2020-06-23

●昨日からの続き。『ラディカル・マーケット』の第二章「ラディカル・デモクラシー」から。なぜ《公共財に影響を与える個人が支払うべき金額は、その人が持つ影響力の強さの度合いに比例するのではなく、その2乗に比例するべき》なのか。

《なぜそうなるのかを理解するために、具体的な例で考えていこう。発電種は低コストの電力を供給することで、町のすべての住民に便益を与えるが、汚染も排出する。発電所の便益は、住民が電力に支払う価格に十分に反映されているものの、汚染によって生じる損害は不確実である。(…)政府は規制を厳格にすることもできる。規制が厳格であればあるほど、汚染量は減るが、電気代は上がる。そうだとすると、人々が汚染のことをどれだけ気にしているかが問題になる。この問題に答えを出すために、政府は国民投票を実施して、どの水準までなら汚染を許容できるかを人々に問うことができる。》

《ところが、このアイデアは、多数者の専制を生むことになる。ほとんどの人は汚染のことをそれほど気にしないだろうから、こうした人々が国民投票で勝つが、少数者の中には汚染を非常に気にする人たちもいるはずである。この集団には、喘息の患者、高齢者など、健康状態に不安のある人や、自然愛好家、アウトドア派など、自然環境を大切に考えている人、クリーニングや香水製造など、悪臭を遮断する設備をつくる必要に迫られる可能性がある企業の所有者などか入るだろう。町の全員の全体的な幸福、あるいは幸福の総計を考えるのであれば、少数者の選好の強さが、多数者の選好の強さを上回っているかどうかを判断する方法が必要になる。国民投票は多数決の原則によっているので、その役割は果たせない。》

《では、町は国民投票は行わず、野心的な実験をすると想像してみよう。どうするかというと、汚染を追加的に1単位増やすたびにコストが何ドル発生するか(言い換えると、汚染が追加的に1単位増えるのを避けるためにいくらなら支払ってもいいか)、市民一人ひとりに申告してもらうのだ。大半の市民は、ほとんど気づかないようなわずかな汚染は我慢しようとするだろう。しかし、汚染が増えれば増えるほど、汚染が追加的に1単位増える危険は増していく。市民には申告書が渡され、汚染が増えるのを止める価値がどれだけあるかを1ppmから2ppmに増えるとき、2ppmから3ppmに増えるとき、3ppmから4ppmに増えるときというように、順番に記入していく。経済学者はこうした数値を「限界費用表」と呼んでいる。この表に基づいて、市は汚染の価格を測定する。それこそが、この汚染を生み出すことによって生産できる電力の市場価格(コスト差し引き後)である。そして政府はこの汚染の便益表と、すべての市民が負担する総費用を比較して、適切な基準を決める。最適な基準は、汚染の次の1単位がもたらす便益が、すべての市民が負担する総費用によってちょうど相殺される点になる。》

《図2・1は、こうした関係を汚染量(単位ppm)の関数として示したものである。右下がりの線は、汚染を生む経済活動の価値を示している。発電所の能力には限りがあり、町はそれほど大量の電力は必要としていないので、価値は逓減する。そのため、発電量が増えれば増えるほど、正味の価値は下がる。》

f:id:furuyatoshihiro:20200628190503j:plain

《いちばん下の右下がりの線は、ある市民(名前をニルスとする)の限界費用を表している。ニルスはクリーニング店のオーナーなので、汚染から被る損害が不釣り合いに大きい。真ん中の右上がりの線は、ニルス以外の人の限界費用の総計である。いちばん上の右上がりの先は、すべての市民に発生する汚染の限界費用の総計であり、他の二つの右上がりの線を垂直方向で合計したものである。》

《ニルスが町に住んでいなかったら、汚染の最適量は右側の点線で示される点(点A)になる。ニルス以外の人に発生する費用と、汚染の便益が交差するところだ。しかし、一度ニルスが加わるとニルスが損害を受ける分だけ線の費用がわずかに上がり、最適水準は左の点線上の点(点B)まで下がる。》

《では、大気浄化基準が強化されてニルスの幸福が考慮されるようにするには、ニルスはいくら支払うべきなのだろう。ヴィックリー、クラーク、グローヴスによれば、ニルスは、自分が求めている汚染の現象が、町に住んでいる他の人たち(電力の最後の追加的な1単位がもたらす正味の便益を受けられない人たち)に課す費用を支払わなければいけない。この追加的にかかる費用は、汚染が点Bでなく点Aで発生していたら、つまり、(他の人たちにとって)その追加的な汚染が電力を1単位増やすために払う価値のある代償となる水準で発生していたら、他の人たちがどれだけの正味の価値を得られたかを表している。(…)こうした他の人たちがこの電力から得ていたであろう価値が電力生産の費用を超える分を、ニルスが支払わなければいけない。この量は、図にある影のついた三角形で与えられる。》

