2021-02-01

●『精神分析にとって女とは何か』補章「ラカン派における女性論」(松本卓也)は、ラカンの女性論の要約であり、ぼくにとっては未知のものではないが、復習としてメモしておく(何度も復習しないと忘れてしまう)。

●50年代のラカン(男性はファルスを所有しようとするが、女性はファルスになろうとする)。

《(…)重要なものは重要なものとして可視化されている時よりも、「重要な何かが覆いによって隠されている」時にこそ---すなわち、不可視化されている時にこそ---もっとも重要なものとしてあらわれることは自明であろう。ラカンにとってのファルスとは、いわば代数学的な「x」であって、それ自体は隠されており不明なものではあるけれども、隠されているがゆえに主体にとって「あらゆる『意味しうるのも』が帰着する」といわれるほどの格別な重要性を持つ対象のことなのである。》

《(…)ラカンはオットー・フェニケルの論文「象徴的等式---少女=ファルス(Fenichil 1936)に比較的好意的に言及している。「少女=ファルス」という等式は、少女がペニスに同一化するという、フェニケルが症例の中に観察した空想にみられるものである。ラカンは、これを、ひとは(特に女性は)母に欠如しているもの(覆い隠されたものとしての「母の存在欠如」)に同一化しようとするのだ、と読みとく(Lacan 1966b,p565)。このような考えは、母に欠如しており、それゆえに母がそれを欲望していると子どもが想定する代数学的な「x」こそがファルス(より正確には「想像的ファルス」)であるという、同時期のラカンの定義にも一貫してしいると考えられる。また、ラカンが女性性の理解に際して大いに参照したジョリアン・リヴュエールの論文「仮装としての女性らしさ」(Riviere 1929)においては、女性はヴェール(覆い)としての女性らしさを身にまとうことによって、そのヴェールの下でファルスになることができる、という見解が述べられている。》

《(…)もはやファルスはその存在/不在が問題になるのではなく、むしろ「覆い隠されたものとしてのファルス」として性差にかかわりなく確立されるものであり、主体がファルスを所有しようとする(「ファルスを持ちたい」、これは多くの男性の場合にあてはまる)のか、あるいはファルスとして存在しようとするのか(「ファルスである」、これは多くの女性の場合にあてはまる)のかが問題とされるようになる。》

●70年代のラカン(「すべての女性」というものは存在しない)。

《(…)男性の論理に書かれている「∀x Φx」(普遍肯定命題)という命題は、「すべての男性はファルス関数に従う(去勢されている)」と読むことができる。ここで言われているのは、「男性」としてのセクシュアリティを持つ人間は、生物学的性別にかかわらずすべて去勢されているということである。そのすぐ上に書かれている「∃x Φx」(個別否定命題)は、「ファルス関数に従わない(去勢されていない)男性が少なくとも一人存在する」と読む。》

《この二つの命題は、いっけん矛盾するように思われる(…)。しかし、このことは「例外のない規則はない」(むしろ、例外があることによって規則が成立する)という諺や、フロイトが論文「トーテムとタブー」で述べた「原父神話」にかんがみれば、むしろ人間の心的現実をかたちづくるきわめて重要な論理であることがわかる。フロイトの原父神話において、強大な力を持つとされる原父が(すべての女性を独占し、自分以外のすべての男性を追放=去勢することによって)その例外の座を占め、一致団結した男性たちによって殺害された後にも「死んだ父」として例外の座を占めつづけることによって人間の共同体という普遍を成立させたように、普遍はその普遍にとっての例外の座を占める人物をかならず一人必要とするのである(Freud 1913)。このような議論は(…)いわゆる「否定神学システム」を彷彿とさせるだろう。》

《(…)去勢をこうむった結果として、男性は女性の身体そのものを享楽することができず、その代わりにフェティッシュとしての対象aを享楽せざるをえない、ということである(Lacan 1975,p13)。》

