2020-01-24

●まず、論理的に明快に記述すべきであり、考えるべきだ、ということを主張し、曖昧さ、ほのめかし、直観的な飛躍、無関係に見えるものたちの混交、比喩、持って回ったように蛇行する記述などを、「詩的(ポエム)」とか言って軽くみる人がいる。でも、多くの場合、そういう人が用いる「論理」とは、あくまで古典物理学的な世界(世界観)を基盤とすることで成り立っている「論理」である場合が多い。

しかし、たとえばだが、相対性理論量子論が完成してもはや百年以上経っている今日においてもなお、古典物理学的世界観を当然として前提とするような「論理」によってすべてが語れる(説明できる)とは、ぼくには思えない(相対性理論古典物理学だが)。世界はかつて考えられたような古典物理学的なものではないと分かっているからこそ、従来の、いわゆる「論理」では捉えられないものを思考せざるを得なくなっている。そしてだからこそ、従来の意味での「論理」を逸脱する形で行われる記述や思考や実践が必要になっている。

(勿論、相対性理論量子論も、隙のないがっしりした「論理」によって組み上がっている---そこに曖昧さも飛躍もほのめかしもない---わけだが、それによって、その結果として示される「世界観」が、従来の古典論的な世界観を暗黙の前提とした論理では説明できないものになっている、故に世界は従来の常識的「論理」では捉えられなくなっている。論理は常識を背景として持っていて、我々が「常識」という時、それは古典的世界観が基盤とされている。たとえば、「同時(同時性)」という概念は、通常、我々が論理的に考える時に常識として前提にできる概念だと思われているが、この常識---前提---は相対性理論によって破壊されている。)

故に、物理学者でも数学者でもない我々(わたし)が、それでもなお、この世界についてなんとかして思考しようとする場合、そこに(従来の、常識的な意味で言えば)非論理的に見えるもの、論理的に破綻しているようにみえるもの、あきらかに間違った---トンデモな---言い方を用いて表現するしかないもの、意味不明な言い方を通じて表すしかないもの、ほのめかしとしてかろうじて語れるもの、などが混じってくることは、必然なのではないか。

 (それらを避けようとすることでかえって間違った方向へ向かってしまうのではないかという気がしている。)

(論理的な思考---古典論的な、従来通りの---を否定しているわけではない。それは必要だが、それだけでは足りない、ということ。)

2020-01-23

●土曜日に一日だけ、展覧会を観に行ける時間がつくれそうなのだが、風邪のひきはじめのような症状が出てしまっている。二日間、なるべくおとなしくしていて、土曜には治っているといいのだが。

(年齢のせいか、最近の風邪は、かすかな徴候ではじまり、じわじわとゆっくり深まっていき、ピークを過ぎた後でもゆっくり退潮していく感じで、寝込まなければいけないのは半日か一日くらいなのだが---寝込まなくて済むこともしばしばで---なんとか動けるけどどうも体調が悪いという感じがだらっと一週間くらいつづく。症状は軽いが長引く傾向にある。この感じだと、土日くらいにピークが来そうな気もする。)

2020-01-22

●教育者はよく、特別な才能をもった人や、特異な芸風(スタイル)を確立した人の名前を挙げて、「誰でもが○○のようになれるわけではない」とか言って、(極端な、ヘンなものにかぶれるのはやめて)、凡庸である「我々」は、まず、とりあえずはスタンダードなやり方を学べ、という形の抑圧をかけてくる。

(社会のなかで、そこそこ幸福に暮らすためには、この抑圧を受け入れることが正しいのかもしれない。ただ、ぼくにはそれは我慢できないことだった。)

「誰でもが○○のようになれるわけではない」のは当然のことだ。結局、私は、(一つの個別性---個性ではない---としての)私自身にしかなれないのだから。しかし、一つの個別性としての「私自身」になる過程として、ある極端な、偏った「(私とは)別の在りよう」に「かぶれる」ことは悪いことではないと、ぼくは思う。というか、それはほとんど避けられない必然なのではないか。

(ある極端な、偏ったものにかぶれることを通じて、私は、けっきょく個別である私自身にしかなり得ない---私自身としてしかあり得ない---ことを知る。「まずはスタンダードなやり方を学ぶ」ということからは、一般性と---個体としての私における---そこからのズレ、くらいの認識しか得られないと思う。)

すくなくとも芸術においては、そのもっとも優れた(飛び抜けた)ところと、そのもっともあやうい(弱い、あるいは危険な)ところとは、ほとんどの場合同じ場所にあり、不可分である。それが、どちらとして出てくるのか(その「同じところ」が、長所=奇跡として出るのか、短所=無力としてでるのか)は、その場次第、どっちもどっち、神のみぞ知る、だろう。