《三角形なので、全体の面積はBとAの長さの2乗に従って大きくなる。これがいわゆる「二次」の増加である。(…)この二次の増加をもっとよく理解するために、ニルスはクリーニング店を所有しているだけでなく、重い喘息も患っていてもニルスの被る損害は(各汚染量において)さきほどよりも二倍高かったと想像してほしい。ニルスがいるときといないときの2本の右上がりの線の差も2倍になる。すると、いうまでもなく、AとBの差が大きくなる(約2倍になったとしよう)。ところが、点Bでの垂直方向の高さも二倍になる。三角形の面積は底辺に高さをかけて2で割ったものなので、汚染の損害を2倍申請して、汚染の減少幅が2倍になると、ニルスが負担する費用は4倍になる。これを一般化すると、三角形の高さと底辺の両方が比例的に増えるため、個人が影響力を獲得するために支払う金額は二次のオーダーで増加するということになる。》

《(…)ニルスが負担する費用は線形的ではなく、二次関数的に増えなければいけない。》

●《個人が影響力を獲得するために支払う金額は二次のオーダーで増加する》という、この理屈、この「支払いのシステム」を「投票のシステム」へと変換すると、どうなるのか。二次の投票。

《日本では、銃規制や移民改革など、重要な問題について、ことあるごとに国民投票が行われているとする。市民一人ひとりに「ボイスクレジット」の予算が毎年与えられる。予算はその年の国民投票に使ってもいいし、ケンタロウのように将来使うために貯めておくこともできる。ボイスクレジットを票に転換するには、予算を使って、残高の範囲内で買いたいだけ票を買う。ただし、票を買うには、票数の2乗のボイスクレジットが必要になる。そこで、このシステムを「二次の投票(QV)」と呼ぶことにする。1票を買うには1ボイスクレジットを使う。以下、1ボイスクレジットを○1と表す(本文では「○」はフキダシのようなマークになっている)。○4だと2票(4の平方根)買えて、○9だと3票買える、という具合になる。平方根は「ラディカル」(「根」の別の言い方)とも呼ばれる。だから「ラディカル・デモクラシー」なのである。ラディカル・デモクラシーとは、ラディカル・マーケットの一種である。ただし、財が私的なものではなく、公共のものである点が違う。国民投票は、賛成票が反対票を上回る場合に承認される。》

《このシステムなら、選好の強さを投票に反映させられるようになる。現行のシステムには重大な欠陥があって、実質的には「イエス」か「ノー」か「どちらでもない」かの三つの選好しか示せないが、その問題が解消される。すると、二つの重要なことが可能になる。一つは、熱心な少数者が、無関心な多数者に投票で勝てることだ。これによって多数者の専制問題が解消する。そしてもう一つは、投票の結果は、ある小集団の幸福を別の小集団を犠牲にして最大化するのではなく、集団全体の幸福を最大化するものとなることである。》

《ある問題を最も強く気にしている人は、票をすべて買いたいと思うが、少ししか気にしていない人は1票も買いたいとは思わない。問題は、関心が高い人にとっては票の価格が安すぎるか、関心が低い人にとっては高すぎることだ。これを解決するには、すでにたくさん票を買っている人が次の1票を買うときの価格を、最初の1票を買う人よりも高くするといい。そうすれば、関心がほとんどない人でも少なくとも何票かは買おうと思うようになるだろうし、関心が強い人が票を買い占めないようにもできる。》

《ここで何よりも重要になるポイントは、各票数の総費用ではなく、次の1票を投じる限界費用が得票数に比例して増えることである。(…)投票の限界費用(厳密にいうと、これに1を足した値)は投票数と常に比例している。4票投じるときの限界費用(○7)は、2票投じるとき(○3)の2倍になり、8票投じるとき(○15)は4票投じるとき(○7)の2倍になる。》

《前に述べたように、多くの1人1票システムでは、2人の候補者のうちまだましなほうを選ばなければいけなくなることがあり、他の有力な候補が勝ったら大変なことになるという不安が循環して、全員が嫌っている候補が勝つ可能性が生まれる。》

《QVはなぜ、戦略投票が生み出す落とし穴にはまらないのだろう。自分の票を「死に票」にしないためには、2人の主要な候補のうち1人に投票するしかないという投票者の意識が、戦略投票の背後に働いていることを思い出してほしい。そこで、候補者を支持するためにも支持しないためにも票を投じることができて、複数の候補者に好きなだけ支持票(あるいは不支持票)を投じられるシステムを提案する。票の価値は二次関数的に変動するので、自分のクレジットを支持する候補者への投票と対立する候補者への不支持票に分けるほうが、支持する候補者だけにクレジットを使うよりもコストが安くすむ。すると、最悪のB候補が当選しないようにするためだけに最低のA候補を支持しようとしている投票者は、B候補に対する不支持をさらに強く表明したいと考えるようになる。こうした戦略投票は打ち消しあい、広く嫌われている2人の候補者は沈んでいくので、2人ほど嫌われていない候補者が浮上する。実際のところ、候補者が差し引きでプラスの票を獲得するには、他の大半の候補者よりも高く評価されていなければいけない。》

●(補遺) 『ラディカル・マーケット』は、VECTIONの議論のなかで西川アサキさんから教えてもらった。

https://vection.world/

2020-06-22

●集団的に何かを決める時に、全員に等しく一票が与えられて投票し、多数をとったものに決まるという投票のあり方(多数決)の限界というか、それへの不信を前々からずっと感じていた。たとえば、メカニズムデザインの研究をしている酒井豊貴は、単純な多数決とは異なる集団的決定のあり方として「ボルダルール」を提唱している。

