2021-04-06

●『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』(細田守)を改めて観て、過去のぼくはこの作品に対して不当に冷淡だったかもしれないと反省した。かっちり構築されていて演出もキレキレでとても良い作品だった。『おジャ魔女どれみ ドッカ~ン!』の原田知世回もいまさらながら観て、良かった。それで思ったのだが(いちファンの勝手な妄想だが)、現在の、オリジナルの呪いにかかってしまっているような細田守が、改めて原作ものというか企画ものにチャレンジすることで仕切り直しするということは不可能なのだろうか。たとえば、橋本カツヨ名義で「新劇場版 シン・ウテナ」をやるとか。脚本や総監督は幾原邦彦に任せて、演出に専念するという形で。後ろ向きの企画にみえてしまうかもしれないが、「エヴァ」よりは「ウテナ」の方がアクチュアリティがあると思う。

(正直、予告映像を見る限りでは新作の『竜とそばかすの姫』も嫌な予感がする。そもそもタイトルからして「オリジナル劇場用アニメの呪い」の匂いがする。嫌な予感は外れて欲しいが…。)

●『ワンダーエッグ・プライオリティ』の四話と五話を観た。「さらざんまい」+「まどマギ」みたいな感じ。主要な登場人物が出そろって序盤は終了ということだろうか。おそらく五話は、今後さらにヘヴィーな展開の中盤へ突入する前の箸休めのような回なのだろう。作画と演出はとてもよいが、お話が、深刻な問題の表面だけを掬って寄せ集めたみたいで、なにも刺さってこないままするすると滑っていく(「深み」を感じないので考察を誘発しない)。嫌なもの見たさで観はじめたが、「嫌さ」にも届かない。ただ、わざわざ悪手にみえる手を打っておいて後でひっくり返そうという意図があるという可能性も、ないとはまだ言い切れない(内容が浅くて刺さらないからこそ、作画と演出の良さを無責任に楽しめるのだが)。

2021-04-05

●これ、なかなか良いのではないか。

VOCALOID/初音ミクphew「終曲」

https://www.youtube.com/watch?v=2O6hdz8PFW4

中学生の時に繰り返し聴いた(80年リリース)。

phew-終曲

https://www.youtube.com/watch?v=fCkoAOigoXY

ライブもあった。かっこいい。

Phew + 坂本龍一 :: 終曲(フィナレー)(Live)

https://www.youtube.com/watch?v=3JWlLDPn0RI

●3月22日の日記に書いたやつ。

https://twitter.com/aniota/status/1378353558366478344

2021-04-04

●久々に夢に祖父が出てきた。祖父が亡くなってもう三十年ちかい。亡くなってから十年くらいは頻繁に夢に出てきた。晩年の祖父は医者からタバコを禁じられていたが、トイレで隠れて吸っていた。隠れてと思っているのは祖父だけで、そのことを家族はみんな知っていて黙認していた(居間にかかっている賞状額の裏にタバコとライターを隠していた)。昔の実家には、和式便器のある個室と、立ってする男性用の小便器のある個室とふたつあって、男性用便器の個室には鍵がついていない。男性用個室には立ってするちょうど顔のあたりに換気用の小窓があってそこから庭が見える。夢のなかでトイレのドアを開けると祖父がいてタバコを吸っている。祖父は昔の人にしては体が大きくがっちりしていて、顔も大きくて怖い。無口な人だったということもあって、祖父の記憶はまずその身体的な存在感として立ち上がる。狭いトイレの個室がそれを際立たせる。祖父は「ばあちゃんには言うなよ」と言う。ぼくは、「おじいちゃんはまだ死んだことに気づいてなくてでてきちゃっているのだな」と思うのだが気をつかってしまってそのことを言い出せず、ただ祖父の言葉にうなずく。この「でてきちゃっている」という感じは、親しみでもあり恐怖でもあり気まずさでもある。この夢を何度も繰り返しみた。

今朝方みた夢はこれとは違った。ぼくはまだ子供かせいぜい十代で、昔の実家で一人で留守番をしていた。そこに幽霊のように祖父がいきなり現れた。幽霊といってもそこには強い実在感がある。夢のなかでも祖父は既に亡くなっており、だからぼくは「またでてきちゃったな」と思うが、それだけで、あとはただ「いるな」と思う。この夢は祖父が確かにそこにいるという存在感だけの夢だ。ただ、ぼくには祖父は本来ならばそこにいてはいけない人なのだという思いがあり、しかしそれを言い出せないという後ろめたさがある。しばらくすると祖父は用事があるといって出かけてゆく。入れ違うように家族が帰って来る(父とか母とかきょうだいとかではなく抽象的な「家族」だ)。家族は「またおじいちゃん来てたのか」と言う。なぜ分かるのかと問うと、ポストに伝言が入っていたと言って、なにか言葉が書かれた紙をみせられた。

