2020-10-06

●聞き流すように聞いていたNHKのニュースが告げるノーベル物理学賞受賞者のなかにペンローズという名前があり、このペンローズはあのペンローズなのかと思ったら、あのペンローズだった。

受賞の理由は、「一般相対性理論」から「特異点」の存在を導出したことであるらしいのだが、それってもう五十年以上も前の仕事なのではないか。ノーベル賞が、現在の科学の基礎となっている過去の業績に対して与えられるというのは知っていたが、そうだとしたら、この賞が(たとえば、五年前でも、五年後でもなく)「今年」与えられることの根拠は何処にあるのだろうか、と思った。

たまたま、今年のノーベル物理学賞は、ブラックホール関連の業績でまとめられた、ということか。

ペンローズの華々しい業績のなかではマイナーなものだと思われるが、「ローレンツ収縮は実は縮んで見えない」ことを証明した、という話が機知が効いていて(ペンローズの柔軟さを表現しているようで)小ネタとして好きだ。以下、図を含め『ペンローズのねじれた四次元』(竹内薫)より。

《ガモフの『不思議の国のトムキンス』は、相対性理論の良い啓蒙書であるが、そこに、通行人の目の前を通りすぎる自転車が縮んで見える挿絵がある。ペンローズが指摘するまでは、世界中の物理学者たちが、この挿絵のように、動いている物体は相対性理論に従って縮んで見える、と信じて疑わなかった。ペンローズは、それを覆してしまった。》

ローレンツ変換で概念的に物体が縮むのは視線方向なので、物体の実際の見え方に影響はしない。たしかに、目の前を右から左に飛んで行く物体は、縮むのだが、物体の頭とお尻から私の目に届く光は、同時に発せられたものではないため、視覚的には、物体は〈縮む〉のではなく、〈回転〉して見える。つまり、本来は見えないはずの物体の後ろ姿がちらっと見える。この驚くべき現象を世界で初めて証明したのが、われらがペンローズだった。》

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2020-10-05

●U-NEXTで『夢野久作の少女地獄』(小沼勝)を観た。面白かった。終盤の復讐(を受けての大人=男たち狼狽)の描写が、類型的に感じられややテンションが下がるのだが(とはいえ、そう感じてしまうのは、洗練され過ぎた現代のJホラー表現に慣れてしまっているからかもしれない)、最初の30分くらいがとても面白かった。

二人の「少女」(小川亜佐美、飛鳥裕子)の、メイクや髪型なども含めた顔の作り込みが面白い。顔だけ白浮きしているような不自然なメイクの飛鳥裕子や、いかにも「描きました」というような人工的なソバカスをつけた小川亜佐美など、最初に登場する時に「少女」たちの顔はデフォルメされた仮面のようにある。それは、この作品において「少女」が、ナチュラリズム的な存在ではなく、表現的な存在であることを示しているだろう(体育の授業の時、ブルマーに黒ストッキングだったりする)。それが、場面や進展によって、より素顔に近い顔になったり、より端正に作り込まれたメイクになったりして、かなり大きく変動する。

顔が、仮面のような(広い振れ幅のある)表現性をもつことと対照的に、「(女性の)裸」はナチュラリズム的な生々しさをもつ。しかし、この生々しさは、男性による暴力性によって際立つように表現される。この作品において、女性同士の性交は、間に白い風船のようなオブジェクトを挟んだりして、間接的で遊戯(幻想)的なものとして形象化される(ラストにある二人の少女による直接的な性交場面を除いて)。一方、男女の性交では、ほとんどの場合、男性が一方的に女性をなぶるような形のものとなる(最後の方で、飛鳥裕子が父に見せつけるために自ら乞食坊主を誘い込んでなされる性交を例外として)。この、男性の一方的な攻撃(暴力)性は、女性の体を触る男性の手、という形で表現される。つまり、男女の性交は主に、男性の手が女性の体を触る、という形で表現され、そこで、一方的に触られる体=裸として、ナチュラリズム的な生々しさが発生する。