多数決の代替案として最適な「ボルダルール」

https://diamond.jp/articles/-/96679

『ラディカル・マーケット』の第二章「ラディカル・デモクラシー」は、まさにその問題について書かれていて、「二次投票(QV)」という非常に説得力のある回答が示される。

●まず、多数決の何が問題なのか。

《(…)3人(アントワーヌ、ベル、シャルル)がルイ16世の身に起こりうる三つの結果に投票するように言われているところを想像してみてほしい。(1)斬首される、(2)王位に復権する、(3)民間人として追放される。結果の選好順位はそれぞれ違うとする。アントワーヌはルイ16世反革命を率いることを何よりも恐れているので、選好順位は斬首、復権、追放となる。王政主義のベルは、復権、追放、斬首である。シャルルは君主制を憎んでいるが、暴力も嫌いなので、追放、斬首、復権となる。最初に斬首と復権で投票してもらうアントワーヌはシャルルも復権より斬首を選好しており、そうでないのはベルだけなので、2対1で斬首が勝つ。次に、復権と追放で投票してもらう。アントワーヌとベルは復権の方を選好し、そうでないのはシャルルだけなので、2対1で復権が勝つ。そして最後に、斬首と追放で考える。ここは2対1で追放が勝つ。しかし、これらを考え合わせると、確定的な結果が出ない。斬首は復権に勝ち、復権は追放に勝つが、追放は斬首に勝つのである。》

《これでは誰が勝つべきかまったくわからなくなってしまう。問題は、アントワーヌ、ベル、シャルルが、三つの提案に対する関心の強さの度合いに基づいて投票できないことである。いまの投票システムでは、情報がきちんと伝わらない。票が伝えられるのは、ある結果を別の結果よりも選好しているということだけで、その人がその結果をどれくらい選好しているかはわからない。三つの結果が3人のそれぞれの幸福にどれだけ影響するかを直接測ることができれば、3人がより幸せになる結果を選べるようになる。一例として、ルイ16世が王位に復権するとアントワーヌ本人が斬首される一方、王が斬首されると、革命が起きて、3人とも、程度の違いはあっても、大きな害を受けるとすると、3人にとっては、ルイ16世を追放することが最前の結果になる。通常の投票システムでは、この結果を選ぶことはできない。》

《この議論はその後、ヴィックリーの門下生で、ノーベル賞受賞者で、おそらく20世紀最高の経済学者であろうケネス・アローが、有名な「不可能性定理」で形式化、一般化して、投票者が候補者を選好順にランク付けする投票ルールでは、この種の問題は克服できないことを示した。これに対し、市場取引では、お金をたくさん払うか、少なく払うかによって、財やサービスに対する選好の強さの度合いを伝えるシグナルを送ることが可能である点に注意してほしい。価格システムは効率的な結果を達成できるが、投票では達成されないと、大勢の経済学者が考えている重要な理由がこれである。》

●多数決がヒトラーによる独裁を招いた(多数決循環論)。

《(…)歴史学者のリチャード・エヴァンスは著書『第三帝国の到来』で、ドイツ国民のうち極右を強く支持した人は10%にすぎなかったとしている。だがヒトラーは、1930年の選挙で、政治システムは腐敗しており、国民の要求に応えていないとして抗議票を投じた人から、さらに10%の上積みをした。ナチ党はドイツ議会における中道右派の主要政党として、主導的な地位を獲得する。1932年の次の選挙では、多数の中流階級のドイツ人が、スターリン主義の赤いテロがドイツに波及するのを防ぐ最後の砦としてナチスに投票したため、ナチス議席は倍増した。その一方で、ヒトラーを恐れた多数のユダヤ人、少数者、労働者、左派は共産党に投票したので、ヒトラーが負けたら、共産主義が勝ってしまうという中流階級の不安がますます強まることになった。こうして相互不安、暴力、不信が連鎖する負のスパイラルが加速していき、翌年、ヒトラーは首相に任命され、ナチ党は独裁体制を確立した。》

ヒトラーは、民主的な制度を全廃させる前でさえ、反対勢力を弾圧しながら大衆の支持を拡大させていった。どうしてそんなことができたのだろう。ヒトラーは最初に左派と少数者集団の権利を制限する政策をとった。その多くはこうした空気の中で人気を集め、ヒトラーはドイツ主流右派の二つの有力政党と連立を組むことになる。いずれにしても、こうした集団は「少数者」であり、したがって嫌われ者で、危険な存在ですらあった。ところが、より伝統的なドイツの右派は読み違いをしていた。共産主義者社会主義者が政治の舞台から排除されると、伝統的右派が長く連携してきたカトリック系中道が次のターゲットにされたのである。それ以降、ヒトラーは伝統的右派を抑圧し、ナチ党内の反対勢力さえも封じ込めた。》

《それぞれの段階で、ヒトラーは政治機構に残っていた者から有効過半数をとりつけており、粛正は、民主主義の普遍的原理を損なうものだとしても、「民主的」だったともいえる。これが、政治学者のリチャード・マッケルヴィが提唱する「多数決循環論」のロジックである。多数者が少数者を搾取し抑圧しないようにチェックする機能がない多数決の原則は、狭い派閥による支配、さらには1人の強権者による独裁体制へと退行しやすい。》

●市場(オークション)の原理を政治(投票)に適用するためのロジック。ここの考えがとてもおもしろい。トウモロコシを買うためには《トウモロコシをあなたに分配することで社会が放棄するものを社会に補償しなければいけない》。