しかし、実はその短所=無力こそが可能性の源泉であり、だから、短所を削れば、その分だけ、長所(可能性)もまた削られて、減っていくのだと思う。

2020-01-21

●一話、二話を観逃しているが、『映像研には手を出すな!』第三話を観た。監督は苦手な湯浅政明だけど、おそらく原作のテイストの再現を重視しているためだと思うけど、湯浅政明臭はかなり薄まっているのでぼくにも観やすい(でも、うっすらだけど湯浅感はちらちらとある)。

原作は読んでいないのだけど、これはマンガだから成り立っているというところがけっこうあるのではないかと感じた。マンガからアニメへのメディウムのトランスレーションがあることで立体化している部分があるのではないか。これをアニメでやってしまうと、(アニメからアニメへと横滑りするだけなので)あまりに自己言及的になりすぎるというか、のっぺりとした内輪ノリにみえてしまうのではないか、と。

三話だけしか観ていないせいかもしれないが、割と平板だという印象を受けてしまった。

●OPがchelmicoで、おおっと思った。曲のタイトルが「Easy Breezy」なのだけど、このタイトルからはどうしても宇多田ヒカルの方が連想されてしまう(すごく好きな曲)。

Utada - Easy Breezy

https://www.youtube.com/watch?v=RpqTJySA5Sc

2020-01-20

東工大で講義。講義の後の感想のシートに、「今までそんなことを意識してアニメを観ていなかった、この講義で聞いたことをふまえて、改めてもう一度作品を観直したい」と書かれているものがいくつかあって、それは素直にうれしかった(まあ、講義の感想のテンプレの一つかもしれないが)。去年まで高校生だった(浪人かもしれないが)一年生が相手の授業だったので、彼、彼女たちのなかで新しい何かが開かれるきっかけになればいいなと思う。

(何かを「分かったような気になる」のではなく、自ら進んで、作品を観たいと思ったり、勉強したいと思ったり、何かを作りたいと思ったりするような、刺激となるような何かになればいいのだが。)

大学で講義するという機会は年に二、三回くらいはあって、そのたびに、そこで自分がなにをすべきなのかよくわからなくて戸惑うところがある。ぼくは、いわゆるアカデミックな専門分野のようなものを持たないので、知識を伝えるというようなことは、ぼくのすることではない。それと、ぼくは過去に「良い教師」という存在と巡り会ったことがなく、「教師」という存在に対する拭いがたい不信感や軽蔑のようなものが---若い頃よりはずいぶん抜けたと思うけど---底に染みついてしまっている。中・高生の頃のぼくは、死んでも教師のような人種にだけはなりたくないと思っていた。今でも、「あたかも先生であるかのように話す(解説する)人」は苦手だし信用できない。

(人を、「○○先生」と呼べないのは、ぼくにとってそれが蔑称だからだろうか。)

(大人になってから、「教師をやっている良い人」に出会ったことは多々あるが、若いときに自分にとって「良い教師」と思える「人」には出会えていない。ぼくにとって教師は常に「作品」であるか「言説」であり、基本として自分勝手なつまみ食い的独学しかしていない。そしてそのことは自分の大きな「弱点」だと思っている。)

(しかしそれと同時に、掟の門の番人のような、あるいは「○○警察」のような態度で「教師」であろうとする人への軽蔑を抑えることも難しい。)

おそらく、ぼくが「講義」としてやっているのは、自分が考えたことや感じたことをプレゼンして、「ぼくはこれをこう考えると面白いと思うんだけど、どうかな…」と問いかける、ということなのだと思う。そういう意味で「教育」ではないのではないか。ぼくは「教育」と相性がよくない。よく「教育」されていないから。

2020-01-19

テレビ東京、『コタキ兄弟と四苦八苦』第二話。一話目で小ネタ1、二話目で小ネタ2を繰り出して、終わり間際に、小ネタの背後にそれと関連する大ネタの在処を匂わせた、というのが二話までの展開だろう。次の第三話では、これまでの意外な細部が伏線として前景化しつつ、全体の構図がくるっと転回するような展開を期待したい。野木脚本ではけっこう三話目がキーになることが多いように思う。

(案外、今回はのっぺりと進む、という可能性もありそうだが。)

野木亜紀子の脚本のドラマには、NHKが製作した『フェイクニュース』という作品もあるのだけど、このドラマをNHKは配信していないので、観たいのに、観られない(新井浩文が出ているからなのだろうか…)。