2020-09-05

●『MIU404』における「悪」としての菅田将輝の像に近い存在として、すぐに頭に浮かぶのは『ガッチャマンクラウズ』のベルクカッツェだろうか。自分の物語を語ることを拒否する---背景や文脈が空白である---という点では、九十年代の黒沢清の映画(『地獄の警備員』や『CURE』)に出てきた「怪物」としての犯罪者にも近いように思われる。

とはいえ、ベルクカッツェは無邪気な破壊衝動そのものとも言えるような悪であったし、黒沢的怪物たちはロマンチックな意味で「純粋」な悪であったと言えるだろう。対して、『MIU404』の菅田将輝は、何かしらの絶望を通り抜けた先にいる、極めてニヒリスティックな存在であるようにみえる。

菅田将輝の、背景や文脈の消失としての「(軽い)沈黙」は、小日向文世の、背景をすべて背負った覚悟の上での「(重たい)沈黙」の反転形のようである。とはいえ、この「(軽い)沈黙」は、その「背景や文脈の消失」の背景として、3・11がほのめかされてはいる(泥水がすべてを押し流す…)。空白の根拠として、重たい歴史的な起源がほのめかされる。

だが、この背景=根拠もまた、菅田将輝によって語られる無数の「偽の根拠」の一つに過ぎないかもしれないという形で相対化される。根拠の根拠(メタ根拠)は存在しない。菅田将輝においては、無根拠な根拠(無根拠な信)としての「神話」が成り立たない。底が抜けている。

(「泥水がすべてを押し流す…」という根拠もまた、泥水に押し流される。)

2020-09-04

●『MIU404』最終回。なるほど。八話と九話で、(一線を越えた)小日向文世と(踏みとどまった)綾野剛という形で、二人の別々の人物として示された「二つのあり得た可能性(スイッチの切り替え可能性)」が、最終回では、並行世界的な(「シュタゲ」の---物理学的には間違った---用語で言えば)二つの「世界線」として示された。改めて、このドラマを支えている基本が、縦に並べられる因果的連関というより、横に並べられる複数の可能性の分岐にあることが明確になったと思う。ただ、SFではないので仕方ないとは思うが、並行世界の両論併記的な並置を成り立たせるための物語装置が「ドラックによる幻覚」だというのは、ちょっと弱い気がした。

(とはいえ、橋本じゅんの昏睡と覚醒が、星野源綾野剛の昏睡と覚醒を促した---三人が同期するように次々と昏睡=意識消失状態に陥り、同期するよう覚醒する---という展開は、物語の「形」としてとても面白いと思った。)

2020年に東京オリンピックがあった世界と、なかった世界。前者が、星野源綾野剛が「踏みとどまれなかった世界」で、後者が「踏みとどまった世界」となる。このドラマ自体、新型コロナウィルスの感染拡大によって撮影が中断され、放送が延期されたのだし、脚本が書かれている時点では「COVID-19の感染拡大」や「それによるオリンピックの中止」は予測できなかったはずなので、撮影に入った時点で脚本に書かれていた最初にあった結末は、実際に放送された「この結末」とは異なっていたはずだ。つまり、最初にあったはずの「別の結末」から「この結末」へとスイッチが切り替えが起こった。このドラマの現実としての製作過程のなかに、とても大きなスイッチの切り替え(世界線の乗り換え)が起こっていたことになる。ここで、現実の製作過程と、虚構としての物語的主題との同期が発生している。

作中で星野源は、自分の選択の失敗を悔いている。そしてこの「悔い」が、星野源の行動原理(手続きの正当性の遵守)を少しずつ変化させていく。そして、星野源綾野剛とが共に、手続きの正当性の軽視と二人の間の信頼関係の軽視を行った果ての世界が、オリンピックがあった世界となる。この世界では、星野源は菅田将輝に殺され、綾野剛は菅田将輝を殺してしまう。しかし実はこの世界は、ドラッグによる幻覚によってあらわれた世界であり、強制的にドラッグを摂取させられた星野源綾野剛は、橋本じゅんの覚醒に促されるようにしてギリギリのところで覚醒し、なんとか「踏みとどまる」ことが出来る(星野源綾野剛は菅田将輝を逮捕する)。これがオリンピックのなかった世界へと通じる。

