2021-03-19

●社会的な出来事にまったく無関心でいることはできないので(どうしても気持ちが引っ張られてしまうので)、その点から、『全体主義の起源』(ハンナ・アーレント)と『愛と幻想のファシズム』(村上龍)が気になっているのだが、どちらもごつくて分厚いので、なかなかそのなかに入っていく余裕がない。

(『愛と幻想のファシズム』は、持っていたはずだが見当たらないので最近買い直した、が、読み始められない。)

全体主義の起源』にかんしては、新書の入門書みたいな本は何冊か読んだ。そして、NHKの「100分de名著」の仲正昌樹の解説が、分かりやすくまとまっていてとても参考になった。今の日本やアメリカの状況は、『全体主義の起源』(の、特に一巻「反ユダヤ主義」)に書かれているナチス政権誕生前のドイツの状況とほとんど---本当にびっくりするくらい---重なっているように思われる。

●ちなみに、VECTIONによる下のテキストは、西川アサキさんが『全体主義の起源』を読んだ時のインパクトについて話したことと、それにかんするメンバー四人の議論が元になって書かれたとも言えるもの。

「r/place的主体とガバナンス 革命へと誘うブロックチェーンインターフェイス

https://ekrits.jp/2019/03/3046/

(VECTIONの活動目的は、《社会的チートの撲滅&死の恐怖からの非宗教的解放について、「それは無理」と確信しつつ、どうにかならないものかとあがく》こと、モットーは《可能な限り共同分散的に作業し、恫喝しない》。)

https://vection.world/

●「100分de名著」は、当然だけど、指南役となる解説者によってクオリティのばらつきが大きいのだが---すべて観ているわけではないけど---ぼくが観たなかでよいと思ったのは『全体主義の起源』の他には、『共同幻想論』(指南役・先崎彰容)、『純粋理性批判』(指南役、西研)、『ディスタンクシオン』(指南役、岸政彦)、『野生の思考』(指南役、中沢新一)、『相対性理論』(指南役、佐藤勝彦)。これらは、分かりやすくまとめてあってとても助かるのだった(全体的に文学系はちょっと弱めな気がする)。

 

2021-03-18

●(一昨日の日記のつづき)下の動画で菊地成孔は、二つのタイムラインが同時に進行するアフリカ的なポリリズムのレクチャーを行っている。一つの小節を十二に分割するパルスがあるとして、それを、キクチ、キクチ、キクチ、キクチという刻み方で四拍として感じるタイムラインと、ナルヨシ、ナルヨシ、ナルヨシという刻み方で三拍として感じるタイムラインを同時に感じること。たとえば、踊りながら、下半身で四拍を、上半身で三拍を刻む、などして。

とはいえ、世界中で流通しているポピュラー音楽のほとんどからは、アフリカ的ポリリズムが聞こえてくることはないという。しかし、四拍と三拍の二つのタイムラインが同時に進行するアフリカ的ポリリズムの感覚を体得すれば、実際にリズム楽器がポリリズムを刻んではいない演奏から、聴き手の身体的な関与によってポリリズムを聞き取ることができるようになるという。これによって、(同じ演奏を聴いたとしても)音楽の聞こえ方がまるで変わってくる、と。

ここで、演奏をごっこ遊びにおける小道具とみなし、演奏によってつくりだされる(だけでなく、演奏から聴取される)「リズム(ループする時間とその分割法)」を、ごっこ的な真理だと考えることができるのではないか。つまりこれは、同じ「ごっこ遊びの小道具」から、受け手の積極的な関与によって別の側面を引き出すことができる、ということの例ではないだろうか。

菊地成孔 "ビュロー菊地チャンネル「モダンポリリズム講義 第11回モダンポリリズム 第11回

https://www.youtube.com/watch?v=SsUZErmf0Xw

●改めて「フィクションを怖がる」(ケンダル・ウォルトン 森功次・訳)を読み返したのだが、書かれていることの半分以上に同意(納得)できなかった。なにより、挙げている具体例が適切とは思えない。しかし、それでもなお、ここにはとても重要なことが書かれていると思う。