《女性の論理は、「¬∃x ¬Φx」(個別否定命題の否定)、すなわち「ファルス関数に従わない(去勢されていない)女性がいるわけではない」という命題と、「¬∀x Φx」(普遍肯定命題の否定)、すなわち「すべての女性がファルス関数に従う(去勢されている)わけではない」と読むことのできる命題から構成される。最初の命題が意味しているのは、「女性であるからといって去勢を免れることはできず、女性もファルス関数に従わないわけではない」ということである。しかし、この、「従わないわけではない」という二重否定は、単なる肯定(「すべての女性はファルス関数に従う」)とは異なる。それは、二番目の命題が、「すべての女性がファルス関数に従う(去勢されている)」ということを否定していることからも明らかであろう。》

《ここできわめて興味深いのは、ラカンが女性の論理の命題(「¬∃x ¬Φx」と「¬∀x Φx」)を、通常の述語論理ではありえない仕方で記述している点である。通常、述語論理では「∀」や「∃」のような量化記号に否定の記号「¬」をつけることはできない(…)。しかし、ここでラカンは、あえて述語論理を逸脱するような量化記号の使用を行い、特に「すべての~」を意味する全称量化記号である「∀」を否定することによって、女性についてまったく新しい規定を行おうとしているのである。ラカンが言わんとしているのは、女性は「すべて」(普遍)を構成しないような論理に依拠している、ということにほかにらない。言い換えれば、女性の論理の二番目の命題(「¬∀x Φx」)は、「すべての女性がファルス関数に従う(去勢されている)わけではない」ことを意味しているのであるが、この場合の否定(「¬」)は、「ファルス関数に従う(去勢されている)」ことを否定しているというよりも、むしろ「すべての女性」というものが存在することを否定しているのである(Lacan 1979,p68)。》

《(…)ラカンは、女性について「すべてはない(…)」、あるいは「〔普遍的な「女」と言えるような〕女なるものは存在しない(…)」という規定を与えることになるのである。このような女性についての規定は、もはや女性を男性の論理における「例外」の位置に---ひいては、「覆い隠されたものとしてのファルス」を巡る否定的な論理に---縛り付けることを必要としないことが理解されるだろう。》

《さらにラカンは、ここから女性における二つのセクシュアリティのあり方を引き出している。(…)一つ目は、女性のファルス享楽(La→Φ)である。これは、女性(La)が子どもを自分にとってのファルス(Φ)として欲望したり、ファルス(Φ)を持っているような男性を欲望したりすることを表しており、おおむねフロイトのいう「ペニス羨望」を説明するものとみてよい。ところが、女性にはもう一つの享楽の可能性がある、とラカンは言う。それこそが、「La→S( A )」と表記される「〈他〉の享楽(…)」である。先に説明した女性の論理の二つの命題にならって言うならば、女性の享楽はファルス的でないわけではないが、しかしそれはファルス的でない享楽がありえないということではない、というわけである。》

《(…)男性がファルス享楽しか得られないのに対して、女性は「ある追加的(…)な享楽〔=〈他〉の享楽〕を持っている」。ただしその享楽は、ファルス享楽に欠けているものを補完する(…)ような享楽ではない。というのも、「何かを補完する」ということは、何らかの「すべて(…)」を想定することになってしまうが、女性の論理はそもそも「すべてはない(…)」ものだからである。この用語選択が、「覆い隠されたものとしてのファルス」や代数学的な「x」を巡る論理の圏内から逃れるような仕方で女性を論じることと関係していることは明らかであろう。言い換えるならば、ラカンの「女なるものは存在しない」や「〈他〉の享楽」といった概念は、女性性の検討を通じて、けっして全体化されえないような---そして、エディプス・コンプレックスの彼岸にあるような---性と享楽の多様なあり方を指し示そうとしているのである。》

《ジャック=アラン・ミレールをはじめとする現代ラカン派の論者たちは、この女性の享楽のあり方を男性(というよりむしろ、すべての語る存在)にまで一般化し、これを目指すことを精神分析の目標とみなす傾向にある。》

