2020-08-22

●『MIU404』を観てて思ったのだけど、今後もし「攻殻機動隊」の新シリーズがあるとしたら(現在進行しているシリーズもまだ終わっていないのだが)、脚本を野木亜紀子に書いてもらうことを希望したい。きっと魅力的な「敵(悪)」をつくりだしてくれるのではないか。

(『MIU404』や『アンナチュラル』は神山版「攻殻」に近いと感じていたのだが、むしろ逆に、野木亜紀子こそが、あたらしい「攻殻」をつくれるのではないか、と。)

2020-08-21

●『MIU404』、第九話。なんというか、すごく野木亜紀子的な展開だと思った。前回が裏だとしたら今回は表、あるいは前回が表ならば今回は裏。この二つの話はセットになっていることで効いてくる。前回の小日向文世の位置に、今回は綾野剛が置かれる。小日向文世は間に合わなかったが、綾野剛は間に合った。もし、黒川智花が助からなかった(間に合わなかった)としたら、綾野剛鈴鹿央士を許すことが出来たのか分からない。つまりこの場合、綾野剛もまた小日向文世同様に「負けて」しまったかもしれない(綾野剛もまた「殺した」かもしれない、という気配は出ていた)。そうならなくて済んだのは「間に合った」からであり、(勿論、大勢の人たちの必死の努力---スイッチの切り替え---があったからだが)それはやはり偶然の幸運というしかない。綾野剛は偶然の幸運によって踏み留まったが、場合によってはそうではなかったかもしれない(それは逆に言えば、小日向文世もまた、場合によっては「間に合った」かもしれないということだろう)。生きている人は常にあやうくて不安定であり、どちらに転ぶかギリギリまで分からない。その意味で、揺らがないキャラであった綾野剛の、真の揺らぎ---確率的な揺らぎ---がここ(今回と前回のワンセット)では示されていると思う。

●あともう一つ、今回で問題になっているのは「手続きの正当性」だろう。警察の側が、もし手続きの正当性に対して柔軟---というより、いい加減---であったとしたら、黒川智花の危機をもっと早い段階で防ぐことができた(星野源綾野剛渡邊圭祐のビデオカメラを強引にチェックしていたら、麻生久美子黒川智花スマホを盗み見していたら…)。しかし彼らは、(国家権力を背景にもつので)あくまで「手続きの正当性」にこだわらなければならない。ここで重要なのは、躊躇なくチートをする相手方に対して、あくまでも手続きの正当性にこだわったやり方で勝負しなければならないということだ。手続きの正当性という拘束の内で、どうやったらチートする競合相手と同等に争うことができるのか。というか、あくまで「手続きの正当性」にこだわるという姿勢を(危機的な状況であったとしてもなお)どのように維持できるのか。これはとても重要なテーマだと思う。

2020-08-20

●ネットでみつけた、おそらく違法にアップロードされたものであろう、英語字幕付きの粗い画質の動画で、『野ゆき山ゆき海べゆき』を観た(モノクロ版)。この映画を前に観たのはたぶん三十年くらい前だったはずだが、今、記憶に残っているその時の印象とまったく違っていて驚いた。良くも悪くも、ホモソーシャル的な男の子たちの集団の姿(マウンティング合戦やなれ合いや喧嘩など)を、牧歌的な調子で描いたような映画だったという記憶が残っているのだが、そうではなく、この映画では少年たちははじめから「猿山のサル」にたとえられ、あきらかに愚かな存在として提示されている。映画自体は、ユーモラスでのんびりした調子で、少年たちの集団の有り様を批判するとか糾弾するとかいう感じはないのだが、ただ、彼らはたんに愚かなのだ。

(医者の息子で坊ちゃんと呼ばれて大人たちからちやほやされ、小狡くて、自分だけは愚かな少年たちとは違っていると思っているような、双眼鏡で状況を俯瞰する、鼻持ちならない、しかし実は他の少年とまったく変わらず無力な主人公は、あきらかに大林宣彦が自分の少年時代を投影した存在だろう。)

少年たちはどこまでも愚かで無力である。当初、少年たちはそのことに無自覚で無邪気なのだが、しかし、徐々に自分たちの愚かさや無力さに気づかざるをえなくなってくる。少年たちの行為は結局のところ遊戯に過ぎず、毒にも薬にもならない。そして、決定的に、否応なく、自分たちの愚かさと無力さを思い知らされる出来事があって、映画が閉じられる。ただ、愚かさと無力さの自覚、そして悲しみと怒りだけが残され、何の救いもカタルシスもないままで、映画が終わる。のんびりと牧歌的な調子ではじまるこの映画の、徹底した救いの無い終わり方は何なのだろうかと思ってしまうくらい、ただ苦さだけが残る。

