2020-09-29

●つづき。『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』(久保明教)の「おわりに」より、引用、メモ。

《本書では、一九六〇~二〇一〇年代における家庭料理をめぐる諸関係の変遷を、モダン/ポストモダン/ノンモダンという大まかな区分に沿って追跡してきた。ただし、それは、先行する時期の家庭料理のあり方が後続する時期のそれによって完全に取って代わられるような直線的な変化の軌跡ではない。》

《互いに異なる家庭料理のありかたが、齟齬や摩擦を含みながら共立する。そこには常に部分的でねじれた関係が生じている。江上トミや土井勝らが確立した定型的な家庭料理から小林カツ代栗原はるみによるその脱構築に至る道筋は、食の簡易化のさらなる進展にも見えるだろう。だが、トミや勝のレシピに多く記載されている「化学調味料」の表記は、「手作り」と「手抜き」の対立を無効化するカツ代やはるみのレシピからは消えている。その一方、彼女たちが提案したより手軽で美味しく華やかな家庭料理が広まることによって、本書冒頭で言及した江上トミの「小あじのムニエル」のような美味しくても地味で手間のかかる料理が食卓に供され難くなってきたとも考えられる。》

《あるいは、定型から脱構築に至る流れの傍らには、第一章で検討した『すてきな奥さん』の冷凍食品加工料理がある。「手作り料理」の定義不能性を逆手にとったその営為は、マート読者による「二次創作」やTV番組『お願い! ランキング』(二〇〇九~)で有名になった「ちょい足しレシピ」に引き継がれていく。スーパーやコンビニの加工済み食品少しアレンジを加えることで食事をイベント化する。その身振りは、勝の「一手加わった」料理やカツ代の「知恵や工夫」に接近しながらすれ違っていく。》

《前著『ブルーノ・ラトゥールの取説』(二〇一九年、月曜社)において、著者は、世界を外側から捉える近代的な対応説(世界と言説の正確な対応に知の根拠を求める発想)でも、その内在性を暴露することで知の脱構築を目指すポストモダンなフィルター付き対応説(世界と言説の対応に社会的・文化的なフィルターの介在を措定する発想)でもないものとして、世界に内在する諸関係から一時的に世界に外在する知が産出されるとみなすノンモダニズムの発想を提示した。だが、それは単に新たな学問的発想として提示されたわけではない。むしろ、ノンモダニズムとは、私たちがすでに部分的に足を踏み入れつつあるノンモダンな暮らしに対応する学問的な知のあり方である。》

《だからこそ、本書では、家庭料理をめぐるネットワークを内在的に追跡し、時代区分と暫定的に結びついた外在的な認識(モダン/ポストモダン/ノンモダンな家庭料理のありかた)を浮かびあがらせながら、それらの齟齬を伴う共立を駆動する諸関係を追跡するという構成をとった。》

《異なる時代に根ざしながらも現在も健在である様々な家庭料理のありかたは、互いに互いを攻撃しうる論理と倫理を備えている。筆者は、そのいずれかに全面的に賛同することはないが、それらを家庭料理に込められた「思想」や「イデオロギー」として外側から評論したわけでもない。むしろ。筆者自身にとって個々の家庭料理のありかたが肯定的にも否定的にも見えてくる局面を接続していくことで、それらの複合的な争いを浮かび上がらせ、家庭料理をめぐる戦線の広がりをたどることを試みてきた。》

《とはいえ本書は、家庭料理に関わる膨大な営みのうち部分的なつながりを追ったものにすぎない。本文で言及されなかった様々な事柄を想起する読者も多いだろう。だが、その部分的つながりは、他の(既知あるいは未知の)諸関係との部分的つながりを惹起させるように配置されている。》

《(註より)本書の記述から惹起されるものとして第一に挙げられるのはジェンダー論的な諸関係だろう。家庭料理の変遷が、夫と妻と子を機軸とする近代核家族や男女の役割分担(性分業)をめぐる社会的変化と結びついていることは間違いない。だが、本書では後者への言及を抑えることで、前者を後者に還元して分析することを避けている。むしろ、本文で記述した「おふくろの味」という伝統の創造、『すてきな奥さん』の冷凍食品加工料理、『マート』読者の「ママ友グループ」における協働、『一汁一菜でよいという提案』をめぐる読者の反応などが示しているのは、近代核家族の弱体化や性分業平等化の進展(あるいは停滞)といった既存の図式では把握しきれない、ジェンダー論的な諸関係とその他の諸関係との齟齬と矛盾を伴う絡まりあいである。》