2021-01-31

●『精神分析にとって女とは何か』第三章「日本の精神分析における女性」(西見奈子)では、主に「母性」についての検討。日本において特に強く作用する「母性」という神話について、精神分析もまたその影響下にあり、あるいは共犯関係にあったということを、エディプスコンプレックスに対応する日本独自の概念である「阿闍世コンプレックス」についての五つのテキストを比較することで検証している。また、1980年にフランスでベストセラーとなり、翌年には邦訳も出版された、《母性は本能ではなく、父権社会のイデオロギーであり、近代がつくり出した幻想であると結論づける》、エリザベット・バダンテールの『プラス・ワン』も、当時の日本の精神分析に影響を残すことはなかったと書かれる。

母性という概念への批判が日本の精神分析において語られるようになるのは21世紀に入ってからであり、その現れとして2003年に学会誌『精神分析研究』の「母性再考」という特集が挙げられる。母性という概念が疑問視されるきっかけは児童虐待が社会問題となったことによるという。ここまで最近になってようやく、現在では常識となっているような議論が出てくる、と(日本はいろいろ遅れていると言われても仕方ない感じ…)。

《牛島は特集のきっかけについて、児童虐待が連日のように新聞を賑わせるような状況からはこれまでの母性愛本能論を前提とした発達論でよいのかという疑問を持たざるを得なくなってきたと問題意識を述べている。これは他の論者にも共通して見られるものだが、そこには、あたかも母性があれば虐待はしないはずだ、あるいは虐待をするような母親には母性がないのではないかという考えが存在しているかのようである。》

《他方、小此木(2003)は別の見解を示している。小此木は昔から「育てたくない」といった子育てに困難を感じる母親たちは潜在的に存在していたに違いないが、母性愛神話によってそれらを抑圧していたところをようやく口にすることができる時代となったと述べている。こうした考えは、フェミニストや他の分野の研究者からも支持されるものである。》

《なかでも上別府圭子はより明確に母性は本能ではないことを示し、さらに「母性---否、母親を理想化する傾向は、一般人口においてのみならず、ことに男性の専門的リーダーの間で根強い」と手厳しく非難し、小此木の言葉である「まことの母になれぬ母のエゴイズム」や「自分中心な母から、まことの母へと心理的成長を遂げる」を挙げ、この「まことの母」というのは、男性のわがまま勝手をゆるし、自己主張や嫉妬、怨み、怒りの感情を押し殺すマゾヒズム的な母(=妻)という意味を含むものであると批判した。》

●これまでの章では主に女性患者について書かれていたが、この章では「女性治療者」について書かれている。

《一方、女性治療者が男性患者から蔑視されたり、モラル・ハラスメントやセクシャル・ハラスメントを受けたりという事態は、壇上では滅多に議論されないが、多くの女性治療者が経験することである。具体的には、自己愛的な男性患者から支配的、高圧的な態度を受けたり、場合によっては、暴言を浴びせられたり、交際を迫られたり、身体接触を求められたりすることもある。面接室という個室で行われるこのような行為に、女性治療者は強い恐怖と苦痛を感じることになる。これらは女性治療者にとって深刻な問題であるが、このような患者の態度について、事例検討会やスーパービジョンで問題にしたとしても、指導者層に圧倒的に男性の多い精神分析の領域においては、かえってもっと患者に共感するように促されるなど、女性治療者が体験している恐怖を理解されないことが多い。そこには、潜在的にシュピングのようなすべてを受け入れる母性的な態度が治療的に働くという日本の臨床に深く根付いている信念も関係しているのかもしれない。》