《(…)現代民主主義の創造者たちは新しい政治秩序を築いたが、自分たちがつくったものに不安を感じていた。少数者の権利が守られていない。多数者が専制している。悪しき候補者が逆説的に勝つ。多数決を繰り返すと独裁体制が生まれる。そして、民主主義では見識の高い人の意見が無視される傾向がある。すべては、人々の要求や関心の高さの度合いも、一部の有権者の優れた地検や経験も反映されないという、民主主義の弱点に原因があった。要求も関心もより強い人に資源を割り当て、特別な才能や洞察を示した人に報いるもっとよい方法がある。それが市場である。》

《標準的な市場は、私的財産がそれをいちばん高く評価する人に分配されるように設計されている。その最たる例がオークションである。》

《だが、公共財のロジックは根本から違う。公共財はそれを最も高く評価している1個人に分配されるのではなく、社会の全員が得る利益の総計を最大化するように公共財全体の水準が決定されなければならない。そうした公共財に関する集合的決定が、ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」をもたらすようにするには、あらゆる市民の声を、その財がその市民にとってどれだけ重要であるか、その度合いに比例して反映されるようにするべきである。標準的な市場では、これは達成されない。》

《(…)われらがヒーロー、ウィリアム・ヴィックリーが登場する。オークションの原理を政治に適用する際の問題は、オークションそのものにあるのではなく、その原理が間違って解釈されていたことにあると、ヴィックリーは気づいた。(…)オークションの背景にある考え方は、対象の財を最高額入札者に配分することではない、とヴィックリーは説く。そうではなく、自分の行動が他人に課すコストに等しい金額を個々人が支払わなければいけないというとこだ。》

《集団的決定をするときには、検討されている公共財から影響を受ける人は、投票したいだけ投票する権利を持っていなければいけないが、その投票が他者に課すコストは全員が支払わなければいけない。お店からトウモロコシを買うとき、その価格は、トウモロコシの次善の社会的使用価値を表している。したがって、それを買うためには、トウモロコシをあなたに分配することで社会が放棄するものを社会に補償しなければいけない。(…)それと同じように、投票では、集団的決定が行われる国民投票(あるいは他の種類の選挙)で負けた人にあなたが与えた損害を補償しなければいけない。あなたが支払う金額は、あなたの投票によって負けた市民が選好していた別の結果になっていたら、その人たちが獲得していたであろう価値に等しくなる。》

《ではこの仕組みはいったいどうやって機能するとされていただろう。ある人が自分の投票(場合によっては複数の投票)によって選挙に影響を与えることで他人にどれだけ損害を与えたかを、どうやって計算するのだろう。(…)公共財に影響を与える個人が支払うべき金額は、その人が持つ影響力の強さの度合いに比例するのではなく、その2乗に比例するべきだとされたのだ。》

つづく。

●(補遺) 『ラディカル・マーケット』は、VECTIONの議論のなかで西川アサキさんから教えてもらった。

https://vection.world/

2020-06-21

●おーっ、と声が出る感じの古い動画がYouTubeにあがっていた。トゥナイトの利根川さんを観たのは何年ぶりだろう。中沢新一のチャラさがすごい。八十年代。

トゥナイト 東大駒場騒動 西部邁中沢新一栗本慎一郎

https://www.youtube.com/watch?v=PVB1MsQxYlw

東大駒場騒動(Wikipedia)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%A7%92%E5%A0%B4%E9%A8%92%E5%8B%95

●上の動画をあげているチャンネルには、下のような動画もあげられている。まだ、ストライキがあって自動改札のない時代の駅の光景。

FNNニュース私鉄スト突入1992年

https://www.youtube.com/watch?v=JBfEE6QlHK4

2020-06-20

●一昨日の続き。『ラディカル・マーケット』第一章「財産は独占である」から引用。

●COSTを導入するとしたら、まず何からはじめるべきか。

《市場と経済の仕組みを根本から変えることになるシステムに、一足飛びに移行するのは軽率だろう。自分が所有しているものを正確に評価する方法がわからない人もいるかもしれない。》

《近い将来にCOSTを導入するとしたら、適応先としていちばん有望なのが、現時点で政府が保有している資産と、民間の市民や企業に売却またはリースされている、あるいは近くそうされる可能性のある資産である。政府はこうした資産を恒久的に売却したり、一定期間リースしたりするのではなく、COSTベースのライセンス料を含むライセンス契約を結んで、部分売却できるようになる。政府はまず、資産をオークションにかける。落札者は価格を自己申告し、その価格に基づいて税金を払う。その後は、他の誰でも申告された価格で資産を売却させられるようになる。》

《放送用電波の周波数帯域を例に考えてみよう。1990年代初め以降、長期の周波数帯域の利用免許が世界中の政府によってオークションにかけられている。オークションで利用免許を取得した会社が、利用免許をより高く評価している会社になかなか売却しようとしないのだ。新しい用途で使うには免許をリパッケージする必要があることが多く、鉄道やショッピングモールを建設するときのような高額要求問題が生まれている。いまでは膨大な量の帯域幅を視聴者数の少ないテレビ放送が保有しているが、これを無線インターネットで使えるようにすれば、もっと有効に活用できるようになる。》