(愚かで無力なのは、なにも少年たちに限ったことではなく、大人たちもまた、皆、愚かで無力であるのだが。)

この映画全体が、ひたすら徒労の表現であり、徒労を通じて苦さへと至る道筋の提示であるかのようだ。表面は、ユーモラスで牧歌的な調子でコーティングされているが、それが愚かさと無力さにしか行き着かない。無力さがユーモアや牧歌調によって救われず、むしろそれが苦さへの順路を示しているかのようだ。少年たちはただたんに愚かで無力であり、無自覚で無邪気だった状態から、それを自覚して苦さと共にあるしかない状態へ移行するだけ。だが、この苦い感触がとても強く残る。

この感じなのは、おそらく、1986年くらいの時点では、こういう形でしか戦争を主題化できなかった、ということなのだろうと思った。

2020-08-19

●今年、キャリア17年目のアイドル、Negiccoのあたらしい曲がとてもよい。

Negicco「午前0時のシンパシー」 作詞 一十三十一 作曲 一十三十一、PARKGOLF 編曲 PARKGOLF

https://www.youtube.com/watch?v=v-WKa6wwITw

sora tob sakanaCY8ERと、面白いアイドルグループが、メジャーデビューして解散という流れにあるなか、一方で、Negiccoが、17年も持続してアイドルでありつづけるというのはすごいことだと思う。

●前の曲もいいのだが。

Negicco - I Love Your Love (2020 Instagram Live)

https://www.youtube.com/watch?v=0Cg5h6mqWPs

2020-08-18

●最近、というか、今年になってから、公式のYouTubeチャンネルで、aikoの昔のMVをアップしていて、おお、と思う。ぼくは、ゼロ年代のはじめの頃、aikoの『桜の木の下』というアルバムを、バカじゃないかと思うくらい繰り返し聴いた。逆に言えば、aikoというアーティストにかんしては、このアルバムだけで満足してしまい、それ以降は、あたらしいシングルが出るたびに一応はチェックするが、ああ、やはりとてもいい、と確認して、それ以上は深追いしない感じになっている。

(一曲目の「愛の病」から四曲目の「お薬」までの流れの、中毒性がありすぎる感じ。)

あまりに聴きすぎたので、『桜の木の下』に収録されている曲を聴くと、時間の幅が消えてしまう感じがする。たとえば、来生たかおの曲を聴くと、八十年代はじめ頃の空気感や光の感じがまざまざと蘇るのだが、それとはちがって、『桜の木の下』の曲を聴くと(ゼロ年代はじめ頃が思い出されるのではなく)、過去と今との距離がなくなるというか、この20年の時間がギュッと潰れて、時間の幅がゼロになる感じ。

aiko- 『桜の時』music video

https://www.youtube.com/watch?v=fUJzm7ESF0M

aiko- 『花火』music video

https://www.youtube.com/watch?v=iqGHxcTPRfI

aiko- 『カブトムシ』music video

https://www.youtube.com/watch?v=wp2U40KI63A

●『桜の木の下』収録曲ではないけど、この曲もすばらしいなと改めて思った。

aiko-『飛行機』music video

https://www.youtube.com/watch?v=L1D16scoJ60

2020-08-17

●今まで、ベストセラーを映画化した原作モノということで、なんとなく観ていなかった『理由』(大林宣彦)を観て驚いた。これこそが、『この空の花 -長岡花火物語』以降の、最晩年の特異な作風のプロトタイプといえる作品ではないか。

原作は読んでいないのだが、おそらく、長大でひどく入り組んだ物語をもつ原作を、そのまま映画化しようとすると上映時間がとんでもなく長くなってしまうし、コンパクトにまとめようとすると、ひどく粗いダイジェスト版みたいになってしまうということから、登場人物がカメラに向かって直接的に事の顛末(つまり「あらすじ」)を語るという、レポート形式を思いついたということではないか。とはいえ、完全にすべてのシーンを「事後的に事の顛末を語る」形式で押し切るのではなく、ところどころに、リアルタイムで進行する事件の現場の場面も混じってくる。それにより、事の顛末を語る時空と、リアルタイムに進行する事件の時空とが、断片的に、そして複雑に交錯するという形になる。

