通概念から直観知へと、その力が発揮される水準を移行するものだということです。》(→昨日の日記での引用部分参照)

《さて、ここで遠近法主義がいかなる思想を提起していたのかがわかります。端的に言うと、それは、〈個別性-一般性〉の認識から〈特異性-普遍性〉の解釈へと精神の水準あるいはパトスの様態を変化させることです。》

脱構築と遠近法主

《ここの或る作品aがあるとします。次に、この作品に対するいくつかの理解の仕方、つまり複数の解釈を想定することができます。》

《或る作品にうちにある真理(=その真の意味)をめぐって生じた解釈をここでは、すべてV解釈と記すことにします。》

《結果的に、そこには一つの支配的な解釈V1を頂点とした、V2V3V4…という、作品の真理に対する接近度を、つまりその真理により近いかあるいはより遠いかを唯一の尺度とした諸解釈の位階秩序が形成されることになります。》

《この場合に、作品aについての真理(あるいはその作品がもつべき真の意味)を探求するような他の諸々の解釈、V2V3V4…のどれかが支配的な解釈V1の座を奪ったとしても、作品とその作品の真理をめぐった解釈との関係であるこの〈a-V〉関係は、けっして解体されないでしょう。》

《というのも、それは単に首のすげ替えにすぎないからです。》

(…)この場合の作品の真理(=真の意味)は、あらゆる解釈が到達すべき唯一の目的であり、まさにそれら解釈にとっての〈目的因〉として作用しています。つまり、真理とは到達すべき目的として設定されたものなのです。》

《さて、問題は、こうした目的因のもとでの私たちの活動がつねに否定を媒介としたものになるという点にあります。というのも、あらゆる解釈の位置づけが一つの目的への接近の活動として考えられる以上、各々の解釈の価値は、まさにこの目的=真理にいかに近いか遠いかによってしか評価されないからです。つまり、どんな解釈の活動も、さらなる近さを目指してその遠さを否定しなければならないからです。》

《したがって、脱構築の問題は、いかにして諸解釈がもつこうした〈Vの言語〉(…)を機能不全にするかということです。》

(…)ニーチェにおける遠近法主義の問題も、同様にこうしたいわゆる「真理への意志」によって結合した〈a-V---つまり〈真理-解釈〉---の関係を解体することにあったのです。》

《こうした意志の使用を、意志の外部にあるもの---この場合に、意志の外にあるのは真理です---を欲するという意味で、意志の「超越的使用」と呼びましょう。》

《一般的によく言われる「権力欲」などは、まさにこの使用の最適の例---「政治」とはかけ離れた「政治家」の愚鈍な意志---を与えてくれるでしょう。》

《それならば、これに対する力能の意志の「内在的使用」とは、どのようなものになるでしょう。あるいは、内在的に使用された力能の意志とは、いかなるものでしょうか。》

《端的に言うと、それは意志のうちで意志しているもののことです。》

《要するに、第一に、意志しているものとは意志の働きそのもののことであり、第二に、この意志の働きとは、内在的に考えられている限り、倫理作用そのもののことだということです。》

《意志の超越的使用とは、真理への意志として成立するような道徳的使用のことです。これに反して、意志の内在的使用とは、本書を通して述べているような、いっさいの道徳的使用を批判しうる、自由意志(=意志の超越的使用)とは何の関係もない倫理作用そのもののことなのです。》

●多様性の確保

(…ニーチェによる)第一の言明(「同一のテクストは無数の解釈を許す」)は、同一のテクストについての複数の解釈の可能性が示されているだけです。したがって、これだけでは、諸々の解釈の間の闘争は、依然として一つの真理や真に意味をめぐる争いであるという可能性が残ったままになります。》

(…)つまりテクストそれ自体といったかたちでの物自体を前提としたような「道徳的遠近法」が一つのパースペクティブとして依然可能であるということです。》

《つまり、ニーチェが「遠近法主義」を主張するためには、(…)第二の言明(「〈正当な〉解釈は存在しない」)が不可欠となります。正当な解釈など存在しないとすれば、遠近法主義における諸解釈あるいは諸遠近法の間の相互の差異は、まさに共通の価値の尺度や評価の土台をもたないということになるでしょう。》

●道徳的な「視点」(カント)

(…)或る視点からの対象の見え方、その物の見える姿は、つねに不完全であり(多くの場合、この不完全性は、「主観的」という言葉で片付けられているものです)、物の認識に関して、もっとも理想的で完全なのは、無視点的に物を認識することだと考えられることになるでしょう(多くの場合、こうした完全性についてまさに「客観的」という言い方が為されてきました)。》

(…)こうした意味での無視点化、つまり理想の認識を目的とした無視点化には、実は二つの典型的な仕方があります。》

(1)或る認識対象に対して、時間的にも空間的にも、考えられうる限りの無数の視点を想定して、それら個々の視点がもちうる特異性を奪い去るかたちで、その対象の客観的な像を確保しようとすること。》