●COSTの導入によって「格差」はどのように(どの程度)縮まるのか。シミュレーション。

《COSTには平等化を実現する潜在的な力があることを示すために、典型的なアメリカの家庭にどう影響するか、考えてみたい。COSTが生み出す歳入の半分は資本にかかる他の税金を減らすために使われて、資産価値には影響を及ぼさない一方で、残り半分は均等割りで国民に還付されると仮定しよう。アメリ国勢調査によると、世帯主が45~54歳の4人家族が保有する資産の中央値は、ホームエクイティ[訳注 住宅の評価額からローンの残高を引いた正味価値]が約6万ドル、その他の資産が2万5000ドルである。COSTを7%とすると、こうした資産の価値はおおよそ三分の一下がるので、ホームエクイティは4万ドル、その他の資産は1万6000ドルになる。この減少後の価値を基準にすると、他の(既存の)資本税の減税分を差し引き後のCOSTは3%となり、税額は年間およそ1700ドルになる。そして、この家族は年間2万ドル以上の社会的配当を受け取る。そのため、たとえ家族が自分たちの財産に深い愛着を持っていて、市場価格の2倍の評価額をつけたとしても、COSTからネットで1万6600ドルの恩恵を受ける。同じ年齢層の所得分布上位20%の世帯では、純資産の中央値は65万ドルである。先ほどと同じ計算をすると、こうした世帯はおよそ1万9500ドルのCOSTを支払うが、2万ドルの社会的配当を受けるので、500ドルの恩恵を受けることになる。いちばん打撃を受けるのが富裕層だ。上位1%の世帯の平均資産は1400万ドルである。このグループの世帯は年間約42万ドルのCOSTを支払うことになる。》

《住宅の資産価値がローン残高を下回っている、クレジットカード債務や学生ローン債務を抱えているなど、家計の状況が苦しい世帯にとっては、COSTはむしろ補助金になるだろう。債務が資産を上回るので、社会的配当を受ける前の段階で、個人資産にかかる税金が差し引きで還付される。実質的に、純負債の3分の1がただちに免除されることになる。

ある家庭が評価額30万ドルの住宅を所有していて、住宅ローンが42万ドル残っているとしよう。前に述べたように、7%のCOSTが資本化されると、資産については将来の税負担が、債務については将来の補助金が価値に反映され、資産と債務の価値は約3分の1下がる。したがって、住宅の価値は20万ドルに、住宅ローンの残高は28万ドルに下がる。その後、8万ドルの債務超過分について3%の補助金(2400ドル、この場合も、規制の税金と比べたもの)を受け取るので、それを住宅ローンの返済にあてることができるうえ、年間2万ドルの社会的配当も支払われる。》

《こうした効果を足し合わせると、COSTを導入することで所得が大きく再分配されるようになる。現在の基準で測定された資本収益率に基づいて推定すると、アメリカの所得のうち資本が占める割合は30%であり、この富の40%を上位1%が保有している。前に指摘したように、COSTが実現すると、資本収益のおよそ3分の1が再分配されて、上位1%が所得に占める割合は4%ポイント下がる。これは、最近の水準と1970年代の低い水準のほぼ中間になる。》

●個人的に思い入れのあるものが売られないようにする

《COSTが実現すると、人間と財産の関係が変わるかもしれない。あるペンを見るとそれをくれた人のことを思い出すので、そのペンを大切にしているという人もいるだろうし、愛車に乗って数々の冒険に出かけたから、自分の車が好きだという人だっているかもしれない。ペンをなくしたり、愛車が事故で壊れたりする可能性がいつだってあることは、誰でもわかっている。私たちはこうしたリスクをいつも許容し、予防策をとってリスクを管理する。COSTの場合、自分の大切なものを強制的に売却させられて失うリスクを最小限にしたければ、簡単にできる。高い価格を設定するのだ。つまり、自分がそれをどれだけ高く評価しているか、その度合いに応じて税金を払わなければいけない、ということである。》

《われわれのCOST案は、個人的な思い入れがとても強くて、絶対に売りたくない品があることを考慮した設計になっている。その品の自然回転率が低いと、税率も低いので、売却されないようにするための(税負担という形の)「価格」も低くなる。家宝の価値はほとんど例外なく保有者のほうが赤の他人より高いため、実際には家宝を守るのにそれほどコストはかからない。あるいは、家宝などの個人的な財産は、(タックスヘイブンがつくられるのを避けるために)妥当な範囲内で、COST制度そのものから除外してもいいだろう。こうしたものの価値の総額はどう考えても大きくないので、COST制度に組み込んでも、経済的インパクトも大きくないはずである。》

●ぱっと思いつく感想としては、なにか「怠惰であること」が許されないような社会になるのではないかという点がある。《怠惰》であり《人嫌い》でもある人間としてはやや懸念を感じる。既得権や搾取から生まれる怠惰は許さない、ということなのだが。

《これ以外にも、怠惰、無能、悪意といった取引を阻む障害があるが、経済学者はこの三つを顧みない傾向がある。私有財産だと、怠惰な所有者や人嫌いの所有者は、資産を退蔵してしまうものだ。それも、利益を得るためではなく、怠慢によってである。この問題は、封建制度の下で特にはびこっていたように思われる。この時代の地主は、思慮深くもなく、倹約もしないし、勤勉でもなかった。ノーベル賞経済学者のジョン・ヒッグスはかつて、「独占の最大の利益は、静かな暮らしを送れることだ」と述べている。COSTの場合、所得を生み出して高い評価額を維持できなければ、もっとうまく使える人に資産を明け渡さなければいけなくなるため、怠惰な独占者は静かな暮らしを送れなくなる。》