(おそらく、女性の体=裸のナチュラレズム的な生々しさが、男性の手の暴力性から解き放たれた形であらわれる唯一の瞬間が---この映画を観た多くの人の印象に残るであろう---校長から性交を強いられた後で小川亜佐美が波打ち際に裸で横たわる場面だろう。)

(互いの体を、互いに触れあう、という形で表現される性交は、ラストにある少女同士の性交場面だけだと言える。しかし、この相互的で直接的な性交は、物語の時系列から外れた時間の外で、地球を離れる---自死する---覚悟を決めた二人において、ようやく可能になる。)

2020-10-04

●U-NEXTで『黒薔薇昇天』(神代辰巳)。久々に観たけどすばらしかった。

いかにもやっつけ仕事のようないい加減な脚本と、奇跡のようにすごいショット(シーン)の数々。緻密に、完璧に作り込まれた、ということとはまったく別種の「すごさ」。映画としての形式の面白さと、それによって捉えられる七十年代中頃の大阪の風景の猥雑さとが、分かちがたく結びついている感じ。

たとえば二度繰り返されるゴンドラの場面。このゴンドラが、おそらくデパートの屋上のようなかなり高い場所にあるのだろうということはなんとなく分かるが、しかしそれ以上は、どんに立地のあるのか分からないような、限定されたフレーミングによる長回しで捉えられる。それによって生まれる、なんとも言えない不安定な宙づり感。

このゴンドラから、谷ナオミが飛び降りようとする仕草をみせ、それを岸田森が押しとどめようとする。この、ある意味サスペンスフルであるアクションが、空間の宙づり性によって、サスペンスというより、性交シーンで体位(上下)を入れ替えているような回転運動に、重力の作用によりさらなる緊張が加わった感じの印象のものとなる。

(この場面は、後にある、この映画のクライマックスと言える二人の性交シーンを予告する、前触れのような役割をもつと考えられる。)

たとえば谷ナオミ岸田森に連れてこられる、川沿いの船着き小屋のような場所。タクシーを降り、階段を昇って防波堤を越え、不安定そうな足場を二人が進んでいくというデコボコした運動と空間の展開を、かなり遠い位置からのカメラが捉えている。進んでいくにつれて、高度が増すと同時に足場の不安定さもまた増していく感じ。そしてたどり着く小屋は、(ゴンドラと同様)まるで宙に浮いているかのような、土台が存在していないかのような空間なのだ。

(この中空の小屋で、岸田森は、カモだと思っていた谷ナオミに恋愛感情を抱いてしまったことを自覚する。つまり、宙づり状態で重力が意識される。)

(岸田森はブルーフィルムの製作者であり、彼が撮るブルーフィルムで男女は---カメラが下に回り込めるようにするため---ビール箱を足場にして宙に浮いた透明の板の上で性交する。ブルーフィルムの製作=ゲイジュツは宙づりである。)

このような宙づり感は、岸田森谷ナオミにブルーフィルムを観せ、なかば強引に性交に及び、そしてそれを撮影させるという一連の場面にもあらわれる。この場面の充実こそが、この映画のクライマックスになっている。

岸田の住むこの部屋は、ガラス加工工場のすぐ上に隣接されたような、奇妙な二階にあるのだが、しかしそれよりも、この場面の宙づり感は、主に部屋が(ブルーフィルムを上映しているので)暗いことによって成立している。部屋の暗さ(+映像の投写)によって三次元空間としての(基底的な)部屋の成り立ちが見えなくなり、ただ、二人の人物の位置関係(とカメラとの関係)によってのみ、空間が生成される。背景から切り離されて宙づりになった二人の人物の、「演技」の有り様や強度こそが、時空をたちあげる。