2020-09-28

●『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』(久保明教)。おもしろい。「暮らし(図)を分析する知(地)という図式が、分析(図)を駆動する暮らし(地)という図式に転倒されていく」。以下、メモとして引用。

《学問的な知は、そうした「分析する私」のプロフェッショナルによって産出され、そのアマチュアによって受容される。経済学にせよ、心理学にせよ、社会学にせよ、学問的な知識の作り手と受け手はともに能動的だ。経済的活動や心理的動態や社会的関係は、私の外にあり、認識し分析し---決して容易ではないにせよ---操作する対象とされる。》

《では、それを可能にしているのは何だろうか。乱暴に言えばそれが「暮らし」である。》

《睡眠をとり、食事をして、体を休める。起きていれば眠くなり、時間が経てば腹が減り、毎日何度かはトイレにいき、他人が煩わしくなれば自分のスペースにひきこもる。全て受動的だ。避けがたい必要性を充足することができてはじめて私たちは受動性を避け、「分析する私」となる。難民になっても学問は続けられると断言する学者を、私は容易に信用しない。学問は主に暮らしへの埋没を回避できる人々によって営まれてきたし、そうであるからこそ、学問的な知は暮らしを言語化するのに向いていない。》

《学問的分析が図(figure)であるならば、暮らしは「地」(ground)だ。(…)「分析する私」はその背景としての「暮らす私」に依存する。だから、「暮らし」を「分析」することはきわめて難しい。特定の暮らしを前提として展開される知は、その前提自体に矛先を向けると意外な弱さを露呈する。それが依存する特定の暮らし方を相対化できず、ただ倫理的に肯定するに留まるか、あるいは、基底に関わらない枝葉末節を衒学的に言祝ぐだけに終始しかねない。》

《暮らしは学問的分析の「境界条件」(対象に対する有意な分析がなされうる範囲とそれ以外を分けるために設定される条件)を構成するともいえるだろう。「分析する私」の境界において何が有効で有意味で有意義か、それは「暮らし」という見えない足下においてやんわりと規定されている。例えば、夢を見たらその解釈のもと直ちに狩りに行くパプアニューギニア・ダリビの暮らしにおいて、夢を無意識の抑圧と結びつけるフロイト流の精神分析は有意性を持たない。》

《もちろん、ここで扱うのは境界条件としての暮らしそれ自体ではない。私たちの生活を構成する要素のなかでも、料理はとりわけ様々な評価や批判や提言が集中するものとなっており、しばしば「分析する私」の視界に入り込んでくる。だが同時に、家庭料理を分析的に語る様々な言葉は、それらの齟齬や矛盾や変容を通じて境界条件としての暮らしを照らしだすものともなっている。》

《暮らしは常に変わり続ける。「家庭料理」という言葉からイメージされるものも、激しい変化のなかでつかのま安定した像を結んでいるだけのものにすぎない。にもかかわらず、私たちはそれを脈々と継承されてきた不動のものであるかのようにイメージする。社会構築主義的に言えば家庭料理もまた社会的に構築されるものであり、同時に、社会的構築の基盤をなす暮らしを構築する契機である限りにおいて社会構築主義では捉えられない構築物である。》

《もとより、「モダン/ポストモダン/ノンモダン」という区分は便宜的な比喩にすぎないが、家庭料理という暮らしが構築される拠点の一つにおいて何が賭けられ、何が求められ、何が諦められていったのかを捉えるために活用する。それは、家庭料理(「暮らす私」)の軌跡を学問(「分析する私」)の軌跡のパロディとして描くことであるが、同時に、後者を前者のパロディとして照射することでもある。暮らし(図)を分析する知(地)という図式が、分析(図)を駆動する暮らし(地)という図式に転倒されていく。本書は家庭料理を通じて暮らしの変遷を分析するものだが、それによって、何かを分析するという視点それ自体を構成する暮らしの動態を炙りだすことを主眼としている。》

