2020-07-10

●『MIU404』、第3話。今回も面白いけど、ただ、元陸上部の生徒たちが捕まる、その同じタイミングでマネージャーが襲われるという展開に、クライマックスを盛り上げるためのご都合主義的(恣意的、というかむしろ定型的)な感じを、ちょっとだけ感じてしまった。全体としては、多くの要素が精巧にかっちり組み上げられているだけに、ちょっと弱いところが目立ってしまうということだけど。

2020-07-09

SAWAという人のことは、「豪の部屋」を観るまでまったく知らなかったのだが、なんか面白い人みたいだ。

昔(2008年くらい)は、こんな感じだった人が、

https://www.youtube.com/watch?v=hQPWbH3Z9aU

https://www.youtube.com/watch?v=A0TwVnUyILk

今は、こんな感じだ、というのが、味わいがあって良い。

https://www.youtube.com/watch?v=H-eQMsu-Gmk

https://www.youtube.com/watch?v=BI6C26BDbNw

替え歌が面白い。

https://www.youtube.com/watch?v=OuAaoWhHBYU

https://www.youtube.com/watch?v=-VF0HIPYBKs

カヴァーもある。これは2013年なのでまだアーティストっぽい。

https://www.youtube.com/watch?v=Gk1om5h42pM

2020-07-08

●「攻殻機動隊 SAC_2045」がわりと面白かったので、神山健治がシリーズ構成と総監督をしている「CYBORG009 CALL OF JUSTICE」を観てみようと思って、四話まで観た(Netflixで)。一話を観て、まったく面白いと思えなくて、「サイボーグ009」の設定を現在やり直すのには無理があるのではないかと思った。二話を観ても、うーん、という感じで、でも、三話になるとちょっと面白くなってきて、陰謀論とトンデモ物理学で押していくのはアリかもしれないと思えた。そして、四話を観るといきなり巨大な宇宙船みたいなのまで出てきて、なんというか、もっともらしさに配慮する気がまったくないのだと思えて、ちょっと前のめりになった。

2020-07-07

岡田利規という名前は、耳で聞くと岡田斗司夫と一音しか違わない。ある人の話を聞いていて、その人が岡田利規について話している時、岡田斗司夫のことを言っていると思って聞いてしまって、一瞬、なにをいっているのかよく分からなかった。

(歳をとると固有名が出てこなくなるのだが、同時に、固有名が入ってきにくくもなるのかもしれない。)

2020-07-06

●『呪怨: 呪いの家』では電話機が印象的に使われる。母親が撲殺される場面では凶器となり(1988年の黒電話はまだ重くて充分凶器になる)、妊婦が夫に殺される場面では、裂かれた腹部に電話機が埋め込まれる。電話機とは、遠くから(彼方から)やってくる声を受けるものである。電話のモチーフはたとえばデヴィッド・リンチにもよく現れるが、ここで電話はおそらく、幻聴の形象化だ。そして、多くの場合に幻聴は、逆らうことの出来ない指令(命令)としてやってくる。ここではないどこか遠くから「殺せ」という命令が届く。

(少女の母を殺す少年は、少女から脅されて殺したのだし、妻を殺した夫は、妻に殺されそうになってもみ合ううちに殺してしまう。自分が望まない殺しを、状況に強いられる形で行う。)

この作品からは、妊婦の身体に対するオブセッション的な恐怖がみられる。個別的な、よく知っている、親しいはずの女性が、妊娠することで、妊娠-出産という、繰り返される普遍的システムへと繋がり、得体の知れないものへと変質してしまう。勿論これは、きわめて男性的で身勝手な妄想=恐怖であろう(故にこの恐怖は、世界にあるというものというより、恐怖する者の脳内にあるものだと言えるかもしれない)。生命がそこに宿る器としての子宮は、生命がそこからやってきて、そこへと戻っていくような彼方と接続している、かのような。子宮は閉ざされたものではなく、ワームホールのようにしてあの世と繋がっている(外のものが内に宿る)。夫は、自分が殺した妻の腹部に埋め込まれた電話機を発見する(夫が電話機を埋め込むのではなく、ただ腹部にある電話機を発見する)。彼方へと繋がり、彼方から来るものを受け取るという意味の重なりによって、子宮と電話機が並置される。そして電話は鳴り続けている。命令=呪いとのリンクは切れてはいないということを、子宮と電話機との並置は示している。