(カメラに向かって直接的に語るという時空と、リアルタイムに物語が起こっている時空との交錯は、それらが交錯している時空、その交錯を可能にしている第三の時空という次元を、つまり時空が混濁しているというありえない時空を要請し、それを創造する。)

この交錯により、リアルタイムに進行する場面において、その場面にリアルな説得力をもたせるというよりも、再現ドラマのような単純化、紋切り型化が起こる。さらに、セリフもまた、レポート部分からの浸食により、リアルタイム部分でも自然な会話ではなく「あからさまな説明口調」になる傾向が強くみられるようになる。本来なら、物語の背後から立ち上がってくるはずの主題(作者の主張)も、登場人物の口から直接的、説明的に語られるという感じになる。もともとの物語が、中心となる人物をもたず、ひとつの殺人事件を軸にして、多数の人物、多数の家族の事情が交錯する話なので(登場人物がやたらと多いというのも、晩年の大林作品の特徴のひとつだ)、様々なエピソードや人物たちが、いっけん脈絡なく(最後には脈絡がつくとはいえ)自由に次々と挿入される。全体的にある種のモザイク的な断片化、平板化が起こる。これらによって、『この空の花』以降の作品を可能にする器(形式)がここで準備されていると思った。

ここまで書いてから、原作の小説について検索して調べてみたら、どうやら原作が既に、レポート形式、インタビュー形式で書かれているようだ。だとすると、晩年の大林作品を可能にする形式は、原作に忠実である(普通にドラマとして映画化せず、あえてレポート形式を採用した)ことによって生まれた、つまり、宮部みゆきの『理由』という小説に媒介されることによって晩年の大林の形式は生まれた、ということになるのだろうか。大林ミーツ宮部によって、晩年の形式が準備された、といっていいのだろうか。

●中心になる人物がいない、と書いたが、最後の最後になって、この物語は加瀬亮のための物語であったことが明かされる。加瀬亮は、最初の「事件」によって亡くなってしまっているから、登場人物が直接、事後的に顛末を語るということが中心にあるこの映画において、自ら語ることはない。ネタバレになるが、「犯人」が何も語らないまま終わる、ということになる。自らは何も語らない、沈黙する者が作品の中心に置かれる(自ら語らない者のために語る)ということも、これ以降の大林の作品にとって重要なことではないか。

●『理由』は2004年につくられた(ぼくはゼロ年代には大林にたいする興味をほぼ失っていたのだが、その時期にこんなすごいことが起こっていたのか、と思う)。そして、やたらとたくさんの登場人物をもつ。そのため、『理由』には、既にこの世にいない俳優がたくさん映っている。既に亡くなった人が登場するだびに、ああ、この人はもういないのだ、この人ももういないのだ、と思う。そして、監督ももういないのだ。

2020-08-16

太田和彦名作選みたいな動画がYouTubeにあがっていて、長い時間、観入ってしまった。この手の飲み歩き系の人たちのなかで太田和彦が飛び抜けていると感じるのは、(店や酒や料理を褒める時のスノッブな感じの語彙力というのもあるけど)メニューに数ある品々のなかからいくつかの料理を選ぶ時の選択のセンスというか、決断のリズムのよさというか、え(あるいは、お)、それを選ぶのか、という感じの(説得力ある)面白さだと思う。こういうのは、長い間に、散々、自腹を切って飲み歩いていないと身につかないものなのだろうと感じる。

これらの映像の多くはおそらく二十年くらい前に撮影されたと思われる。これらの店は、今でもこんな感じのまま存続しているのだろうかと、いくつか気になった店を検索してみた。旭川の独酌三四郎や中野のらんまんはかわらず営業しているようだ。松山のいこいは、「松山・いこい・太田和彦」で検索すると、太田和彦の書いた本に載っている店の住所の一覧がヒットし、その住所をグーグルのストリートビューでみてみたら、全く違う炉端焼きの店になっていた。横須賀の銀次は、横須賀の名物的な有名店になっているみたいだ。

【Japanese Izakaya】太田和彦の全国居酒屋紀行【SAKE】

https://www.youtube.com/watch?v=5IFB9S_nK0M

Japanese Izakaya】太田和彦の全国居酒屋紀行【SAKE】

https://www.youtube.com/watch?v=EDWDvi9AjyI