2020-09-27

●アマゾンで『ソドムの市』(高橋洋)を久々に観た。面白かった。いろいろな人が出ていて、そういう意味ではかなり豪華。

血、呪い、盲目、花嫁、姉妹、拷問、カルト集団、降霊術、マッドサイエンティスト、戦争、世界の滅亡、そして、果てのない殺し合い。これらのことが、手作り感満載の、チープで薄っぺらで、まるでコントのようなのつくりであらわされるというところにリアリティがある。

というか、オブセッションを、薄っぺらな建て付けで上演することによる「距離の設営=制作」により、かろうじて操作可能なものとして、狂気へ陥る手前で留めている、その、「ギリギリの遊戯」を成り立たせる距離の感覚がリアルなのだ、と思う。

遊戯が成り立たなくなると狂気(あるいは恐怖)に落ちるので、この遊戯(遊戯の技法)は、必須で切実なものだ。

死んでも何度も復活して、「地獄が闘えというとるんや」と言って延々と殺し合いをする。斬っても斬っても死なず、互いに何度でも斬り合う。血しぶきが際限なく舞う。それを上から見ている花嫁が「これで終りね」と言い、傍らの岩淵達治が「終わりが永遠に続く」と言う。「地獄は実在する」というのは、こういうことなのだろう。

2020-09-26

●『予兆 散歩する侵略者』について、高橋洋が書いた脚本の第一稿と、出来上がった映画との違いから、高橋洋が、黒沢清の演出について語っている動画があった(『予兆 散歩する侵略者』は、ここ十年くらいの黒沢清の映画では特に好きな作品だ)。とても面白い。脚本に書き込まれた複雑な含みを、わかりやすさ、シンプルさを優先させて、黒沢清はどんどん切り捨てていく、と。おそらく黒沢清は、映画では物語はシンプルであればあるほど、物語とは別の、映画として魅力的である多くの要素を含みやすくなると考えているのではないか。

(これが必ずしも黒沢演出のいつもの傾向だというのではなく、この規模のパジェットで、こういう方向をもつこの作品にかんしては、この作戦でいく、という部分が大きいのだろうと思うけど。)

【鍋講座vol.37】続・インディペンデント映画の脚本ってなんだ?

https://www.youtube.com/watch?v=Vm13xMjijRY

 

2020-09-25

●つづき、『彼方より』(高橋洋)について(9月30日まで限定配信)

https://www.youtube.com/watch?v=ar8hicvEzo0&feature=youtu.be

●昨日も書いたが、『彼方より』においてはフィクション内現実と言えるような基底的な層が成立していないと言っていいと思う。だから、三人の俳優たちが、Zoomのようなオンライン会議ツールを使って集っているという事実さえ、(フィクション内)現実として確定できるか分からない(実際に、あんなに変なZoomの使い方はしないだろう)。

ただ、三人の人のようなもの(人かもしれないし、幽霊かもしれない)が、ある一つの場所に集まっている状況だ、ということは言えそうだ。だが、同時に三人は、それぞれに異なる背景(空間)を背負ったままで、一つの空間に集まっている。彼(女)らは、それぞれが別の場所にいながら、一つの場所を共有している。通常のオンライン会議ツールの使い方をすれば、共有される場所はPCのディスプレイ平面であるが、ここでは、三次元空間のなかに、それぞれ異なるディスプレイとして配置されている。

そこには、PCが三台あるのだが、同時に、三人が集っているようであり、降霊術によって呼び出された三つの魂があるようでもある(「ここ」にあるのはあくまで霊媒---三台のPC---であり、魂そのものは彼方にある)。

三人の人のようなものが、それぞれに異なる背景(空間)を背負ったままで、一つの空間に集まっている。だがこれはインスタレーションではなく映画であり、三次元空間は、カメラで撮影されることで二次元へといったん解体され、編集されることで、空間が、「時間変化する一つの平面」として再構成される。空間が映画化される(時間変化する平面へ再構築される)ことによって、基底層のない、フィクションの多層的なひしめきが可能になる(三次元のままでは、三次元空間が基底層になってしまう)。

●一人の人物に一つのフレーム(ディスプレイ)が割り当てられ、(地縛霊のように)そこに閉じ込められている。人物は、ほぼ正面(こちら側)を向いていて、ディスプレイ画面(向こう側にあるPC内蔵カメラ)に近い位置にいる。彼(女)らを表示しているディスプレイ(PC)自身は自律的に前後に動くことができない以上、俳優たちのパフォーマンスにおいて、俳優たちの前に広がる空間を活用することができなくなり、パフォーマンスの幅が制限される。

