2021-01-12

松村邦洋が自らのコロナの症状について語っているのをYouTubeで観て、あらためてコロナに対する恐怖を感じた。下に引用するのはスポニチの記事から。

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/01/12/kiji/20210112s00041000319000c.html

《発症は「26日と言われております」といい、年内は自宅療養をしていた。しかし「年が明けて1日、体調の方が変わらず、夜は眠れなくて。私はマラソンで倒れたときのこともあるので、保健所の方が『入院しましょう』と。それで診察してもらったら肺炎になっておりました。『もうちょっとで遅かったです、危なかったです』ということでした」と危機的状況だったという。》

自覚症状としては、そこまでひどくはない感じなのに、過去にマラソン中に倒れて死にかけたということがあるので、大事を取って入院したら、《もうちょっとで遅かったです、危なかったです》という状態だった、と。立憲民主党羽田雄一郎が亡くなった時も、自分で歩いてこれから検査のために病院に向かおうとする時に、突然倒れてそのまま亡くなったという。岡秀明という医者は、症状は変わらないのに、モニターの酸素の数値だけが下がる。モニターを見ていなければ状態が悪化したことに気づくことができない、と書いていた。自覚が出来ないうちに急激に悪くなっているという、この感じがとても怖い。

(あと、松村邦洋羽田雄一郎も、ぼくと年齢が同じ、ということも気になるところだ。)

2021-01-11

保坂和志の小説的思考塾、リモート配信テスト版を視聴。気になったことのメモ。

●はじめて見聞きするような驚くべき見解ということでもなく、自分でも既に何度もそう考えたことであっても、それを、改めて人の声として聞く(他人の書いたものとして読む)ことによって、出会い直すことも必要だろう。

●『プレーンソング』は、何を書きたいということがないまま書き出すことができた。何を書きたいのかが分からないまま(ただ書きたいという感じで)書けたことが、あの小説の良さだ。だから、みんなどう読んでいか分からなかった。今まである小説の読み方に無理矢理に当てはめたような評し方しかされなかった。そこそこ評判はよかったが、ずっと、納得いくような読まれ方をしなかった。

●何かを書くときに、こういうことを書いて人に分かってもらえるだろうかということを、どうしても考える。だけど、分かってもらおうとすることによって、どんどん変なことになっていく(書きたいという感じからズレていく)。しかし、分かってもらえるだろうかということをまったく考えないということもできない。人は、他の人(たち)の存在、他の人(たち)との関係なしで、「自分」にはなっていないので(「自分」のなかには既に「他の人たち」が織り込まれているので)、これは通じるのかということを考えないで書くこともできない。

ベケットの小説でさえも、具体的なことがいろいろ書いてある。題材がいろいろ並んでいる。風景、母親のこと、病室のこと、それらについて書いている。しかし、読んでいる時は、それら(書かれている題材)を読んでいるわけではない。何を書いたかということではない。何を書きたいか、ということがない。ただ書く。書くために書くというほどの「ため」さえもない。書いているから書く。そういう感じを読んでいる。

●私個人として書いているはずが、問題を一般化、社会化してしまいがちなのは、一つは「勇気がない」ことと、もう一つは「応援が欲しい」という感情があるから。「応援が欲しい」という感情はとても強く働くけど、ここについてはいけない。

(「困難として人に分かってもらえるようなもの」に依らない。「困難」についてはいけない。ただ「書きたい」という感じにつく。ここに、保坂さんの芸術にかんするとても強い潔癖さがあるように思う。)

小島信夫は、書くことによって、自分のインプットのプロセスがみえてくるから、、あなたも書きなさいと人に勧める。書くことが生きていること。ペーター・ブロッツマンは、「生きるために吹く」から、「生きてるから吹く」となり、「吹いてる限りは生きている」という感じになっている。それ以上の「表現」を演奏に入れていないようにみえる。

●たとえば、『未明の闘争』で、一週間前に死んだ篠島が歩いていたという場面について、「篠島」は「死の島」であるというように、裏の意味(隠された意味、組み込まれた意味)を読む読み方がある。カフカの『城』の冒頭は、白(雪)と黒(夜)の世界で「死」を表現している、とか。だが、裏の意味は、解読された途端にたんに表の意味になる。そうではなく、面白さというのは、決して表にならない底の方で動いているようなもののことだ。

