2021-02-21

●面白くてずっと観てしまった。

「アカデミックとVRユーザをつなぐ学術イベント「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」第三部 ソーシャルVR体験談をもとに研究者とディスカッション!」

https://www.youtube.com/watch?v=DZoknaDJzis

上の動画では、ナラティブセルフとミニマルセルフの違いについて話されている。ぼく個人としては、ナラティブセルフを変化させたり、分裂・増幅させたりすることに対してはあまり恐怖を感じない。身体(心や人格も含め)を切り替えることに恐怖がない。むしろ、遊戯的、文化的な楽しさが伴う、というか、文化的なもののもつ「楽しさ」の多くの部分をナラティブセルフの揺らぎや書き換えが担っているように思う。

(ナラティブセルフの揺らぎや書き換えには、必ずしもバーチャルなアバターを必要としないように思われる。これは、「演劇」というものがなぜ可能なのか---なぜ、現実の空間・時間と地続きで、明確なフレーミングがない場合でも「演じる」という虚構の次元を立ち上げることができるのか---ということとも密接に絡んでいると思う。)

また、ナラティブセルフの変質を媒介として、それがミニマルセルフにまで介入し、ミニマルセルフの有り様の変質にまで及ぶと、それは芸術の問題になってくるように思う。

しかし、小鷹さん(小鷹研究室)の作品では、ミニマルセルフの核心にいきなり揺らぎをかけてくる感じがある。媒介を介さず(あるいは、慣らしをせずに最短距離で)直接触れてくる感じ。だから体験する側に余裕がない。そこには文化的・遊戯的、そして社会的なものとの明確な質の違いがあるように思う。ざわざわする、きもちわるい、という反応は、それを表しているだろう。

これがもう少し強くなると、ヤバい、となり、怖い、となる。この「怖い」は、自己崩壊の恐怖であり、狂気に陥るのではないかという恐怖であり、もっと言えば「死の恐怖」でもあるのではないか。つまりそれは「下手をするとこちら側(このわたし)に戻ってこれないのではないかという恐怖」で、小鷹さん(小鷹研究室)の作品は、そのような恐怖と地続きであるというハードな感触が濃厚にある感じがする。

(だから、元気がない、弱っている時には近寄りがたい。)

(動画のなかで小鷹さんが、小鷹さんの作品を体験した谷口暁彦さんが「やっちゃいけないことをしている」と言ったということを話しているが、その感じ。)

2021-02-20

柄沢祐輔の作品集『アルゴリズムによるネットワーク型の建築をめざして』の最初のところに、「スモールワールドネットワークの図式を使って桂離宮を分析した図」が載っているのが興味深い。

正確には、エリー・デューリングによる「脳に反して思考する」というテキストと、柄沢さん本人による「関係性を顕在化させるアルゴリズムによるネットワーク型の建築」というテキストの間に、桂離宮を分析した図が挟まっている。エリー・デューリングのテキストに桂離宮についての長めの言及があるので、たんにそれを受けてのものとも考えられるが、しかしこの図はエリー・デューリングがテキストに書いたことを図示するものではなく、むしろ、柄沢さんが自作のコンセプトを示すために用いるスモールワールドネットワークの概念から分析されたものなので、二人の合作というか、二つのテキストをつなぐものとしてあると考えられる。

なににせよ、柄沢さんの作品集に掲載される最初の実作が桂離宮であるということが、おもしろくもあり、納得できることでもある。

●エリー・デューリングによる桂離宮への言及は、納得できるし、とてもおもしろくて、掻き立てられる。《自身が遠くから没入している》。以下、「脳に反して思考する」から引用。

(「Thinking against the brain」、かっこいいタイトルだ。)

桂離宮とその周辺の庭園での経験は、建築の構成の可能性について非常に貴重な例を示す。書院と庭園をつなぐ小径を散策すると、それぞれ切り離された風景を周遊する視点が、自身の動作によって再構成するという、特有の動的性質を体験できる。植物や建築の要素は表面上切り取られ、透明な平面に貼り付けられ、お互いに覆い被さりながら、まるでアニメーションの動画のために描かれたように見える。》