そのかわり、俳優たちの背後にひろがる空間の表現性が高くなる。俳優たちが皆、ほぼこちらを向いているので、背景の空間は常に俳優の「背後」としてある。背景はただの背景ではなく、俳優たちには見えない(隠された)「後ろ側」という特性を帯びる。見えない場所には、見てはいけないものがあらわれる余地(予感)が生まれる。俳優たちにとっては背後だが、観客にとっては正面だ。だがそれは、「背後」として意味づけられた正面となる。

(追記。ディスプレイ=PCの背後と、人物の背後という、二つの層の「背後」があることになる。)

●「背後」の表現性は、三人の俳優たちそれぞれに異なっている。大田恵里圭の背後は、それ自体でとても表現性の高い、古い日本家屋の仏間のような場所であり、そのことが終盤の大田フレーム独自の展開(場所の移動と幽霊との邂逅)につながっていく。

園部貴一の背後には、無機質な壁と出入り口があるだけだが、ここで重要なのは、園部と壁の間にかなり距離があるということだ。無機質でがらんどうなこの広がりが、そしてその隅にある暗い出入り口が、ある表現の質を獲得しているし、園田のパフォーマンスのあり方を決定してもいる。

(また、園部フレームにはその対面にある河野フレームがしばしば映り込んでおり、このこともまた非常に強い表現性をもつ。)

河野和美の背後は、ただ暗い広がりがあるだけで、もっともフラットだと言える。だが、背後の壁がプロジェクターのスクリーンとなっており、これにより、河野フレームではフレームの多重化や他のフレームからのイメージの受け入れが可能になる。また、背景の表現性が最も弱い---フラットな---河野フレームにおいては、そのかわりに、河野自身の「顔(特にまなざし)」が非常に強い表現性をもち、この作品のトーンを決定しているとさえ言えるだろう。

●四つの空間(俳優たちのいる三つの空間と彼らが集まっている部屋)を、串刺しするようにして連続性をもたらすのが「ノックの音」だが、この音が何処で鳴っているのか分からない。というか、離れた別の場所であるはずの四つの空間に、同時にノックの音が響くことで、連続していない空間に連続性が生まれる。つまり、あり得ない時空がたちあがる。

(その後の展開をみると、大田恵里圭のいる屋敷で鳴ったと解釈することも可能だが、基底となる層のない、複数のフィクションの層の折り重なりとしてこの作品を捉えるならば、ノックの音が響いたその時に成立していたフィクションの層においては、ノックの音は四つの空間すべてを同時に貫いていたと考えられる。)

一方、歌(ハミング)はズレる。このズレは、オンライン会議ツールを使う者にとっては親しい(リアルな)ものだろう(オンライン会議ツール独特の、キンキンした音質、時折ある音声の途切れ、動画の停止なども、表現性として充分に活用されている)。だがここでは、「音程が外れ過ぎて何の曲が分からない」という河野和美の声が、どこから来たものなのか分からなくなっている(この場面で河野の口は動いていない)。由来の分からない声が混じり込む。

●この作品において亡霊(幽霊)とは、まず一義的には「ハムレット」に書かれたハムレットの父王の亡霊であるだろう。しかし、ハムレットを演じる園部が、河野から、ハムレットが亡霊に出会った後のセリフの解釈について問い詰められ、亡霊とは何かと問われると、園部は(デリダを介した?)「共産党宣言」の朗読で返すのだ。亡霊がヨーロッパにとりついている 共産主義の亡霊が、と。これにより「亡霊」という語の指し示す対象が拡大し(あるいはスライドし)、ここで言われている「亡霊」の由来(亡霊という語の意味の基底層)が分からなくなる。亡霊がさらに亡霊化する。たたみかけるように、大田による「亡霊の経験」についてのテキスト(デリダ?)が朗読される(上演から朗読への移行)。

(この後の、河野と大田による「ハムレット」の兵士どうしの会話の挿入のされ方はゴタールっぽい。)

そしてまた、朗読から上演へ移行。朗読と上演との違いは、今、口にしてる言葉の由来が、手元にある本だということが、示されているか、いないのかの違いだろう。検索して分かったのだが、「私はマクベスだった、王は三番目の側室を私に提供した」というセリフは「ハムレットマシーン」からきているようだ。シェイクスピアの「ハムレット」だと思っていたのに、いきなりハイナー・ミュラーが出てきて混乱する。ここでも、由来(出自・引用元)の横滑り的な移行がなされていると言える。