(2)その物のもっとも完全な表象像(典型的な姿)が得られると想定された特権的な視点を、言い換えると、無視点的という意味で何らかの理想を備えた一つの視点を定立しようとすること。》

《例えば、この(1)を現象の世界に、(2)を物自体の世界に対応させて、認識と実践の領域を確定したのが、まさにイマヌエル・カント(一七二四- 一八〇四)であり、したがってここに道徳的態度を見出すことはそれほど困難なことではないでしょう。》

●多義性とは異なる「多様性」

(…)スピノザも、「物をそれ自体で観る」(…)ことを主張しています。しかし、そこには道徳的思考に裏打ちされたような、「物自体」の考え方はまったくありません。(…)むしろニーチェにおける遠近法主義に近いのです。そこには、或る絶対主義があります。》

《或る同一物を異なった視点から見れば、その物の見える姿は、たしかに多様な差異のもとに現れるでしょう。しかし、それでも視点の複数性と視点の多様性とは違います。》

《この限りで、この多様性とは何でしょうか。それは、一つの真理とその正当な解釈をめぐって否定的に生み出された諸々の道徳的遠近法がもつ単なる複数性とはけっして相容れず、またこの複数性をそのまま存在論化したまさに「存在の多義性」に抵抗するものなのです(例えば、神を頂点とした存在者の位階秩序を思い起こしていただきたい。そこでは、完全に存在するのは神だけであって、それ以外の存在者は、程度の差こそあれ、不完全に存在するものと理解されます。ここでは、「神は存在する」と「人間は存在する」あるいは「ネズミは存在する」と言われる場合の「存在する」は、一義的ではなく、多義的に了解されているわけです。これが「存在の多義性」という考え方です)。》

●解釈の「一義性」

《解釈とは、認識対象の側の諸事象や諸実体を単に形容するような、認識主体の側の行為などではありません。解釈こそが、反対にこうした実体や主体の存在や本質を構成してしまうような存在の様態、つまり倫理の働きなのです。》

《解釈の真只中では、何が起きるのか、そこでは、まさに固定化した物の同一性や、私たち人間の硬直化した意識や認識が解体され溶解していくのです。》

《解釈にあるのは、〈真/偽〉でも、〈善/悪〉でも、〈正当/不当〉でもなく、ただここの解釈の〈よいとわるい〉、〈強さと弱さ〉、〈早さと遅さ〉---これらを総称して「強度」と呼びます---があるだけです。個々の解釈がそれぞれに特異な遠近法をもつとすれば、遠近法主義とは、言わばこうした多様な解釈の肯定です。これを解釈の一義性と呼ぶことにしましょう。》

《では、この場合の一義性とは何でしょうか。それは、個々の解釈は各自に異なっているが、しかしそれらの間にけっして優劣関係はないということを意味する言葉です。》

●認識=視点と、解釈=遠近法、テクストの「必然性」

《もし、或るテクストaが一つの解釈Vによってしか、つまり真理を前提としてしか読めないならば、私たちはそもそもこの解釈Vを媒介としてテクストaを単に〈見る-知る〉だけで充分だということになります。そこに〈読む-書く〉という行為はないのではないでしょうか。というのも、読むことは、それ以上に、潜在的ではあるが、たしかに能産的な〈書くこと〉を前提としているからです。》

《結果としての読む行為しかないとき、つまりテクストaのテクスト性---言い換えると、諸解釈がもつ能産性---がまったく失われるとき、このテクストa疲労したものとなるでしょう。》

《解釈とは、あらゆる〈認識の対象〉を〈出来事のテクスト〉にする活動であると言えます。》

(…)認識(=視点)とは、その存在がテクスト性を含まないものの表象のことです。これに反して、解釈(=遠近法)とは、その存在がテクスト性を含むものの表現のことです。》

(…)瓶ビールを飲もうとしたが、栓抜きがないという状況です。そんなとき、人はどうするでしょうか。大抵は、周囲を見回して、栓抜きの代わりになるようなものがないかと探すでしょう。》

《言い換えると、そのとき人は、普段は、瓶ビールの栓を開けて飲むというコンテクスト(文脈)の外にある物を、このコンテクストの内に延長可能かどうかとまさに解釈し始めているわけです。これと同時に、物の側では別のことが生じています。つまり、周囲のすべての物がその遠近法に即してざわめきはじめるのです。》

(…)このことは、けっしてテクストの可能性を回復するという意味ではありません。ここで私が言う「テクスト性」とは、テクストがもっている可能性のことではなく、むしろテクストの必然性のことだからです。》

●すべてはテクスト上の存在

《すべてはテクスト上の存在であり、すべてはその解釈(=生成)である。(…)言い換えると、存在のうちにテクストが内在するのではなく、存在と生成がテクストという内在性のうちにあるということです。》