《変動する光と影の移ろいが混じり合った混合体を引き立てるために通常の遠近の配置をぼやかすことで、庭園は即時に広々として平面的、かつコンパクトで不思議なほど無形的になり、見る者が中心性の感覚を取り戻したり、調整しようとするにつれて、視差移動の絶え間ない相互作用が行われる。》

《人工的にアニメーション化された、自然の変化する風景によって伝達される全体的な印象、また矛盾する視覚的、動的な合図の満ち引きにより引き起こされる視点の一定の置換は、体外離脱体験による無重力状態、または無重力状態での飛行の感覚に類似している。それはまさしく自身が遠くから没入している、いわば即時的に接続し切断するような超現実的な質の立体映像に非常に近い。》

《内部はある基本的な要素をモジュール化して繰り返すことで発生する移り変わる空間であり、多様なデザインパネルと連結する仮想ボリュームの積層によって偶発的に不透明化されている。》

ヴァルター・グロピウスによると、「平面には静的な概念、対称性、中心的な焦点がない。ここでは芸術創造の唯一の媒体である空間が、魔法のように浮遊しているようにみえる」。その体験は、より形式的なレベルにおいて、離宮の全体的な地形のなかで、これらの領域それぞれが他の領域と関わる相対的なアクセシビリティと不可視性の交錯する関係性によって強化される。》

2021-02-19

劔樹人によって語られた怪談が面白く、気にかかったので、メモとして、ここに書き留めておく(12分くらいから)。

住倉カオスのRadio★オカルトロニカ Radioオカルトロニカ #40 ゲスト:劔樹人さん⑩

https://www.himalaya.com/jp-ghost-storyline-rakugo-podcasts/radio-2410296/radio-radio-40-131070160?Influencer_uid=4264122&Share_from=Web&Share_to=copylink&lang=ja

友人から聞いた話。五反田の十階建てのカラオケボックスでバイトをしていた。入りたての頃、受付の業務を店長から教わっていた。そこへ、おかっぱ頭の女の子が現れ、受付を素通りして、そのままエレベーターに乗った。友人は店長に、「いまの子、止めないでいいんですか」と尋ねる。店長は苦虫を噛み潰したような顔で、「いいから、エレベーターの行き先の階をよく見ておけ」と答える。エレベーターは七階で止まる。ものの三分くらいで、エレベーターが下りはじめ、カウンターの階で止まり、さっきの女の子が(貼り付いたような)すごい笑顔で降りてきて、素通りして帰っていく。店長に「七階を見てこい」と言われて見に行くと、七階のすべての部屋のすべての椅子が上下逆さになっていた。店長は、「あいつがくるとそうなるんだ、覚えておけ」と。

(店長はそれ以上のことは何も言わない。)

友人がそこでバイトをしている間に、再びその子と出会うことはなかった。しかし、引き継ぎノートに書かれていたことは一度あった。

 

2021-02-18

●kiki vivi lilyと、おかもとえみ。

【Park Live】kiki vivi lily 2021.1.15(fri)19:20~20:20

https://www.youtube.com/watch?v=yy0VCNFvgkU

【Park Live】おかもとえみ | OkamotoEmi 2020.12.11(fri)19:20~20:20

https://www.youtube.com/watch?v=ruXzL4xDV2g&t=1984s

2020”gappy” tourおかもとえみ on stage highlights《期間限定公開》

https://www.youtube.com/watch?v=hOiAUQ2My2c

kiki vivi lily / Brand New (Session at Red Bull Music Studios Tokyo)

https://www.youtube.com/watch?v=h795slSPgp8

kiki vivi lily - ひめごと (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=MOqgspw8yko