このドラマで重要なのは、あくまでスイッチの切り替えであって、自分の意思による選択ではない。この違いは微妙だが決定的であるように思われる。とはいえ、このドラマでは「意思による選択」の無力さを積極的に主張してはいない。登場人物たちは各々、強い意志や思想をもって行動しているし、それが無意味だと踏みにじられるわけではない。むしろ、意思による選択は尊重されている。

とはいえ、意思による選択は能動的というよりむしろ受動的だと言えるのではないか。小日向文世は強い意志と覚悟をもって警察官であった自分を裏切って「踏み越えて」いく。だが、この意思と覚悟とは、様々なスイッチの切り替わりの結果として、彼の元に訪れたもののように思われる。八話と九話で示されたように、小日向文世は、たまたま不幸な偶然によって間に合わなかったのであり、綾野剛は、たまたま幸福な偶然によって間に合ったのだ。綾野剛の意思と選択は、幸福な偶然に支えられて成り立っていると言えるのではないか。ここで、小日向文世綾野剛とは等価であり、小日向文世が「間違っている」と言える根拠を、このドラマを成立させているロジックのなかからどうやって見いだせばよいのか分からなくなる。

最終回における「オリンピックがあった世界」と「オリンピックのなかった世界」ともまた同様に等価であろう。後者が「現実」となったのは、たまたま幸福な偶然によるもので、どちらに転んだとしても、そこに何かしら積極的な根拠があってのことではない。ドラマ内現実である「この世界」は、たまたま幸運にも踏みとどまることができたにすぎない。

だが、二つの状態が本当に等価なのだとしたら、なぜ、前者が不幸な偶然の結果であり、後者が幸福な偶然の結果であると言えるのか。そこには、前者より後者の方が正しい(あるいは、少なくとも「望ましい」)という価値判断が既に働いていることになる。ここで考えられる価値判断の根拠は二つあるだろう。一つは、(どんな困難な状況でも)正当な手続きを踏まなくてはならない。もう一つは、(どんな悪人であろうと)出来る限り人を殺してはいけない。

(とはいえ、この「価値判断の根拠」それ自体に根拠はない。根拠の根拠=メタ根拠はない。根拠の根拠のない根拠を、それでも我々は「神話」として共有している、とは言えるのではないか。菅田将輝において、なんらかの理由でこの「神話」が崩壊している、と。)

おそらく、強くニヒリズムに感染しているという点でとても似ていると思われる星野源と菅田将輝とを隔てているのは、この二つの価値判断の根拠の有無であるように思われる。それは、この根拠を失えば、星野源は菅田将輝に限りなく近づいていくだろうということだ。小日向文世が、「別の世界線」のあり得た綾野剛であるとしたら、それと同様に、菅田将輝は、「別の世界線」のあり得た星野源なのではないか。

2020-09-03

●『らせん』(飯田讓治)を、実ははじめて観た。『リング』、『リング2』、『リング0 バースデイ』と展開していく貞子(1)とは別の、『リング』、『らせん』と展開していく貞子(2)の物語。(2)といっても、こちらの方が原作に忠実なのだろう。

いまごろになって『らせん』を観たのは、去年つくられた貞子(1)系の最新作『貞子』(中田秀夫)を観て、Jホラーの作品としてとても洗練されているとは思うけど、同時に、もう貞子(1)系には新鮮味はないかなあとも感じてしまって、そういえば、貞子にはもう一つの系列があったはずだと思ったから。

もう一つ。『ドゥルーズガタリの『哲学とは何か』を精読する』(近藤和敬)の「序文」に、著者の知的遍歴というか、問題意識(「これはいったい何なのか」)に対するアプローチの遍歴が書かれているのだが、そこに鈴木光司による小説『リング』、『らせん』、『ループ』が挙げられていて、えっ、これってそういう小説だったのか、と思ったことが頭に残っていたということもある。

映画『らせん』を観て、原作小説を追っかけてみようか、やめておこうか判断の材料としようと思ったのだけど、これは発散して永遠に収束しない系の物語であるという気配がプンプン漂っていて、追いかけるとしたらそれなりに覚悟がいると思って、及び腰になってしまった。実際、『リング』、『らせん』、『ループ』の後に、『バースデイ』、『エス』、『タイド』とシリーズはまだつづいているようだし。

