2021-04-13

●ある人の話を間接的に聞いた(面識はない)。六十代半ばの女性。その人は、小学校卒業後に地方の私立の女子大の中等部に入学し、そのまま高等部、大学とすすみ、卒業すると、母校の中等部・高等部の教師となり、定年までそこで教え続け、定年後も嘱託講師として母校で働き、昨年退職したというのだった。中学生の頃からずっと、50年以上も母校(女子校)に通いつづけて母校と共に生きた。そういう人生が本当にあるのだなあと、しみじみ思った。

2021-04-12

細田守の新作『竜とそばかすの姫』がちょっとだけ気になってきている。主人公は17歳の女子高生で、彼女はリアルな世界では田舎に住む引っ込み思案な少女だが、ネットの世界では世界が注目する歌姫である、という設定をみると、完全に「日本のオリジナル劇場用アニメの呪い」にがんじからめに縛られてしまっているように感じられるし、「そばかすの少女」というキャラ像もまた、なんとも古くさいもののように感じられる。ただ、予告編として公開されている映像のビジュアルを観ると、これはもしかするともしかするのではないかという期待が湧いてくる。インターネットというものをどのように映像として表現するのかということについて、今までの諸作品を大きく更新するようなものが、もしかしたら観られるのではないか、と。

『竜とそばかすの姫』予告1【2021年7月公開】

https://www.youtube.com/watch?v=hM8T-6OvWpo

細田守とインターネットと言えば、2000年の『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』と2009年の『サマーウォーズ』で、『サマーウォーズ』は「ぼくらのウォーゲーム」のリメイクだと言える。だけど、『サマーウォーズ』は改悪だとぼくは思う。『サマーウォーズ』の何が嫌かと言って、結局はすべてが、古くからの権力者の家系を継ぐ大家族内部の「ゴタゴタ」と「団結」と「コネ」に収束されてしまうところだ(対して、「ぼくらのウォーゲーム」にあるのは、顕在化されないところで生じる匿名の子供たちの連帯が世界を救う、という物語だろう)。世界を危機に陥れるのも(ゴタゴタ)、その危機を救うのも(団結とコネ)、どちらもこの家族に由来している家族内の出来事なのだ。主人公の男の子の特殊なスキルは、この旧家の権力にひたすら利用され搾取される。特に嫌なのが、大お婆さまみたいな人がもつ権力者へのコネが最後の決め手になるというところ。結局コネなの、と思ってシラケてしまう。なんでこんな嫌な物語を考えたのか、と。

(もしかすると大島渚の『儀式』に影響を受けたのかもしれないとも思う。だが、『儀式』には親族内に明確な立場の違いと権力闘争があり、権力者家族は一致団結などしないし、コネで解決ということもない。あるいは高橋洋の『狂気の海』でも、限られた狭い範囲の少人数での抗争が「世界の運命」に直結するのだが、ここにあるのは最もミニマルに縮減された諸権力間の抗争であって、絶対的な権力者集団による権力行使ではない。)

ただ「ぼくらのウォーゲーム」は確かによい作品だけど、この作品におけるインターネットの像は2000年前後くらいの楽観的で希望に満ちたもので、脅威としてイメージされているのは「Y2K」のような、システムそれ自体の暴走であって、現在問題となっているような人間的な側面(フェイクニュースや誹謗中傷の拡散など)については予感さえされていない。2000年の段階では、SNNというものを想像することさえできなかったし、ましてやその負の側面について考えることもできなかった。それに、ネットに接続している人の数や、その接続度合いも当時とは全然違っている(「ぼくらのウォーゲーム」の作中では、島根の田舎ではネットに繋げる環境を探すのが大変だったが、今では田舎でもみんなスマホを使っている)。

(それに、さすがに現在では、「顕在化されないところで生じる匿名の子供たちの連帯が世界を救う」という物語を素朴に信じることはできなくなっているだろう。ちょっと言い足りていないと思ったので追記。そのような希望を信じられなくなったというより、そのような希望を「インターネットの希望」として物語化することに説得力がなくなった、ということだろう。)

サマーウォーズ』の失敗を、もしかするとここで取り返してくれるかもしれない、本格的にアップデートされた2021年版「ぼくらのウォーゲーム」のすごいバージョンを観せてくれるのかもしれない、という期待が(少し)ある。

2021-04-11

●『生きるとか死ぬとか父親とか』第一話を観た。最近のドラマやアニメは(どうしても最初に「つかみ」をとる必要からか)一話目にがっつりと多くの要素を盛り込んでくる感じのものが多いと思うけど、これは、冒頭部分だけ「おっ」と思わせるが、それ以外は割とさらっとあっさり終わった(冒頭部分に山戸結希成分が濃縮されている)。何か重大な事件が起るより前の凪の部分、確かに曰くありげではあるけどあからさまな緊張や摩擦はまだみられない、不穏さや嵐の予兆は認められないがかといってまったく平穏というわけでもない、これといって際立つ動きはないけど波乱の種はまかれている、とった時間の流れで、これからつづく物語へ向けての、世界のゆったりとした立ち上がりという感じなのだろう。

