2020-10-09

●欠点と可能性というのは、ほとんど同じ位置にあり、また、美点と限界というのも、ほとんど同じ位置にあるのではないかと思う。

●今月の「新人小説月評」は対象作が17作もある。2200字でそれを論じるには、一作当たり平均で約129字しか使えない。大半の作品には一言コメントしかできない……。

下半期は上半期に比べてかなり低調という印象だったのだが、目次をざっと眺めただけでも「ここに来て濃いのがまとめて来た」感が凄くある。

2020-10-08

●昨日観た『わたしのSEX白書 絶頂度』(曽根中生)で、芹明香、益富信孝、村国守平の三人がすき焼きの鍋を囲んでいる場面(やきもちを焼いた芹明香が益富信孝の頭に鍋の具材である野菜をぶちまける)を観ていて、『ツィゴイネルワイゼン』(鈴木清順)で、大谷直子原田芳雄藤田敏八の三人がすき焼きを食べている場面を思い出していた。すき焼きの鍋を囲んでいるという共通性だけでなく、三人の関係性が似ている。大谷直子は、野菜をぶちまけるのではなく、鍋を千切りコンニャクで埋め尽くしてしまうのだったが。

●『熟女 淫らに乱れて(スリップ)』(鎮西尚一)がアマゾンで観られるようになっている!!

●先月は、驚くべきことに、文芸誌に「新人」とされる作家(文芸誌では、未だ芥川賞を受賞していない作家が「新人」とされる)の小説が一つも掲載されていなかったので、「新人小説月評」がお休みとなった。そのおかげで、時間的にも精神的にも余裕が出来て、その余裕があったおかげで、『王国 (あるいはその家について)』(草野なつか)と『彼方より』(高橋洋)という、きわめて手強いであろうことが事前に予想される映画を観ようという気持ちになれたし、実際に、とても手強く、かつ、とても充実していたこの二本の映画を観て、それらについて、それなりの時間をかけて考えることができたのはとてもラッキーだった。

だが、余裕のある一ヶ月はあっという間に過ぎて、もう今月分の文芸誌が発売されたのだし、そこには多くの新人作家の小説が掲載されているのだった(「新潮」「文藝」「すばる」には、新人賞を受賞した小説が掲載されている)。

2020-10-07

●U-NEXTで『わたしのSEX白書 絶頂度』(曽根中生)を観た。高校生の時に読んだ『シネマの記憶装置』でこの映画の存在を知ったのだが(手元にある本には、一九八五年二月二十五日第五刷と書かれている)、実際に観ることが出来たのはそれから十年以上あとになってからだった。かなり画質の悪いVHSだったと思う。今回で観るのは四回目くらいだが、クリアな画質で観られた。

●主人公の女性が病院で採血係をやっているということは重要だろう。通常、注射器は男性器の比喩でありえる。しかしここで注射器は、人に挿入して薬品を放出する(射精的)機能ではなく、自らの内側に血液を受け入れるという役割をもつ。機能が反転してしまった男性器をとりあつかう女性。

●この映画の中心にあるのは、姉(採血係の女性)と弟の間にある近親愛的な関係と欲望だろう。しかし、二人が結ばれることはない。姉はしきりに弟を誘うが、弟は一貫してそれを拒否する。姉には婚約者がいるが、婚約者との性交では満足できず、弟とやりたいのだが、やれなくて悶々としている。おそらく、弟もまた姉とやりたいのだが、近親愛という禁忌への忌避の感情が欲望を上回っていて、故に欲望に常に強い抑制がかかっている状態だ。弟も悶々としているのだが、強い抑圧により、それが欲望の不活性と不能状態という形で表現されてしまっている、と言えるだろう。

姉の、弟への満たされない欲望は、ヤクザ者を媒介することで売春へと展開していく。弟の、姉への欲望の不活性と不能は、弟の友人の突然の病気と死という形で、弟自身から分離して表現されている。

ピンク映画であるから、数多くの性交場面があるのだが、触れあうこともなく、決して結ばれない二人の関係の、絡み合う引力と斥力を表現する描写こそが、この作品の基底的な調子を形作っていると思われる。

●絡み合う欲望が複雑に押し合いへし合いしながらも、ある拮抗-停滞状態を形成している姉と弟の関係に対して、ヤクザ者とその愛人が揺さぶりをかける。それによって現れるのが、三つの、三人による性交場面だろう。

