2020-08-29

●安倍首相が辞任というこのタイミングで、多くの人が、社会的(集団的)意思決定装置としてのQV(Quadratic Voting、二次の投票)について真剣に考えるようになってくれないものか、と思う。一人一票という制度はあまりに粗雑過ぎる。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2020/06/23/000000

●ぼんやりと、正義の量的な制限ということを考えた。

悪への怒りと、悪を「叩く」ことの快楽とを、どう切り分けたらいいのだろうか。ある批判が、その内容は正しかったとしても、それを行うモチベーションが「叩くことの快楽」にあるとしたら、それはもう批判としての正当性を失ってしまうように思われる。

(敵失を叩いて炎上を起こすことで、敵にダメージを与えることは確かにできるだろうが、敵味方双方でそれをやり合っていても不毛でしかないし、不毛さとそれによる疲弊こそが人を「正義」から遠ざけると思う。結果、不毛さに疲弊しないタイプの---むしろそこに快をみいだす---サイコパスばかりが「正義」にかかわることになるというありがちな悲劇。)

炎上は正当な批判(および批判に対する対応)を不可能にする。炎上することで、正当な批判だったものが集団リンチのようなものになってしまう。正義へのタダ乗りとしての炎上を防ぐためには、一人一人が行使できる正義量を限定するという方法もあるのではないか。たとえば、正義を行うためには何らかの「支払い」が必要である、というような。毎月、それぞれの人に与えられる正義トークンが皆等しく50だとすると、その正義トークンを何に対して何ポイント行使することが最も(社会に対して)良いことなのかを、各々が考えるようになるのではないか。細部に具体性のないふわっとした話ではあるが。

(QVにおけるボイスクレジットの平等な分配は、正義の量的な限定の具体化された一例とも言えよう。正義トークンの量的限定は、有名度---地位やフォロワー数など---による影響力の格差を是正し、同時に、正義への過剰な憑依を抑制する働きもあるのではないか。)

正義の量的限定があると、何かを叩きたいという目的(快楽)のために、もう既に充分批判されていることに乗っかって、そこにさらに自分の正義トークンを上乗せ的に行使するということへのモチベーションが抑制され、未だ充分に認識されていないが、問題化されるべき(批判されるべき)だと各々が個別に---切実に---感じているものに対して、自分の限定された正義トークン---正義への権利---の多くを使うようになる、のではないか。

あるいは、既に問題にされているが、いくら問題にされても問題にされ過ぎるということはない重大な問題に対して、自分の正義トークンを惜しみなくつぎ込む、ということもできる(惜しみなくと言っても、限定された一定量のなかで、という抑制が働いていることが「正義への憑依」防止のために重要だと思うが)。

2020-08-28

●「他人の時間を奪う」ことを極端に悪とするような価値観には抵抗していきたい。まあ、程度問題ではあるけど。たとえば、無駄な会議や付き合い的な飲み会を嫌う、というくらいは分かるとしても、遅刻に厳しい人や、わかりにくい(とりとめのない)話をする人に対して「要点をまとめてから喋れ(オチを決めてから喋れ)」とか言う人を軽蔑する。

(これは個人的な資質の問題かもしれないけど、わかりやすい話やわかりやすい文章は、「それを理解しよう(したい)」という意欲=情熱が惹起されにくいので、それへと向かう注意力が持続せずに散漫になり、かえって聞き逃してしまったり、誤解や誤読が多くなってしまうし、理解するまでに時間がかかったりする。)

●とはいえ、冗長さというのは豊かさであり贅沢品であって、貧しければ貧しいほど効率的であることを強いられるのだが。

2020-08-27

●『理由』(大林宣彦)で気がついた(気になった)ことを備忘録的に書いておく。以下に書かれることは、『理由』という作品の本流にかかわることではなく、あくまで傍流のひとつにかかわることである。

『理由』は、事件の当事者たちが、事件を事後的に振り返るという形式で物語が語られる。事件の当事者たちのもとをリポーター(およびカメラマンなどのスタッフ)が訪れて、インタビューをする。その時、インタビューを受ける当事者たちは、必ずといっていいほど、リポーターやスタッフたちにお茶(なにかしらの飲み物)を出す。お茶を出すシーンは、本当にくどいくらいに繰り返される。

ここで、お茶を出すという役割は、かならず女性に割り振られる。繰り返し、繰り返し、「お茶を出す女」の場面があらわれる。するとどうしても、女性ばかりがお茶を出すということに対する違和感を覚えることになる。しかし、さらに映画を観つづけていると、ひょっとして、これは意識的になされているのではないかと思うようになってくる(それくらいしつこく繰り返される)。日本映画の多くにおいて、あたかもそれが自然であるように「女性がお茶を出す場面」が繰りかえされることに対して、皮肉のようにしてそれをおちょくっている、あるいは自覚を促そうとしている、のではないか、と。