●『失われた時を求めて』のつまずく場面。このような場面を、計画するのではなく、そこを目指すのでもなく、そのような未知の何かが「来る」ことを期待しつつ待つ(書く)。

2021-01-10

●コロナにかんしては、専門家の言うことを謙虚に(できるだけ先入観を廃して)聞く、ということに尽きると思う。以下、岩田健太郎のブログ(成人式には行かないで)より。

新型コロナウイルスは、この100年間に人類が経験した中でも最強、最悪のウイルスです。ぼくは感染症のプロなのでありとあらゆる世界中の感染症と取っ組み合ってきましたが、こんなたちの悪いウイルスは経験したことがありません。人々を油断させ、「ただの風邪」だと思わせ、世界中に、そして日本中にウイルスを撒き散らし、確実に多くの人たちを殺していきます。油断した人間を使ってウイルスを拡散させるのです。》

https://georgebest1969.typepad.jp/blog/2021/01/%E6%88%90%E4%BA%BA%E5%BC%8F%E3%81%AB%E3%81%AF%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7.html

CY8ERのラストライブ=解散の日だ。

強引な後付けだけど、今から振り返ってみると、2017年の武道館アイドル博でのキスハグチェキ会でのこの衣装は、現状やCY8ERのラストライブについて予言的だったとも言える。

https://twitter.com/cy8erinfo/status/860708758799892480

CY8ER「 伝えたいこと 」

https://www.youtube.com/watch?v=0CGEgqWF8uA

下の動画にはBiS時代の苺りなはむ(ヨコヤマリナ)が映っている。十年前。

20110214 BiSテレビ初出演

https://www.youtube.com/watch?v=sDIUocp0_00&t=527s

 

2021-01-09

●在宅の(ほとんどYouTube頼りの)、にわかアイドル好きなので、自分の足を使って楽曲を掘っていくということはまったく出来ていないのだけど、吉田豪と南波一海と小出祐介が挙げている2020年のアイドル曲のベストをできる限り追っかけてみた結果として、ぼくなりの2020年アイドル曲ベストは、寿々木ここね 「FEVER」かなあ、と思った。広瀬愛菜もすばらしいのだけど、「この一曲」となると、これになるか(MVの良さも含め)。

寿々木ここね- FEVER  (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=ozhd55GIBMI

●2日の日記に、YMOのライブでラヴェルピンクレディーを演奏しているのはレアだと書いたけど、78年当時では定番だったのかも。下の動画でもやっている。ストーンズの曲もやってる。初期のYMOのライブは、曲的には坂本頼りの感じなのか、坂本ソロの『千のナイフ』からの曲が多い。「Das Neue Japanische Elektronische Volkslied」までもYMOでやっていたんだな、と。

YMO 1978 LIVE at 六本木ピットイン

https://www.youtube.com/watch?v=EiRdITBKRv8

2021-01-08

●「旅する練習」(乗代雄介)のラストについて、それがアリなのか、ナシなのか、いまでもよく分からなくて、迷ったままだ。そして、そのラストから受けたショックは、まだつづいている。もっと強い言葉で言うと、このようなラストは、許されるものなのか、許されないものなのか、分からない。つまりそれは、この小説が許されないものである可能性があると、ぼくは考えている、ということだ。これは小説として出来が良いか悪いかという問題ではなく(小説としてのクオリティはまちがいなく高いだろう)、やってもいいことなのか、やってはいけないことなのか、という問題なのだ。

(やってはいけないということはないかもしれない。これをやっている作者を、信じられるのか、信じられないのか、というべきか。)

(注意。以下はネタバレを含みます。この小説は特に先入観無しで読む方がいいと思うので、未読の方はつづきを読まない方がいいと思います。)

だから、このことについて他の人がどう考えているのかとても興味がある。今月に出た文芸誌では、「群像」で金子由里奈が書評を書き、「文藝」の「文態百版」で山本貴光が触れているが、どちらもラストには触れていない。金子由里奈の書評では、ネタバレを避けるために、ラストに直接的に触れることを避けている感じがあるが、山本貴光はラストなどなかったような評価の仕方だった。他にも、ぼくが読んだ限りでは、「ラストの衝撃」についてまともに問題にしている人はほとんどいなかった。ぼくが知る限りで、このラストについてまともに受け止めていたのは、「群像」の創作合評で「現実に亜美の死があったとしても、小説のなかでは死なせないこともできたのではないか」というような発言をしていた水原涼だけだ。