《わたしの理論によれば、われわれが「距離の縮減」を達成するのは、虚構をわれわれのレベルに持ち上げることによってではなく、われわれが虚構のレベルに降りていくことによってである(より正確にいえば、われわれは虚構のレベルにまで自分自身を拡張する(extend)。というのも、われわれは実在するということが虚構的になるときでも、われわれは現実に存在することを止めないからである)。ごっこ上でわれわれは、ハック・フィンがミシシッピ川を下ったということを信じているし、知っている。そしてごっこ上でわれわれは、彼や彼の冒険について様々に感じ、様々な態度をとる。自分をどうにか騙して虚構を現実と思わせるというよりは、われわれ自身が虚構的になるのである。こうしてわれわれは結局、虚構と「同じレベル」に立つ。そしてわれわれのそこへの出現(presence)は、わたしが先に記述したような尋常ならざるリアルさで果たされる。以上のような考え方によって、われわれは自分自身に明らかに偽の信念を帰属することなく、虚構に対してわれわれがもつ近さの感覚を理解できるようになる。》

《(…)泥でパイを作るままごと遊びに参加する者は、泥の塊がみかん箱の中にあるときはいつでも、オーブンの中にパイがあるというのが「そのごっこ遊びにおいて真」である---すなわち、それは虚構的である---、という原則を受け入れようとするだろう。その虚構的真理は、ごっこ的真理である。あるごっこ遊び内で有効な原則とは、もちろん、まさにそのゲームの参加者が有効と認め、受け入れ、理解している原則である。》

《オーブンの中にパイがあるというのは、誰もそのように想像していなくても、ごっこ的でありうる。もしそのみかん箱の中に誰も気づいていない泥の塊があっても、それはごっこ的であるだろう(子供は、後でその泥の塊を発見したときに、「オーブンの中にパイがずっとあったんだ、でも知らなかったよ」と言うかもしれない)。》

《あるゲームにおいて有効となっているごっこの諸原則は、明示的に定式化されている必要はないし、意識的に採用されていなくてもよい。子供たちが泥をパイ「である」とすることに同意するとき、彼らは実際には、パイのごっこ上の性質と泥の性質とを結びつける、明文化されないとても多くの原則を打ち立てているのだ。泥の塊のサイズがごっこ上のパイの大きさ・形を決定するということは、暗黙のうちに理解されている。たとえば、泥の塊のサイズが手のひらのサイズであれば、ごっこの中でのパイもその大きさになるということ、(…)こうしたことが暗黙のうちに理解されているのである(…)。》

《あるごっこ遊びとそれを構成する原則は、公に共有される必要はない。人は、他の誰も認識していない原則を採用しながら、自分の個人的な遊びを作ることができる。そして個人的なごっこ遊びを構成するその原則のうち、少なくともいくつかは暗黙裡のものでもありうる。つまりそのとき彼は、ただその原則を当然なこととして、とくに意識しないでいる。》

《ある種の人形を見る者は、その人形が、ごっこ上で金髪の少女がいるという真理を引き起こしているのを認めるだろう。その人形が単に一定の距離から観察されるべき一体の彫像として見られるとき、それがもたらすごっこ的真理はこのようなものである。だが、その人形で遊んでいる子供は、より個人的なごっこ遊びをしている。その遊びの中では、その子は自らを演じる役者であり、人形は一種の小道具としての機能を果たしている。子供が人形を用いて行っていることは、ごっこ的真理(たとえば、ごっこ上でその子は街へお出かけするために少女に服を着せているという真理)を引き起こす。》

《スライムが向かってきていると主張するふりをすることと、ごっこ上でスライムが迫ってきていると実際に主張することとは、両立しないわけではない。チャールズはその二つを同時に行いうる》。