ここまでずっと、実際の風景と共にあり、映画としての形式と実景との関係によって時空(宙づり感)を形成してきたこの映画だが、この場面では、背景から切り離されることで宙づりにされる二人の人物の関係(と映画としての形式の関係)にフォーカスしていく。この場面の充実した凝集力が、開放的で拡散的なこの映画の核(重力)のようなものになっていると思う。

●この映画ではまず、芹明香が妊娠によってゲイジュツ---という宙づり状態---から離脱する。動物園で芹明香岸田森を横切っていく幼稚園児たちや、谷ナオミと待ち合わせる「心斎橋PARCO」の看板が見える横幅の広い歩道橋のような場所で岸田森に背負われて「けんけんぱ」をしている子供たちは、「ゲイジュツ=宙づり」に対する「重力」のようなものをあらわす役割であろう。だからこそこの映画で「子供たち」は不気味なのだと思う。

そして映画の最後には岸田森さえもが、恋愛感情によってゲイジュツ=宙づりを裏切ってしまう。とはいえそれは「結論」ではない。宙づりのなかで重力が意識され、重力のなかで宙づりが意識されるのが、この作品だと思う。

2020-10-03

●(昨日からちょっとつづく)『女地獄 森は濡れた』(神代辰巳)で中川梨絵は、自然ではない、人工的で変な調子でセリフを喋るし、セリフのトーンが途中で何度もころころ変わる。そして、これはこの作品の独自の質を成り立たせるために必然的なことのように思われた。もし、普通に自然と言われるような、お金持ちの奥様風の演技がなされていたとしたら、この映画の世界は成り立たず、その面白さと説得力は大きく減じていただろうと思われる。

しかし、中川梨絵トーク(のレポート)を読むと、これは監督による演出ではなく、アフレコの時に中川梨絵が勝手にやってしまったことだという(監督は普通にやってくれと怒った、と)。

《アフレコで普通にやっちゃうとつまらないから、変なアフレコにした。高い声と低い声で、抑揚をものすごくつけて、上品さと下品さ、エキセントリックさを表そうと。神代さんは怒って、普通にやってくれと。神代さんはみなさんの意見を聞くタイプで、最後はどういう音楽をかけようか。スクリプターの方はクラシックって言ってたけど、私が凄惨な出来事の後はラジオ体操でしょ!って、神代さんは私に負けて、厭な女だなって。アフレコも、あれで通っちゃった(笑)。》

(「私の中の見えない炎」中川梨絵 トークショー神代辰巳監督特集)レポート・『恋人たちは濡れた』『女地獄 森は濡れた』(2))

https://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2015/03/25/125537

このレポートを通して読むと、中川梨絵は、撮影の時、当時とても評価が高かった共演の伊佐山ひろ子にかなり対抗意識をもっていたみたいで、そのことが、このような工夫を生んだのかもしれないと思った。よい作品というのは、その場を構成する様々な事柄が影響し合ってできるものなのだなあ、と。

●『彼方より』(高橋洋)は、九月末までの限定配信とされていたが、今のところまだ観られる。

https://www.youtube.com/watch?v=ar8hicvEzo0&t=7s

●今年も「スナックうめ子」があってほんとによかった。TIFが続く限り「スナックうめ子」も続くことを願う(「うめ酒の休肝日」も復活してほしい)。

2020-10-02

●U-NEXTで、にっかつロマンポルノの作品の配信が大量に追加された。神代辰巳田中登曽根中生小沼勝などの、有名だけど観そこなっていた作品もけっこう観られるようになった。

で、『女地獄 森は濡れた』(神代辰巳)を観た。一応、サドの「ジュスティーヌ」が原作ということになっている。1973年の映画だけど、神代は73年には四本、次の74年には、一般映画も含めて年に六本も映画をつくっている。にっかつロマンポルノは低予算のプログラムピクチャーだとはいえ、この量は単純にすごいし、しかも質の高い作品が多い。