(追記。これは「日本映画の多くにおいて」という一般的な話ではなく、過去の自分の作品において、ということかもしれない。つまり、反省的自己言及かもしれない、と気づいた。)

で、きっとそうであるに違いないと思うのは、何回かは数えてはいないが、何度も繰り返される「お茶を出す場面」の、一番最後の一回だけ、男性が女性リポーターにお茶を出しているからだ(しかもかなり妙なやり方で)。この場面を観て、やはり意識的にやっていたのだなと思う。ここまで違和感をもたなかった観客がいたとしても、この最後の一回を観れば、遡行的に違和感を覚えることになるだろう、と。最後の一回は、一種のオチのような機能をもつと思われる。

(このような、明示的ではない---本流と強く関連づけられているわけでもなく、強く主張されているわけでもない---細かい埋め込みが、「作品」というもののなかには無数にあるだろう。)

2020-08-26

j●たまたまみつけたのだが、これはなかなかすばらしいのではないか。ボーカルの合って無さがむしろ味わい深くしているように思う(三曲目の「PAPER DOLL」ではけっこうハマっているように思う)。

山下達郎(copy) from早稲田ロッククライミング

https://www.youtube.com/watch?v=5xl-zJy28W8

●こちらもすばらしい。「コピーする」というのは、一体どういうことなのかと考えてしまう。

(二次創作---という言い方は正確ではないので「二次構築」とでもいうべきか---というのは、オリジナルとはまったく別の意味で、別の次元において、オリジナルと同じくらい重要なのではないか、などと思った。)

(小沢健二でないというよりむしろ小沢健二である、が、小沢健二でないかもしれない。)

小沢健二 (copy) from 早稲田ロッククライミング

https://www.youtube.com/watch?v=UzB9rCKVMt8

●逆に、CHAIというバンドを下の動画で知った。

CHAI (copy) from 早稲田ロッククライミング

https://www.youtube.com/watch?v=avQTxnOB16Y

下がオリジナル。上の動画がけっこうな完コピなのだということが分かる。

2017.7.28 CHAI (FUJIROCK2017 ROOKIE A GO-GO)

https://www.youtube.com/watch?v=Mi_U9xHZSm4

2020-08-25

●引用、メモ。『やってくる』(郡司ペギオ幸夫)より。以下の部分は、第一章、第二章に書かれていることの要約(というか、重点)と言えるところで、とても重要なことが書かれていると思う。

《私は、パジャマのような服を着せられた「ねこ」を見たことがあります。それは年老いて毛艶も衰えたねこで、一見すると猫か猫でないか判然としないほどでした。ここでは、現実に存在する目の前のネコをひらがなで「ねこ」と、抽象的な概念としてのネコを漢字で「猫」と表しています。》

《まず、縞模様なので「猫である」と判断されました。まれに鳴く声もやはりニャアと聞こえ、「猫である」と判定できる。しかしそのパジャマの着方は堂に入ったもので、まるで人間が着ぐるみを着ているようにも見える。この限りでは「猫でない」と判定できる。また力のない体毛はいたるところで渦を巻き、まるで乾燥した苔のようです。そうするとやはり「猫でない」と判定できるのです。》

《どんなものであっても、「Aである」と判断しようとすると、「Aである」と「Aでない」の両方が成立してしまう。普通に考えたら決定不能に陥ります。にもかかわらず、《「Aでない」というよりはむしろ「Aである」》という程度に、「Aである」と決定されるのです。》

《私たちが判断を迫られるとき、注目される文脈が用意されている。たとえばここでは、目の前にいる「ねこ」が猫が犬かの判断を迫られているわけです。この注目されている文脈、つまり「猫か犬」文脈においては、ねこは猫であると判断される。縞模様やニャアという鳴き声は、犬ではないという意味において、猫でない可能性がないのです。「猫か犬」文脈において、「猫でない」は犬を意味してしまいますから、犬でない以上、猫でない可能性は排除される。》

《しかし、苔かもしれない、人かもしれない、という意味での「猫でない」可能性も本来はあるはずです。それらがどこへ行くのかというと、「猫か犬」文脈の外部に位置付けられ、無視されるのです。文脈外部に追いやられ無視されるというのは、完全に排除され、消え去ってしまったわけではありません。存在するのにただ無視されるだけなのです。これが、「~というよりむしろ」の意味ということになります。》

《この文脈だけが世界に存在し、それ以外は何もないのなら、この文脈に対する疑いや懸念は一切伴わないでしょう。文脈の外部は存在しないことになります。しかし「猫か犬」文脈が孤立していないことに対する無意識の受動的知覚が、「何か足りない」という無意識の能動的叫びを喚起し、外部に追いやられたはずの「猫でない」可能性をぼんやりと伴わせてしまうのです。》

《この潜在する「猫でない」可能性こそが、「猫である」という一つの判断にリアリティを与えるものになる。それは「猫である」と確定しながら、その判断に自信を持てない不安感であり、「猫である」と判断しながら、同時にあまりにも猫らしくない部分に感じられるおかしみであるのです。潜在する「Aでない」の有する力こそが、「Aでないというよりむしろ」を表現し、「A」のリアリティを立ち上げているのです。》