ぼくはこの小説のラストにほんとうに大きなショックを受けたのだけど、他の人はすんなりと受け入れられたのだろうか。ショックは二重のもので、一つは、こんなことが起るとは…、という、出来事の唐突さに対するショックであるが、もう一つは、信頼していた作者にだまされた、というショックだ。「新人小説月評」では、やや抑え気味に「話者に対する不信」と書いたが、正確には「作者に対する不信」だ。これがミステリならば、最初からだまされることを前提に読むのだが、この小説は、読者を決してだまさないかのような書かれ方をしているのに、こんな不意打ちをされるとは思ってもみなかった、という感じになる。

この「だまされた」という感じを肯定的に受け取る理屈があるとすれば、「現実」とは我々をそのように不意打ちするものなのだ、ということだろう。作者の元に、このような「現実」がまさに不意打ちのように訪れたという事実があり、少女の、まだこの先にどこまでも広がっていくはずだった生の有り様を、「既に死んでいる人」としてではなく、あくまで「生きている人」として書き、しかしその生が「不意に絶たれてしまった」という出来事も同時に書きたかったのだとしたら…、と考えることで、「だまされた」という気持ちは消えるだろう。

とはいえ、一度「だまされた」と感じると、この小説のいたるところに仕込まれている「作為性」が浮かび上がってみえてきてしまい、この小説が「現実のまるごとを受け止めるように書かれている」とは思えなくなってくる。ある部分は作為的に物語を組み立てていて、「死」にかんしてだけ「現実」に裏打ちさせるということはアリなのだろうか、という疑問がわく。もし仮に、「死」が小説の外に現実としてあったのだとしても、このような形で小説のなかに持ち込まれた「死」は、悪い意味で「物語的に仕組まれた死」となってしまうのではないか、とも考えられる。

さらにとはいえ、もしこの小説を叙述トリックのミステリ小説のように組み立てられた小説として読むならば、非常に精密に構築された見事なものだといわざるを得ない。ラストの衝撃が、遡行的に、それまで読んできた文章たちの意味や表情を、さーっとドミノ倒しのように書き換えていく。唐突な他人の死というのは、もしかしたら、それに出会った人の記憶の意味をこのような形で塗り替えるものなのかもしれない。叙述ミステリだとは夢にも思わないで読んできた小説が実は叙述ミステリであったという「大どんでん返し」は、近い関係にある人の死に直面した人の経験を再現するために仕掛けられたものなのかもしれない。そう考えると、これはすごい小説かもしれないとも、思える。

ただし、上のような考えを、自分自身も信じ切ることはできていない。

2021-01-07

●お知らせ。「群像」2月号に、『それを小説と呼ぶ』(佐々木敦)の書評、「全体主義を逃れる「全体性」について」を書いています。

●配信イベント「小出祐介&南波一海の「こんばんはプロジェクト」vol.12」を観た。小出祐介と南波一海の二人による、メジャー・インディーズそれぞれの2020年アイドルソングベスト20(20×4)の紹介。気になった曲をメモしておく。

ナイスポーズ RYUTist

https://www.youtube.com/watch?v=yBHfxFQuUPA

Kaede(Negicco)「ジュピター」 作詞・作曲・編曲 角谷博栄(ウワノソラ)

https://www.youtube.com/watch?v=5-niciPpjoY

Lumen 963

https://www.youtube.com/watch?v=OikrcRD-NMI

なんちゃらアイドル 『海の家』

https://www.youtube.com/watch?v=qwW3CZycp2Y

ポスト均衡 白羽

https://www.youtube.com/watch?v=sXRE3oIpzRU

ねがい テレパシー・モーニング

https://www.youtube.com/watch?v=D6jbEzCZJag

Castella Tabetai  FRUN FRIN FRIENDS

https://www.youtube.com/watch?v=RsFX2cMZhyY

東京女子流 / Ever After Dance Practice ver.

https://www.youtube.com/watch?v=yyjcCA_o4tg

夜間飛行 CYNHN

https://www.youtube.com/watch?v=nD1nMNtS-6U&feature=youtu.be

MELLOW MELLOW「最高傑作」Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=HJbc1fN2olU