(…)遠近法主義とは、すべての〈生成-肯定〉を肯定すること、つまり〈肯定の肯定〉のことです。》

《生きることは、絶えざる生成です。身体はそれを知っています。しかし、精神がそれにブレーキを掛けたりします。》

《遠近法主義とは、言わば個人が個人化するための倫理作用です。言い換えると、遠近法主義における遠近法には、その限りで個人化のなかで明らかになる〈よい/わるい〉を内在的な規準とした遠近法しかないと言えるでしょう。それは、個別性と特異性を区別しつづける、精神にうちに見いだされる隠された働きなのです。》

●作品と解釈、能産的自然と所産的自然

(…)作品aは、それだけでその存在が自己完結しているわけではなく、自らが生み出す諸解釈を含めて作品aの存在だということです。作品aの作品としての存在を示すような境界線はむしろ諸解釈のところにあると言うべきであり、このことは、作品aが自らのうちに諸解釈を産出するということを意味しています。》

(…)作品の存在は、諸解釈の存在と別のものではないということです。私たちは、その常識に反して、作品の存在を、それらの解釈を含めたところにまで移動させて理解しなければなりません。なぜならば、この場合の作品aは、まさに能産的だからです。》

《作品aの本性は、解釈が接近すべき言わば「目的原因」(causa finalis)などではありません。そうではなく、作品の本性は、解釈を産出するという「作用原因」(causa efficiens)として理解される必要があります》。

《では、多様な諸解釈を自らのものとして産出する作品、つまり能産性をもったこうした作品を、能産的自然に、つまり「神」に置き換えることができます。つまり、アナロジーを用いて言えば、スピノザの「神」とは、ここで述べた作品aのような、能産性をもった大自然だということです。》

《そして、この大自然から産出されたすべての個体は、作品aの表現的な諸解釈のような、所産的な自然なのです。すべての個体は、そこには各個の人間もすべて含まれますが、精神と身体の二つの仕方でこうした大自然を表現する解釈的な様態だということです。》

●個別的なものと特異的のものとの区別は自明ではない

(…)よい作品とは、特異なもの---このもの---としての解釈を多様に生み出す作品のことであり、つまらない作品とは、個別的なものの一般性しか解釈の要因に与えないような作品のことだ、ということになるでしょう。》

《しかし、こうした二つの領域は自明なものでも、実際に現実的に区別されるものでもありません。私たちの生は、この両者の混合した位相のなかで成立していると言ってよいでしょう。》

《批判的で創造的な並行論の最大の課題は、個別的なものとしての精神と身体をいかにして特異なものとしての精神と身体に移行させるかということではなく、つまり個別性と特異性の差異が問題なのではなく、むしろそれらを区別し選択する力そのものを変えるということです。》

 

2019-10-26

●引用、メモ。『超人の倫理』(江川隆男)、第二章「超人の身体」より。

●心身の「相互作用論(デカルト)」と「並行論(スピノザ)

(デカルトに代表されるような)心身の相互作用論では、精神と身体との間には実在的な因果関係が成立していると考えます。つまり、精神が能動的に身体に作用するとき、身体はその働きを受け、また逆に身体が精神に影響を与えるとき、精神はその働きを受けとると考えられます。要するに、一方が能動的・活動的であれば、他方は受動的・受容的になるという考えです》。

《心身の相互作用論と異なって、精神の能動は同時に身体の能動であり、また精神の受動は同時に身体の受動である、と考えるのが心身の並行論です。》

(…)心身の並行論が有している意義は次の点にあります。》

①《精神は精神にしか関わらず、身体は身体にしか関わらないということ、つまり、観念は観念にしか関わらず、延長物は延長物にしか関わらないということです。言い換えると、因果関係は、精神と精神との間で、身体と身体との間でしか成立しないということです。》

②《精神が能動的で、別の精神に対して原因となるならば、それと同時に身体も能動的で、別の身体に対して原因となることができます。これとは反対に、精神が受動的で、或る精神による結果となるならば、それと同時に身体も同様に受動、別の身体による結果となるわけです》。

③《精神と身体は、まったく異なる存在の様態---一方は延長物で物体、他方は非延長物で非物体的な観念---であるにもかかわらず、存在論的には完全に対等(これを実体は「一義的」(univoque)と言います)であるという考え方が確立されます》。

(…)並行論は、スピノザに従えば、身体(=物体)が認められるところには必ずそれに対応した精神が存在するということを言明しているからです》。

(…)人々が机に精神を認めがたいのは、あるいは習慣的に机を物体の側面からしか認識しないのは、机の物体(身体)に対応したその精神の大部分がその身体と同様にほぼ受動性で充たされているからだ、と。》

(…)樹木であれ机であれ、何であれ、その身体(物体)があるところには、必ずそれに対応した精神が存在するということです。これは、机の場合、その机の身体の受動に対応した、まったくの受動で充たされた精神がそこに存在する、ということを意味しているだけです。》

