2020-03-08

●弱音や愚痴など。

(「評を書く」というのは一見、上から目線で偉そうに作品を切っているようにみえるが、しかし主観的には---あくまでも「主観」だが---多くの作品たちにいいように振り回され、切りつけられ、傷つけられた末に、息も絶え絶えのいっぱいいっぱいで、それらに対してなんとか反応を返している、という感じなのだ、という言い訳。)

(毎月、その大半が未知の作家のものである、新しい小説をたくさん読んで思うのは、それぞれの作家にとっての「小説」というものの捉え方---それぞれの作家の小説に関する考え方や、向かい方、作家と小説の関係、小説のありよう---は、当然と言えば当然だが、それぞれに大きく異なっているということだ。つまりそれらはほとんど別物で、それを「小説」という大きなひとくくりとしてまとめることに既に無理が生じているように思う。だからそれらを、特定の評価軸や秩序のなかに配置するというようなことはできなくて、それぞれの相手---小説---にあわせて、その都度その都度、個別に、それにふさわしい当たり方や、受け止め方を探りながら読んで、それにふさわしいように個別に反応する努力が必要だ。、でも、それはあくまで努力目標であり、それが完璧にできるわけではない。というか、できる人など---原理的に---どこにもいないと思う。それは能力の問題というより、作品とは---と同時に「読者(評者)」もまた---そのくらいにそれぞれ「個別的」なものだということだ。)

(どこから飛んでくるのか事前には分からないので準備の姿勢をとることもできない状態で、短期間のうちに、多くの小説についてそれをするのは本当に大変だ、という愚痴。)

(とはいえ、ただ「言葉で書かれている」という程度の共通点しか持たない多くの異なるものたちを、大きな風呂敷のようにしてざっくり包摂してひとくくりに「小説」としてしまえるところに、「小説」というジャンルの歴史的な力があるということかもしれない。)

(作品が個別的であることと同じくらいに、読者もまたそれぞれ個別的な存在なのだから、「正しい読み方(評価)がある」という考え方には同意できない。勿論、「あきらかに間違っている」ということはある。)

 (小説を読むということは、自分の身体をそれなりに深い部分までその小説に預けるということでもあるので、体質的に「合う」「合わない」という問題が---「合う/合わない」と「良い/悪い」とは違う---必然的に生じる。読む側としては、いろいろな方向から探りを入れながら、できるかぎり小説の側の波長に「合わせる」努力しつつ読みすすめるのだが、どうしても「合わない(合わせられない)」作品はある。通常そういう場合は読むのを中断する、あるいは断念するのだが、「評を書く」という前提で読む場合そうはいかない。どうしても「合わない(合わせられない)」ものに当たって、それでもその小説を読みすすめなければならないときは、身体的にもメンタル的にも大きな負荷がかかり---辛い、辛い、とつぶやき、逃げたい、逃げちゃ駄目だ、逃げたい、逃げちゃ駄目だ…とつぶやきながら読む---そして、少なくないダメージを心身に負うことになる。正直しんどい。場合によってはそのダメージは数日にわたって尾を引くこともある---「合わない」小説をなんとか最後まで読んだ後は調子がおかしくなって次の小説になかなか入っていけなくなる---ので、とても辛いのだ、という弱音。)

 (じっくり考えている時間的な余裕はなく、文芸誌発売から締め切りまでの期間で、ある程度反射的に対処するしかないのだが、それにより、自分の反射神経の届く限界、感覚的、知的的蓄積の浅さ、守備範囲の狭さ、あからさまな弱点、などを、意識せざるを得なくなる。)

(作品というのは基本的に人に優しくない。人をいいように振り回し、揺さぶり、傷つけ、一方では、必死にすがりついたとしても、それを乗りこなせない者を容赦なく脱落させ、置き去りにしていく。勿論、それが面白いのだが、ついて行きたくない、ついて行けない、という人は、無理してついて行く必要はない。ついて行きたくなくても「作品に掴まれてしまう」ことはあるのだが。)

(たとえばぼくはアニメ監督の湯浅政明の作品がどうしても苦手=合わない---『映像研には手を出すな!』は幸福なその例外なのだが---ので、『DEVILMAN crybaby』も『四畳半神話大系』も最後まで観られていない。何度か挑戦したが---つまり、ついて行こうとはするのだが---どうしても途中で「これ以上はもう無理」となってしまう。とはいえ、それらについてなにか「評を書く」という必要が生じた場合、無理を押して最後まで観る必要---責任---があり、そしてそれはとても辛いことだ。そしてその上で、たんなる感情的な否定---辛かった、きつかった、しんどい---ではない、なにかしら根拠や意味のある言葉をひねり出さなければならないのも辛い。で、そういうレベルで「合わない」小説が、月にいくつかはあるのだ、という自己憐憫。)

(アルコールの量は増える。一日の内の何時間かは、呑んで心身をリラックスさせてやる必要がある。酔っている間は幸福。)

2020-03-07

●「コタキ兄弟と四苦八苦」、第9話。ここへきてこのドラマの中心に「おやじ」がいることの意味が見えてきたように思う。この世界(この世界における多くの社会)が、男性中心的なものであることは間違いないだろう。男性中心的な社会において、「おやじ」は何重にも下駄を履かされた社会的優位性をもつ。だが、(勿論、未だ充分であるとはとても言えないとしても)男性中心的な上げ底にほころびや崩壊の兆しが至るところに見えてきていることも事実であろう。そのような社会的「上げ底」を外されたところにみえてくる、いわば「裸のおやじ」の姿を描き出そうという意図が、このドラマにはあるように思う。