●女性治療者が「妊娠」「出産」について「語る」ことについて。

《2015年、『精神分析研究』では「治療者のセクシャリティを考える---特に女性であることについて」という特集が組まれた。(…)特集のなかでは、4名の論者がさまざまな視点から女性を語っているが、共通して取り上げているのは、女性治療者の妊娠である。そのうち、2名は自身の妊娠体験とそれが患者に与えた影響について考察している。そこでは、患者のこと以上に、治療者自身の妊娠に伴う生々しい身体感覚、また治療者の妊娠を巡るプライベートな情報がインパクトをもって開示されている。》

《(…)女性治療者の妊娠というトピックは、日本では語られていないどころか、むしろ語られすぎているとも言える状況にある。そこで問題となるのは、鈴木(2015)が指摘しているように、これだけの数の論考が発表されているにもかかわらず、それらの知見が精神分析の理論や技法に組み込まれず、日本の精神分析の発展に寄与した形跡が見当たらないということだろう。》

《そして、語られすぎているのは数の問題だけではない。そこでは治療者の生々しい身体感覚、プライベートな様子が赤裸々に語られている。(…)なぜこれほどにも女性治療者たちは自らを晒すのだろうか。自らを晒さないと女性性は語れないのだろうか。》

《臨床心理学の中で女性論を語ってきた代表的な論者である斉藤久美子(1990)は、女性について論じるうえでは、他の何を論じる場合にも増して、その論者の性別や、生まれた時代を抜きに論ずることは、大きな誤りを生じさせる危険があるという強い認識を示している。斉藤は、調教された結果としての「女らしさ」を自らの職業的努力において剥ぎ取り、仕事をしてきたが、時代が課する制約や限界は「第二の皮膚のように私の目の届かぬ背中に」張り付いていると述べている。そうしたバイアスを語ることなしに女性について論じることはできないということである。》

《(…)なぜ女性は自らを晒して女性について語るのか。そして男性はなぜ男性について語らないのか。この二つの疑問は、フェミニズムにおいて繰り返し指摘されてきた、典型的とも思える一つの答えに行き着いてしまう。それは、男性が無視されているのではなく、むしろ男性主体の世界に生きているから語る必要がなく、非主体である女性は女性について語り続けなければならない、自らの感覚を頼りに、ということである。》

《しかしここでさらに少し立ち止まって考えてみたいのは、女性側の矛盾である。新田は、フェミニズムには女性を子産み道具とし、生殖義務を押し付けてくる社会通念に抵抗しつつも、男には真似できない妊娠や出産の経験から、女性の独自性と理想の社会像を打ち立てる意志が受け継がれてきたと述べる。「生殖や子育てに対する自負と抵抗のアンビヴァレンス」(新田2020)という女性側の問題は、日本の精神分析における、なぜ女性治療者の妊娠に関する論文が多いのかという疑問に、もうひとつの答えの可能性を示してくれるものではないだろうか。妊娠、出産という経験した女性にしか分からないことに特権的な価値を置き、認めざるを得ないところにそれ以外を追い込むところには、分からないから認めざるを得ないという承認は得られたとしても、果たしてそれが互いの距離を縮めることになるのだろうか。》

《日本の精神分析に横たわるもう一つの問題は、母親以外の女性性についてほとんど語られていないということである。》

《笠原(1991)は、1978年に写真家のジョイス・テネソンが女性のセルフ・ポートレイトを広く公募してつくった本『イン/サイツ』や、1991年の「私という未知に向かって---現代女性セルフ・ポートレイト」展における調査を引用して、産む性としての女性性は、考えられているほど女性にとって決定的なものではないのではないかと疑問を呈している。テネソンのプロジェクトには4千点もの作品が寄せられ、その女性写真家の大半が25歳から35歳だったにもかかわらず、妊娠や子供をテーマにした作品は6点にも満たなかったという。こうしたプロジェクトに参加する女性たちの意識の高さを考えると、この結果を一般化することは難しいが、女性が自身の感覚をより丁寧に見直し、自分の女性性というものを再考した時、母親であることや母親になることが果たしてどの程度、関わってくるのかということは一考に値するだろう。》