《それゆえ、物体の側から観ても、精神の側から観ても、自然物と人工物との間には本性上の決定的な差異などなく、単に度合いの差異があるだけだということになるだろう。》

スピノザの場合、それは「自然あるいは神」から必然的に言われる事柄です。スピノザにおいては、自然は神と同じものです。これを仮にここで〈大自然〉と呼ぶことにしましょう。正確に言うと、これは、生み出す自然としての「能産的自然」(Natura Naturans)と生み出される自然としての「所産的自然」(Natura Naturata)とに共通の「自然」のことです。》

●属性と様態

スピノザにおける神---すなわち〈大自然---は、無限に多くの属性から構成されると考えられます。しかし、私たちが知りうる属性はそのうちの延長属性と思惟属性だけです。そして、延長属性はその様態として身体をもち、思惟属性はその様態として観念をもちます(精神とは、こうした観念から構成されたものです)。つまり、私たちがこの二つの属性しか認識しないのは、そもそも私たち自身がただ精神と身体によってのみ構成された個物だからです。》

《実体は、まず自らを表現する諸属性から構成されています。そして、この属性を通じて自らの変化を様態として産出することになります。様態は相互に多様な差異を有しています。そして、こうした「差異」に対して「共通のもの」が実体であり、その属性だということです。》

《実体の属性の一つを、例えば、「白」だと考えましょう。この「白」という属性を通じて実体が多様に変化するということは、そこに多様な「白さ」---無数の「白さ」の度合い---が産出されるということです。》

《ここでは、一方の様態の「白さ」が他方の様態の「白さ」よりも優れているとか、真の「白さ」に近いとか、というようなことは、まったく意味がありません。これは、多様な「白さ」について属性「白」が一義的であるということです。つまり、「白の一義性」です。これをあらゆる存在者について言うと、それは「存在の一義性」という考え方になります。》

●並行論の生成変化

(…)精神とは何か。それは、観念の集合体のことです。そして、観念は、必ず何かについての観念です。つまり、観念とは、つねにその対象を認識し理解する仕方、様態のことです。では、ここまで述べてきた心身の並行論において、精神の対象、つまり観念の対象とは何だったでしよう。それは、何よりも自己の身体です。》

《目の前の或る対象aの存在を精神や心が直接に認識しているわけではありません。その対象aの身体が原因となって、私の身体に刺激が与えられることで、私はその対象aの存在を認識するわけです。》

《つまり、観念の対象は、自己の身体そのものではなく、実は自己の身体の変様だということになります。一つの精神を構成する諸観念は、自己の身体の変様についての諸観念なのです。このように、心身の並行論は、具体的には、身体の変様(=身体)とこの変様の観念(=精神)との並行論を意味しています。》

(…)私たちの問題は、現実の心身関係を単に説明しようとするだけの並行論ではなく、まさにその並行関係そのものの成立水準を変えること、その生成変化を次々と生み出すような並行論なのです。》

●感情

《感情も自然のうちにある限り、自然の法則に従っていると考えるべきでしょう。ネガティブな感情も、何らかの実在性を有するはずです。感情は、単なる自分の内なる気分ではなく、外部の物体に関するきわめて本質的な一つの認識の様式なのです。》

●精神の三つの位相と身体の三つの変様

《単に物を記憶し表象するだけの精神ではなく、そこから概念を形成するような精神が合一されるべき身体とは、どのようなものでしょうか。そうした身体は、この精神の生成変化と並行して、何が、どのように変化するのでしょうか。》

(…)「精神は思考する」あるいは「精神は認識する」と言われるならば、それに対応するのは何よりも「身体は感覚する」ということでしょう。つまり、精神における思考や認識が変化するならば、それと同時に身体の感覚や変様も以前とは異なったものになっていくということです。これは、逆も言えます。身体の変様が以前と異なった仕方で在りえるならば、それに対応した精神の変様も同時に認められるでしょう。》

●その一

(精神)(1)第一種の認識「想像知」:感覚可能なものの刺激や漠然とした経験を通して形成される、混乱した知覚や非十全な観念からの認識。》

(身体)(1)もっぱら感覚可能なものの存在によってのみ変容するような身体の存在。》

《感覚可能なものの存在とは、文字通り、感覚してもしなくてもいいような仕方で現れるその物の存在からの刺激のことです。必然性なしに感覚するその仕方は、別の物からの刺激でもよかったということになります。しかし、ここに感情が関わっていると考えると、とたんに事態は変化するように思われます。感覚から感情へ。》

《というのも、私たちは、そうした可能性のなかでも、或るものからの触発がとりわけ自己にとって〈よいもの〉であることを経験し、またそうしたものについての喜びの感情に刺激されることを経験しているからです。》

《それは、その物の個別性の観念からその特異性の観念への変化なのです。つまり、そこには精神における非身体的な生成変化が含まれているということです。端的に言うと、喜びを増大させようとする自己の努力は、つねに自分にとっての特異なものとの出会い・遭遇へのベクトルをもつということです。これが自己の生存の内在的規準である〈よい/わるい〉に従って明らかになる対象の価値なのです。》