●ここに書かれていることを、次のように言い換えることができるのではないか。フィクションを立ち上げるということは、見立て(比喩)を用いて現実に似たものを表現するということではなく、我々が、自分の身体を「見立て-比喩が真である(見立て-比喩が現実である)」世界にまで拡張させる、ということだ、と。

2021-03-17

●U-NEXTのラインナップに入っていたので、おそらく十数年ぶりくらい(いや、もっとかもしれない)で『雪の断章 情熱』(相米慎二)を観た。生涯に長編映画を13本つくった相米慎二のちょうど真ん中、7本目の監督作品(1985年)。ここらへんまでがイケイケの超売れっ子期だろう。

ぼくのなかでのこの映画の印象は、どうやっても面白くなりようのないお話を、飛び道具的な無茶な演出を多用することで強引に映画として成り立たせたという、イケイケだった初期の相米だからこそあり得た一種の珍品という感じだったのだが、この認識は完全に間違っていて、改めて観てあまりに素晴らしいので驚いてしまった。

お話がどうしようもなく面白くないというのはその通りなのだが、一方で、どう考えても退屈にしかならない場面や、話のつじつまが合っていない展開などを、突飛で大胆な演出で乗り切っているのだが、もう一方で、話はつまらないとしても、そのシチュエーションのなかにいる斉藤由貴という人物の存在や揺らぎの描写を充実させることで、説得力のある時間の持続を成立させている。これは斉藤由貴という俳優の特性にもよるのだろうが、相米慎二としては珍しく、一人の人物を中心において、そこにぐっと寄っていく感じの演出になっている。

(斉藤由貴は、それまで相米慎二が仕事をしてきた俳優たちとはかなり違った感じなので、相米も、てこずったというか、戸惑いのようなものはあったのではないか。薬師丸ひろ子が、弾むゴムボールのように運動を外に向けて拡散させていく感じなのに対して、斉藤由貴は、ブラックホールのように視線を吸い寄せる感じ。)

それによって、初期の相米のもつイケイケで攻め込んでいく---唖然とするしかない---勢いと、晩年の相米の、じっくりと人物を描写していく感じとの両方が共存し、しかもその両者がしっかり噛み合っているという、相米としても希有な作品になっているのではないかと思った。北海道の風景の撮り方も素晴らしく、クラシックの香りさえするような、堂々とした作品にみえた。

ハンプティダンプティのようなレオナルド熊とか、宙づりにされる斉藤由貴とか、買い物ブギとか、この映画には初期相米ならではの驚くべき場面がたくさんあるのだが、なかでもとりわけ素晴らしいのが、桜のある公園で、斉藤由貴榎木孝明世良公則の三人がキャッチボールをする場面だろう。この場面は、映画というメディウムによってこの世界に出現し得た奇跡の一つだと思う。今回観て改めてすごいと思うのと同時に、若い頃の自分がこの場面が大好きで、この場面がすごいのはどうしてなのか、どうやったらこんなにことが出来るのかと、VHSのテープで何度も繰り返し観ていたことを思い出した。

2021-03-16

ウォルトンの「フィクション=ごっこ遊び」論が面白いのは、これを元に(ウォルトン自身の議論の展開から離れて)考えていくと、フィクションの作り手と受け手とを区別する必要がなくなるのではないかと思われるから。

作り手と受け手との違いは、ごっこ遊びに対する能動的な介入の「度合い」の違いにすぎないと考えられるようになる。作り手も受け手もどちらも、ごっこ遊びに参加するならば自身の身体をかけた能動的介入が必要だが、作り手はより多く積極的に能動的であり、受け手はより少なく消極的に能動的である。しかし、受け手であっても、ほとんど作り手と変わらないくらいの能動性でごっこ遊びに介入することも可能だろう。

たとえば、作り手は、ごっこ遊びの小道具とその用途を、未だ小道具とはなっていないこの世界にある様々なものの中から新に発見するが、受け手は、人形やミニカーなど、既にある程度用途が決まっており、用途の創造の自由度があまり高くない小道具を使ってごっこ遊びをする。比較的創造性の高い受け手ならば、ブロックや積み木など、既にあるとしても、用途の創造性の自由度が高い小道具を使うかもしれない。しかしいずれにしても、ごっこ遊びをするには身体をかけた能動的介入が必要であり、そこにあるのは本性の差異(不連続)ではなく、度合いの違い(連続)にすぎない。

