2020-05-07

●ドローイング(3)。紙(A4)に、ボールペン。平面(紙)をもとに立体化したもの(双子のコンストラクション)を、再び、輪郭的に平面化する。

(異なるスケールの間、異なるパースペクティブの間、異なるメディウムの間、異なるディメンションの間、異なるレギュレーションの間、を、自らをメタモルフォーゼさせ、時空を反転させながら移行してゆき、それらを混ぜ合わせてしまいもする「精霊」とともに---できるだけ---あること。)

(配信で映画を観るための二時間程度の時間すらなかなか取れなくて辛い。双子のコンストラクションもドローイングも、短い時間でぐっと集中して直観的にやるので、忙しいなかのストレス解消みたいな側面もある。手を動かすのは、頭の使い方として、言葉を使うのとはまったく別の回路なので気分を変えるのにいい。)

 

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2020-05-06

●不眠というわけではないし、むしろ睡眠時間は長い方だが、規則的にちゃんと眠るのが難しい。長時間ぐっすり寝るのが難しく、一日のうちに、たとえば四時間と二時間、という風に、夜と昼との二回に分けて寝ることも多い。

子供の頃から眠るのが下手で、よく寝損なう。特に寝入りばなに起こされると駄目で、いまにも眠りに入ろうかというその時に物音か何かで起こされてしまうと、そのまま一晩ほとんど眠れなくなってしまったりする。

「自分は寝るのが下手でよく寝損なう」という意識が強くあるので、寝ようと意識すると、どうしても過剰に身構えてしまって、かえって眠れなくなる。できるならば、寝ようとは思っていなかったのに、いつの間にか寝入ってしまっていた、という感じで眠りに入るのが望ましい。だから「寝ようとする」時、できるだけそれを意識しないような状況をつくろうとする。

まず、灯りは消さない。灯りを消すという行為それ自体が、あきらかに「眠りのための準備」であり、それによって眠ろうとする意識を顕在化してしまうから。おそらく、ここ数十年の間、灯りを消して寝たことは数えるくらいしかないと思う。そして、YouTubeの動画とか音楽とかを流しっぱなしにしておく(音楽よりも、抑揚の少ないしゃべり声が流れている方がいいみたいだ)。望ましい眠り方は、本を読んだり、動画を観たりしていて、知らないうちに寝てしまったという状態だから、できるだけそれに近い感じの雰囲気をつくることで眠ろうとする。

もっとも問題なのは、布団に入るという行為だ。質の良い眠りを得るためにはちゃんと布団で寝る必要がある。しかし、布団に入るというその行為それ自体が、どうしたって「今から眠ろうとしている」という意識を惹起させる。できるだけ、なんとなくだらっと寝転ぶ、みたいな感じで布団に入る。

(実際、布団を敷かずに、床にごろっと直接まるまって寝ていることもよくある。そういう方が眠りやすいし---昼寝のような場合---そういう眠り方の方が心地よい。ただ、それだと長時間は眠っていられない。)

目をつむった後も、眠ろうとするのではなく、映像(静止画ではなく、動いている映像)をできるだけ具体的、詳細、高精細にイメージしようとする。上手くいくと、そこでイメージした映像が、シームレスで夢に繋がっていって、眠りに入ることができる。

2020-05-04

フィロソフィーのダンスはとてもかっこいいし好きなのだけど、最近、ちょっと上手くなりすぎてしまって、アイドルとしての面白さがやや希薄になりつつあるような危惧を感じる。フィロソフィーのダンスの面白さは、四人それぞれがみんな「出自が違う」という感じで、それは、「アイドル」というなんでも包み込む風呂敷がなければ決して同じグループでは歌っていないような四人が、そのかみ合わなさにおいてかみ合っているバランス、ということだと思う。四つの色が同一平面上に並んでいるのではなく、バックグラウンドからして異なる四つの色が、ズレを含みながら、あっちのズレとこっちのズレとでいびつにバランスしているみたいな感じ。でも、上手くなるとどうしても統一感みたいなものが出てきてしまう。それは勿論悪いことではないのだろうけど、でも、ただ「かっこいい」となると「それがアイドルであることの意味は何?」みたいな感じにもなってしまいかねない。いや、かっこいいし好きには違いないのだが。

たとえば、2019年12月のライブと、2018年6月のライブの動画とを並べてみる(「シスター」という曲はとても好きなのだけど)。

フィロソフィーのダンス/シスター(ライブ・アット・スタジオ・コースト)

https://www.youtube.com/watch?v=75t6SLlTaI0

フィロソフィーのダンス/アイドルフィロソフィー(ライブ・アット・リキッドルーム 2018/6/16)

https://www.youtube.com/watch?v=lhLfSm6cAOk

sora tob sakanaを知ることを通じて、ハイスイノナサを知ったので、ハイスイノナサを聴くと、「まるでsora tob sakanaみたいだ」と逆行した感じで思ってしまう。ただ、ハイスイノナサsora tob sakanaとを比べることで、「アイドル」という(あらゆるもの---音楽的にというだけでなく、様々なカルチャー---を横断的に包み込むという意味で、あらかじめ「不純」である)メディウムの意味がみえてくる感じもある。

ハイスイノナサ"reflection"

https://www.youtube.com/watch?v=l_s8NV4aeuI

サカナ日記27日目 「広告の街」ダンス映像

https://www.youtube.com/watch?v=2uZDeLwB2V8

ハイスイノナサの、ある意味で「自閉症的な潔癖感」みたいな感じに、素直な(技巧的ではない)子供の声でメロディがのっかることで、その強い自律性を壊さないままで、それ以前にはみえなかった新しい局面が生まれている感じがある。たとえば、Maison book girlもいいと思うけど、Maison book girlの場合は、音と声(歌っている人たちのキャラや衣装やダンスまでふくめて)の組み合わせに意外性が少ないというか、音と声やキャラに、トーンとしてあらかじめ統一性をもたせている感じがあるのだけど、sora tob sakanaの、「ハイスイノナサ+子供の声」という組み合わせの方が意外性が大きく、ここにもまた、かみ合わない(ようにみえる)ことによってかみ合っている感じ(から生まれる新しい局面)があって、「アイドルであることによる創造性」は高いように思う。

 Maison book girl / cloudy irony / /MV

https://www.youtube.com/watch?v=zQpDoGzGMfY

(ただ、sora tob sakanaの最年長メンバーの寺口夏花は今年二十歳の年で--- sora tob sakana は2014年結成だ---声はまだ子供っぽい感じをキープしているものの、この感じがいつまで維持されるのかは分からない。)

●ちゃんと調べたわけではない雑な思いつきだけど、70年代くらいまでのアイドルの曲は「歌謡曲のプロ」がつくっているという感じで(例えば筒美京平とか都倉俊一とか)、80年代くらいになると、様々なアーティストがアイドルという素材を一つの「課題」のように与えられて、それをどう料理するのかという「料理の鉄人」のような感じで作られるようになり(例えば、山下達郎近藤真彦KinKi Kidsの曲を作るとか、大滝詠一松田聖子薬師丸ひろ子の曲を作るとか)、現在では「アイドル」は、アーティストやプロデューサーにとってもっと積極的な表現のための一つの「独自なメディウム(アイドルだからこそ成り立つこと、や、アイドルであることによる創造性をもつもの)」となっているのではないか。