《さらに日本の精神分析におけるこうした状況には、やはり戦争の影響を考えないわけにはいかない。日本の精神分析は、いわゆる15年戦争にも多くの影響を受けた(西2019)。その戦争と母性の密接な関係については、実に多くの研究が指摘していることである。母親を重視することは全体主義国家の特徴であり、日本でも戦火が激しくなる中で、母になること、母であることはさまざまな政策を通じて奨励された。》

2021-01-30

●来年度の第三クォーター(10月から11月)に、大学の非常勤講師をすることになっている(100分×14回の講義をする)。まだ先なので内容はゆっくり考えようと思っていたのだが、二月中にシラバスを入力しなければならないことを知る。

(美大ではないし、たとえば早稲田の文化構想学部のような、文化や芸術に親しんでいる学生が集まるようなところでもなく、工学系大学の一般教養としての文系講座の、「文学」のうちの一つを担当する。)

(ゲスト講師として単発の講義をする、という以外に今まで「教育」にかかわった経験がない。)

基本として、具体的に「小説を読む」ことを中心とした講義をしてほしいということで、前任の人は、カフカを中心に据えながら、その前後に、文学史に割合と忠実な形で古典から現代小説までを扱い、最後に日本の現代小説を取り上げていたそうだ。今の時点では、基本的にはそれを踏襲しつつ、もっと日本の近代、現代小説に多く時間を使いたいと考えている。

特に、日本の現代小説は、よほどの文学好きでもない限り、そこに触れる機会が少ないと思われるので、この機会が「こんな世界がある」ということを知ってもらうきっかけになればいいと思う。頭のいい学生のあつまる大学だと思うので、そういう人にこそこの世界を知って欲しい、というものを示したい。

(だから、日本の現代小説にかんしては、有名な作品というより、深掘りしないとなかなか出てこないような作品---勿論、たんにマニアックということではなく、重要な作品---を扱いたいと考えている。とはいえ、ぼくの性質として、過度にマニアックな方向に走ってしまうきらいがあるので、それは抑制しなければならない。)

それと、授業は日本語で行われるので、日本語で書かれたものの方が、その感触をより直接的に感じられるのではないかということもある。

今のところ考えているのはそのようなぼんやりしたことで、具体的に、どの作家の、どの作品を取り上げるのかについては、全然絞れていない。まだ先だと思っていたので、この機会にいろいろな小説を読み返してみようと思っていたのだけど、それよりもまず先に大筋を決める必要があるようだ。

以下は、この講座の紹介のために書いた文章。

《本講義では,古典から近代小説、日本の現代小説まで,個々の作品を「読む」事を通じて,「小説とは何か?」を学ぶ。

「小説」は言葉を用いて創られる芸術である。

言葉を使う(話す・聞く・書く・読む)ことは、意味や論理(思想)の伝達だけが目的ではない。明示されない文脈や感情の提示、意識するより前にある世界への態度のあらわれ、リズムや呼吸、身体的な感覚、他者への共感や拒絶など、多くの要素が含まれる。

ここでは、文学史的位置付けやマッピングといった客観的分析ではなく,歴史を踏まえながらも、個々の作品を「読む」ことを通じて、近代、現代の小説(作家)が言葉を使うことで「何をしているのか」を考察する。