この作品は、ロマンポルノという枠内でつくられているにもかかわらず、65分の映画の最初の30分の間に、性交シーンが一度もないだけでなく、裸さえほぼ出てこない。これが許されるということは、既に監督として高い評価があって特別扱いになっていたということなのだろう。

とても面白かったし、怖かった。この映画はポルノというよりホラーであり、ここにあるのは、欲望や快楽の問題ではなく、恐怖の強迫的な反復の装置であると思う。恐怖は機械的に反復される。この映画で絶対的な権力者であるようなみえる山谷初男でさえ、機械的に反復する恐怖が到来するシステム(呪い)を構成する配役の一部であり、機械を駆動させる歯車の一つでしかないだろう。

山谷初男の権力も、中川梨絵の欲望も、そこに供物として供される伊佐山ひろ子の存在も、すべては恐怖を召喚する儀式のパーツであり、一種の書き割りであり、呪いに奉仕する構成要素であろう。反復(呪い)は冷たく淡々とした過程(段取り)としてあって、ただ、それによって召喚される恐怖のみが、生々しくリアルなものとして立ち上がる。

それは、(伊佐山ひろ子が)徐々に迷路に入り込み、罠に絡め取られていく、前半の魅惑的な空間表象や運動を伴う展開=過程と、後半の、時空の分節化を拒むような混濁した強さ(しかし、混沌へと落ち込むことなく持続する強さ)=恐怖とに、それぞれ対応すると思われる。

(これを観ながら、そういえば神代の映画には、とても魅力的な運動とそれによって開かれる空間がある一方、運動によって開かれた空間をぐしゃっと潰してぐずぐずにするような性交描写があるなあ、と思った。それは、ひろがりと、ひろがりを潰すことで生まれる強さ、ということの違いなのかもしれない。)

この作品から、痙攣的な恐怖の強さを脱臼し、反転(逆転)可能な関係の順列組み合わせ的な要素を残すことで、恐怖の反復強迫を笑いの反復強迫へと転化したものが、『悶絶どんでん返し』ではないかと思った。

(ただ、この作品で山谷初男は、召使いからムチで打たれるとしても、絶対的な権力者であることは揺らがないので、関係の逆転は十分には起こっていない。根本的な関係の逆転---裏返り---が生じるのには、『悶絶どんでん返し』を待たなければならない。)

 

2020-10-01

●引用、メモ。『家庭料理という戦場』(久保明教)より。本質(定義)→プロトタイプ→「地」の変動。「外在的な認識の妥当性は、内在する諸関係の暫定的な効果に他ならない」。

《通常、私たちは、個々の料理を特定の記述によって同定される確固たる実体として考えているが、実際にそのような記述を特定することはきわめて難しい。例えば「カレー」という料理を同定しうる記述とは何だろうか。直ちに思い浮かぶ「肉や野菜に水とルゥを加えて煮込んだ料理」という記述は、カレー粉を使用した料理を含まない。「ルゥ」を「各種スパイス」と言い換えれば済むようにも思われるが、その記述では例えば「鶏手羽先とトマトを水と黒胡椒とローリエで煮込んだ料理」も含まれてしまう。最終的な手段として「各種スパイス」を「カレールゥやカレー粉に使われるスパイス」と定義すれば循環論法に陥ってしまう。》 

《とはいえ、私たちは特定の料理名からある程度共通した料理をイメージすることができるし、実際に料理をみればその名前をある程度の精度で言い当てることができる。それは対象を同定する記述の束(対象の本質をなす要素の特定)によるものではなく、むしろ、認知言語学で言われるような「プロトタイプ」(その名称で呼ばれる事物の典型例)との類似性において様々な料理を把握しているからだと考えられる。》

《(しかし…)前述した「簡単節約☆鶏胸肉の焦げない唐揚げ」のようなレシピの広まりが「揚げる」という行程を欠いた料理へと「唐揚げ」のプロトタイプを変容させつつあり、あるいは、二〇一四年九月に検索ワード数が急上昇したことをきっかけに生じた「おにぎらず」ブームが、既存の「おにぎり」に隣接する新たなプロトタイプを形成しつつある。》