ならば、本来フィクションには作り手と受け手との区別はなく、ただ、フィクションの立ち上がりがあるだけなのだ、と言えるかもしれない。

また、ウォルトンの「フィクション=ごっこ遊び」論ならば、音楽まで含めてフィクションとして考えることができるのではないか。

2021-03-15

●『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(大林宣彦)をU-NEXTで観た。最初の一時間くらいは、緩いし、ほんとにぐちゃぐちゃだなあと感じていたが、中盤に入ると急速に、反復強迫的な強度が高まって、逆に息苦しいくらいに求心的な感じすらしてくる。

この作品では、俳優の同一性が役柄の同一性を保証せず、つまり、一人の俳優が場面によって違う役として何度も登場する。傍観者として様々な時代(というか、様々な映画)を渡り歩く観客の側の登場人物が時代(映画)に合わせて役を変えるというだけでなく、各時代や場所の内部(各映画の内部)にいるはずの人々もまた、複数の時代(映画)を貫いて一人で様々な役をする。

(観客の側にいる三人の男性に、マリオ・バーヴァ、トリュフォードン・シーゲルという映画監督由来の役名がついているのが面白い。が、ここではあくまで監督の名をもつのは男性で、映画内部にいて様々に役を変えるのは主に女性---吉田玲、成海璃子山崎紘菜常盤貴子中江有里---だという点は指摘できる。笹野高史のような例外はいるが。)

(大林宣彦も、ジョン・フォードに似た男、ピアノを弾く老人、と二役で出ているが、ジョン・フォードに似た男は若い頃の大林の姿であり、過去に撮った映像を転用しているという点で、複数の役を演じている他の俳優たちとは異なる。)

つまり、観客あるいは監督(男)も、俳優(主に女)も、複数の時代(映画)を貫く存在であることになる。このことが意味するのは、この映画の地がリアリズムではないということだ。この映画の時間と空間は、はじめから見立てとして立ち上げられた時空であって、現実の時空を切り取ってモンタージュした「実写映画」の時空でもなく、虚構としての細部が精巧に作り込まれた世界でもなく、演劇のそれに近いと言える。だから、背景もCGも衣装も、いわゆる「現実らしさ」の精度は必要ではなく、ハリボテ的でかまわない。おそらく年齢制限を避けるためだと思われるが、裸の女性が出てくる場面では胸と股間がツルッと加工されていて気持ち悪いのだが、そういう細かいこともどうでもよい。切り株を熊と見立て、木の枝を銃と見立てるようなごっこ遊びの時空におけるリアリティは、切り株や木の枝が本物の熊や銃にどれだけ似ているかにはあまり関係がない。

この作品のリアリティを支えるのは、時代を変え場所を変え配役を変えながら、何度も何度も見立て直され演じ直される、その反復を促すオブセッショナルな力だろう。それはもはや歴史的な出来事としての個別の戦争を描く意思というより、ある状況下において発動され、繰り返されてしまう理不尽な暴力への怒りであり、そのような状況や権力関係に対する疑問や抵抗を不可能にしてしまう無知や情報統制への怒りであるように見える。暴力が繰り返されてしまうという事実が、そのような事実への怒りが、反復強迫的に繰り返し語り直されている。

戦争にかんする多くの情報が詰め込まれることで、お勉強とお説教という感じもあった『この空の花 -長岡花火物語』などと比べて、この作品では、描かれる個々の歴史的な出来事についての知識を伝えようという感じがほとんどない。この作品を観ることで得られる歴史的な事実にかんする知識はとても少ない。

暴力は繰り返されるが、暴力への怒りもまた繰り返され、暴力への怒りは、それを力として語り、語り直される「ごっこ遊び」の時空を媒介として消えることなく反復される。この作品がしているのは、そういうことではないか。