2020-09-02

●『MIU404』に出ていた村上虹郎の母親がUAであることを知った。九十年代終わり頃にはUAをわりとよく聴いた。

UA(ウーア)太陽手に月は心の両手に

https://www.youtube.com/watch?v=X3YOmas-pis

数え足りない夜の足音/UA (Video Clip)

https://www.youtube.com/watch?v=5QE3KdrQJWE

UA(ウーア)情熱

https://www.youtube.com/watch?v=6DjfYxIAon0

UA 「 悲しみジョニー」7/24@LIQUIDROOM

https://www.youtube.com/watch?v=FOgp0EQDER0

UA 甘い運命

https://www.youtube.com/watch?v=yAj0kS9rxLU

UA LIVE 2004~スカートの砂

https://www.youtube.com/watch?v=pHIWCmZqwLs

2020-09-01

●『ねらわれた学園』(大林宣彦)を観た(U-NEXTで)。81年の公開当時、この映画が大好きだったのだが、今回は途中でかなり退屈しててしまった(大林宣彦とは合わなかったのか、薬師丸ひろ子の扱いが---小林聡美原田知世とくらべて---ちょっとぞんざいではないかかと感じてしまった)。中学時代の自分がこの映画を好きだったのは、大林映画でも特に濃厚に素人っぽいノリが前面にでていて、そこに解放感をみていたからだと思う。

たとえば他の(商業映画の)初期作品、『HOUSE』や『金田一耕助の冒険』も、素人ノリともいえる遊戯性に溢れているのだけど、これらの作品にはギュッと詰まった凝縮性がある。一方、『ねらわれた学園』は、それらの作品と比べて遊戯性は薄いように感じられる。やりたい放題やっているというより、ある程度ちゃんと物語を語らないといけないという感じで(とはいえ、物語を語ろうとする意識もそれほどちゃんとはしていなくて)、中途半端で、ゆるい感じになっている。でも、そのゆるい、スカスカな感じが、詰め込み放題に詰め込んでいる『HOUSE』や『金田一耕助の冒険』よりも隙間があっていいように感じていたのだと思う。

それと、『ねらわれた学園』には、当時の大林宣彦の人脈や趣味を感じさせる、プロの俳優ではない関係者のような人(素人)が沢山出演している。原作者(眉村卓)や監督自身やプロデューサー(角川春樹)だけでなく、監督の娘の大林千茱萸、当時自主映画の監督であり女優でもあった三留まゆみ映画作家で監督の仲間でもある高林陽一、映画監督の小谷承靖藤田敏八、映画評論家の松田政男、そして現在はヴィジュアリストと名乗っている(当時、新進の自主映画作家であった)手塚眞には、チョイ役とは言えないかなり重要な役が与えられている。つまり、仲間内の内輪ノリの気配が濃厚にある。

邦画としては大メジャーであるはずの、薬師丸ひろ子主演の角川映画を、悪ふざけのようにして内輪ノリで塗りつぶす。当時、この映画から感じた解放感の多くはここから来ていたように思う。そしてこの感じは、この映画に限らず、八十年代初頭に新鮮に思えた多くの作品(文化的産物)に共通したものだと思う。この時期、内輪ノリこそが革命的であるように感じられた。ただ、内輪ノリこそが革命的だと感じられた時代はそう長くはつづかない。当然だが、内輪ノリとは実は癒着であり、最悪の権力構造を生むことがある。

(このような内輪ノリと、同じ俳優やスタッフと長く仕事をつづけることとでは、微妙だが大きく違うように思う。)

八十年代に十代だったぼくの体感では、八十年代は前半と後半とではまったく異なる世界であったように思われる。八十四年までのバブル前夜に希望として感じられたものが、八十五年以降のバブル期になると、次々と失望へと反転してあらわれるようになった感じ。

2020-08-31

●欠落していたゼロ年代大林宣彦の穴を埋めていく作業をぽつぽつとしている。『なごり雪』(2002年)と『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』(2007年)を観た。どちらも、伊勢正三の曲を原案とした映画で、大分で撮影されたという点で共通している(「大分三部作」として構想されだが、この二作しかつくられなかったということのようだ)。どちらも、中年になった男性の視点から、若い頃の「恋愛にまで至らず---結ばれずに---に失われてしまった関係」がノスタルジーと共に呼び出され、その過去が現在に回帰してくるという話だ(過去の回帰が男性の「困難な現在」を救う)。両方とも、相手の女性は死に瀕しているか既に死んでいるかで、現在の姿としては不在で、ただ回想(および幽霊)として、若い時の姿があらわれるのみだ(そして、その女性の現在における分身として娘が登場する)。こう書くと、あまりに中年男性に都合良すぎる設定だろ、と突っ込みたくもなるのだが…。様々な点で似ているとも言えるが、鏡像反転のように逆を向いている言った方がよいか。その違いは、『なごり雪』は『理由』以前の作品だが、『22才の別れ』は『理由』以降の作品だ、ということでもあろう。