(…)自己の喜びをいつも単なる偶然の出会いに任せるのでなく、〈よいもの〉との出会いを必然的にするには、何が必要となるでしょうか。それは、概念であり、こうした概念に対応する身体の触発です。》

●その二。

(精神)(2)第二種の認識「理性知」:事物の存在の特質について共通概念や十全な観念を有する認識。》

(身体)(2)それら感覚可能なもののうちで、感覚されるべきものの存在をより多く感覚するような身体の存在。》

(…)喜びをもたらすものとの出会いを偶然に任せるのではなく、自分とその対象とに共通するものの概念を作り上げようと欲望すること(…)---表象像にもとづく選択から特異な概念の形成へ。》

(…)例えば、或る対象aが、或る人にとってはよい対象であって、その物との関係において喜びに刺激されるとしても、他の人には悪しき出会いを示す原因でしかなく(…)ということを考えることができます。》

《それでも、その或る物が自己にとってよい対象であるかどうかの規準は、その対象と自己の身体との間に成立する触発関係のうちにしかないでしょう。》

《ここには心身の並行論に関するきわめて本質的な事態が含まれています。というのも、それは、実は完全に物理的=身体的(フィジック)な諸法則のうちにある問題だからです。身体は、物理的な延長物であり、したがって物理的な諸法則に従っています。》

(…)すなわち、個々の身体のもとでしか明らかにならない物理的=身体的な諸法則が存在するということです。それは、まさに特異性の法則です。そして、それこそが、個々の身体のもとで明らかになる〈よい/わるい〉の内在的諸規準なのです。》

《身体こそが、もっぱら〈善/悪〉に従う精神とではなく、まさに喜びと悲しみの感情のもとで〈よい/わるい〉の観念を形成する精神と合一する唯一の存在なのです。》

《そうした観念をスピノザは、「共通概念」と称しています。こうした特異性の概念が各人のもとで形成されるとすれば、たとえその都度のよい対象を失ったとしても、そこで形成された共通概念まで失われることはありません。》

《特殊な線や色、特別なメロディやコード進行と出会うだけでは、まだ画家でも作曲家でもありません。彼らは、自己の身体がもつ諸感覚と、そうした身体の外部に現実に存在する感覚可能な諸要素との間においてのみ成立するような共通の本性についての概念、共通概念を形成する必要があるわけです。》

《こうした概念は、実際に身体の変容との並行関係のもとで形成された物の理解の仕方だということになるでしょう。身体の変様が対象の差異を私たちに伝えるのだとしたら、共通概念そうした差異にリズムを与えること---あるいは文体を与えること---とさえ言えるでしょう。》

《このときの身体の存在は、その精神の運動に対応して、感覚可能なものにおいて感覚すべきものをより多く感覚するような存在になっているということです。(…)身体が、単に感覚可能なものによってではなく、実際に感覚すべきものによって変様を受けるということです。言い換えると、これは偶然から必然への実質的な移行です。》

(…)精神が現実に存在する特異なものについての概念を形成するプロセスは、身体の現実的存在があくまでもその存在のもとで身体の本質とより多く一致しようとするプロセスと同一だということです。》

《特異なもの(このもの、よいもの)を失っても、その特異なものとの間に共通概念を形成するならば、私たちはその実在的経験をつねに現在のものとすることができます。しかしながら、自分が死んでその心身の存在が無くなってしまえば、その経験の現在も消滅してしまうことでしょう。そこで、どうしても身体と精神に関する存在上の触発ではなく、その本質における触発を考えることが必要になってくるわけです。》

●その三。

(精神)(3)第三種の認識「直観知」:事物の本質についての直観的な認識。》

(身体)(3)もはや身体の存在ではなく、身体の本質を触発するような仕方で自らの感覚すべきものの本質を感覚する身体。》

(…)これは、身体の本質が、個々の感覚可能なものの存在ではなく、特異性としての感覚すべきものの本質を感覚するということです。》

(…)ここでは単に自己の身体の現実的存在が変様するのではなく、自己の身体の存在によって身体の本質が触発されるということです。》

(…)この第三の変様では、身体の現実的存在のこの変様のもとで身体の本質が触発されるということが生じるのです。そして、本質におけるこの私欲初の部分こそ、まさに特異なものの本質の真の永遠性だと言えるでしょう。》

(…)この身体の本質における触発は、そしてこの触発に対応する精神の直観知は、その身体の存在や精神の持続が失われた後も、つまりその人の死後も存続する不死なるものであると言えるでしょう。》

《本質は、一般的に永遠なるものとして定義され、存在に左右されない抽象的なものとして措定されます。しかし、ここではその本質が存在によって触発を受けるわけです。そんな経験を考え実現しようとするわけです。》

《このような身体の感覚と精神の感情が、あるいは身体の活動と精神の思考が、あるいはこの二つからなる私たちの経験が、各個の人間の本質を触発し、それによって各個の人間の本性を変化させるにまで至るということ、これこそが、実はここで述べたかった「倫理学の実験」の一つの結果、生成する心身の並行論の自由活動の一つの結果なのです。》