小説は、多くの人の先入観よりもずっと幅広い表現であり、「読む」ことが身体全体を用いた能動的行為であることを学ぶ。》

2021-01-29

●夢。川に停泊している大きな船の中で開催されるアイドルイベント。それに参加しようとしている。頼りなげな桟橋を渡り、船に乗り込むと、イベントは既に始まっており、船の中に設置されたステージでは、アイドルが歌い踊っている。観客たちのひしめくなかでぽっかり空いている場所があり、そこに陣取る。よく分からないが、違和感がある。自分はこの場所に居ていいのだろうか、この場には、一見さんである自分には分からないルールがあるのではないか、と。そして、いきなり気づくのだが、人と人の距離がとても密で、さらに誰もマスクをしていないではないか。さらに、自分自身もマスクをつけていない。これはかなりまずい事態だ、と、あわてて鞄のなかを探って、さまざまな無用の物たちをかき分け、なかなか見つからなかったものが、ようやく見つかって、あわててマスクをつける。しかし、なんでこんなところに来てしまったのか分からない。ついつい油断してしまったのだろうか。気が緩んでしまったのだ。強く後悔する。自分を責める。イベントはまだ続くようだ。ケンちゃんシリーズに出ていた丹古母鬼馬二のような感じでステージに向かって唾を飛ばして叫んでいる人もいる。喧噪を眺め、このままここに居るべきではないと、イベントの途中だが場を離れることにした。人々のひしめく細い経路を抜けて船を下り、桟橋から路地に出た。路地を走りながら、これから家に着くまで、さらに混んだ電車に乗らなければならないと思うとうんざりする。とはいえ、電車に乗るための駅はどこにあるのだろうか。もう方向が分からなくなっていて、どちらに向かえばいいのか。どの道も間違っているように思う。ふいに、これは夢なのだと気づき、すぐに目が覚め、ほっと胸をなで下ろす。

最近、夢の途中でふいに、自分がマスクをつけていないことに気づくという展開が多くあるような気がする。

2021-01-27

●『精神分析にとって女とは何か』第二章「精神分析的臨床実践と女性性」(鈴木菜実子)から、もうちょっとだけメモ。

ウィニコットは、女性的要素を「being(いること)」、男性的要素を「doing(すること)」とし、女性も男性もどちらも両者を持つと考えたが、ここで引用するのは理論的なことというより、分析家としてのウィニコットの敏感さ(と、人の心の多=他層性)を感じさせるエピソード。精神分析について「本を読んで」知ると、どうしても理論的なところが気になるのだが、臨床=実践としての精神分析というこを考えると、それは体系的に習得される身体技能であり、一対一の関係を基礎とするという意味でも、武道の立ち会いに近いもののように感じられる。

《(…)ドナルド・ウィニコットも、男女ともに女性的要素、男性的要素を持っていると考え、女性的要素は人生の始まりに位置づけられると考えた。彼はこの着想を、男性患者の話を聞くうちに女性の話を聞いているという感覚が生じた事例から得たという(Winnicott 1971;Abram 1996)。彼はその逆転移を患者に伝えたところ、患者が幼少期に母親によって、女の子とみなされて育てられたという経緯が語られ、母親が彼を女の子とみなしていた事態(それはおそらくは母親の願望だったのだろう)が転移において反復されて、ウィニコット逆転移感情が生じていたことが理解された。ウィニコットは患者が分裂排除した反対の性の存在、解離された性同一性から両性に備わる男性的要素、女性的要素というメタ心理学的概念に関する思索を展開させた。彼は、人生の最早期の「二人でいて一人でいる」という母子が融合し、未統合の状態における乳児の内的主観性を「存在することbeing」と考え、これを女性的要素と考えた。つまり女性的要素は環境としての母親と乳児が同一化している経験に由来していると考えた。この同一化は自己の感覚が発生するための不可欠な要素であり、この後に同一化した状態から、自分と自分ではないものを区別しようとする段階において、つまり分離のプロセスの一部において男性的要素が作動する。このプロセスは環境としての母親と対象としての母親という二つの母親が統合される思いやりの段階へと繋がるという。自己の感覚は発達上の適切な時期にこれらの要素の融和が生じるかにかかっていると彼は述べている。》

《この点はウィニコットとクラインの理論を決定的に分ける重要な点の一つである。クラインが人生の最早期から対象関係が始まると考えた点とは異なり、ウィニコットは対象関係は早期の数週間から始まると考え、そこでは乳児と母親は一体化していると考えた。》

ウィニコットの、乳児は、母親と二人でいることによって「一人でいる」ことができる(そして「一人である」ことが心の発達の基礎となる)、という考え方が面白いと思う。以下は、『集中講義・精神分析』(藤山直樹)からの引用。