●(補遺) 『ラディカル・マーケット』は、VECTIONの議論のなかで西川アサキさんから教えてもらった。

https://vection.world/

 

2020-06-19

●下の引用は、立花史さんのツイッターから。エリー・デューリングの翻訳本はいつ出るのだろうか。首を長くして待っている。

《エリー・デューリングによる論文集の翻訳に携わっているが、担当部分がだいぶ仕上がりつつある。この論文集は、どちらかというと美学論集で、しかもけっこう具体的な作品を論じたものが多いので、日本語読者にとって手に取りやすいものにはなりそう。》

https://twitter.com/FUHITOT/status/1273425159395766272

●下の引用は、「ドゥルーズ『シネマ』におけるイメージ概念の実践的価値」(福尾匠)から、エリー・デューリングについて書かれた部分。

https://ynu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=10549&item_no=1&page_id=59&block_id=74

《デューリングの映像論の特徴的な点は、通常「時間芸術」という側面が強調される映画を取り上げるにあたって、彼が「映画は本質的にトポロジカルなものであり二次的に時間的であるにすぎない」という観点を基底に据えていることだ。こうした発想を生むきっかけとして、デューリングは美術の文脈におけるマルチスクリーンの使用の増加を挙げる。これは映画におけるショットの持続とその継起の時間性を括弧に入れて、隣接するショットの共存の様態を空間的に規定することを促す契機として考えられる。このような「空間化された」イメージの共存という問題から発して、彼はマルチスクリーンや分割スクリーンの映像を取り上げるとともに、そのような技術を用いていないいわゆる「普通」の、ショットが継起するだけの映画もそうした視座のもとで考察する。

イメージの共存について、デューリングは次のように書いている。

映画的で芸術的な取り組みという視点からイメージの共存の問題に焦点を定めるなら、このテーゼ[=時間に対するトポロジカルなものの優位]を真剣に受け取らないのは困難である。共存の問いは、つまるところ、根本的には接続の問題として提示されるのであり、接続は一方で時間と空間の局所的な所与にかかわり、他方では大域的な要求に沿った表象にかかわる[……中略……]。というのも、接続あるいは局所的/大域的は典型的にトポロジカルなカテゴリーだからだ。

彼はここでイメージの「接続connexion」、あるいは諸々の「局所的なlocal」イメージの「大域的なglobal」綜合といったイメージの共存の様態を「トポロジカルなカテゴリー」と呼んでいるが、彼の映像についての論文が収録された『つなぎ間違い』では、ヒッチコックの『めまい』、ウォシャウスキー姉妹の『マトリックス』、アメリカのテレビドラマ『24』、そしてダン・グレアムなどの現代美術家の映像作品がこうした観点から分析されている。

デューリングは「共存と時間の流れ」という論文のなかでベルクソンに依拠しながら「持続」と「時間」を対照させ、後者を諸持続の共存の「形式」と規定している。この形式は異質な諸持続の共存の様態であり、『つなぎ間違い』における「トポロジカルなカテゴリー」と概念上同一であるように思われる。つまり局所的な諸持続とその大域的な綜合=時間の関係性がデューリングの一貫した問題関心であることがうかがえる。イメージの空間化、あるいはイメージの共存の形式としてのトポロジカルなカテゴリーという相のもとで映像を考えるのは、そこから時間的なものを捨象するためではなく、むしろこれらはつねに持続の構成、そして異質な諸持続の関係性を描き出すために要請されるということだ。》

《(…)デューリングはあくまで、なぜベルクソンにとって映画装置が特権的なものであったかという問いに焦点を当てている。デューリングは、ベルクソンにおいて映画装置がたんなる思考の道具としての技術的対象ではなく、ある種の「概念的対象」であったと述べる。なぜならベルクソンが『創造的進化』で描写するような映画装置は当時実際に流通していたものとはある点において明らかに異なっており、したがって、「今日われわれが知っているような映画装置を発明したのはベルクソンだとさえ言える」からだ。

デューリングによれば、ベルクソンの描写する映画装置はあたかもモーターで駆動する自動化されたものであるかのようであるが、当時は撮影も映写も手動でクランクを回して行っていたのであり、この改変あるいは「発明」によってベルクソンは、抽象的な持続の画一性uniformiteというアイデアを概念的対象としての映画装置に組み込むことができた。「そのなかでなにが起こっているかに頓着しない時間の等質性として速度の恒常性あるいは不変性を指し示す」画一性というアイデアは、ベルクソン的な映画装置なしには表現されなかったものだ。

というのも、映画装置におけるこの運動の抽象的な画一性は、把握される具体的な持続の多数性を含意してもいるからだ。デューリングは次のように述べている。

映画装置の[認識のメカニズムとの]アナロジーにおいて重要なのは、ぎくしゃくした動きでなく画一的な進行であり、コマの断片性や不連続性ではなく、あらゆる具体的な運動の普遍的な等価物として提示される機械的な運動における作りもののfactice連続性だ。したがってこれによって意味されるのは、一般的な次元としての時間temps-dimensionでも、[カントの]〈超越論的感性論〉における線としての時間temps-ligneでもなく、同時性という観念と不可分な経験の第三のアナロジーであるフレームとしての時間temps-cadreである。》