2021-04-03

●改めて「カタストロフ」(町屋良平)を読み返すと、昨日書いたことはあまり正確ではなかったなと思った。最初からけっこう、「鳥井」の方が語り手側としての比重がかかっている。最初の場面も、最後まで通して読めば、まあ「鳥井」の側の出来事なのだろうという感じになる。

●以下に引用する部分などまさに「小説のなかで言葉としてバドミントンを実践している」と感じられるのだが、作者は実際どれくらい(あるいは、一体どのようにして、どのようなかたちで)競技としてのバドミントンを経験しているのだろうか。

(鳥井は試合中に後背筋を傷めた。)

《部活ではその鳥井の傷めかたを過去に経験していた菅が、いつもより広く動いてカバーした。典型的な片側スポーツであるバドミントンは、競技者ならたいてい利き腕側の肩から腰にかけての故障を経験している。極力うしろに下がらず、いつもより多くを菅に委ねざるを得ない鳥井。奇妙なことに、そのほうが勝てるのだった。菅サービスのラリーでも、三本目までを処理すると菅がタタッと後衛にいく。相手方も鳥井の故障は暗黙裡に了解しているのだが、開きなおって動く菅をかえって崩せない。ふしぎな経験だった。》

《鳥井は、自分の怪我のせいでいつもよりテンポの遅いバドミントンになっている、そのせいでとれているポイントが多いことに気がついた。バドミントンでは通常前衛と後衛を臨機応変にローテーションしていきポイントを重ねていくが、後衛でも主に必要とされるクリアやスマッシュが鳥井にはとくに痛い。怪我という状況においてふたりは役割を固定せざるをえず、かえって気楽になっている。鳥井の前衛はもともと良いので、前を警戒されて後衛の菅を左右に振る作戦を相手が選択しがちだが、ラケットワークこそ雑なものの左右のフットワークは速い菅のスマッシュの打点がいつもより高く、さらにコースもキレている。きわきわのオンラインというわけでもないが、センターにボディにシャープにと自在にきまっている。これくらいのテンポのほうが菅にはいいのだろうか? どんどん蒸しあがってゆく体育館のなかで汗だくで長いラリーをこなしかながら、鳥井は怪我をしていてもスポーツをやるよろこびをかんじていた。》

(鳥井の怪我は回復した。)

《(…)鳥井が動きすぎると、やはり菅のところで失点になる。菅に気持ちよく動かせると、菅のところで得点になる。鳥井にとってはフラストレーションだった。菅のラケットタッチがもっと精密になれば、もっと動けるし、点もとれるのに。しかしほんとうはそれがこのダブルスにとってプラスに働くのかはわからない。自分の攻撃力の弱さも鳥井はわかった。それでも、怪我をしてない以上フルで動きたい。》

《鳥井がショートサービスラインを割って下がると、菅の前がぽっかり空く。前後に入れ替わるタイミングが、どうしてもワンテンポ遅れる。その遅れをつく俊敏なダブルス相手でも、そこをつけない鈍感なダブルス相手でも、おなじように最終的には敗ける。リズムの崩れが全体に及ぼす範囲を、かれら自身がよく把握していないからだ。鳥井からすると菅の戦況を把握する五感の乏しさがその原因とおもっているのだが、鳥井の怪我を経験した菅は鳥井がセオリーに拘りすぎているとおもっていて、そのせいでどうしてもワンテンポ遅れてしまうのだった。鳥井の後背筋の怪我をより「経験」しているのは菅のほうだった。鳥井は怪我明けのいま、ただ前に自分に戻りたくて怪我を忘れたいとおもっている。うつくしいフォーメーションに拘っている。どちらのイメージがただしいと判断できないなか、こういうときにスコアや勝敗は正義をふりかざしすぎてむしろノイズになる。

「やっぱり前を重めに意識してくれよ」

菅が頼むようなかたちで、鳥井に提案する。

「……」

鳥井は沈黙した。そうして結局僅差でゲームをおとした。》

(次の引用部分は、鳥井が語っていると思っていると、いつの間にか語りが菅に移っていて、そのことに登場人物=鳥井がおどろく、と読める場面。)