《(…)プロトタイプ論ではなぜ典型例が分裂したり変化してしまうのかを説明できない。にんにくを用いた料理の典型例は、「ラーメン二郎」のような料理と「ガーリックトースト」のような料理に分裂しつつある。「唐揚げ」と言われて想起される典型例は、ある人にとっては大量のサラダ油を注いだ深手の鍋で鶏肉を揚げたものだろうが、ある人にとってはフライパンに敷いた少量のサラダ油で鶏肉を炒めたものでありうる。あるいは、「おにぎらず」は、(…)現在おにぎりを扱う専門店の一部では単におにぎりの一種として販売されている。》

《家庭で作られる料理において、料理名で示されるカテゴリー(例えば「ビーフストロガノフ」)を個々の具体例に等しく適用される述語(牛肉と野菜をデミグラスソースで煮込んだもの)によって確定することはできない。ビーフストロガノフの牛肉を豚肉に変えても、それは「ビーフストロガノフ(のようなもの)」と呼ばれうるし、「唐揚げ」を揚げずに炒めてもそれは「唐揚げ」でありうる。個々の料理は家庭における固有の文脈において作られ食べれるものであり、そこでは、他の料理や他の事物がその文脈を逸脱させるものとして介入することが常に可能である。「おにぎり」にバゲットサンドやインスタ映えが介入して「おにぎらず」を含むものへとその典型例が変化しつつあるように、プロトタイプによる外在的な認識の妥当性は、私たちが内在する諸関係の暫定的な効果に他ならない。》

《「分析する私」が依拠する様々なカテゴリーが、「暮らす私」の実践において不安定化され再編されていく。それは個々の料理だけでなく、「手作り」や「我が家の味」といった暮らしを意味づける諸概念にまで及んでいる。(…)暮らしを捉える諸概念が暮らしのなかで定着しながら変容していく。こうした循環的な運動において、暮らし(図)を分析する知(地)という図式は、分析(図)を駆動する暮らし(地)という図式に転倒されるのである。》

2020-09-30

●noteに、2001年から2002年にかけて「批評空間Web CRITIQUE」で発表した四つのテキスト(「絵画について/IMAIとOKAZAKI」、「京都芸術センターの「表」岡﨑乾二郎について」、「セザンヌ村上隆とを同時に観ること」、「現在にまみれて身動きが出来ない/アモス・ギタイ『キプールの記憶』」)をアップしました。

20年ちかく前に書いたもので、当時と今とでは状況が大きく変化しているし、ぼくの考え方も変化しているところがあり、古くなってしまっているという感じもありますが、Web CRITIQUEに書いたものは、ほとんど初めての依頼原稿で(記憶では、それ以前にboid.netに二本、映画評を書いたことがあるはずだけど)、文章を書く人としてのデビュー作のようなもので、愛着はあります。

(「絵画について/IMAIとOKAZAKI」で言及している岡﨑乾二郎『色圧 "color pressure"』は、岡﨑乾二郎のウェブサイトにも今のところ写真がないし、豊田市美術館の「視覚のカイソウ」展にも展示されていなかった。この作品(群)について言及しているテキストも読んだ記憶がない。ここで、今でも強く印象に残っている作品(群)だということを改めて言っておきたい。)

「絵画について/IMAIとOKAZAKI」

https://note.com/furuyatoshihiro/n/n9ec591f3bb02

「京都芸術センターの「表」岡﨑乾二郎について」

https://note.com/furuyatoshihiro/n/nd99613fd79b8

セザンヌ村上隆とを同時に観ること」

https://note.com/furuyatoshihiro/n/nc01bd594f0b7

「現在にまみれて身動きが出来ない/アモス・ギタイ『キプールの記憶』」

https://note.com/furuyatoshihiro/n/n986b20dc312b