●あと、技術・支持体のレベルでは、デジタル技術がなければとうてい作れないような作品なのに、説話的なレベルでは、映画館、フィルムといったノスタルジックなメディアによって物語が統合されているというギャップが面白いと思った。ノスタルジックに映画を語るこの作品に、まるでスマホのスワイプのような場面転換が多用されている、とか。

2021-03-14

●引用、メモ。『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』(ニコラ・フルリー 松本卓也・訳)、第一章「哲学から精神分析へ」より

ラカンの論理学化。

精神分析にとって、真理は象徴と事実のあいだの一致とは関係がなく、真理は単に分節化の効果である、という点が本質的である。精神分析は患者のディスクールとしか関わらないのであって、鏡像理論の意味での真理とは何の関係もない。患者の言うことが実際に生じた事実を再現しているかどうかは重要ではないのである。初期フロイトは、分析のなかで患者によって語られる外傷を実際に生じたものと考えていたことが知られている。しかし後には、そうしたものはすべて幻想的なものであるということに彼は気がついた。それゆえ、精神分析家にとって、真理はシニフィアンの分節化の問題である。真理は患者のディスクールのうちにある固有の指示対象であり、治療の進行に応じて世界の事実とは独立に存在しうる。》

《(…)分析のなかでは、結果が原因に比例するような古典的な因果性は決して問題とならない。ほんの些細な原因が途方もない結果を生み出すこともしばしばである。分析における因果性は非線形的なものであり、それは構造論的なものである。その因果性においては、世界に対する私たちの関係を再配列するような移動が起こる。ほとんど知覚できないようなきっかけから生み出された真理の効果が、実際に主体の人生を大混乱に陥れることもある。そうした結果は、それを引きこした因果の連鎖を辿ることもできなかったとしても、たしかに現れることがある。最初の原因はほとんど無である。ときにそれは、分析家が発するひとつの語であったりする。》

《一五パズルと呼ばれるゲームのことを、誰もが知っているであろう。一六個の区画にわけられた枠のなかにも、小さな一五枚の駒が番号を振られて割り当てられており、一六個の区画のうちの一つには駒が欠けている。その駒をひとつずつずらして、いろいろな方向へと位置を変え、順序通りに並べることがこのゲームの目的である。私たちは、このゲームから何を学べるだろうか。ゲームを決定づけるのは、一五枚の駒それ自体ではない。正しい順序へと最終的に並べられることでもない。ひとつの欠如、すなわち「空白のマス目(…)」こそがゲームを決定づけているのである。》

《(…)あらゆる象徴秩序は、一貫性をたもつためにひとつの要素を締めださなければならない。この要素は、構造のなかに組み入れられながらも、構造を不完全にしてしまう。構造はそれ自体において閉じられず、つねに定員外の剰余を孕らんでおり、この剰余はは構造の外に残りながらも構造に属している。》

《(…)主体は構造に内包され、かつ同時に構造から除外される要素でありシニフィアンの戯れを可能にする「空白のマス目」である。この主体は、シニフィアンが相互に結び付き、それぞれが置き換えられ、複雑な組み合わせの関係をずらし、揺り動かすことを可能にする。この主体は構造の内部に戯れをもたらす。このように、主体は「内的な除外(…)」の状態にあり、主体には内部も外部もないのである。》

《(…)主体は言語の効果ではあるが、言語は鏡のような方法で主体を反射することはできず、いわば、主体を含むことができない。同じ考えから、主体は自分自身に属するものではないと言うこともできよう。つまり、主体は外-在(…)する(自分自身の外部に位置する)。》