《最早期、生後一日とか二日の話ですよ。そこが出発点で、そこでは乳児は必要なものを必要なときに必要なように手に入れられるために、こころを持つ必要がないわけです。ひとりのパーソンである必要はない。だだそこに静かにa going-on-being として存在する。a going-on-being というのはパーソンじゃないけど、しかし存在 being していると。ここが重要なんで、ウィニコットはこの being ということを非常に重視します。つまり、being としての全体性を保持して、そこで静かに連続 continuity を保持しながら息づいている。そこで乳児は一人なんです。孤立 isolation している。つまりお母さんに完璧に世話されている故に乳児にとってお母さんはいない。乳児はひとりぼっちです。誰もいない。健康な子どもにとって一人であるということ、最終的にウィニコットはどんな人間も一部分は孤立体だ、一人である、孤立体の部分を持てない人は要するに気が狂っているということになる、というわけです。われわれは一人である。最終的に誰かのいる前でも一人である側面を保持している。(…)ウィニコットは、完璧にお母さんに世話されている、環境的なお母さんの供給があることによって一人であるというところから子どもを考えたわけです。》

2021-01-26

●『精神分析にとって女とは何か』第二章「精神分析的臨床実践と女性性」(鈴木菜実子)から、引用メモ。

フロイトは、女性性は「ペニスの欠如」によって基礎づけられ、疑似的なペニスであるクリトリスから受動的なヴァギナへと興奮する器官を変化させるという女児の発達過程を考えた。しかし、女児にはヴァギナと《その先に空間が存在する》という認識が発達初期の段階からあり、その認識が独自の空想を促すのだという。

《女児が自身の内側にある性器の感覚に気づくことは、空間という知識をもたらし、その空間に関する空想を促すことになる(Richards 1992)。自分の身体の中に含まれる内的な空間と開口部、口や肛門、ヴァギナといった場所に対する気づきと、それにともなう乳幼児期や早期の自慰活動と官能的体験は、女児が自分自身の身体との関係性を確立する前提となり、それが母親に対する依存から女児自身が距離を取ることを促進する。こうした認識と同時に、女性は禁じられた願望や欲望に由来する超自我による罰として、膣口を閉じておくという空想、あるいは、開口部を攻撃されるという空想を持つという(Laufer 1993)。そうした空想は、患者の夢の中で、納屋や家、屋根裏といった空間とその中にある家具というような形で、女性の身体空間や、内的な空間の表象として表現されうる(Coodman 2019)。》

●「ペニス羨望」と「去勢コンプレックス」(女児はペニスがない=男性ではないことに苦しむ)という形でペニスを特権化するフロイトに対して、ペニスに先行し、ペニスを含むものとしての「乳房」を中心に構成されるメラニー・クラインの理論についてのメモ。

《(…)クラインは生得的、本能的な資質として羨望を想定していたが、フロイトがペニス羨望を女児のエディプス・コンプレックス形成の中心に据えたのとは違い、ペニスの前に乳房への羨望が存在していると考えた。乳房はその良い性質のために羨望され、攻撃されることになる。この乳房への羨望はペニスへの口唇愛的、あるいは受動的羨望に置き換えられ、母親への羨望と繋がると彼女は考えていた(Kristeva 2000)。そして乳児が強くひきつけられている母親の身体の内部には、母親の身体を占有する父親(結合両親像)が存在するという認識が生得的に存在するとされた(Hinshelwood 1991)。》