つづいて園部により「殺人への決意」が語られ、彼は出入り口から消える。

●それに次いで唐突に、コロナ禍の現実を直接的に反映したような、ナチュラルな描写が挿入される。だが、自然な俳優どうしの会話であるようなこの層においても、河野は魔女的な人物でありつづけている。

ここでは視線のあり方もまたナチュラルであり、自然であることによって変な感じになっている。河野がカメラ目線で「リモート映画なんか撮っても無駄、映画の死を加速させるだけ」という時、この視線によって、カメラの背後にいる「映画を作っている人」が(あくまでフィクションの一つの層として)浮かび上がる。

●「映画の死」が口にされた直後、戻ってきた園部は、今度は(ハムレットではなく)王を殺した直後の「マクベス」を演じる(だが河野は園田に「やったのね、ハムレット」と言う…)。ここで園部が殺したのはクローディアス(ハムレット)なのかダンカン(マクベス)なのか、それとも「映画」なのか、誰でもない誰かなのか。それは分からないが、とにかく決定的な行為(殺人)が行われてしまったということは確かなようだ。

いや、そうではないか。クローディアスを殺し、ダンカンを殺し、映画を殺し、個別的な誰かを殺した、フィクションにおいて決定的な行為を犯してしまった様々な人物が、その行為が、それぞれ個別のフィクションの層として、ここではそのまま折りたたまれていると考える方がよいだろう。由来からの切断ではなく、由来の横滑りなのだ、と。

そして全てを貫くノックの音が。

●四つの異なる空間を貫いて同時に響く音は、三種類ある。(1)ノックの音、(2)悲鳴、(3)いなごの大群の羽音。ノックの音は亡霊の訪れを、悲鳴は亡霊の現れを、そしていなごの羽音は、亡霊の出現による世界の変質(あの世のこの世化)を、それぞれあらわすだろう。

三つの貫く音に対して、各々のフレームで歌われる歌(ハミング)は決して重ならない。フィクションのそれぞれの層は、折り重なりながらも同期しない。

●「The time is out of joint」が「時間が脱臼する」であり、「To be or not to be」は「亡霊がいるのか、いないのか」であるとする。そして、亡霊が現れると、時間が脱臼し、この世とは違う時間が流れはじめる。

悲鳴の後で、園部フレームの映像がライブから録画にかわり、それでも、ライブの河野フレームとの対話が可能なのは、ここで既に時間が脱臼しているからだろう。というか、この作品そのもののあり方が、それ自身として脱臼した時間の実践であると思う。

(追記。河野は、一方で「あの世がこの世になる(あの世が到来する)」と言いながら、もう一方で「時間の外に出て映画を撮り続ける(外に出る)」と言う。あの世がやってくるのか、この世から出てしまうのか。つまり、あの世がこの世全体と取って代わるのか、あるいは、あの世がやってくるのは、この場で上演=降霊会を行うことでこの世の外に出てしまう者たちにとってだけなのか。)

2020-09-24

●さらにつづき、『彼方より』(高橋洋)について。

●少し、整理し直してみる。

昨日の日記には、この作品のシチュエーションとして「リモート映画を撮っている」状況がフィクションとして描かれているかのように書いたが、そう断定できるかどうか怪しい。コロナ禍で実際に集まることが出来ない俳優たちが、いつ実現するかわからない舞台のリハーサルをZOOMを使って行っている場面と考えることもできるし、俳優たちが自主的にエクササイズというか、勉強会を行っている場面とみることも可能だ。

というか、重要なことは、シチュエーションを特定することではなく、どのような状況なのかよく分からない状態がつくられている、ということだろう。特定の状況を想定できないような時空が成立していて、どのレベルのフィクションが「フィクション内現実」として基底となっているのか分からないような状態をつくるということが、この作品で行われていることだろう。

これは一例だが、俳優たちは基本的にずっとライブの映像として示されている(撮影されている)のだが、(大田恵里圭の?)悲鳴が聞こえたあと、園部貴一だけ、なぜか録画映像に変わる。録画された園部貴一とライブ映像の河野知美とが対話することになる。通常の時空としては考えられない形になっている(時間の蝶番が外れている)。