 

2019-10-25

 ●引用、メモ。(昨日からのつづき)『超人の倫理』(江川隆男)より。

●超人とは

(…)ここで言われる超人とは、人間とは別の、新たな来るべき人種のことではありません。私はここで、「超人」をある意味で人間のなかにしかない或る種の働き、すなわち倫理作用の別名であると考えたいのです。》

《超人はつねに若干の超人であり、その限りで人間におけるある部分なのです。超人とは、人間のうちに存在する部分的な強度のことです---倫理的強度。》

《この倫理の働きは、まさに個人の個人化する一つの生としての実験的精神に宿っているとも言えます。言い換えると、超人とは、生一般の問題でもなければ、一般的な生の課題になどけっしてなりえないような問題だということです。》

《それゆえ、〈よい/わるい〉を含む倫理作用は、〈善/悪〉や〈真/偽〉といった超越的な諸価値に基づいて、一つの生を生一般のもとでさまざまに規定してきた道徳的な遠近法に対するあらゆる抵抗力を有しています》。

●生活法・様式を与える・自分自身との和解

《たしかに、(超訳され通俗化された、人生に役に立つニーチェの言葉のような)こうした意味での〈活用--道具箱〉は、私たちの表象生活に対して僅かな効果をもつかもしれません。しかし、それだけでは人間は生成と遭遇できないし、表象するだけではその生成に存在を与えることはできないでしょう。》

《生成に存在の性格を刻印すること----これが最高の力能の意志である》(ニーチェ「遺された断想」)

《さて、そこで提案したいのが「生活法」(vivendi ratione)という考え方です。ここに言う生活法は、習慣とは異なるものです。つまり、それは、けっして別の習慣を勧めたり、別の習慣を身につけたりするためのものではありません。》

(…)生活法とは、言い換えると、自己と自己に関わる事柄とに「様式を与えること」です。それは、この習慣あるいはかの習慣、それらがもつ価値感情に反するような、解釈や価値評価から形成される実存の様式であり、存在の仕方だと理解してください。》

(…)そこには、実は自分自身との和解という重要なテーマが含まれているのです。》

《人間が自分自身と和解に達すること、この一事のみが肝心なのだ。---それはどんな文学や芸術によってであってもよい。そうしてこそ、人間ははじめて見るに堪えるものとなる! 自分自身と不和である者は、いつでも復讐の機を窺っている。われわれ他人はその犠牲となるだろう。》

《つまり、それは、弱点というかたちでしか与えられていないような、自分自身の或る実在性があって、それを自分自身のうちに肯定的に組み込んでいくことなのです。》

《それは、言わば〈生ける弱点〉という考え方です。それは、弱点をいかにして長所にするかという習慣上の道徳化した自然主義とはまったく別のものです。しかし、その総称が「教育」と呼ばれているものです。》

《弱点は、長所や力量の欠如なのではなく、それだけで一つの実在性を有しています。弱点も、その者の「できる」をしっかりと作り上げているのです。弱点もその人物の構成要素の一つなのです。つまり、弱点は、完全性の度合を有しているということです。したがって、それを破壊すると長所も破壊されてしまう場合があります。》

《フランスの偉大な作家、マルセル・プルースト(一八七一 - 一九二二)は、嫉妬を愛の不幸な結果と考えることを止めます。彼は、一つの価値転換を行うわけです。それは、嫉妬深くあるために愛するという転倒です。》

●生活法・文体を与える(文法なき文体)

(…)「様式を与える」は、「文体を与える」と言い換えることができます。文体は文法ではなく、また文法に還元不可能なものです。》

《この限りで〈文法なき文体〉が問題となります。つまり、習慣を前提としない生活法です。》

ニーチェは興味深いことを言っています。言語の類縁性を示す文法の機能、あるいは文法を共有する哲学的思考は、無意識の元に人間を支配し続ける、と。》

《ここでニーチェが言いたいこと、あるいは単に確認していることは、およそ次のような事柄です。

(1)論理学あるいは「論理学信仰」は、習慣あるいは経験のうちで形成された「事物信仰」をけっして解体しないということ。

(2)論理学は、すでに「われわれが定立した一つの存在図式」に従った文法、つまり習慣上の同一性信仰に合致した文法を有するということ。

(3)論理学化された意識と同様、論理学の無意識も、習慣によって準備された以上のものではないということ。つまり、それは新たな仮象を産出しないということ……等々。》

《「自己同一的A」は、〈人間は言葉を用いてしか何事かを語り考えることができない〉というこの---きわめて道徳的な言語信仰とでも言うべき---考え方にこそ、つまり、「文法機能による無意識的な支配と指導」に感染した考え方にこそ適用されるものです。これこそが、ニーチェが言う「事物信仰」を前提とした、すなわち〈与えられる文体〉を無視して言語や思考を文法機能へと平板化する考え方を前提とした立場以外の何ものでもありません。》