SUKISHA × kiki vivi lily FIRST EVER SHOW at Weekend Live · Madrid 2020

https://www.youtube.com/watch?v=ahC6dh5rg5o

KEN THE 390 - Long Night feat. おかもとえみ (prod. maeshima soshi) [Official Lyric Video]

https://www.youtube.com/watch?v=bvZhRnt7Jmk

夢のような(REMIX) feat. おかもとえみ / TOKYO HEALTH CLUB【OFFICIAL MV】

https://www.youtube.com/watch?v=zWashgFSeJE

2021-02-17

●『クリーピー』を昨日観ていて、強く印象に残ったのが、西島秀俊がリビングのソファーに座っていて、そこから、キッチンで竹内結子が椅子に座ってテーブルで夕食の支度っぽいことをしている背中が見える場面。西島秀俊がノートに向かって集中していて、ふと気がつくと竹内結子が消えている。この「消えている」ことの、決定的に取り返しのつかない出来事が起ってしまったという感じがすごい。

直前の公園の場面で、香川照之竹内結子に、どう考えてもおかしな距離感で、異常なことを言う。そして、その場がどう展開したのか示されず、そのまま途切れて次の場面に切り替わる。竹内と香川の関係になにがしかの変化が起ったことは明らかなのに、それが示されていない。そしてその少し後の場面で、竹内がパッと消える。ベタと言えばベタな展開なのだが、この消え方が見事で、すごく怖い。

竹内は、キッチンから階段へ移動して電話をしていただけなのだが、この場面で「消えて」以降、竹内の様子は目に見えておかしくなっていく。これもまた、ベタと言えばベタな展開だ。

(ベタであるとはいえ、見事な描写だと思うのだけど、ここで竹内がおかしくなっていったのは、事後的、因果的にみれば、香川から「薬」をうたれたからだ、ということになってしまい、謎の提示・表現の充実に対して、解決のされ方が釣り合っていないと感じてしまう。勿論、薬は表面的なことで、竹内は慣れない土地で昼間ずっと一人で家にいることのストレスを溜めていたのだし、独善的な西島との夫婦関係に潜在的な不満や不信を感じていた、ということもあるのだが。)

2021-02-16

●『パラサイト』の地下シェルターの描写を観ていて、なんとなく『クリーピー』(黒沢清)を連想したので、U-NEXTで観た。黒沢清の演出や描写がキレキレなのは勿論だけど(特に大学の場面はどれもひっくり返るくらいすごい)、それでも、ぼくにはこの映画(このお話)が面白いとはあまり思えないかなあ、と思ってしまった。

たとえば『CURE』の萩原聖人は、とても抽象度の高い「越えてはいけない一線を越えてしまっている人」だが、ここで香川照之が演じた人物は、こういうヤバい奴、普通にいそう、という風に感じられる。だからより生々しく怖いとも言えるのだけど、だがそうだとすると、リアリティの置き所が違ってくるのではないだろうかと思った(もっと、リアルに寄せた話になるのではないか)。だがこの作品は、いわゆる「現実らしさ」という意味でのリアリティとは別のリアリティに依っているように思われる。

この映画でヤバい奴は香川照之だけでなく、西島秀俊もそうとう病んでいる人物だ。その意味では『CURE』の役所広司にも通じる。ただ西島秀俊役所広司と違って(そして『ニンゲン合格』の時とは大きく変わっていて)、自分の思いのままに突っ走る、かなりマッチョな匂いのする男性になっている(この映画自体が、西島秀俊のそのようなあり方に対する批判的な視線をもっている---たとえば西島は竹内結子に裏切られて注射をうたれる---のだけど)。『CURE』の役所広司にあったような躊躇、淀み、揺らぎのような幅があまりなく、登場人物としての面白味は少ないように感じられた。

とはいえ、黒沢清の演出や描写の密度がめちゃくちゃすごいことは間違いなくて、長いキャリアを通じて真面目に仕事をつづけている作家の凄みというのは間違いなく感じられる。