だから、昨日の日記に書いたように、「フィクション1」と「フィクション2」という二つの層に分けられるという話も怪しくなる。そうではなく、複数の層のフィクションが雑居していて、それらが頻繁に横滑りするように移行していくと考えた方がよいだろう。

現実の俳優が、リハーサルをする俳優を演じていて、その演じられた役の人物がハムレットを演じている。そのような形で階層構造が出来ていると考えるのではなく、その都度、異なる組成のフィクションが、一時的に最表面に露呈してきては、また横にずれて別のフィクションの層がたちあがる、と考える方がよい。

たとえば、園部貴一が演じる俳優は「ハムレット」の一場面を演じているだけなのか、本当に人を殺してきたのか、よく分からない。というか、(俳優が)人を殺してきたとは考えにくいのだけど、作品として、あたかも人を殺してきたかのような(フィクション上で本当に人を殺したのと同等の)禍々しさがたちあがっている。つまり、作品上ではここで殺人があった。そのような意味で、基底となる一貫した(フィクション内)現実という位相はなく、フィクションの複数の層のたたみ込みとして作品が成り立っていると考えられる。

(つづく)

2020-09-23

●つづき、『彼方より』(高橋洋)について。

●映画の冒頭、暗い書斎のような部屋を引き気味で撮っているカットでは、河野和美が映っている大きなモニターがあり、その傍らに大田恵里圭が映っている小さなモニター(ノートPC)も見えるのだけど、園部貴一が映っているモニターは見当たらない。このカットには「本番いきます」「よーいハイ」「違う違う違う」などの画面外からの声が被っていて、「リモート映画を撮影していますよ」というフィクション外フィクションの時空が示されていると言える。

(追記。もう一度よく観てみたら、手前の椅子のところにノートPCが一台置いてあるのが見える。ということで、これ以降の話の前提が大きく崩れた。)

(この映画は、実際にリモート映画として撮影されているが、同時に、フィクションとしての「リモート映画を撮影している」という層をもつ。)

そのままフィクション内フィクションの領域に入って、カメラが河野を映すモニターに徐々に寄っていき、「ホレイショ登場、ハムレット」というセリフの後にカットがかわると、最初のカットにはなかった園部のモニター(ノートPC)があらわれ、そのモニターには河野のモニターが反射して映り込んでいる(二つのモニターは対面していることが分かる)。つまり、このカットは最初のカットと空間的に連続していない。あるいは、連続しているとすれば、園部モニターは、最初のカットのカメラの位置に突然出現したことになる。

撮影されているのが生身の人間であるなら、人は自律的に移動するから、いつの間にかこの位置に来ていてもおかしくない。だからこのようなモンタージュでも「空間的に連続していない」とはあまり感じないだろう。しかし、通常ノートPCは自律的に移動しないので、「空間的に連続していない」あるいは「突然出現した」という感覚をもってしまう。

園部モニターには、「発言中」「レコーディングしています」という文字が出ているので、このカットは園部貴一が(回線の向こう側で)演技している様を、リアルタイムでカメラに撮っているということだろう。この前の河野モニターのカットもリアルタイムで撮影されているとすれば、この二つのカットは別々の時間に撮られ、後から編集で繋げられたことになる(前のカットでは、河野モニターの対面に園部モニターはなかったのだから)。だがこれは当たり前のことで、切り返しというのは、普通そういう風に撮影されるだろう。そもそも映画は切れ切れに撮影されて後から繋げられるものだ。しかし、モニター間で行われると、普通の切り返しがとても妙なことのように感じられる。

(この切り返しが、妙な人形を介して行われる、ということもあるが。)

俳優は、ここ(カメラのある空間)にいるのではなく、遠くにいて、その都度呼び出される。降霊術で霊が召喚されるように。河野知美と園部貴一と大田恵里圭は距離的に切り離され、それぞれ別の場所にいる(別の背景をもつ)。それが「この空間(降霊空間)」を媒介にして結びつけられている。そして、切り返し=編集という操作は、媒介としてある「この場所」の時空の連続性を、もう一回切り離してから、再び結びつけ直している。この、手続き(媒介)の二重性(二重に切り離されており、二重に結びつけられている)が、ありふれた切り返しを妙なものにしているのかもしれない。