一つめの三人関係は、弟と、その友人と、看護師によるものだ。友人が入院している病室で、弟がナイフで看護師を脅し、裸になって、友人と口唇性交することを強要する(この場面を予告するものとして、三人で病室にいる時に、画面が二重写しになって看護師が半分裸になる場面がある)。この場面で、弟によって強要される看護師と病気で動けない友人との口唇性交(射精)は、不能状態にある弟の性交と射精の代理的な行為であろう。弟はここで、自分には不可能な(姉との)性交と射精を、病気の友人に代行させる(病気の友人は弟自身の欲望の不活性と不能の「表現」でもある)。とはいえ、この代理行為によって弟が満足することはない(そして、この射精の直後に、友人は亡くなってしまう)。

二つめは、姉と売春の客たちとの三人関係だ。ここで、姉のする売春という行為が、満たされない弟への欲望の代理的な行為だということを確認しておく。姉が、運転手に伴われ、企業の重役室のような部屋に導かれると、そこに重役風の男性客がいる。そして、行為の途中に、(重役風の男性の「今だ」という声により)傍らにいた運転手(男)も性交に加わってくる。この場面で、実質的に性的な関係にあるのは、重役風の男性と運転手の男性であって、姉は、二人の関係を媒介するモノとして「使われた」だけだと言える。故に、ここで姉の欲望が満たされることはない。売春という形での姉の代理行為もまた、成功しない。

(そしてその後、弟が姉のもとを去り、二人の関係は結ばれないまま終わる。この、弟が出て行くきっかけとなった二人のやりとりの描写がすばらしい。)

三つめは、この映画のラストにある、姉と、ヤクザ者と、その愛人による三人関係だ。姉とヤクザ者とが性交しているところに愛人が帰ってくる。愛人は嫉妬し、怒り、行為をやめさせようとする。だが二人はかまわず行為を続け、ヤクザ者は愛人に二人の行為を写真に撮ることを命じる(ヤクザ者はポルノ写真を販売している)。だが愛人は二人の行為を撮らず、棚の上や照明など関係ない場所の写真を撮る。

この後、唐突に三人による性交がはじまる。一つめの三人関係が、一人(弟)の行為の代理としてなされる二人(友人と看護師)の行為であり、二つめの三人関係が、二人(運転手と重役風の男)の行為のために一人(姉)が媒介として使われるという形であり、どちらも2+1としての三人関係であった。だが、ここでの三者による性交は、それが決して2+1へと分離しないような、常に三つ巴となるような形で演出されている。

そもそも、最初にヤクザ者と愛人との関係があり、後から姉がそこへ加わったのだが(この場面ではその逆に、最初にヤクザ者と姉が性交しており、そこに愛人が加わるのだが)、そうだとしても、ここでは、誰かの行為が別の誰かの欲望の代理となることもなく、誰かの存在が別の関係の媒介となることもない。姉とヤクザ者、ヤクザ者と愛人、愛人と姉という、三つの二者関係が途切れることなく循環しているような性交が行われる。

●とはいえ、近親愛という禁忌もなくなり、代理も媒介もなくなり、欲望との距離を維持できなくなった姉は、勤務中でも常に欲情しつづけるしかなくなる。

2020-10-06

●聞き流すように聞いていたNHKのニュースが告げるノーベル物理学賞受賞者のなかにペンローズという名前があり、このペンローズはあのペンローズなのかと思ったら、あのペンローズだった。

受賞の理由は、「一般相対性理論」から「特異点」の存在を導出したことであるらしいのだが、それってもう五十年以上も前の仕事なのではないか。ノーベル賞が、現在の科学の基礎となっている過去の業績に対して与えられるというのは知っていたが、そうだとしたら、この賞が(たとえば、五年前でも、五年後でもなく)「今年」与えられることの根拠は何処にあるのだろうか、と思った。

たまたま、今年のノーベル物理学賞は、ブラックホール関連の業績でまとめられた、ということか。

ペンローズの華々しい業績のなかではマイナーなものだと思われるが、「ローレンツ収縮は実は縮んで見えない」ことを証明した、という話が機知が効いていて(ペンローズの柔軟さを表現しているようで)小ネタとして好きだ。以下、図を含め『ペンローズのねじれた四次元』(竹内薫)より。

《ガモフの『不思議の国のトムキンス』は、相対性理論の良い啓蒙書であるが、そこに、通行人の目の前を通りすぎる自転車が縮んで見える挿絵がある。ペンローズが指摘するまでは、世界中の物理学者たちが、この挿絵のように、動いている物体は相対性理論に従って縮んで見える、と信じて疑わなかった。ペンローズは、それを覆してしまった。》