(以下、ネタバレ。この映画では、香川照之が他人に銃を預けてしまう場面が二度ある。一度目は、藤野涼子に母を殺すように命令して銃を手渡す場面。ここで観客は緊張を感じる。藤野涼子香川照之に銃を向けることもできるから。だが藤野は勇気を持てず、香川に刃向かうことはない。このとき香川は、藤野が自分に銃を向ける可能性があることを考慮していないようにみえる。つまり香川は、計画的で確信をもった---隙をみせない---完全犯罪者ではないし、藤野の母を自ら殺すことを避けようとしているので、快楽殺人者でもない。香川は薬を使って他人を支配しようとするが、特に邪魔にならなければ殺そうとはしない。自分勝手な独自論理・倫理に従って藤野の母を罰するだけだ。香川は無関係な家族を支配することでそこにパラサイトし、自分を疑似家族の一員としようとする。香川の目的は他者の支配と疑似家族の形成だろう。ある意味で隙だらけである香川の行為が発覚・破綻しなかったのは、彼の目的や独自論理があまりに常識から外れすぎていて、それが他者を攪乱し、その内実が読まれなかったからだろう。また、決して完璧なものとは言えない香川による他者の支配は、支配される側にも「支配されたいという欲望」という隙があることによって成り立つものだろう。

しかし、香川が二度目の隙をみせた時に、西島秀俊にその隙を突かれて破綻する。この、香川のあっけない敗北に対して、一度目にみせた「隙」が伏線となっている。)

(もう一つ、キーになるポイントとして「薬」をどう考えるのか、ということがある。香川照之のような変人に、いつの間にか他者が支配的に操作されるようになってしまう。その不気味さや、それはなぜなのかという疑問が、この物語を引っ張る要素のうちの大きな一つであろう。その謎の解が「薬」なのだが、この解は紋切り型であまり工夫がないように感じられてしまう。この「そのまんま」な解に納得できるかどうかで、この物語に説得力を感じるか否かが変わってくると思う。薬による支配は、現実的にはリアルかもしれないのだが、繰り返しになるが、この作品は、事実らしさによるリアリティとは別のリアリティに軸を置くものとして組み立てられているように思われる。)

(勿論、「薬」は唯一の解ではない。たとえば、香川は、支配関係を成立させやすそうな、いかにもヤバそうな空間的配置を探して、そこをターゲットとする。また、香川のあまりに常識から外れた言動が、人の通常の判断力をバグらせるということもあるだろう。表現的には、香川の言動こそが強く押し出されている。薬は、支配関係をつくるために必要な要素の一つでしかない、とも言える。薬の入った注射器は、小道具の一つであって銃とそんなに変わらない、と。しかし、要素のうちの一つだとしても、それはとても大きい一つで、それを出してしまうと他が霞んでしまうくらいの---「表現的な」ではなく---因果的な強さをもってしまうのではないか。)

●書いていて今気づいたのだが、ぼくのひっかかりは要するに、表現的にはとんでもなく凄いのに、因果的に納得できない、ということかもしれない。

2021-02-15

ポン・ジュノの『パラサイト』をようやく観た(Netflixで)。圧倒的な作品である『母なる証明』などにくらべるとやや単純過ぎるきらいがあると思ったが、エンターテーメントとして成功するためにはこのくらいシンプルである必要があるのかもしれない。

半地下ならぬ「地下」が出てくることと、ラストで、消えてしまった父がその「地下」に存在することが分かるというところに、ポン・ジュノらしい感じがあらわれていて、そこはよかった。

映画の中盤で、主人の家族が留守になった家でパラサイトする家族たちが好き勝手に振る舞っているが、外では雨が強く降ってきているという場面で、ここで当然、キャンプを中断にして返ってくる主人の家族と鉢合わせするという展開になるだろうと読めてしまって、前半の展開でも、お金持ちの家族があまりに簡単にだまされてしまうことに不満を感じていたことも相まって、展開が平板すぎると感じてしまうのだが、そこでふいをつくように「地下」があらわれて、「おおーっ」と一気に気持ちが高まったところで本格的なドタバタ展開になる。このドタバタとその後の洪水の場面の充実により、前半のスムーズすぎる展開がある種の「ならし」であることが納得される。