《(…)怪我をする前は自分がよく動けてペアが得点できればなんだって、どうだっていいとおもっていた。菅の動きに全納感がもどる。なんだか、消極性の向こう側に自分があるみたいだった。高校生のころは、ひとの生き死にすら厭わないほどの戦争状態でワンプレーに臨んでいた。積極的に選ばなきゃいけないとおもっていた。このワンポイントをとれるかとれないかは、犠牲にした時間や選択の重さいかんで決まるとおもえたし、たとえば自分やパートナーの寿命を天秤にかけてマイナス一秒をさしだす、いつでもそうするつもりでいた。でも集中するとというこは、そんな精神主義で担保されるようなものではなかった。いまでも身体的にノリにノっている、若いペアのプレーをみていると、自分たちの世界こそが世界で、つつかれたらなんだって壊してしまえるよと、自分たち以外の世界は断固として認めないよと、「そんなこと選ぶまえに」そうしてしまえるとわかるプレーがある。でも、ふつうにしていても日常は壊れるためにあるものだし、選べないからこそ選ぶまえが暴力にひたっているのだと、ほんとはわかっていた。一秒後のことをだれも選べない。その当たり前の辛さから、逃げたくなる。スポーツとはその現場に立ちつづけることだ。一秒後に故障する、そうしっていれば戦争状態を解除してシャトルを追わなければよい。身体が傷むまえの想像力を、どう扱えばいいだろう? 世界レベルで勝ちつづけるペアってけっきょくそういう戦争っぽさがないんだよね、平和なんだよ、どれだけ追い詰められても、だから冷静でいられる、序盤も終盤もおなじようにたんたんととポイントをかさねていける、これがほんとだいじ。菅はいった。鳥井はぎょっとした。》

2021-04-02

●ぱらっとみた感じでは連作集であるらしい『ふたりでちょうど200%』(町屋良平)から、最初に収録されている「カタストロフ」を読んだ。

この作家の小説は、『坂下あたると、しじょうの宇宙』も『1R1分34秒』も、実践(描かれること)についての実践(書くこと)という側面が強く出ていて、それはこの「カタストロフ」も同じだった(この作品で「描かれること」の次元にある実践はバドミントン・ダブルスだ)。そしてまた、この作家の小説を読むのはとても難しい。『坂下あたる…』はおそらく、意図的に読みやすく書いているのだろうが、『1R1分34秒』もこの「カタストロフ」も、読む呼吸のようなものがなかなか掴みづらい。「カタストロフ」では、まず30ページくらいまで読み進んだところで、もう一度頭から読み直すことで、なんとか感じを掴んだ。そして、とてもゆっくりと読む必要がある。

二人の新入社員(男性)が書かれているのだけど、その各々の人物と「語り」との間にある距離感がとても掴みづらい。まず、冒頭に置かれた場面がふたりの人物(鳥井と管)のどちらについての場面なのか決定できないということがあるのだが、それはまあ理解可能な仕掛けであろう。ここで感じる「掴みづらさ」の大きな原因のひとつとして、どちらの人物が、語り手の側の近くにいて、どちらが語られる対象の側に遠のくのかが決定されていなくて、「鳥井」の方が語り手に近くて「管」はどちらかというと語られる側にある場合と、その関係が逆になる場合とが、その都度シーソーのように入れ替わり、また、その入れ替わりがひとつの段落のなかでも頻繁に行われたりするので、今、語られている事柄が「鳥井」についてのことなのか「管」についてのことなのか、少し気を抜くと分からなくなる、ということがある。

(途中まで読んで冒頭に戻ったのは、二人のキャラがどっちがどうなのか分からなくなったからということが大きい。)

ワンカットのうちで主客が入れ替わるようなこの感じを、他の小説ではあまり読んだ記憶がない。二人の主役が、どちらも語り手から等距離にあるというのでもなく、二人の人物が自他の区別無く未分化に溶け合っているというのでもない。常にどちらか一方が語り手の役割をとり、どちらか一方が対象となり、それがいつの間にか入れ替わってしまう。この感じが面白いのだが、おそらくこの感覚は、バドミントンのダブルスで、味方同士がコートのなかで役割を交代させる感覚と重ねられている。この小説の面白さは、ふたりの人物の関係を描くことと、その関係が主にバトミントンのダブルスの実践を通じて構築されることと、文章そのものの頻繁な主客交替という書かれ方との、すべてが密接に絡み合っているというところにあると思う。そしてこの感覚は、お互いに敵味方として対峙してラリーをしている感覚とはっきり違うという点がとても面白いのだ。ふたりは、一種の「見る(語る)/見られる(語られる)」関係にある「わたし」と「あなた」なのだが、それが対立的にあるのではなく、するするっと切れ目も抵抗もなく役割が入れ替わることで、未分化なひとつの塊の異なるふたつの側面が、局面局面でその都度別の顔を現わす、という感じになっている。