ローレンツ変換で概念的に物体が縮むのは視線方向なので、物体の実際の見え方に影響はしない。たしかに、目の前を右から左に飛んで行く物体は、縮むのだが、物体の頭とお尻から私の目に届く光は、同時に発せられたものではないため、視覚的には、物体は〈縮む〉のではなく、〈回転〉して見える。つまり、本来は見えないはずの物体の後ろ姿がちらっと見える。この驚くべき現象を世界で初めて証明したのが、われらがペンローズだった。》

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2020-10-05

●U-NEXTで『夢野久作の少女地獄』(小沼勝)を観た。面白かった。終盤の復讐(を受けての大人=男たち狼狽)の描写が、類型的に感じられややテンションが下がるのだが(とはいえ、そう感じてしまうのは、洗練され過ぎた現代のJホラー表現に慣れてしまっているからかもしれない)、最初の30分くらいがとても面白かった。

二人の「少女」(小川亜佐美、飛鳥裕子)の、メイクや髪型なども含めた顔の作り込みが面白い。顔だけ白浮きしているような不自然なメイクの飛鳥裕子や、いかにも「描きました」というような人工的なソバカスをつけた小川亜佐美など、最初に登場する時に「少女」たちの顔はデフォルメされた仮面のようにある。それは、この作品において「少女」が、ナチュラリズム的な存在ではなく、表現的な存在であることを示しているだろう(体育の授業の時、ブルマーに黒ストッキングだったりする)。それが、場面や進展によって、より素顔に近い顔になったり、より端正に作り込まれたメイクになったりして、かなり大きく変動する。

顔が、仮面のような(広い振れ幅のある)表現性をもつことと対照的に、「(女性の)裸」はナチュラリズム的な生々しさをもつ。しかし、この生々しさは、男性による暴力性によって際立つように表現される。この作品において、女性同士の性交は、間に白い風船のようなオブジェクトを挟んだりして、間接的で遊戯(幻想)的なものとして形象化される(ラストにある二人の少女による直接的な性交場面を除いて)。一方、男女の性交では、ほとんどの場合、男性が一方的に女性をなぶるような形のものとなる(最後の方で、飛鳥裕子が父に見せつけるために自ら乞食坊主を誘い込んでなされる性交を例外として)。この、男性の一方的な攻撃(暴力)性は、女性の体を触る男性の手、という形で表現される。つまり、男女の性交は主に、男性の手が女性の体を触る、という形で表現され、そこで、一方的に触られる体=裸として、ナチュラリズム的な生々しさが発生する。

(おそらく、女性の体=裸のナチュラレズム的な生々しさが、男性の手の暴力性から解き放たれた形であらわれる唯一の瞬間が---この映画を観た多くの人の印象に残るであろう---校長から性交を強いられた後で小川亜佐美が波打ち際に裸で横たわる場面だろう。)

(互いの体を、互いに触れあう、という形で表現される性交は、ラストにある少女同士の性交場面だけだと言える。しかし、この相互的で直接的な性交は、物語の時系列から外れた時間の外で、地球を離れる---自死する---覚悟を決めた二人において、ようやく可能になる。)

2020-10-04

●U-NEXTで『黒薔薇昇天』(神代辰巳)。久々に観たけどすばらしかった。

いかにもやっつけ仕事のようないい加減な脚本と、奇跡のようにすごいショット(シーン)の数々。緻密に、完璧に作り込まれた、ということとはまったく別種の「すごさ」。映画としての形式の面白さと、それによって捉えられる七十年代中頃の大阪の風景の猥雑さとが、分かちがたく結びついている感じ。

たとえば二度繰り返されるゴンドラの場面。このゴンドラが、おそらくデパートの屋上のようなかなり高い場所にあるのだろうということはなんとなく分かるが、しかしそれ以上は、どんに立地のあるのか分からないような、限定されたフレーミングによる長回しで捉えられる。それによって生まれる、なんとも言えない不安定な宙づり感。

このゴンドラから、谷ナオミが飛び降りようとする仕草をみせ、それを岸田森が押しとどめようとする。この、ある意味サスペンスフルであるアクションが、空間の宙づり性によって、サスペンスというより、性交シーンで体位(上下)を入れ替えているような回転運動に、重力の作用によりさらなる緊張が加わった感じの印象のものとなる。

(この場面は、後にある、この映画のクライマックスと言える二人の性交シーンを予告する、前触れのような役割をもつと考えられる。)

たとえば谷ナオミ岸田森に連れてこられる、川沿いの船着き小屋のような場所。タクシーを降り、階段を昇って防波堤を越え、不安定そうな足場を二人が進んでいくというデコボコした運動と空間の展開を、かなり遠い位置からのカメラが捉えている。進んでいくにつれて、高度が増すと同時に足場の不安定さもまた増していく感じ。そしてたどり着く小屋は、(ゴンドラと同様)まるで宙に浮いているかのような、土台が存在していないかのような空間なのだ。