《諸々の具体的な持続を一元化して抽象的な尺度を与える「フレームとしての時間」という概念によって、『つなぎ間違い』における局所的/大域的というトポロジカルなカテゴリーによる思考が要請され。「フレーム」がつねに限界をもっているように、大域的な表象内部の同時性はあくまで相対的なもの、そのフレームに依存するものであり、つねに分離の可能性にさらされている。しかしこのことはまた、大域的な表象のなかの同時性の相対性だけでなく、大域的な表象の構成の原理、つまり時間の尺度それ自体の相対性をも含意してしまうだろう。つまり「原理的に、「宇宙的な映画装置」などというものは存在しないと言わなければならない」のであり、この論文の表題にある「映画装置の死」が意味するのはこのことだ。デューリングが「映画」へと飛び移るのはこの地点においてであり、しかしそれはベルクソン-ドゥルーズ的な「イメージ」へと向かうのではない。デューリングは大域的な表象あるいは同時性の印象が相対的なものであることを認めたうえで、それを作りもの---ドゥルーズが切り捨てた映画装置の人為性artificialiteも「作りもの」という意味だ---として打ち遣るのではなく、まさに大域的な構成の原理、つまり異質な諸持続の共存の形式それ自体の複数性の探求の場として装置から映画へと切り返す。》

《デューリングは、ドゥルーズの提出する概念(結晶イメージ)が、つまるところあらゆるイメージに適応可能であることを批判する。彼が言うように確かにドゥルーズ自身が「直接的な時間イメージは、つねに映画[運動イメージ的なものにさえも]に取り憑いてきた亡霊である」と述べており、なぜこれこれの作品でしかじかの概念について語り、別の作品では別の概念について語るのか、という問いから究極的には逃れられない構造になっている。それに対してデューリングは、ヒッチコックの『めまい』という作品を分析するなかで必然的に浮かび上がってくる問題を名指すものとして結晶イメージを導入する。

デューリングは『めまい』という奇妙な物語を駆動する「〈空間〉のタイプtype d'espace」---「トポロジカルなカテゴリー」として考えてよいだろう---として「メビウスの輪」がそれに相当すると述べる。つまり、この作品における反復や旋回のモチーフは、単なる渦巻きや螺旋によって形象化できるものではなく、トポロジカルな捩れ、「それ自身へと折り重なる」ような捩れこそが、この作品を統御しているのだとされる。結晶イメージが示す二重性(知覚と記憶の同時的な重ね合わせ)は、単一のショットやシーンに現れるのでなく、作品における個々のモチーフから物語構造に至るまでを貫くこの空間のタイプと結合している限りで、作品へと適応されうる。》

2020-06-18

●教えられて『ラディカル・マーケット』(エリック・A・ポズナー/E・グレン・ワイル)という本を読んでいる。市場主義(自由・競争・開放性)を徹底させるためには私有財産という考え方を改める必要があり(財産が常にオークションにかけられているような状態)、それによって結果として(中央集権的ではない、分散的な)共産主義に近い社会が実現される(格差が縮小する方向へ動く)、というようなことが書いてある。たとえば「共同所有自己申告税」という考え方。土地について、その使用者(一時的な占有者)は、自分が使用している土地の値段(価値)を自己申告する。そして、その額で買い取りたいという人が現れた場合は、無条件で土地を明け渡さなくてはならない。その土地を使用しつづけたいのではれば高い値段をつけなければならないが、そうするとその分、高い税金を払いつづける必要がある。そのようにすれば、その時々で、その土地に対してもっとも高い価値を見いだす(その土地を最も高い生産性で使える)者によって、その土地が使用されることになる、と。

●ここでまず面白いのは、財産の価値の「自己申告」こそが、不正や腐敗を防ぐことになる(第三者が査定することでかえって不正や癒着が生まれる)という考え方だ。財産の自己申告の歴史について。

《「リタジー(礼拝式文)」と聞くと、ほとんどの人は宗教的共同体のメンバーが詠唱する言葉のことを思い浮かべる。しかし、もともとは古代アテネで「公共奉仕」を大まかに意味する言葉として使われていたもので、およそ1000人の最富裕層の市民が国家の活動、特に陸軍と海軍の活動費用を負担する責任を指していた。アテネの住人は、どの市民が富裕者だとどうやって判断していたのだろう。デモステネスによると、公共奉仕を課された人が自分よりも富裕だとみなす人を指名して、財産を交換するように申し立てられる「アンチドシス」という制度があった。指名された人は、奉仕の負担を受け入れるか、指名した人と全財産を交換するのかどちらかを選択しなければならない。このシステムでは、公共奉仕の負担があるにもかかわらず、自分の財産を正直に申告するインセンティブが全員に働く。最富裕層上位1000人よりも貧しいと嘘の申告をして、公共奉仕を免れようとすれば、自分より貧しい人と財産を交換しなければいけなくなる。》