《言葉や思考を真に多様にするのは、習得した語彙の豊かさや地球上の言語の数の多さなどではありません。》

《そうではなく、反対に文体だけが人間の言語と思考とを多様にできるのだ、と考えてみてください。〈文体を与える〉とは実はこうした意味をもつのです。しかし、何に対して文体を与えるのでしようか。》

(…)それは、一つには諸感情の連鎖に「文体」を与えるということになります。この連鎖は、あの所産的な自然主義のもとで構成された道徳的な因果連鎖(例えば、日常の価値感情)をなしていますが、それらを切断して非習慣的な「配列関係」にすること(例えば、すでに述べたような、長所と短所(愛と嫉妬、……)との相対的関係を切断して配列関係におくこと、等々)、これが様式あるいは文体の一つの役割であり、生活法の形式になりうるわけです。》

●差異の肯定(=自分自身との和解)

《差異を肯定すること----これが、いま私たちのすべての営みに欠くことのできない動詞ではないでしょうか。》

《つまり、差異を肯定することは、実はニーチェが述べていた、「自分自身との和解に達する」ための方法なのです。》

《この肯定性から何が知覚されるようになるのかが大事なのです。それまで見逃していた、あるいは見ることのできなかった点が、その対象のうちに知覚できるかもしれません。》

《では、差異の肯定は、差異を否定しようとする者たちをも肯定するのでしょうか。残念ながらあるいは不幸にも、必ずしもそういうことにはならないでしょう。》

《なぜなら、差異の肯定とは、多様性の肯定だからです。差異の肯定とは、自分自身も含めた他者の多様性の肯定のことなのです。したがって、差異の否定が多様性の否定に直結しているのであれば、私たちはその否定との闘争をやはり繰り広げる必要があるわけです。差異の肯定=自分自身との和解=他者の多様性の肯定。》

 

2019-10-24

●『超人の倫理』(江川隆男)に、小津安二郎が言ったとして、次のような言葉が引用されていた。

《どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。》

●この「流行」「道徳」「自分」という切り分け方がとてもおもしろい。そしてこの本では、ここで「自分に従う」と言われていることこそが反道徳的なものとしての「倫理」の問題であり、「超人」の問題である、ということが書かれている(まだ最初と最後しか読んでいないけど)

《倫理とは、個人のうちに〈このもの〉を見出したり生み出したりする力のことです。個人とは、こうしたものに触れて、生一般をではなく、一つの生を生み出すもののことなのです。そして、それは、特別な力ではなく、いつも日常のなかに存在している力、働きです。》

《諸個人のうちには、その「個人化」おいて人間を飛び越えたような、或る喜びの情動が、或る愛の感情が発動しているのです。それは、すべて〈このもの〉の本質である特異性に関わっているのです。それゆえ、私は、これを「人間の道徳」ではなく、とくに「超人の倫理」と名付けたいと思います。》

(…)存在するのは、ただ個人化する限りでの各個の個人だけなのです。しかし、それは、一般性が先にあるような個人のことではありません。つまり、〈私〉や〈個人〉といった言葉を前提として、最初から問題を立てているのではありません。例えば、なぜ「私」が存在するか、といった問いのなかで表象されるような「私」という個人のことではありません。》

(…)模範解答を拒否し、与えられた問題をすり抜け裏切り続けて、そうした問題よりも少しでも本質的な問題を構成し提起すること、(…)それこそがまさに哲学であり、倫理学なのです。》

《最初から抵抗や拒絶が問題なのではありません。一つの生を、つまり何よりも自己の生を肯定すること、そしていかにその肯定的な姿、すなわち様態を形成するのかといった問題が第一であって、その結果として、偶然にも抵抗や拒絶といった態度が生まれるのです。こうした生の様式を生きようとすると、おそらく個人は、相互に不可解なものとなるでしょう。》

●「自分に従う」とは、個人を超越した「善/悪」にではなく、〈この自分〉においてはじめて発生するような「よい/わるい」に従うということなのだ、と。

(…)例えば、或るショットをどのように撮るのか、一つのショットと別のショットをどのようにつなげるのか、等々。その多くの決定には、作品や監督の外部に予め存在しているような---それゆえ、各個の個人がもつ一つの生から超越していると言われるような---〈善/悪〉に従って作られたものにしないという意思表明が少なからず含まれています。》

《画家が、真っ白いキャンバスに一本の奇妙な曲線をいっきに引いたとしましょう。しかし、その画家は、何か不満なところがあったのか、それを破棄しました。次に、先ほどとは見た目にはどこが違っているのかはわからないが、似たような曲線を再び描いたとします。ところが、今度はその曲線にあきらかに納得した表情をその画家が見せたとしましょう。これは何を意味しているのでしょうか。》

《前者の線が破棄された理由は、〈善/悪〉に従ったものではけっしてありません。それは、何か破棄されるべき〈悪〉を有していたわけではないのです。その絵が破棄されたのは、それが画家にとって〈わるい〉線だったからです。》