(一話目の最大の引っかかりポイントは田中みな実のキャスティングではないか。まず、最初に示される後ろ姿と声で「もしかして、え、なぜ?」と思ったし、どうにもそぐわない感じだと思うのだが、この違和感が今後の展開でどのように効いてくるのだろうか。)

2021-04-10

●U-NEXTのラインナップに入ったので『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(黒沢清)を久々に観た。今観たら古びていて面白くなかったらどうしようと怖々観たのだけど、とても良かった。ぼくは基本的にこういうのが好きなのだということを改めて確認した。

リアルタイムで観た時はまだ若かったので(85年は高校生だった)あまりリアルに感じていなかったが、ある程度歳をとって改めて驚くべきことだと思うのは、初期の黒沢清の徹底した空気の読まなさだ。時代の空気とか、業界のなかでの自分の立ち位置とか、どの程度の逸脱ややんちゃなら商業映画として許容されるのかなど、一切考えていないようにみえて、ただ、自分がやるべきだと思ったことだけをやっている感じ。おそらくそれはすごく難しいことだ。やっていることすべてがすばらしいとは言えないとしても、一切の忖度なしにやり切っているということの強さが、この映画を今観てもなお面白いものにしているのではないか。黒沢清は自主映画出身の監督と言えると思うが、だとしても、長谷川和彦相米慎二の映画に助監督としてついていて、商業映画の現場を充分に知っているはずなのに、自分が商業映画を撮るとなると、そんなこと知りもしないかのように、平気でこんな映画をつくってしまう。あえて、挑発的にやっているということでさえなく、自分がやるなら当然こうやるしかないだろうという、ある意味で天然な感じでやっていたのではないか。

(もちろん、黒沢清は当時から既に一部の人々の間ではカリスマであり、蓮實重彦四方田犬彦伊丹十三など、少数だが「偉い人」たちから支持されているということはあっただろうが。)

(とはいえ、黒沢清の商業映画の最初の二本の空気の読まなさからくる「呪われっぷり」はすごい。最初の二本はピンク映画として製作された。当時のピンク映画は、エロ要素さえあればだいたい何をやっても許容されるという環境だったと思うのだが、そのような世界でさえ、一本目の『神田川淫乱戦争』は公開はされたが「黒沢に二本目はない」と言われたらしい---うろ憶えだが確か『ピンクリボン』でそう発言していたはず。二本目は、伊丹十三が主演する---当時の伊丹は黒沢の才能を高く買っていた---ということでにっかつロマンポルノの作品として企画が通ったが、完成前のラッシュの段階でにっかつ側が上映しないと判断してそのまま製作中断でお蔵入りになる。そのフィルムをディレクターズカンパニーが買い取って、追加撮影をして一般映画として編集したのが『ドレミファ娘の血は騒ぐ』だ。)

今回観直して、まずオープニングのカット割りの鮮やかさに驚いた。そしてこの映画の「若さ」を強く感じた。伊丹十三を除いて、出演者もスタッフも皆若いのだという感じがすごい。いわゆる従来通りの「プロ」を排除して「若いオレたち」がつくるんだ感に溢れている。だけど、この映画で最も印象的なのはやはりラストシーンだと思う。皆でピクニックに出かけた後に唐突に海のシーンに繋がり、軽快な音楽と共に楽観的な感じで終わるのかも思いきや(おそらく、にっかつ版ではそこで終わっていたと思われる)、あからさまな『ワン・プラス・ワン』の引用につづいて、登場人物たちが謎の戦場のような場にいきなり置かれる。半ば枯れた雑草の生い茂るだだっ広くて平坦な場所に、荒れた感じの乾いた銃声が続くなかを、登場人物たちが身をか屈めながらひたすら移動している様が、長回しのカメラによって捉えられる。

この場面の殺伐とした感じ。暴力的なのだが、もはや暴力を暴力として生々しく感じられなくなるくらいに(世界から半ば離脱したように)非人間化した視線から捉えられたように暴力。恐怖や痛みや快楽を惹起させない暴力性で、ひたすら荒涼として殺伐としてザラザラ粗いという感触。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』ではこの感触が最後に付け足しのようにしてあらわれるのだが、ぼくにとって作家としての黒沢清の固有性は、まずこのひたすら荒涼として殺伐として粗い感触だったのだ、ということを今回観直すことで思い出した。この感触は必ずしも作品の構築的に必要な要素としてあるのではなく、しばしばいきなり突出するようにあらわれる。

この感触はこれ以前の作品(たとえば8ミリ作品である『『School Days』』や『しがらみ学園』)からずっとあり、これ以降もあって、90年代終盤の「復讐シリーズ」や『蛇の道』、『蜘蛛の瞳』では特に強く前面に出てきていて、『アカルイミライ』くらいまでは濃厚にある。ただ、『ドッペルゲンガー』以降、この感じは少しずつ薄まって、最近の作品からはあまりみられないように思う。

2021-04-09

●この一年くらいで、家に帰るとまずは手洗いとうがいという習慣が無意識のレベルにまですり込まれたみたいで、帰宅してしばらくしてから、「ヤバい、手を洗ってないじゃん」と急いで手洗い場にたつと、手を洗うという行為に伴って記憶が意識化されて、「あ、もう洗ってたじゃん」となることがしばしばある。

