2020-01-17

●引用、メモ。最近の郡司ペギオ幸夫が言っていることでぼくが興味があるのは、以下のようなこと。多数の「できない」という可能性が潜在力となって、「できる」を支えている(それはつまり、「できる」という奇跡より、「できない」ことの潜在力の方がえらい、ということでもあると思う)。

100%イヤホンではなく、「むしろイヤホン」という程度でよい(かんかん!)

http://igs-kankan.com/article/2019/06/001177/

《できる可能性が奇跡的に選ばれて、できない可能性が排除されている。それだけではなくて、たぶん、できない諸々の可能性が「潜勢力」としてあるからこそ、その奇跡的に実現されたものが非常に安定的に存在できているんですね。僕は、化学反応「物質Aが、触媒αによって物質Bに変わる」といったことも、そういう性質を持っていると考えています。認知や感覚の問題が、物質にもある。》

《ちゃんとした条件を用意しさえすれば「AがαによってBに変わる」ことは完全にコントロールできて、そういった反応を適切に集めることで、AがBになって、Cを経由して……と繰り返すことで、最後はAに戻るサイクルができるはずだ。こういう考えのもと、皆、生命の起源を再現しようとしているわけです。》

《ところが、実際はぜんぜんうまくいきません。AがBになる、そういう一方向的なものはつくれる。つなげることもできる。でも、ずっと回り続けることを考えると、非常に難しくなって、できなくなってしまう。ちょっとでも環境条件が変わると、反応が不安定になって、反応経路が壊れてしまうからです。これはおそらく「αがあればAがBになる」とプラモデルのように考えているからだと思います。》

《本当は、ほとんどのAはたしかにBになる。しかし、タンパク質など生命を構成している物質にはAだけでなくA’、A’’、A’’’と少しずつ違う、ものすごくたくさんの立体構造がある。それらはαによってもBにならず、B’、B’’、B’’’というよけいなものもつくり出しちゃう。そしてAやBなどのメジャーなものがうまく作動しないときや、枯渇したときには、控えていたA’、A’’、A’’’やB’、B’’、B’’’がその反応を動かしている。そういうことなんじゃないかと思います。》

《つまり、ある原因を実現するための可能性として、目に見えない、データで算出されないものがたくさん控えていて、それによって、実現されている当のものが非常に頑健に維持される。同じ反応が維持されるというのは、実は異なるものの接続とまとめ上げで実現されている。》

《(…)異なるものが実現する同一性。それを再現するには、そのあいだにズレがあったり、時間が非同期だったり、ということを含めてデザインしないとできない。AからBへの反応の同一性は「ほかでもないAが、ほかでもないBに変わる」ことだと考えると、頑健につくれないんじゃないかと思います。》

●これは、『読書実録』の書評に書かれていたことともつながっていると思われる。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2019/12/09/000000

2020-01-16

20日東工大で講義をする予定があるので、そろそろ、気持ちを少しそちらの方へも向けていかなければならない。とはいえ、以前、院生に向けてやった講義とほぼ同じ内容を、今度は学部生に向けてするので、前のスライドを見直して、ところどころ修正するくらいで大丈夫だと思う。

それよりやらなくてはいけないのは、すっかりひきこもりモードになっているので(何日も近所のコンビニくらいにしか外出していないし、何日もひげを剃ってもいない、風呂は---頭をリラックスさせるために---毎日入っているが)、少しずつこころを「外に出る」モードに向けていくということの方だろう。

睡眠時間を、昼夜逆転から少しずつずらしていくとか。

2020-01-15

●メモ。『エドワード・ヤンの恋愛時代』(原題、獨立時代)がYouTubeで観られる。94年製作、台湾のITバブル期の雰囲気。

エドワード・ヤンの恋愛時代」(Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%81%8B%E6%84%9B%E6%99%82%E4%BB%A3

独立时代(1/2)YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=kgpX6efo5Gk

独立时代(2/2)YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=TSq3Q8I6fYY&t=44s

●あと、かなり前にもリンクを張ったけど、エドワード・ヤンの未完のアニメーションもすばらしい。

楊德昌導演未完成的最後遺作-追風樣片 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=HdWAc5a19_A

●この日記に「新人小説月評」のことばかり書くのはつまらなくて自分でも嫌なのだが、今のところそればっかりやっていて他にネタがないので、また書く。

どのみち「月評」は、短い字数、限られた時間のなかで多くの作品について評するのだから、ある程度暴力的なものになることは避けられない。むしろそれを避けているかのようなポーズをとることの方がよくないと思うので、まあ、「あえて暴力的に」やっていくしかないと思う。作品によっては、一言コメントみたいな感じでばっさり切るしかないこともある。