とはいえ、二人の関係が最後までずっと同等ということではない。ほとんど同等(同質ではない)だったふたりの関係が、ゆるやかに変化していって、同等性が壊れるというのが、この小説の流れであろう。「鳥井」と「管」は、小学生の頃のある記憶を共有し、同期で同じ会社に入社し、共に営業に配属され、週末は同じサークルでバドミントンのダブルスのペアを組んでいる。小説のなかでふたりは、どちらかが表ならもう一方は裏となり、表が裏返れば裏が表になるという風に共-存在している。だが「鳥井」はそれだけでなく、隔週でコンテンポラリーダンスのワークショップに通っている。ダンスする「鳥井」は表でも裏でもなく、独立存在している。

二人の関係の外にダンスレッスンという別の実践(からの視点)を潜在的にもっているため、「鳥井」の方が、わずかに語り手側への偏りが強いと言える。しかしこの偏りは当初はほとんど意識されなくて、進行するにつれて少しずつ「鳥井」の側に語りの主体の重心が傾いていくという感じになっている。エンタングルメント的なふたりの関係の絡み合いが決定的に崩壊するのは、合宿の試合で「管」が怪我をするという出来事によってだが、その予兆として、前の晩の呑みの席で一瞬だけ「管」がトイレにたつ場面が挙げられる。この小説ではここまでふたりは共にあって相手を対象としていたが、ここで「管」がいない場面が生まれてしまう。相互に相互の「語り手」であり「対象」であるこの小説で、この場面では「鳥井」が「純粋な話者」にきわめて近い位置に立つと言える。「鳥井」の視点が、「管」のいない場面を語るからだ。

これによって、ふたりは以前のような関係には戻れなくなる。そして「鳥井」の方に「語り」の重点がぐっと傾く。終盤に「鳥井」が、視点を共有するために「管」をダンスのワークショップに誘ったとしても、その視点はもうエンタングルメント状態にならない。

2021-04-01

東工大で文学の講義をします。第3クォーターなのでまだ先です(↓シラバス)。

http://www.ocw.titech.ac.jp/index.php?module=General&action=T0300&GakubuCD=7&KamokuCD=110100&KougiCD=202100885&Nendo=2021&lang=JA&vid=03

野島伸司が脚本を書いたアニメがあると知って「嫌なもの見たさ」でU-NEXTで『ワンダーエッグ・プライオリティ』をチラッと覗いてみようと思ったら、演出と作画がすばらしくてするするっと第三話まで観てしまった。最近ではアニメを観られなくなってしまっていて、トライしようとはするのだが一話さえも観終ることが出来ずに飽きてしまうということを繰り返していたので、とても意外なことだった。

シリーズアニメの三話分では序盤も滑り出しという段階なので、まだ内容にかんして特にこれといったことは言えないが、現時点での印象としては「底の浅めの幾原フォロワーアニメ」という感じだった。とはいえ、絵と演出がとてもよいのでもう少し続けて観るつもり。今後の展開で、絵と演出の心地よさと野島伸司的なヤダ味(宇多丸造語をはじめて使った)の、どちらが強く出てくるのかという点に関心をもった。

2021-03-31

NHKの「名盤ドキュメント」の「風街ろまん」(はっぴいえんど)の回がネットにあがっていた(おそらく違法アップロードだろうからリンクは貼らないが)。名盤と言われるレコードの原盤のマルチトラックテープを聴きながら、メンバーがレコーディング時のエピソードを話したり、他のミュージシャンがそのレコードの何がすごいかを話したりする番組。2014年放送。

はっぴいえんどは、作詞を担当する松本隆以外は、メンバー全員が曲をつくり、自分のつくった曲は自分が歌うというコンセプトだった、と。だけど、細野晴臣は、自分の声を上手く生かすような曲がなかなか作れなかった。もともと声が低いのに、無理して髙い声を出す曲をつくって、で、リハーサルをしてもどうも気に入らなかった。なのでどうしても、細野曲のレコーディングはスケジュールの後の方へ押しやられることになる(細野は途中で、自分と音域が近いジェイムス・テイラーを発見し、この感じでやればよいときっかけを掴んで曲をつくれるようになる)。細野曲で、はっぴいえんどの代表曲のひとつである「風をあつめて」は、スケジュールの終盤に録音された。しかも、レコーディテング当日になっても曲は完成してなくて、スタジオの隅でアコギで完成させ、一回も練習することなく録音した、と。番組は、この「風をあつめて」の部分のエピソードをクライマックスとして構成されている。