《そして次に描かれた曲線が肯定されたのは、それが画家にとって〈よい〉線だったからです。では、この〈よい〉と〈わるい〉の規準はどこにあるのでしょうか。おそらくそれは、画家の無意識にあるとしか言えないでしょう。》

《それは、画家の無意識における或る観念なのです。それは、画家のうちで区別されているが、つまり差異をもっているが、しかし何か混乱した観念なのです。画家は、この潜在的な無意識の水準にある未分化な観念に従って、あるいはその観念を形成しつつ、それらの線を描いていくのです。言い換えると、この画家は、そこで初めて〈よい/わるい〉のもとで、ニーチェが言うような「個人化」の過程に入っていくことができるわけです。》

●我々は常に「自分に従う」わけではない。あるいは、「自分に従う」だけではない。重大なことは道徳(/)に従うのだし、どうでもいいことは流行(歴史的・社会的な現在)に従う。道徳や流行を無視することはできないし、それが望ましいというわけでもない。しかし同時に、それとは別の「自分に従う」という位相が常に働いている、と。

《たしかに私たちの人生は、その都度の歴史的・社会的な状態から離れては成立しえません。しかし、つねにこうした芸術的な生がすべての人の人生にともなっているのも事実ではないでしようか。》

《こうした意味を込めて、すべての人間は、〈よい/わるい〉に従う若干の芸術家なのです。》

 

2019-10-23

●「ラッコの家」(古川真人)を読んだ。(この作家としては)ちょっと軽めな感じで、とてもよかった。タツコさん(タツコさんの家)シリーズとして連作化してくれるといいな、と思った。

(単行本に同時に収録されている「窓」も、内容的につながりがあるので、連作と言えば言えるけど、方向性としては少し違っている。)

「窓」(古川真人)についての感想。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20180720

 

2019-10-22

●最近、YouTubeに、昔の日本映画がまるっと一本アップされているのをみつけることがあるのだけど、あれは、権利関係とかちゃんとクリアしているものなのだろうか。

そういう一本として『お嬢さん』という映画があった。1961年の大映の映画で、原作が三島由紀夫、監督が弓削太郎で、若尾文子川口浩野添ひとみ田宮二郎三宅邦子などが出ている。

https://www.youtube.com/watch?v=f9liMo04a5Q

なんとなく観始めたら、けっこうよくて最後まで観てしまった。特にすばらしく面白いとまでは思わないのだけど、昔の映画は(良くも悪くも、だが)ちゃんと「映画」なのだなあと思いながら、楽しんで観てしまった。いかにも「三島由紀夫が大衆向けに書いた」ような物語もそれらしくて、(良くも悪くも、というか、古くさく感じられるという意味で)「ちゃんとしている」。このような「ちゃんとしている」感は今の映画にはなくて、過去のものなのだが、そのようなものとして気軽に観る限りには、楽しんで観ることができた。若尾文子という人の、ポップアイコンとしての突出した存在ということも感じられた。

(この気軽さは観る側の「構え」の効果でもある。たまたま見つけたものを、気まぐれでちょっとだけ観てみようと思ったら、案外面白くて、結果として最後まで観てしまった、という時にのみ可能になる「楽しさ」であろう。この「気軽さ」は、最初の時点で相手への期待をちょっとだけ「軽くみている」ことによる「気の緩み(隙間)」があるからこそ生じるともいえる。)

(作品を観る時に、まず前提として作品への「尊敬」や「敬意」というものは必須であろう。まず最初に見上げるような尊敬や敬意があり、そこからくるこちら側の構えとして「緊張」がある。そのような敷居の高さに対する緊張した構えによってしか受け取ることのできない作品の「高さ(あるいは精度)」というものがある。しかし一方で、かならずしも尊敬や敬意を欠いているわけではないとしても、あらかじめ成立している「親しさ」や「信頼」によって生まれる構えとしての「気楽さ」というものもあって、このような(尊敬や敬意と共にある)「気楽な構え」によってしか感受できないものもあると思う。)

(だが、ここでいう「気軽さ」は、親しさや信頼をベースにしたものとはやや異なっていて、尊敬や敬意が薄められていることによって---観ている途中でそのような態度がひっくり返ることによって---発生するものであるという意味で、褒められた態度とは言えないだろう。ただ、舐めているとまでは言えないが、高い期待をもっていない、あるいは、強い危険性を感じていない、いわばノーチェックに近い状態で、その時のガードの甘さをすり抜けてするっとはいってくるものの「楽しさ」というものがあると思う。)

おそらく、自分から意思して『お嬢さん』という映画を観ようとは思わないだろうから、偶然ときまぐれということがなければぼくはこの映画を観ることはなかっただろうし、この楽しさを感じることもなかっただろう。

(とはいえ、この映画は、ぼくに何かしらの大きなショックを与えたというほどに面白かったわけではない。しかしそうではないからこそ「楽しかった」、と。)