根本凪 (Nagi Nemoto) - ゆめをみる (Yume wo Miru) (Audio)

https://www.youtube.com/watch?v=al83QF8hzJE

でんぱ組.inc - 生でんぱ (Nama Dempa) (Audio)

https://www.youtube.com/watch?v=pUi4ObSOHZ4

2021-01-06

●VECTION(西川アサキ + 古谷利裕 + 掬矢吉水 + もや)というグループに属していて、VECTIONとして2019年に「ミラーバジェットから弱いアナーキズムへ」というテキストを発表している。

https://vection.world/mb2wa.html

ここで、集団的な意思決定における「多数決の欠陥」を補正する方法のひとつとして、仮に「一致率投票」と呼ぶ投票のシステムを紹介している。詳しくは上のテキストを読んでほしいのだが、簡単に言えば、自分が正しいと思う回答に投票する時、同時に、自分と同じ回答に投票者全体の何パーセントくらいの人が投票するのかの予測を添えて投票するというものだ。

例えば、「フィラデルフィアペンシルバニア州の州都か?」という問いでは、「yes」という答えが多数派となった。ところが答えは「no」(実際の州都はハリスバーグ)なので、多数決ではこの問いに正しく答えられないことになる。多くの人が間違った思い込みをしている(バイアスがある)ような場合、多数決では適当な答えにたどり着けない。

ここに、どのくらいの人が自分と同じ投票をするかという問いを付け加える。「yes」という間違った投票をした人は、この問題の難しさを知らないので、多くの人が自分と同じ投票をすると考える。しかしここで、「no」という正解を答えられた人は、この問題が人々が思っているより難しい(間違いやすい)ということを知ってもいるはずなので、自分と同じ投票をする人は少ないと予想するだろう。他者の投票との一致率予想が、判断にかんするメタ判断のように機能する。

《この事実を利用して、実際の投票結果より予想の方が低かった方、逆にいえば、予想より投票結果の方が高い割合を示した方の選択肢を「正解」として選ぶ(surprisingly popular algorithm)という方策が導けます》。

《この方策は、フィラデルフィアの場合なら、少数派の知識を選び、そもそも誰も答えを知らないような答えの場合は単なる多数決を再現するので、多数決や確信度を入れた投票の正解率を常に上回ります。》

(ここで興味深いのは、自分の投票にどの程度自信があるのかという「確信度」は役に立たないという点だ。正しい人も間違った人も、どちらも同じくらい自分の答えに自信をもっている。)

この投票方法はとても面白いし有効なのではないかと思っていたのだが、VECTIONのメンバーによる最近の議論のなかで、「でも、これだと陰謀論をリジェクトできないのでは?」という疑問が出た。陰謀論者は、自分の考えを強く正しいと信じているが、同時に、自分たちが少数派であることを知っている。だから、この方法で投票を行うと、髙い確率で陰謀論が「正解」という結果になってしまうのではないか、と。

2019年の段階では、陰謀論者たちの勢力が投票全体の結果を左右するほどに強くなるとは想定できなかった。陰謀論者はごくごく少数しかいないと思っていた。だけど、現時点ではそうとも言い切れない。

とてもよいシステムであるように思われる「一致率投票」において、「正解」と判定される確率が高いような形(一致率投票を良い点をハッキングするような形)をもって存在しているという点に、つまり、自分たちは真実を知っている(迫害された)少数者である、という形をしている(だが、実際にはマジョリティによるマイノリティ差別を肯定することになる)ことが、陰謀論というもののとてもやっかいな(否定するのが難しい)ところだと思う。

●ただ、「ミラーバジェットから弱いアナーキズムへ」というテキストにおいて「一致率投票」は話のマクラにおいた一例であって、重要なのは「市場の外部」を担う国家の機能を、選ばれた少数者(政治家やエリート官僚)が運営するのではない形で成り立たせるにはどうすればよいかについて考えることだ。議員代表制のような古くて粗くて遅いシステムではなく、かといって、直接民主制のような不安定で危うい制度でもないものはいかに可能か。それは、多様性のある集団の集合知をどのようにすれば最大限に引き出すことができるのかという問いでもある。単一的で統制のとれた集団よりも、多様性のあるバラバラな集団(の集合知)の方が結果として強い(様々な現実に対応できる)ということを示せれば、「リベラル」が存在可能となる。そしてそのためのアイデアとして、共有されたバーチャルな「ミラーワールド」と一人一人が各々「ミラーバジェット(国家予算)」をもち、それを介して「国家予算のストリーミング投票」をする、というのはどうだろうかという提案なので、できれば最後まで読んでいただきたい。

(VECTIONでは、近々このテキストの改訂版を公開する予定。)

https://vection.world/