●新タマネギを、ラップをかけて電子レンジで六分加熱するだけという料理動画をみて、やってみたらびっくりするほど美味しかった。

ニラを、火を通さずに、熱湯をかけて少ししんなりするくらいの状態で、醤油と白ダシをかけて卵黄をからませて食べる、というのも美味しかった。

●たいていの野菜は、適当な大きさに切って、塩こしょうをふり、レンジでチンしてオリーブオイルをかければ、それなりに食べられるモノになる(オリーブオイルの驚くべき汎用性)。

 

2021-04-08

●従来からある差別感情と、陰謀論に絡んだ被害妄想的な差別感情とは、別物として分けて考える必要があるのではないかと思う。従来の差別主義者は自分たちがマジョリティだと思っている(あるいは、マジョリティであるが故にマジョリティ=自然と思っていてマジョリティである自覚がない)。しかし陰謀論的差別主義者は、自分たちがマイノリティであり、不当に抑圧あるいは迫害されていると思っている。だから差別対象を攻撃することは正当なことだと思っている。

差別主義者は差別対象を見下しているが、陰謀論的差別主義者は差別対象を恐れている、のではないか。恐怖に支配されているからより攻撃的になる。

(たとえば「LGBTばかりになると足立区が滅ぶ」と言った足立区議は、「世界を滅ぼす勢力」としてLGBTを恐れているようにみえる。)

(おそらく正確には、本来ならばマジョリティであるはずの我々が、本来ならマイノリティであるはずの「奴ら」の陰謀によって本来の位置を奪われマイノリティに貶められている、という形になっているのだろうから、従来通りの差別感情が元にあり、それをもうひとひねりこじらせているということだろう。差別感情によって「誇り」が保たれ、もうひとひねりによって「現状の不遇感」が表現されていると思われる。)

ハンナ・アレントは、ユダヤ嫌悪と反ユダヤ主義はまったく別物だと言っている(らしい、孫引き)。ユダヤ嫌悪は従来からあるものだが、反ユダヤ主義は19世紀になって(帝国主義以降の世界状況のなかで)生まれた歴史的に新しいものだ、と。そして、全体主義ユダヤ嫌悪ではなく反ユダヤ主義を利用することによって拡大しえた、と。ユダヤへの差別の形が、なんとなく気にくわない異物という像から、撲滅すべき敵という像に構成され直した。

もちろん、従来の差別ならば容認できるということではない(むしろ従来からの差別が根深くあることが問題の根本なのだが)。しかしさらにもう一段危険なものとして、陰謀論的差別主義があるのではないか。陰謀論的差別主義においては、陰謀論という共通の物語によって立場や利害の異なる者たちの浅い結びつきによる連帯が容易であり、政治的な組織の拡大と結びつき易いように感じられる。全体主義は、人々の欲する「世界観」を与えることを通じて民衆を支配すると、アレントは言っている(らしい、孫引き)。

(全体主義は、圧政を通じてトップダウン的に強制させられるものではなく、世界観を欲する民衆による草の根的な「大衆運動」として広がるものだと、アレントは言っている、らしい、孫引き。)

2021-04-07

●これは前にも書いたことがあるかもしれないが。コロナ以降、いままでライブスペースでやっていたようなトークイベントが、有料、期間限定で配信されるようになった。有料で期間限定(期日を過ぎると観られなくなる)であることによって「ここだけの話」という閉鎖性をある程度確保しつつ、配信によって地理的な限定性がなくなる。こういうイベントは都市部でしか行われないが、配信であることで地方の人も観られるようになる。

ぼくは、たとえばロフト系列のスペースみたいな所に行ってイベントに参加するという習慣はなかったのだが、たまにロフトのサブカル系の配信イベントを観るようになった。正直、そこそこ面白いかなあ、というくらいなのだが、「閉鎖的な場だからこそ聞ける踏み込んだ話」にこそ宿る得意な感触というのは確かにあるのだなあとは思う。そういうものに触れることには意味があり、だから、頻繁に、ではないが、たまには課金して観る。

(閉鎖性があり、マイナーであることによって可能になる自由というものがある。陽の当たらない隅っここそが潜在性の育つ培地だ。そういうものは外に晒すと枯れてしまう。もちろん、外からの批判にさらされることのないそれが、悪の温床にならないという保証も、腐敗しないという保証もないが---オンラインサロンとか占い師や整体師とかボーイズクラブとかパワハラとかやりがい搾取とかネガティブな例は枚挙にいとまがない---そのような危険があるということもまた、そこにある自由と可能性のうちに含まれている。だからこそそのような場では、他者に対する「信頼性」がその成立の必須条件となる。この場にいる人はとりあえずは信頼できるという環境を成立させるための閉鎖性の重要さ。そのような場ではじめて可能になるような何か。だがその可能性はそのまま腐敗の危険に直に接してもいる。だから、腐らないように閉じる---閉じても腐らない---にはどうすればよいのか、というのは重要で切実な問いだと思う。)