裸のおやじといっても、彼らは脱社会的な存在(アウトロー)ではなく、男性中心的な社会のなかで、高いところに昇ったままはしごを外されるように、その社会的上げ底を外され、社会のなかで社会的な位置を失っているというような状態だ(彼らは、上げ底を外されてはいるが、上げ底されていた頃の残像が残ってもいる)。それは、社会的優位性を失っていると同時に、社会的な拘束も緩くなっているということでもある。

一時間という時間を千円で売るなんでも屋である「レンタルおやじ」とはそのような存在だと思われる。なんでも屋とは、なんでもできる人ではなく、特別なことはなにもできない人であり、富や特別な知や社会的な地位やコネクションをもたず、自分の頭で考え、自分の身一つでてきることしかできない人のことだ。身一つといっても既に若くはなく、詐欺師を追いかけて捕まえることすらできない(走ると息が切れる、四十肩で腕が上がらない)。上げ底を外された「おやじ」は、若い男性に対してたんに身体的に劣った人でしかない。「レンタルおやじ」は、上げ底の残像のなかでそのことを思い知る。そのような状態の「おやじ」になにができるのか、そのような状態の「おやじ」とはどういうものなのか、そのような状態で「おやじ」はどうあるべきなのか。

おそらく、そう遠くはない将来、おやじに対してなされている社会的上げ底の多くは(完全にではないとしても)瓦解するだろう。「コタキ兄弟と四苦八苦」は、そのような未来の「おやじ」の姿を描く、未来の「おやじ」の可能性と倫理についての物語ではないか。

(今回はわりとありがちな時事ネタなのかと思って観ていると、終盤にぐぐっと深くなり、ねじりも加えられ、さすがに一筋縄ではいかないと唸らせられた。そして、9話によって8話がまるまる伏線になっていたことを知る。)

2020-03-06

●本をたくさん買ってしまった。月のうち半分近くは、文芸誌に載っている小説をひたすら読み続け、そのことばかりを気にかける事に費やす期間があり、もう、その時期が目の前に迫っているというのに。

(つまりこれらの本は---既に読み始めているものも何冊かはあるが---買ったけどしばらくはお預けということになる……。)

 

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2020-03-03

●『映像研には手を出すな!』、9話。芝浜は水の町なんだな。今回は、プロデューサー金森氏が辣腕を振るう回でもあると同時に、金森氏と浅草氏との間に化学反応が起こるという回でもあった。

この物語では、現実的にはちょっと考えられないくらいの、クリエーターとプロデューサーとの理想的な関係が描かれている。金森氏は現実主義的ではあるが、クリエーターが最も大事にしている部分に踏み込んでまで口出しすることはない。しかるべきクオリティの作品が納期までに完成するならその中味はクリエーターに任せる(間に合わなそうな場合は介入するとしても)。しかし、その行動を通して、クリエーターに対して(おそらく無意識のうちに)重要なサジェスチョンを行ってもいる。つまり、作品の内容にも影響を与えている。

今回、金森氏は、学校から遠いラーメン屋まで、映像研のメンバーを食事に誘う。その行為は、ラーメン屋店主が商工会の会長であり、アニメ好きでもあることから、次回作の資金源とつながる可能性があるということから、なんらかの関係をつくっておこうということだろう。しかしここで、ラーメン店までの長い道のりを歩き、芝浜の町の特徴的な地理や風景、その成り立ちに触れることで、監督である浅草氏は強い刺激を受ける。浅草氏には元々、芝浜の町を舞台にしたいという構想はあったようだが(既にスケッチブックにスケッチがある)、そうだとしても、この時のラーメン屋への道行きが彼女のモチベーションやインスピレーションに火をつけたことは確かだろう(だからこそ彼女は、ラーメン屋からの「帰り道」で、次回作の舞台を芝浜の町にすると「決めた」のだと思われる、もともと複数あるアイデアの一つだったのかもしれないものが、ラーメン屋への道行き---具体的に風景に触れること---によって「これだ」と確信されたのだろう)。つまり、金森氏は「口を出す」というようなことではなく、このような行為(町に連れ出す・一緒に町を歩く)を通じて、作品の内容にまで深くコミットしていると言える。

また、この回ではもう一つ、金森氏のふとした一言から、浅草氏が重大な気づきを得る場面がある。金森氏の何気なくもらした「演出ですか」という一言が、浅草氏の創作に(少なくとも「意識的」には)新たなフェーズを開くことになる。自分の頭のなかにある世界やメカニックの「構造と挙動」とを的確に示すために要請されるものとして「演出」を意識する。

ここで示されるは、プロデューサーとクリエーターの間で生まれる相互作用であるのだが、その相互作用とは、必ずしも双方の「対話」や「折衝」から生まれるわけではない。金森氏が浅草氏や水崎氏を連れ出したり、ふと漏らしたある言葉が、たまたま、浅草氏のある部分にぴったりと刺さったりする。共同作業によってしか生まれない何かは、(対話や折衝よりも)そのような、事前にはコミュニケーションを意図していなかったかもしれない行為や言葉が結果として作用する、という形で生まれる部分が多いのではないか。

(金森氏の過去のエピソード---潰れてしまう親戚の雑貨屋---の部分は、ちょっと説明的だったかなあ、と感じた。)