というか、普通の切り返しを妙なものと感じてしまう時点で、観ているこちら側が、現実の次元とフィクションの次元との混同をして(させられて)しまっているのだろう。

そしてまたカメラが河野モニターに返され、河野の顔が示されたモニターを映し出しながら、園部と河野の会話(会話になっているのか分からない)がなされる。この時、画面に映っていない園部の声が、どこから来ているのかよく分からなくなる。本当に、河野モニターの対面に園部モニターがちゃんとありつづけているのか疑わしく感じる。園部モニターには河野モニターが映り込むが、河野モニターには何も映り込まないし(モニター間の非対称性がある)、園部の声は別の時間にレコーディングされたものが再生されていてもおかしくはない。

(このことにかんしても、そもそも映画において、画面と音とがいつも同時録音で同じ由来をもっている保証などまったくないのだから、別の時間に録られた音が切り貼りされても、それはごく普通のことなのだけど、その、ごく普通のことが改めて妙なことであるかのように---というか、映画の音声のもつ来歴の根拠の無さが、改めて---意識されてしまう。)

カメラは、河野モニターから傍らにある大田モニターへとゆっくり移動し、大田=オフェーリアが語りだす。そこで大田が「自殺するのをやめた」と言うと、絶妙のタイミングで園田が、「え、やめたの」と突っ込んでくる。このタイミングはまさに自然であり、同時性や時空の連続性を感じさせるのだが、ここで注意すべきなのは、園田のツッコミがカットを割って入ってきているということだ。つまりこの自然な時間の流れこそが、事後的な編集によってつくられている。さらに言えば、ここまで全ての俳優が、戯曲のセリフのような言葉を、古典劇のような調子で喋っていたのだが、ここではじめて、素で、不意に言葉が漏れてしまったような(役柄からこぼれ落ちたような)調子で「え、やめたの」と言う。この映画では、素で、自然で、連続的な時空が成立しているかのように見える時こそ疑わしい(事後的、人工的に作り込まれている)。実際、ZOOMなどの会話で的確なタイミングのツッコミを入れることは困難だ。

(繰り返しになるが、編集によって自然なリズムがつくられるなどということは、映画では当然、普通に行われているはずなのだが、そういうことがいちいち意識されてることになる。)

そして、この「え、やめたの」というセリフは、フィクション内フィクションとしての園田=ハムレットのセリフなのか、フィクション外フィクションとしての園田=俳優のセリフなのか、どちらともつかない両義的な位置にある。その自然で砕けた調子から、園田=俳優の言葉のように感じられるが、このツッコミはあくまで、大田=オフェーリアのセリフに対する反応なのだ。

●この作品で俳優は、リモート撮影を行っている俳優の役を演じており(フィクション1)、その俳優として戯曲のようなもの(シェークスピアに由来するハイナー・ミュラー?)のいくつかの役を演じている(フィクション2)と言える。とはいえ、この二つの層は明確に分けられているようにはみえない。たとえば河野和美は、フィクション2の層において、魔女的で予言者的な役を演じているが、フィクション1の層の俳優を演じているようにみえる場面でも、同様に魔女的で予言者的な性格をそのまま引き継いでいる。俳優たちは、前半では主にシェイクスピアに由来するセリフを演じている(フィクション2)が、後半になって、シェイクスピアのセリフにかんする解釈について議論する場面(フィクション1)でも、まるで書かれたセリフを読み上げるかのように演じている(演じ分けられていない)。だが、それとは別に、「榎本組」の撮影を中止させようとする場面や、いなごの大群の襲来を告げる場面(フィクション1)では、いわゆるナチュラルな演技で演じられる。

また、園部貴一を映し出す映像には三つの異なるレベルがある。(1)リアルタイムで配信しているディスプレイをカメラが撮影したもの。(2)配信を録画した映像をそのまま用いたところ。(3)録画した映像を再生しているディスプレイをカメラが撮影したもの。前半は(1)であるが、途中で何度か(2)が挿入され、終盤は主に(3)である。他の二人は常にリアルタイム配信なので、園部だけ他の二人とは異なる時間(まさに、時間が脱臼している時間)のなかにいることになる(大田恵里圭は途中でディスプレイの前から離脱して、河野のフレームに入り込むのだから、厳密には、時空のあり様は三人三様と言うべきかもしれないが)。

(つづく)