2020-01-04

●名前は聞いていたが今まで聴いてなかった(あまりにもアイドルっぽすぎる感じなのでちょっと敬遠していた)のだが、ukka(元・桜エビ~ず)、よかった。

(キャッチーなメロディーをもつロックテイストのバンドサウンド---この記述がぼくのイメージするものの表現として適切かどうかの自信がないのだが---に対して割と苦手意識があるのだけど、間にアイドルという媒介を挟むとすんなりと受け入れられるのはなぜだろうか。)

ONIGAWARA × 桜エビ〜ず「それは月曜日の9時のように」 @ 新宿LOFT -New Album「octave」(8/21 release)-

https://www.youtube.com/watch?v=9jRnj6Q-4Vs

桜エビ〜ず「リンドバーグ」MV -New Album「octave」(8/21 release)-

https://www.youtube.com/watch?v=a8h_vOIaRWo

桜エビ〜ず「さいしょのさいしょ」@ 新宿LOFT -New Album「octave」(8/21 release)-

https://www.youtube.com/watch?v=qXhQEDSHJg0

桜エビ〜ず「214」MV -New Album「octave」(8/21 release)-

https://www.youtube.com/watch?v=p4gu1nWjBKI

E TICKET PRODUCTION - Right Now feat.水春(桜エビ~ず) ミュージックビデオ

https://www.youtube.com/watch?v=BDfjALfnbpM

2020-01-03

●自分が好きに決まっている映画を改めて観ることで、映画を観られるようになろうとするリハビリ中。『残菊物語(デジタル修復版)』(溝口健二)をU-NEXTで(DVDを持っているけど、配信で観られるならそっちの方が面倒でない)。

素晴らしいに決まっているが、素晴らしい。古くさい新派風の物語(歌舞伎俳優の話だが)が、映画というメディウムと出会うことでまったく新しい別物へと変質する。新派的な物語、新派の俳優、歌舞伎の舞台、それらのものを素材とすることで、映画が自分自身の潜在性を顕在化させる。その、変換する作用(あるいは、変換させる力)そのものをみているようだ。戦前の映画だが、その「変換作用」そのものの在りようは古くは感じられない。

2020-01-02

●芸術が社会に向かうこと、芸術が社会の一部であると認めることを、「芸術が社会に向かって閉じられる(あるいは、芸術が社会に閉じ込められる)」ことだと、ぼくは考える。そうではなく、芸術が社会に対して閉じられることによって、なにかよくわからない別のもの(あらかじめ名指すことの出来ない、未知とも既知ともつかぬなにものか)へと開かれる可能性が生じる、と考える。

(当然だが、社会的なことを否定しているのではない。それには還元されない別の次元---反社会的ではなく、非社会的な領域---があり、芸術はそこにかかわる、ということを言っているだけ。)

2019-12-31

●引用、メモ。佐藤雄一「リズモロジーの方へ3---セザンヌリズム 中」(「ART TRACE PRESS 3」)より。ここで言われる「準個物性」という概念は、セザンヌの作品に深く切り込んでおり、セザンヌについて考える時に非常に重要な示唆を与えてくれるものだと思った。

《(…)とりわけ晩年のセザンヌに顕著であるように、イリュージョニスティックに現実のミメーシスを描くというより、筆触や色彩そのものの自律性を重視するがゆえに、細部では個物が溶解します。したがってセザンヌの画面の中では、現実にある個物がある程度折り重なって、結果ある程度大きいひとまとまりの弁別可能な個物が存在します。したがって個物の数は少数となり、ドメインの数を極端に増やすことは不可能です。つまり、ドメインの数え方は可変であるものの、それによって変わるドメインの数はある程度せまい範囲にしぼられてきます。数え上げることが可能であるという意味で個物性が保存され、しかも一つの画面内で、その個物の数が極端に増えたり、一つもしくは無になることはありません。セザンヌ絵画のこの性質をこの稿では「準個物性」と呼びます。》

《(1)セザンヌが最晩年まで輪郭をある程度重視し、絵画のなかで現実風景の「大まかな弁別性」を保存する意図がみえること。(2)輪郭よりも筆触や色彩の自律性とそれにねざした絵画の全体論的な構成が優先される場合(パッサージュ)も、「準個物性」が存在すること。》

●また、下に書かれるような「(「作品」を扱う)テキストのあり方」についての記述にも強い共感をもつ。

《(…)この稿ではレイコフらの認知言語学における「暗喩」の定義を前提にします。しかし、認知言語学の「方法」を用いることはしません。つまり統計やプログラミング手法を用いてセザンヌの作品を実証的に、あるいは実証を装って、裁断することはしません。また美術史的知見を最大限尊重しますが、基本的にはそこからも逸脱したものとなります。本稿は、両者をふまえつつも、科学的実証からも美術史的なコンテクストからも逸脱した一つの「暗喩」となることを目指します。つまりこれを読むほかならぬあなたの身体的認知を更新できるか、その一点にのみ賭けるということです。》