《哲学者ライプニッツは、「物事にはすべてそれが存在しない、というよりはむしろ、存在する理由がある」という根拠の与え方として、充足理由律を提唱しました。》

《何か論理的な展開、哲学的思惟を進めるときの前提Xは、「XでないというよりはむしろXである」という程度に保証される。だとするとそれは、いつ転倒するかわからない。》

《私が言いたいのは、決定不可能性をギリギリ回避しながらも担保される「AでないよりむしろAである」の持つ危うさ、ではありません。》

《私が強調したいのは、「AではないというよりはむしろAである」は、「AでありながらもAでないを潜ませている」ことであり、その潜んでいるものこそが、リアリティと考えることができるという点です。》

2020-08-24

●U-NEXTで『勝手にしやがれ!! 脱出計画』を観た。ひさしぶりに観て意外に思ったのは、黒沢清としては例外的だと思うのたのけど、この作品では映画の舞台と実在する土地とが積極的に結びつけられていた。

まず、「谷中ぎんざ」という商店街の名を示す看板がフレーム内に示される。次に、(これがとても意外だったのだが)吾妻橋にあるスーパードライホールがはっきりと背景に映り込んでいる。あきらかに例のオブジェを、狙ってフレームに入れている撮り方がされている。さらに、芸大と上野公園が、芸大と上野公園としか見えないような形で撮影されている。

黒沢清は多くの場合、たとえば「東京」と分かる土地を撮るとしても、明確にある特定の土地のランドマークとなるようなものはフレームから排除して、土地の匿名性のようなものをあらわそうとする傾向があるように思う。しかしここでははっきりと、かなり狭い範囲の「ある特定の一帯」が舞台であることが積極的に示されている。

「脱出計画」は、六作つづく「勝手にしやがれ!!」シリーズの二作目で、95年につくられている。だから、まだこの時期の黒沢清には、土地の匿名性をあらわすという明確な方向性をもっていなかったと考えることもできる。しかし、一作目の「強奪計画」では、(下町であることは示されるが)具体的に、吾妻橋から谷中に至る一帯であることを明確に示すものは、特に映り込んでいなかったように思う。それに、土地の匿名性へのこだわりも既にあるようにみえる。

勝手にしやがれ!!」シリーズは(というか、Vシネマ多作期の黒沢清の作品の多くは)、二本分の脚本をもって撮影に入り、一度に二本の作品を同時に撮影していたと聞く(制作費削減のため)。「強奪計画」と「脱出計画」とは同時に撮影されたと思われる。ここで、同時に撮影される二本の作品が混じり合わないように、意識的に異なるコンセプトで演出がなされたと考えることもできるのではないか、と思った。「脱出計画」では、意識的にいつもと違うことをやろうとしたのではないか。

(とはいえ、最後の方に出てくる海=港などは、「どこだか分からないどこか」なのだが。)

(ラストで、哀川翔前田耕陽は、オーストラリアに旅立ったようにみえるが、旅立たなかったととることも可能だ。もしシリーズの最初の二本が好評であれば、これ以降もシリーズはつづくので、二人は日本にいなければならないし、あまり好評でなければ、シリーズはここで終わりなので、旅立った方が終わりとしてすっきりする。つまりこの終わり方は、この時点ではまだシリーズの先行きが不確定であったことを示しているのだろうと思った。)

 

2020-08-23

●今まで信じてきたものが足元からがらがらと崩れ落ちるような画像が…。

《彩色されていたギリシア・ローマの彫刻が白い状態であることを概観した記事。白の美しさを説いたヴィンケルマンの考えがゲーテに受け継がれ、白人至上主義やモダニズムの純粋主義に歓迎されたことが書かれています。現代ではデジタル復元が可能になり、色を認める方向のよう。》(津田雅之氏のツイッターから)

https://twitter.com/MasayukiTsuda2/status/1296590694744612865

The Myth of Whiteness in Classical Sculpture

https://www.newyorker.com/magazine/2018/10/29/the-myth-of-whiteness-in-classical-sculpture?utm_campaign=falcon&utm_source=twitter&utm_medium=social&mbid=social_twitter&utm_brand=tny&utm_social-type=owned

《Greek and Roman statues were often painted, but assumptions about race and aesthetics have suppressed this truth. Now scholars are making a color correction.》

コペンハーゲンにあるナイ・カールスバーグ・グリプトテック美術館の元学芸員であり、ポリクロミーに関する国際的な研究ネットワークの創設者であるヤン・ストッベ・オースターガードは、「白い大理石だけを見たときに、これらの彫刻を見たと言うのは、海岸から来た人が、海岸に骸骨があったので、クジラを見たと言うのと同じことだ」と私に言った。》(翻訳・DeepL)