(ゼロ年代以降の大林は、『なごり雪』(2002年)、『理由』(2004年)、『 転校生 -さよなら あなた-』(2007年)、『22才の別れ』(2007年)、『その日のまえに』(2008年)ときて、『この空の花 -長岡花火物語』(2012年)に至る、という流れ。その前の、『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』(2000年)、『告別』(2001年)は、まだ観られていない。)

●どちらも、リアルタイムで観ていたらあまり印象に残らなかったかもしれない。『なごり雪』は、いかにも大林、いつもの大林という以上でも以下でもないという感じで特に新鮮さはなく、『22才の別れ』については、ノスタルジーの形式にオヤジの身勝手さを感じてしまうことと、世代論や世代間格差(貧困)の問題を雑にからめてくる感じにあまり良い印象をもてずに反発していたかもしれない。だが、この二作を、その中間に『理由』を置いて対比的にみることで興味深く思えてくる。

●『22才の別れ』は、とにかく(『理由』以降の作品の特徴であるような)変なことをこれでもかというくらい沢山やっていでガチャガチャしているのだが、その多数のギミックに埋もれてしまうことなく、映画に登場するいくつかの土地のもつ雰囲気やその違いがすごく上手くあらわれている。実際にこの映画の舞台となった土地に行ったわけではないから、それが正確に表現されたものなのかどうかはわからないが、とにかく「ある特定の土地のもつ雰囲気」がとても濃厚に表現されている。土地の感じ、地形の感じを鋭敏に捉え、それをカメラで拾っていく的確さは素直にすごいと思った。メランコリックな感情を歌い上げるために、しっとりとした調子に落ち着いている---まだ壊れていない大林作品---『なごり雪』よりもむしろ、ガチやガチャした壊れかけの『22才の別れ』の方が土地の空気感を生々しくあらわしているようにみえるのが面白い。

●どちらの作品にも、過去における関係の「ボタンの掛け違え」があり、その「ボタンの掛け違えの結果」として、結ばれることのなかった女性の「娘」が登場して、男性と会う。もし、過去に男性と女性が結ばれていたとしたら、今ここにいる「この娘」は存在しなかった。だからこの「娘」の存在こそが「ボタンの掛け違え」の取り返しのつかなさを(男性に対して)表現している。だが同時に、女性の分身として娘と出会うことで、男性にとっては過去の女性との関係のやり直しが果たされることにもなる。まず、女性の分身(過去の回帰)としての「娘」に会うことで、過去の後悔をやり直す機会が与えられ、後に、その娘自身の存在、「この娘」の固有性(現在)を認めることで、取り返しの付かない過去を肯定し、後悔を切断することができる(この説明はやや『22才の別れ』の方に偏っていて、『なごり雪』はちょっと重点が違うのだが、基本的な構図は同じと言っていいと思う)。

なごり雪』において「ボタンの掛け違え」は、まず女性(須藤温子)とその祖母との関係に起源があり、その反復のようにして主人公たちに引き継がれる。祖母は、最初に結婚した夫が戦死したことで、その弟と再婚して、女性の父を産んだとされる。もし戦争がなくて、本当に好きだった最初の夫との結婚が続いていたら、「このわたし」は生まれなかった(それは「このわたし」ではなく「別のわたし」だ)。自分の存在そのものが、戦争によるボタンの掛け違えの結果であり、戦争があったことの結果でもある、という思いが女性にはある。