2019-12-30

●絶対に自分が好きに決まっている改めて映画を観ることで、映画を観られるようになろうとするリハビリ中。

『ring my bell』(鎮西尚一)をDVDで。自分が絶対好きだと分かっているものを選んで観ているので当然といえば当然なのだが、すばらしかった。

(『スリップ』---DVDソフトのタイトルは『み・だ・ら』---や『ring my bell』を、もっと多くの人が観られるようにするには、どうすればいいのだろうか。)

●下のリンクは、最初に『ring my bell』を観た時の感想。そこには、《終盤の残り二十五分くらいで、ここまで来て、三角関係の軋轢みたいのとか、ドラマっぽいことをはじめちゃう必要があっただろうか》と書いてあるが、今回観て思ったのは、その部分があるからこそ、青春映画として素直に観ることも出来る作品になっているのだと思った。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20110528

●そしてまたすぐ借りてきて、繰り返し観たのだった。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20110530

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20110531

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20110601

(ぼくはアンチベストテン主義者---「ベストテン」という形式で作品を評価することに対して否定的---なのだが、過去に2011年の一度だけ「映画芸術」の年間ベストテンに参加したことがあり、その時に、アンチベストテン主義者として、三本のベストワンを選ぶということをやった。十本という決められた数の作品を順番に配置して示すという行為は、作品に対する評価というより、たんに評者が「自分のポジション」を示そうとするマウンティングとしか思えない---しかも、あらためて決められたフォームのなかでのマウンティングだとしか思えない---から。だから、最も良かったと思う作品が(たまたま)三本あった、という形にした。一位が三本、以上…、と。だけど、それはやってはいけないことだったようで---自分でも、そんな半端なことをするなら参加すべきではなかったと後から反省したのだが---その後一度も「映画芸術」からベストテン参加の要請はない。)

(その時に選んだ三本のベストワンは、鎮西尚一『ring my bell』、堀禎一魔法少女を忘れない』、いまおかしんじ『若きロッテちゃんの悩み』。)

●鎮西さんの映画は、現状、アクセスするのがとても難しくなってしまっている。Amazonでも『ring my bell』のDVDは品切れになっている。ただ、FANZAの成人作品として、『女課長の生下着 あなたを絞りたい』、『ザ・ストーカー』、『ring my bell』を配信で観ることができる。

(『女課長の生下着』、『ザ・ストーカー』、『ring my bell』の三本のうち、ピンク映画は『女課長の生下着』だけで、『ザ・ストーカー』と『ring my bell』はR15指定ですらないはず。)

(ちょっと前まで、YouTubeに『パチンカー奈美』が違法アップロードされていて、観ることができたのだけど---これもすごく面白かった---今はもう削除されている。)

●そして、また撮ってほしい。

2019-12-29

●映画を観られるようになるためのリハビリ。要するに、絶対に自分が好きに決まっているという映画を観ることで、疎遠となってしまった「映画を観る」という行為と自分とを近づけ、徐々に親しくさせていこうとしている。

赤ちゃん教育』(ハワード・ホークス)をU-NEXTで。十代の時に決定的な経験として刻みつけられてしまった映画が、相米慎二『ションベンライダー』とホークスの『赤ちゃん教育』だった。もう一つ付け加えるなら、鈴木清順ツィゴイネルワイゼン』。この三本は、五十回以上は観ているはず。

ぼくにとって「芸術」とは、抽象的な変換作用によって、現実的な時空(三+一次元)を超えた運動や変化を生じさせること、あるいはそれを捉えること、あるいはそれになること、なのだと思う。十九歳くらいでこの映画をはじめてVHSで観た時、あまりの衝撃に、そのまま連続して朝まで何度もリピートして観て、一体これは何で、ここでは何が起こっているのかと、途方に暮れたという記憶がある(一睡もせずにそのまま予備校に行って、デッサンを描く気にもならずぼんやりしていたと思う)。この時、ふいに「芸術」に触れてしまったのだと思う。

勿論、今観て、当時受けたショックと同等のものを受けるということはないのだが、その代わり、当時はただただ圧倒されていたが、今ではその時には見えなかった細かいニュアンスや複雑な構造を、前よりは細かく感受することができる。当時の自分が、この映画にあんなに魅了されたのかということに納得できる。