だから胎児は、留置場にいる夫のところにまでやってくる(留置場でも電話は鳴り続ける)。子宮から外に出された胎児は、夫の口の中に入ろうとして、夫に死を与える(内から外、外から内)。

(幻聴とは脳=自分のなかの他者の声、あるいは自分から切り離されて他者と化した自分の声なのだとすれば、胎児は、子宮から来たのか、それとも夫の脳内の産物なのか。夫は、彼方からの呪いに殺されたのか、自分から切り離されて他者と化した自分の声に殺されたのか。この作品は、内側と外側、包むものと包まれるもの、能動と受動の、どちらがどちらか分からなくなるような複雑なトポロジーによって出来ている。)

2020-07-05

●『呪怨: 呪いの家』は、カップルたちの話でもある。物語を通じて、黒島結菜井之脇海が表の(正の)カップルだとすると、里々佳と長村航希が裏の(負の)カップル。そして、二つのカップル(夫婦)が、交差するようにして殺し合う(3話、4話)。最終話にも、呪いの家に新たなカップル(夫婦)が入居する。で、荒川良々もまた、カップルを形成している。おそらく、物語の始めの方ではたんにアシスタントであったと思われる女性と、物語の終わりではカップル(夫婦)となっているようなのだ(カップルの物語の幕開けにふさわしく、この作品は荒川良々とアシスタントの女性が二人で事務所にいる場面からはじまる)。だから、荒川良々は、表のカップル、裏のカップルに次いで、潜在的な三つ目のカップルとして物語を貫いていたことになる。さらに言えば、最終話に出てきたブリーフ男が仮に「大家の息子の幽霊」であったとするなら、呪いの家には、女性の幽霊だけでなく男性の幽霊も捕われている(幽霊のカップル)、ということになる。だとすれば、幽霊も含め、主要な登場人物でカップルを形成しないのはただ倉科カナだけだということになる(故に、倉科カナの重要性が意識される)。

(この物語がカップルの物語だということは、これが妊娠-胎児-子供という主題を扱っている物語であることからの必然なのかもしれないが。)

で、気になるのが、表のカップルと裏のカップルの影に隠れて、あたかも特権的で単独的な語り手であるかのように見えていた荒川良々が、実は潜在的カップルを形成していたことが明らかになったとしたら、この後(シーズン2以降)、彼はもう無傷ではいられない(中立的な語り手の位置にはいられない)のではないか、ということだ。荒川良々(のカップル)がどのように呪いに巻き込まれていくのか、特権的な語り手の位置がどのように崩れていくのか、が、シーズン2の展開としてとても気になる。

2020-07-04

Netflixの新しい「呪怨」のシリーズのシーズン1(『呪怨: 呪いの家』)を一気観してしまった。1988年から1997年までの話なのだが、これは『邪願霊』の年から『リング』の前年までということで(『女優霊』が96年)、Jホラーの誕生から爆発直前までということになる。だとすると、シーズン2は『リング』から『呪怨』まで(1998年から2000年まで)の話、ということになるのだろうか。つまりここでは、Jホラーの歴史が意識的に振り返られている。そしてそのような歴史の振り返りが、ジャンル内部の問題としてではなく、現実に起きた事件とのリンクのなかに置かれている。