同様の関係が、『なごり雪』では、三浦友和(細山田隆人)、ベンガル(反田孝幸)、長澤まさみの間に、『22才の別れ』では、筧利夫(寺尾由布樹)、村田雄浩、鈴木聖奈の間に反復的に見いだされる。『なごり雪』の長澤まさみは、決して自分の父ではあり得なかった(もし父だとしたら自分は存在しなかった)反実仮想的父として三浦友和と対面し、『22才の別れ』の鈴木聖奈は、筧利夫と対面する。三浦友和筧利夫もまた、反実仮想的娘として、長澤まさみ、鈴木聖奈と出会う。ただ、作品のもつ重点としては、娘における反実仮想的父との出会いよりも、父における反実仮想的娘との出会いの方に強くかかっている(『22才の別れ』では必ずしもそうとは言い切れないが)。父にとって反実仮想的娘は同時に、ボタンを掛け違え、出会い損なった過去の女性(須藤温子、中村美玲)の分身であり、その回帰であるから。

(筧利夫は映画の冒頭に医者から「精子をつくれない病気だ」と宣言されるので---この病気が若い頃からのものなのかは分からないが---よりつよく反実仮想的父だと言える。)

(娘にとっての反実仮想的父との出会いは、現実の父---ベンガル、村田雄浩---との関係=自分の人生の時間を、ある程度相対化し、フィクション化することで、改めて見つめ直す過程を可能にする。)

ただ、この二作で問題だと思うのは、反実仮想的父や反実仮想的娘を可能にする、分岐点としての母/非母である女性(須藤温子、中村美玲)の存在を、現時点(現在)において抹殺してしまっているという点ではないか。この二作を一対のディブティックと考えるならば、どちらか一作には女性の現在があるべきなのではないかと考えられる。とはいえ、大林宣彦的原理からいえば、女性が現時点においては不在であること(それが過去であり、幽霊であること)が必須なのかもしれない。

●『なごり雪』と『22才の別れ』がディブティック的であることの一例。『なごり雪』が電車の映画だとすると、『22才の別れ』は自動車の映画だと言えるだろう。『なごり雪』の細山田隆人(三浦友和)は、臼杵駅から東京へ何度も電車で旅立ち、東京から臼杵駅へ何度も電車で帰省する。繰り返しあらわれる駅(いかにも寂れた田舎の駅であるような臼杵駅)の場面はとても重要だ。対して『22才の別れ』の登場人物たちは電車には乗らず、もっぱら自動車(そのほとんどが高級車)で移動する。

しかし、登場人物が電車に乗らない『22才の別れ』では、まったく異なるやりかたで電車が頻繁に画面にあらわれる。第一に、筧利夫鉄道模型のマニアであり、彼が住む高級マンションの部屋では常にミニチュアの電車が線路の上をはしっている。第二に、過剰なくらいに頻繁に、フレーム内を電車が通過する。『22才の別れ』の物語に電車はほとんど関係ないにもかかわらず、登場人物たちが演技するその背景を、やたらと電車が通り過ぎていくのだ。それはあざといくらいの頻度だと言っていいだろう。そのもっともあざとい例として、少年時代の筧利夫寺尾由布樹の住む部屋は、その窓のすぐ外が駅のホームなのだった(あからさまなはめ込み合成)。

22才の別れ』で物語に関係のない電車が頻出するのに対して、電車の映画であるはずの『なごり雪』では、電車はほぼ臼杵駅に縛られているかのようだ。電車は、臼杵駅にあるか、山中を走るだけであり、町中で電車がフレームを横切ることはない(町中からは電車が排除されている)。

2020-08-30

●『MIU404』、第十話。ますます「攻殻」っぽくなってきた(最後に、部署解体の危機が訪れるというパターンも踏襲されている)。Netflixの新しい「攻殻」シリーズよりも、こちらの方がずっと「攻殻」っぽい。次回が最終回だそうだが、菅田将暉がどのような人物として造形されているのかが気になる。菅田将暉が体現する「大きな悪」がどのような形のものであるのかということが、このドラマ全体の説得力にかかわってくると思う。

●そういえば、麻生久美子が第四機捜をつくったのは「働き方改革」の推進のためなのだった。麻生久美子にとっての「正義」は、まずそういうところから始まる(これが「手続きの正当性」へのこだわりにも繋がるだろう)。それはアラマキの「正義」とはやはりかなり違っていて(公安九課は「手続きの正当性」をすっとばした、電脳戦と荒事を得意とする)、そういうところに神山版「攻殻」に対する批評がある、とは言えるか。

だからこそ、休暇を返上してまで捜査をつづけるということは深刻な緊急事態であり、それ自体で既に足元の「正義(手続きの正当性)」が揺るがされているということになるだろう。その意味でも菅田将暉は大きな(困難な)敵なのだ。