細野は、曲が完成していなかったので、スタジオにメンバー全員を呼ぶことが出来ず(曲想が定まっていないので呼んでも指示できない、と)、ただ松本隆一人だけを呼んで、ドラム以外の楽器はすべて細野が演奏して録音したと語る。しかしこれは、あくまで番組の表向きのストーリーだ。「風をあつめて」にかんするエピソードが語られる直前に、(基本的に、故人である大瀧詠一以外のメンバー全員が集まってトークしているのだが)松本隆が海辺で一人でインタビューを受けている映像が挿入される。そこで松本は(「花いちもんめ」の詞と絡めて)「細野さんと大瀧さんの仲が悪くなって困っている松本がいる」ということを言う。さらに、星野源へのインタビュー映像で星野が「この曲はクレジットをみるとドラム以外は全部細野さんが演奏してる」「実質的には細野さんのソロ曲」と言い、スタッフから「何故だと思います」と問われ「えっ、それ悲しい話ですか」と発言するところが(わざわざ)使われている。

(「風街ろまん」レコーディング時に既に、大瀧の大手レコード会社からのソロデビューが決まっていたことも示される。)

明示的には決して示されてはいないが、番組の構成の文脈を読めば、これは細野晴臣が意図的に大瀧詠一を呼ばなかった---積極的に「呼ばなかった」わけではないとしても、「できれば呼びたくない」という気持ちがあった---こともありえるようにもみえてしまう(少なくとも番組スタッフはそう匂わせようと構成している)。つまり細野は、この曲については大瀧の手を入れずに、隅々まで自分の思う通りにやりたかった、ということもありえるのではないかと、視聴者に思わせるようになっている。また、もし、細野にそのような意図はまったくなかったとしても、バンドの曲を自分たち抜きでレコーディングしてしまうことを大瀧詠一(と鈴木茂)は面白く思わないのではないかということに(松本隆はそこに巻き込まれて気の毒だ、とも)気づくようなつくりになっている。

(松本隆のみが、バンドのぎくしゃくした側面についてぽつりぽつり語るが、番組はそれを拾いつつも、メインの物語には組み込まない。しかしそれはただのノイズではなく、じわじわ効いてくる。)

一般的にバンド解散の理由としてよく言われる「音楽性の違い」が、二枚目にして歴史的な傑作といわれるこのアルバムをつくっている最中に既に、調整しがたいほどに露呈していたのではないかということを(明示的にではなく)暗に示すことを、この番組はしているようにみえる。ここで視聴者が持つのは(というか、ぼくがここに書いてきたような推測は)根拠のないたんなる「邪推」である。細野ファンならば「そんなはずはない」と激怒するかもしれない。そんな根拠のない邪推を誘うような「語り」は許されるのだろうか。しかし、はっぴいえんどがわずか三枚のアルバムで解散しているのは事実であるし、メンバーであった松本隆が細野と大瀧の不仲やバンド内のぎくしゃくした感じについて語っているのも事実だ。つまり、そこに齟齬や対立があることは「邪推」ではないだろう。それによって、この番組の(そうとは明示せずに匂わす)語りは、アンフェアな印象操作とまでは言えないものにギリギリ留まってはいると思う。

この手の番組にありがちな、分かりやすくきれいなお話だけで済ませるのではなく、細野と大瀧という二つの異なる才能が、ただわちゃわちゃ仲良しにしているだけなわけないでしょうということを、逆に「ことさら(弁証法的に)対立を強調する」という別の形の「わかりやすい話」に落とし込むのでもなく、いい話はいい話として成立させつつも、その裏に別の流れを感じさせるという両価的な形で示している。なにかその感じがちょっと面白かった、ということだけをさらっと書こうと思ったら(この「感じ」をできるだけ正確に書こうとしたら)、思いの外長くなってしまった。

これはあくまで番組の「裏読み」であって、表側のストーリーとして細野晴臣は「大瀧のポップなロックがはっぴいえんどの柱である」とか、「大瀧とは冗談ばかり言い合っていた」「笑ってばかりいた」とか発言している。