アンドラ公国には相互火災保険制度「ラ・クラーマ」があり、個人が自分の財産の評価額を自己申告する。家が全焼したら、所有者には自己申告した金額がこの制度に加わっている他のメンバーから支払われ、保険料は自己申告額に応じて決まる。高額な家の所有者は、共同体の誰か他の人が火事の被害にあった場合には、補償金を高い割合で負担することになる。この負担があるので、自宅の評価額を実際よりも高く申告することはなくなる。》

《(…)中国の孫文は自己申告制度の導入を提案した。(…)孫文のシステムだと、個人が自分の土地の価値を自己申告し、その申告額に一定の税率をかけて計算した税額を払うが、国はいつでもその土地を自己申告額で買い取ることができた。(…)残念ながら、過少申告された土地を買い取る意志や能力は政府にはほとんどなく、この仕組みはほぼ失敗に終わった。》

●「共同自己申告税」によって所有権を社会と保有者で共有すること。

《(アーノルド・ハーバーガーからの引用)不動産……の評価額……に……課税するのであれば、本当の経済的価値を推定する評価手順を取り入れることが重要になる……。経済学者としての答えは……単純明快である。所有者一人ひとりが……自分の不動産の価値を……公表するようにさせて、その金額を支払ってもいいという入札者が現れたら、それを売ることを義務づけるのである。このシステムは単純で、自己拘束的であり、腐敗する余地がなく、行政コストがほとんどかからないうえ、すでに市場にいる人たちにも、不動産を経済生産性がいちばん高い用途に使うようにするインセンティブが生まれる。》

《年間の税率が、対象の資産を売り手よりも高く評価している買い手がたとえば一年以内に現れる確率と同じ水準に設定されるとしよう。アナスタシアは住宅を所有していて、それを気に入っている。しかし、アナよりもその住宅を気に入り、アナの評価額か保留価格より高い額を支払ってもいいという人が一定の確率で現れる(この確率のことを「回転率」と呼び、この種の資産が別の人の手に渡る一般的な率を意味するものとする)。税率と回転率がともに30%だとしよう。アナが売却価格を保留価格(つまり、実際の価格)より高くする場合、その高い価格で買い手が現れて利益を得る確率は30%である。したがって、価格を上げたときの利益は0.3ΔPとなる。ΔPは売却価格の増分値である。一方、アナが住宅を保有し続ける限り、アナは30%の税金を支払わなければならず、これをΔPを使って表すと、0.3ΔPを追加的に支払うことになる。このように、留保価格よりも売却価格を高くして得られる利益は、コストによってきれいに相殺される。》

《この税金を、富の「共同所有自己申告税(common ownership self-assessed tax=COST)」と呼ぶことにしよう。富のCOSTは、富(を所有すること)のコストでもある。COSTが適用されると、伝統的な私有財産のあり方が変わる。それが「共同所有」である。私有財産を構成する権利の束の中でも特に重要になる二つの「柱」は、「使用する権利」と「排除する権利」だ。COSTでは、この二つの権利がどちら保有者から社会全般に部分的に移る。》

《最初に使用権について見ていこう。私有財産の一般的なイメージでは、財産を使って得られる利益はすべて所有者のものになる。しかし、COSTの場合は、この使用価値の一部が明らかになり、税金を通じて公共に移転する。税金が高くなればなるほど、移転される使用価値は大きくなる。次に排除権について話を移そう。こちらの方が遙かに重要なポイントになる。私有財産制では、所有者がみずから売るか手放すまで、財産を持ち続ける。それはつまり、他の人はその財産を使わせないようにするということである(わずかな例外を除く)。COSTだと、「所有者」には、財産を自己申告額で買うことを申し入れた人を排除する権利は認められない。逆に、その金額を払えば、誰でも現在の所有者を排除することができる。したがって、申告額が低ければ低いほど、公共が保有する排除権は「所有者」よりも大きくなる。税金が上がると価格は下がるので、COSTを上げると、排除権も公共に徐々に移っていき、申告額を支払える人なら誰でも財産の所有権を主張できる。》

《COSTとは、社会と保有者で所有権を共有することだと概念化できる。保有者は社会から賃借する借り手になる。その財産をより高く評価する使用者が現れると、賃貸借契約は終了し、契約は新しい使用者に自動的に移る。だか、これは中央計画ではない。政府は価格を設定しないし、資源を配分することも、国民に仕事を割り当てることもない。(…)このように、COSTを導入すると、力が徹底的に分散化されると同時に、所有権が部分的に社会に移る。意外かもしれないが、この二つは実はコインの裏表なのである。COSTは中央計画の一形態を生み出すどころか、柔軟性の高い使用市場という新しい種類の市場をつくり出して、恒久的な所有権に基づく古い市場に取って代わるものとなる。》

●(補遺) 『ラディカル・マーケット』は、VECTIONの議論のなかで西川アサキさんから教えてもらった。

https://vection.world/

2020-06-17

●改めて『アンナチュラル』を観直している。三話まで観た。野木亜紀子の作風が誰に似ているのか考えると、米澤穂信ではないかと思った。作風が似ているというより、問題に対する知性の行使の仕方が似ている、というのか。

野木亜紀子の書くドラマを観て「形がきれいだ」と感じるのは、その展開のさせ方が、時間的(持続)的というよりもトポロジー的だということかもしれない。サスペンスというのが持続から生まれるとすると、だからサスペンス的ではないということだろうと思う。