●哲学から精神分析へ。

《(…)ラカンの思考を教養化しているとしてミレールを非難した人々は、〔その後の〕ミレールが六〇年代の若く熱狂的な哲学者のままでいたわけではないことを忘れている。ラカンの思考の一部を「論理学化」しようとしたのは、構造主義の「哲学者」としてのミレールである。彼はその後、哲学的ディスクールは行き詰まりでしかないと宣言し、精神分析へ転向することになる。哲学と精神分析はお互いに異質なディスクールである。それゆえ、哲学者でありながら精神分析家であることはできない。ミレールは、ひとたび精神分析ディスクールの側に移ると、ラカンには一切の教義が存在しないと語るようになる。「ラカンの理論は存在しない(…)」というのである。ラカンの一連の講義は体系をなすわけではなく、シリーズ(…)をなすのである。「ラカンの読解、それは体系を連続に置き換え、固定したものを疎通させること、得られた知識を確かめるのではなく、その代わりに前に進むことである。ラカンの読解、それは理論に対する経験の優位である」。》

構造主義を捨てることは、構造の重要性を忘れ去ることではない。構造は、人々が観察してはいるが理解されていない効果を説明するための方法である。構造は、決して理解されることのない分析的解釈が問題となるときに決定的な役割を果たす。実際には、解釈が諸々の効果を引き起こしたということを確認することしかできないのである。たがって構造は、何がある効果を引き起こしたかを理解することはできない、ということを理解させてくれるのである。これは結果が原因を、より合理的な原因をもっていないという意味ではない。構造は、「原因と理解できない結果の関係を因果性として位置づける。あたかも、構造とは理解が合理性の尺度ではないということを素雌ものであるかのようである」。この言葉から、ミレールがもはや自らを哲学者とみなしていないことが分かる。というのも、哲学とは、合理性を理解と結びつけることが際だって問題となるような場だからである。他方、精神分析は、まさに理解が問題とならない場であり、意味や意味作用に寄り添うことから離れることができなければならない場である。》

《(…)彼が精神分析のなかに見出すことになるのは、欲動と享楽である。もはや単にシニフィアンの理論だけが問われているのではなく、享楽の現実的なものとの対決が問われているのである。「哲学においては何世紀にもわたってただ一つの命令しかないとされており、それは真理を手に入れるためには享楽を犠牲にするほかない」ということである。精神分析にとって一貫してある唯一の実体は享楽であり、ミレールはもはやいかなる真理のためであっても享楽を犠牲にしないことを決意する。》

精神分析は他の何よりもそれぞれの症例の特異性(…)とうまくやっていかなければならないのであるが、反対に哲学は普遍的なものを目指す。精神分析に一貫した理論的コーパスが確かにあるとしても、優先されるのは常に臨床である。だからこの理論的コーパスは、象徴システムの再編成にしたがって文明が登場させる新しい臨床例に適合しながら、決定的に開かれたままのものでありつづけるのである。》

 

2021-03-13

●メモ。菊地成孔のリズム講義。つづけて聴くと面白い。話は、上から下へと順番につづいているが、まず「アフリカンポリリズムフラクタル構造」を最初に聴くと分かりやすいかも。

「リズムの微分積分

https://www.youtube.com/watch?v=XaJddz4STGE

菊地成孔】 ヒップホップのフロー(揺らぎ)が魅力的な理由

https://www.youtube.com/watch?v=vnH-nvJ0YKo

菊地成孔】 バックトラックに宿る訛り

https://www.youtube.com/watch?v=X2b9YQzx3bU

菊地成孔】 アフリカンポリリズムフラクタル構造

https://www.youtube.com/watch?v=WhqqiRum7BU

菊地成孔ジョン・コルトレーンの技術解説

https://www.youtube.com/watch?v=RTviEmiFK40

上の動画で話題になっている、発掘されたコルトレーンとモンクの演奏

Thelonious Monk quartet with John Coltrane at Carnegie hall full album

https://www.youtube.com/watch?v=dgq_QZ74VI0&t=0s

●上の動画で言われているのはあくまで概説で、実際に身につけるには鍛錬が必要。

菊地成孔 "ビュロー菊地チャンネル「モダンポリリズム講義 第11回モダンポリリズム 第11回

https://www.youtube.com/watch?v=SsUZErmf0Xw