(この中空の小屋で、岸田森は、カモだと思っていた谷ナオミに恋愛感情を抱いてしまったことを自覚する。つまり、宙づり状態で重力が意識される。)

(岸田森はブルーフィルムの製作者であり、彼が撮るブルーフィルムで男女は---カメラが下に回り込めるようにするため---ビール箱を足場にして宙に浮いた透明の板の上で性交する。ブルーフィルムの製作=ゲイジュツは宙づりである。)

このような宙づり感は、岸田森谷ナオミにブルーフィルムを観せ、なかば強引に性交に及び、そしてそれを撮影させるという一連の場面にもあらわれる。この場面の充実こそが、この映画のクライマックスになっている。

岸田の住むこの部屋は、ガラス加工工場のすぐ上に隣接されたような、奇妙な二階にあるのだが、しかしそれよりも、この場面の宙づり感は、主に部屋が(ブルーフィルムを上映しているので)暗いことによって成立している。部屋の暗さ(+映像の投写)によって三次元空間としての(基底的な)部屋の成り立ちが見えなくなり、ただ、二人の人物の位置関係(とカメラとの関係)によってのみ、空間が生成される。背景から切り離されて宙づりになった二人の人物の、「演技」の有り様や強度こそが、時空をたちあげる。

ここまでずっと、実際の風景と共にあり、映画としての形式と実景との関係によって時空(宙づり感)を形成してきたこの映画だが、この場面では、背景から切り離されることで宙づりにされる二人の人物の関係(と映画としての形式の関係)にフォーカスしていく。この場面の充実した凝集力が、開放的で拡散的なこの映画の核(重力)のようなものになっていると思う。

●この映画ではまず、芹明香が妊娠によってゲイジュツ---という宙づり状態---から離脱する。動物園で芹明香岸田森を横切っていく幼稚園児たちや、谷ナオミと待ち合わせる「心斎橋PARCO」の看板が見える横幅の広い歩道橋のような場所で岸田森に背負われて「けんけんぱ」をしている子供たちは、「ゲイジュツ=宙づり」に対する「重力」のようなものをあらわす役割であろう。だからこそこの映画で「子供たち」は不気味なのだと思う。

そして映画の最後には岸田森さえもが、恋愛感情によってゲイジュツ=宙づりを裏切ってしまう。とはいえそれは「結論」ではない。宙づりのなかで重力が意識され、重力のなかで宙づりが意識されるのが、この作品だと思う。

2020-10-03

●(昨日からちょっとつづく)『女地獄 森は濡れた』(神代辰巳)で中川梨絵は、自然ではない、人工的で変な調子でセリフを喋るし、セリフのトーンが途中で何度もころころ変わる。そして、これはこの作品の独自の質を成り立たせるために必然的なことのように思われた。もし、普通に自然と言われるような、お金持ちの奥様風の演技がなされていたとしたら、この映画の世界は成り立たず、その面白さと説得力は大きく減じていただろうと思われる。

しかし、中川梨絵トーク(のレポート)を読むと、これは監督による演出ではなく、アフレコの時に中川梨絵が勝手にやってしまったことだという(監督は普通にやってくれと怒った、と)。

《アフレコで普通にやっちゃうとつまらないから、変なアフレコにした。高い声と低い声で、抑揚をものすごくつけて、上品さと下品さ、エキセントリックさを表そうと。神代さんは怒って、普通にやってくれと。神代さんはみなさんの意見を聞くタイプで、最後はどういう音楽をかけようか。スクリプターの方はクラシックって言ってたけど、私が凄惨な出来事の後はラジオ体操でしょ!って、神代さんは私に負けて、厭な女だなって。アフレコも、あれで通っちゃった(笑)。》

(「私の中の見えない炎」中川梨絵 トークショー神代辰巳監督特集)レポート・『恋人たちは濡れた』『女地獄 森は濡れた』(2))

https://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2015/03/25/125537

このレポートを通して読むと、中川梨絵は、撮影の時、当時とても評価が高かった共演の伊佐山ひろ子にかなり対抗意識をもっていたみたいで、そのことが、このような工夫を生んだのかもしれないと思った。よい作品というのは、その場を構成する様々な事柄が影響し合ってできるものなのだなあ、と。

●『彼方より』(高橋洋)は、九月末までの限定配信とされていたが、今のところまだ観られる。

https://www.youtube.com/watch?v=ar8hicvEzo0&t=7s

●今年も「スナックうめ子」があってほんとによかった。TIFが続く限り「スナックうめ子」も続くことを願う(「うめ酒の休肝日」も復活してほしい)。