パラサイトから階級(上下関係)の反転へ至るという展開だけではありきたりだか、その反転から、さらにその下層があらわれて再反転(追反転)し、その2重の反転の混乱が作品の盛り上がりを生むのだが、その混乱が「主人の帰宅」によって急速に回収されるなかで、最初にあった「パラサイトからの反転」の夢が砂上の楼閣に過ぎないことが強く意識され、(洪水と水没も相まって)もともとあった階級差の意識が以前よりもさらに強化されるという結末に至る。

とはいえ、そこから翌日の誕生日パーティーでの惨劇へ至るという展開は、想定内というか、ちょっとありきたりであるようにも感じてしまう。地下、半地下、地上という階級差が調停されることはなく、その関係がなんらかの形で破綻を迎えざるを得ないのは分かるとしても、その破綻が分かりやすい惨劇の形をとるのではなく、なにかもう一工夫あってもよかったのではないかと感じた。

ここで、地下、半地下、地上と書いたが、この映画で三つの階層は必ずしも空間的な階層構造にあるのではない、という点も重要だと思われる。半地下と地上との階級差は、空間的な上下階層というより、むしろ生活感や湿り気、臭いの違いとして形象化されていた。地上の父は半地下の父に対して、威圧的であったり差別的であったりすることはない。少なくとも意識の上では対等に扱い、相手の仕事ぶりを正当に評価している。しかしそれでも、乾いた家に住む地上の父にとって、その湿った「臭い」だけはどうしても受け入れられない(半地下の父が地上の父を許せないと感じたのも、その「臭い」に対する反応だろう)。

(半地下の「低さ」は、豪邸との対比によってよりも、水=雨という媒介によって強調される。)

そして、半地下と地下とを隔てているのは、ポン・ジュノ作品に特有の、幅が狭くて分岐路のない前後に細長い空間だ(『ほえる犬は噛まない』の団地の廊下や団地前の坂道、『殺人の追憶』の畑のなかのあぜ道やトンネル、地下にある捜査室へと通じる階段、『グエムル』のソン・ガンホが監禁される米軍施設、等々)。地上とシェルターとを分けているのは、高低差というよりは間に媒介を挟んだ距離であり、シェルターは下というより細長い空間の先としての「奥」にある。地上と半地下との階層の反転は、開けた空間における「策略」によって生じるが、半地下と地下との階層の反転は、この「狭くて細長い空間」における闘争(アクション)を通じて行われる。そして、後者こそがポン・ジュノ的だと思う。

地下としてのシェルター空間は、階層における最下層ではなく、普段は目に見えない奥であり、潜在的な次元だと言える。しかしそこは、最上層とモールス信号によって直結してもいる。地下の声を聴き、地下の存在と出会ってしまうのは、金持ち家族のなかでも最上層にいる、わがまま放題に甘やかされた息子である。彼は、地上では好き放題に振る舞うことが許されているが、同時に、地下の存在に常に脅かされている(トラウマをもつ)者でもある。

事件を起こした半地下の父は、地下へと転落(潜在)する。そして半地下の息子はそれを知り、(ほとんど可能とは思えない)父との再会を思う。この終わり方はとてもポン・ジュノ的で、『グエムル』のラスト、食卓を囲む家族のなかに死んだ娘の幽霊が混じっている場面を思い出す。半地下の息子は、「お金持ちになる」というほとんど可能性のない望みをもつのではなく、シェルター=冥界に居るという意味で「死んでいるに等しい父と再会する」という、ほとんど可能性のない望みをもつのだ。しかし、この二つの望みが重なってしまっているという皮肉。