この作品で面白いのは、「呪い」が「呪いの家」の中から外へ広がるのと同時に、外から中へ持ち込まれているようにもみえるという点だ。1988年を舞台としたエピソードの系列の一つに次のようなものがある。他の学校から転校してきた少女を、同級生の少女たちが嫉妬し(あるいはたんにヨソモノが気に入らないという理由で)、知り合いの少年にレイプさせるという形で攻撃する(このレイプの現場が呪いの家だ)。しかし、被害者である少女が一転、加害者の少年を誘惑して自分の味方につけ、さらに事件をネタに脅迫もして、少年に自分の母親を殺害させる。この二つの事件は、呪いの家とはほぼ関係がないと言える。少女たちの少女への感情(憎悪)のありようと、少女への攻撃の手段として男性を使ってレイプさせるという手法をとること(少女たちの「想像力」がそのような形で働いてしまうこと)。そして、被害にあった少女が、もともと母娘関係において問題を抱えていたこと(殺したいと思うほど少女が母を憎んでいること)。この二つの「呪い」は「呪いの家」とは無関係に、その外(1988年の日本)に既に市中に自律的に存在していた。外に存在している呪いが「呪いの家」の中に持ち込まれたに過ぎない。

(呪いを刻まれ、運命を狂わされた後も---幽霊から子供を授かったことから---五話で消えてしまうまでずっと困難な状況で生き続けるこの少女は、幽霊=呪いの根源の分身として生かされている存在でもあり、シーズン1の裏の主人公と言える。)

作中で、実際に1988年から1989年にかけて起こった「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が参照されている(あるいは連続幼女誘拐殺人事件がほのめかされてもいる)、つまり、フィクションの外から中へ持ち込まれている(少年グループに誘拐された女子高生が監禁されて四十日間にわたって暴行を受け続け、殺され、死体はドラム缶に入れられてコンクリート詰めされたというこの事件は、この作品における「大家の息子」のエピソードと通じるものがあり、呪いの---フィクションの外にある---起源の一つであろう)。それは、この物語(フィクション)の背景に、コンクリート詰め殺人のような事件が起こる日本の社会があることをも示している(そのような事件を生み出してしまう、あるいはそのような事件があったことを知ってしまった、ある種の想像力---恐怖---の形があった、ということを示している)。そして、この作品の前述した少女たちのエピソードは、そのような1988年の日本社会を背景にしたフィクションなのだ。それは、そのような時代を背景にしてJホラーの萌芽(『邪願霊』)があったのだ、ということでもある。実際、女性の女性に対する暴力性(あるいは憎悪)が、男性を使ってレイプさせるという形で顕在化されるというフィクション(想像力)は、現代の感覚からすると古くさい---ドン引きされかねない危険をもつ---もののように感じられる。しかしおそらく、1988年当時にはまだ生きていたと思われる(フィクションにおける紋切り型の一つとして一定のリアリティをもっていたように思われる)。つまり、このエピソードは、それ自体をフィクションの考古学的考察のようなものとして機能させるために、1988年というラベルが付された上で、ここに置かれているのではないか。

呪怨」のシリーズにおいて「呪いの家」は、呪いの発生源、あるいは感染元というより、様々な呪いを媒介し、関係づけ、包摂したり吐き出したりする、一つのフレームのようなものとして存在していると思う。そのフレーム性は、『呪怨: 呪いの家』でも五話と六話においてはっきりと形象化されている。呪いの家それ自体は、媒介でありフレームであるから、時間を越えて様々な呪いを連結させて、呪いの無時間的トポロジー的配置を生むのだが、一つ一つの「呪い」は、ある歴史的な時間のなかで個別的に発生し、それが発生した背景として、それぞれに異なる時代性(空気)を帯びている。従来の「呪怨」においては主に、呪いの家の(無時間的な)フレーム性が強調され、問題とされてきたと思うのだが、『呪怨: 呪いの家』では、それと同時に「呪い(恐怖的なフィクション)の歴史性」や「個別性」が問題にされているところがこれまでと異なっているのではないか。それはつまり、ここでは---現実と結びついた---Jホラーの歴史性が問題とされているということでもあるだろう。それが2020年に改めて「呪怨」がつくられることの意味の一つなのではないか。

(病院にいる子供が幽霊の子供の分身であるなら、最後に出てくるブリーフの男が「大家の息子」なのだろうか。)