ただ、一言コメントみたいに切ると言っても、そのためには、一言でその作品についてなにかしら(最低限その核に触れるような)妥当性のあることを言う必要があり、そのためには、「ここを突けばそれができる」という適切なツボをみつけだす必要がある。そして、そのようなツボを探し出そうと探索することは、その作品について詳しく記述するために丁寧に読むことに比べて、楽だということは全然ない。けっきょく、同じくらい頭を使う。(字数上)適当に切って捨てたようにしかみえない一言コメントにしなければならない作品でも、そのツボを見つけるために、再読、三読し、熟考しなければならないこともある。そして、そうしても、結果あんまり良いツボを見つけられなくて雑なコメントになり、落ち込む、ということもある。

(雑に切って捨てるような一言コメントこそ、締め切りギリギリまで粘って考えた結果だ、ということになりがち。)

 

2020-01-14

東京ステーションギャラリーの坂田一男展が26日まで、「新人小説月評」の締め切りも26日。「月評」が締め切りよりも一日はやく終われば、最終日に観に行ける。あるいは、途中で一日くらいの余裕がつくれそうだと判断できれば、そこで観に行ける。

(最寄り駅→東京駅は一時間ちょっとくらいで、おそらく座れるので電車のなかで作業できるが、東京駅→最寄り駅は座れないし、かなり混むので作業できない。)

(今月は対象作が多い。毎月こんなに大変ではないはず。)

豊田市美術館の岡﨑乾二郎展は、26日以降、2月7日以前の間に観に行くしかない(7日は文芸誌の発売日)。前乗りで一泊して、一日かけてじっくり観たい。

2020-01-13

●MVの予算規模の明らかな変化によってバンドがブレイクしたということがよく分かる。

ニガミ17才 / 幽霊であるし(2020/01/12)

https://www.youtube.com/watch?v=Br6BYskyOHw

ただ、ほくとしてはこっちのMVの方が好きだけど(約一年半前)。

ニガミ17才 / 化けるレコード(2018/07/17)

https://www.youtube.com/watch?v=f0vd-ELcz8Q

2020-01-12

●ひたすら「新人小説月評」の対象作品を読んでいる。それが良いものであろうと、悪いものであろうと、それぞれの作品(作家)にはそれぞれに個別性があり、その個別性をちゃんと受け止めようとするのは、思っていたよりも大変なことだということが分かった。誇張した言い方になるが、たとえ字数が少なく、一篇の小説に対してわずかなことしか書けないとしても、十本の小説を評するためには、十冊分の書評を書くのと同じくらいの頭を使う必要があり、その上で、それを凝縮したり、短く切り詰めたり、あるいは(あえて)切り捨てたりするしかないみたいだ。

(いっぺんにたくさん読むと、個々の小説についての記憶の解像度が下がってしまう---細かいところを忘れてしまう---ので、また読み直したりする必要もでてくる。)

小島信夫が、「人は選考委員になると、まるで選考委員のように小説を読むようになるからつまらない」と言っていたと保坂さんから聞いたことがある。選考委員のような権威も権力もないが、「まるで評者であるかのように小説を読む」ことは避けなければならないと思っている。

2020-01-11

テレビ東京の、『コタキ兄弟と四苦八苦』第一話。『逃げ恥』、『アンナチュラル』、『獣になれない私たち』などの脚本家、野木亜紀子の新しいドラマシリーズ。第一話の監督は山下敦弘だった。

一話完結の、軽めのシチュエーションコメディで、第一話は、人物の関係や設定や舞台の提示に、軽く一波乱加わって、終わり、という感じで、まあ、普通に面白いかなあ、とうくらいだった。一話は離婚をめぐるエピソードで、予告によれば二話は結婚式に関するエピソードのようだから、全体を緩く「結婚」というテーマが貫いているのかもしれない。

そうではないとしても、野木亜紀子という脚本家は、構造的にとても美しい脚本を書く人で、たとえば『アンナチュラル』も基本的に一話完結だが、全体を通してみると非常に綿密な構造が仕組まれていたのだから(たとえば、第三話がとても見事な反転的構造をもつ話なのだが、その第三話と最終話とが、またきれいな反転的関係になっている、など)、「コタキ兄弟…」もまた、話数が進んで行くにつれて、複雑で美しい(意外な)構造があらわになっていくという展開を期待したい。

(野木亜紀子の脚本の「構造的な美しさ」とは、海外ドラマとかによくある、視聴者の関心を引きつけ続けるための「上手な脚本マニュアル」みたいなものとは違って、一通り---一話分なり全体なりを---観終わった後に、頭のなかで細部と細部との響き合いが起こり、通時的な物語の展開とはまた別の、超時間的な関係性が浮かび上がってきて、それがとてもきれいで、面白い形をしている、ということ。この、構造的な美しさがもっとも際立っているのが『獣になれない私たち』だと思う。)