《(…)乳児は空想の中で、口を経由して外的世界において知覚するすべてのものを自身に取り入れる。乳児は男児・女児ともにまずは母親の乳房との関係を他との関係に先行して開始すると言える。この乳房との早期の関係性は生得的に備わっているもので、口唇的な性質と幻想を有していると考えられた。この幻想は吸ったり、噛んだり、噛まれたりするサディスティックで妄想的なもので、早期の不安に帰着する(Hinshelwood 1991)。そうして取り入れられ、同一化された対象は自我の一部を形づくり、こころを構成する部分となる。自我は良い対象も悪い対象も取り入れるが、単に栄養を与えるだけでなく、愛情を含みこんだ、乳児の無意識的空想と欲望に満たされた対象が母親の乳房であり、この対象に乳児の攻撃性が投影されたときに、それは悪い対象となる(Bronstein 2001)。母親の身体に加えた攻撃のための報復の恐怖と、自責と罪悪感に乳児は苛まれる。》

《このクラインの理論化によれば、超自我形成の時期もフロイトが想定していた時期よりずっと早い段階に生じていることになる。超自我は、口唇的サディズム期における攻撃性の衝動と願望が両親に投影され、恐ろしくて処罰的な両親を取り入れることによって形成されると考えたからである(Klein 1928)。さらに、これらの乳児の体験をエディプス的なものに変えてしまうのは、母親の身体との二者関係ではなく、乳児が自分の衝動の前に立ちふさがる第三の要因に気づいているという事実である。乳児は母親と父親の性交を、母親が口腔を通じて父親のペニスと合体しており、それゆえに母親の身体はペニスと赤ん坊で満たされているという憶測を抱いている(Klein 1933)。それは、命を生み出す空間としての母親の身体が強力な敵によって占拠されているという認識であり、すなわちそれは、母親の身体という場をライバル的赤ん坊によって埋め尽くすことができる生産的なペニスである(Likieman 2001)。ここに、フロイトの考えていた全体対象とのエディプス関係に先んじた、部分対象との間の早期エディプス的関係性を見ることができる。フロイトエディプス・コンプレックスを3歳から5歳くらいの性器期に生じるとしていたよりずっと早い時期である。》

《ペニス羨望も同様に新たな形で理解される。そもそも、乳房への欲求不満が先にあり、それが父親のペニスを母親から奪いたいという欲望の根底にある(Seagal 1973)と考えられている。ペニスは部分対象であり、無意識的幻想においては結合両親像の一部分と想像されている。そのためペニスは乳児にとっては母親の体内、腹部あるいは乳房の中にあると信じられている。この前提からすると、フロイトが考えたように、女児がペニスを羨望し、ペニスを与えなかった母親を憎むのではなく、口唇的な満足の対象としてではあるが乳房と同一視されている父親のペニスとの合体を望むことになる。そしてこれが女児の性的発育の礎であるとクラインは考えた。ここで女児が持つ、部分対象同士の関係性への認識は、非常に激しい情緒を伴うがゆえに、女児は母親への攻撃的な情緒を抱き、この攻撃的情緒ゆえに反撃されるのではないかという迫害的な不安を感じることになる。この文脈で、クラインはペニス羨望をも再定式化することになった。ペニス羨望は、自分の身体が傷つけられるという恐怖に満ちた不安として表れる。女児は自分の小さな外性器が、身体への攻撃という恐怖に曝されていると感じることになるという意味で、ペニス羨望は女児にとっても変わらず重要な意味を持つと言える。》

《くわえて女性のマゾヒズムについても、内在化された対象に向けられたサディスティックな衝動であり(Klein 1932)、女児が罰しているのは、彼女自身の中に取り入れられたペニスである(Kristeva 2000)と考えられた。またクラインは、女児が父親に対象を向けかえるプロセスを、母親に向けられた恐怖や苦痛の両価性を回避するためのプロセスと考えた。》

●ここで参照されている「Kristeva」は、ジュリア・クリステヴァなのか。『サムライたち』、『黒い太陽』以降、あまり名前を見かけることがないと思っていたのだが、最近でも、メラニー・クラインやハンナ・アーレントボーヴォワールについて書いた本が翻訳されているようだ。実は、今年になってから読んだ『吸血鬼と精神分析』では(ミステリとしての「謎」的にも)重要な登場人物として出てきていたのだった。