2021-06-05

●お知らせ。先週は更新できませんでしたが、VECTIONによる権力分立についてのエッセイ、第3回目をアップしました。このあたりから、ちょっと面白くなりはじめているはず。

三権分立脆弱性を修正する(Part III, 1/2):「世界」の入った3レイヤーサイクル(Spotlight)

https://spotlight.soy/detail?article_id=8zqpnj4ht

Fixing Vulnerabilities in the Tripartite Separation of Powers (Part III, 1/2)(medium)

https://vection.medium.com/fixing-vulnerabilities-in-the-tripartite-separation-of-powers-part-iii-1-2-1a3561e81a89

VECTIONメンバー、西川アサキさんの個人としてのアカウントもあります。

https://spotlight.soy/bLb7kPck9DE9BZFy

https://asakin.medium.com/

●下の記事に出ている曲、全部好きだ(それにしても、一曲目に「Changes / STUTS feat. JJJ」をもってくるのか…、と)。

『大豆田とわ子と三人の元夫』でSTUTSを知った人でも聴きやすいラップ30曲(ハネムーン・マニア)

https://nobutraveljp.com/stuts_30/

このドラマの挿入曲を歌うグレッチェン・パーラトの2014年のニューヨークでのライブが、すごく好きだった(アルバム買った、確か坂中さんのブログで知った)。下の動画ではハービー・ハンコックの「バタフライ」をやっている。

Gretchen Parlato - Live in NYC: BUTTERFLY

https://www.youtube.com/watch?v=q5HS-5JL2rY

そして、この時のバンドでドラムを担当していたマーク・ジュリアナというドラマーが変態でとてもよいのだった。

Mark Guiliana drum solo

https://www.youtube.com/watch?v=3rqZFh8AXgI

●下の動画を、能町みね子の配信で知った。「重盛さと美feat.友達」はなんとなくぼんやり知ってたけど、その「友達」はこんな人だったのか…。二人は、普通に地元の友達とかなんだろうなと思わせるような(本当にそうなのかどうかは知らないが)設定にしてあって、そんな関係がにじみ出ているような作品になっているところに、重盛さと美の才能を感じる(それによってネタ的な消費となることを辛うじて免れている)。これもまた『岡崎に捧ぐ』的だと思う。

希帆feat.友達(重盛さと美) / uchiseiuchi 【Official Video】

https://www.youtube.com/watch?v=gU0Y8En1snU

●『佐々木、イン、マイマイン』は、『あのこは貴族』の水原希子スマホで再生される弟の結婚式の動画のなかにある世界なんだな、と思った。

2021-06-04

●『佐々木、イン、マイマイン』に引用されていたテネシー・ウィリアムズの戯曲「ロング・グッドバイ」(「現代演劇テキスト集」より)。オリジナルで「おふくろ」となっているところが、映画では、物語の内容に合わせて「おやじ」に書き換えられていた。

 

ジョー:(じっとそれを見つめて)あのベッドの上で、俺は生まれたんだ。

シルバ:おいおい、よく見ろよ、もうただの普通のベッドだ!

ジョー:マイラもあの上で生まれた……

三人、ベッドを置いて出ていく。

おふくろはあの上で死んだ。

シルバ:あっという間だったんだって? ふつう癌だったら、もっと長引いて、もっと苦しむところだけどな。

ジョー:自殺だったんだ。あの朝、ゴミ箱に空瓶を見つけた。……でも、あの人が恐かったのは、体の痛みじゃない。医者と病院の支払いだ。俺たちに保険だけは残そうとして……。

シルバ:知らなかった。

 

http://www.ilaboyou.jp/text/text_LongGB.html

 

この映画には、たとえば、冒頭近くの主人公と同棲相手の会話、「バッティングセンターに行きたいな」「飽きたのかと思ってた」「タイミングがなかっただけ…」からはじまる「バッティングセンターの主題」があって、この主題の様々な展開があった後、佐々木がホームラン王になっていた、という驚きの場面に着地する。このように、ちょっとやり過ぎかと思うくらい細部が綿密に作り込まれているのだけど、パッと見だと、熱と勢いで押し切っているような映画にもみえるという不思議さがある。

(昨日のくり返しになるが、この映画の「佐々木」は、特別な人物でもないし、ヤバい奴でもない。多少、生育環境に恵まれないところがあった、地方の普通の高校生でしかない。佐々木を何ら特別視していないところこそがこの映画の美点だと思う。普通の高校生である佐々木と、普通の高校生である主人公の、高校時代とその後の話であり、普通の高校生である佐々木が「父の死」という事態に直面した時に、普通の高校生でしかない主人公は何もすることができなかった、いやそもそも、自分は佐々木という身近にいた友人に対して普段から適切に接することが出来ていたのだろうか、佐々木に対する自分たちの態度はあれで正しかったのか、という疑問を主人公がもつ---佐々木を全裸に「させた」のは自分たちではないか---という話だと思う。高校時代から、物語の現在時まで、ノスタルジーとは無関係にずっと変わることなく主人公が持ち続けているのは、この「疑問」なのではないか。だからこそテネシー・ウィリアムズが引用される。重要なのは佐々木のエキセントリックさではなく、ただの佐々木の存在であり、佐々木との関係から浮上したこの「疑問」なのだと思う。)

(追記。高校時代、まともにバットにボールを当てることも出来なかった佐々木が、亡くなる直前には地元のバッティングセンターで月間ホームラン王になっていた。それはつまり、佐々木という人が、目標に向けてコツコツ努力するような、普通に真面目な人だったということを表しているだろう。そして同時に、高校時代の佐々木はキャラとしてその場だけで大げさに悔しがってみせていたのではなく、本当に、それを後々までひっぱるくらいに、打てないことが悔しかったのだということの表現でもあろう。だからこそ主人公は、自分たちの佐々木に対する態度こそが佐々木に---いかにも佐々木らしい佐々木として---「破天荒キャラ」を押しつけていた、とまでは言わないとしても、それを必要以上に「強化させて」しまっていたのではないかという疑問と罪悪感をもつのではないか。佐々木の佐々木らしさは、本当に彼自身からくるものだったのか。ごく普通の高校生である佐々木が「無理をしている」ことに気づけなかったということではないのか、と。)

2021-06-03

●U-NEXTで『佐々木、イン、マイマイン』(内山拓也)を観た。良かった。観はじめた当初は、正直これはキツいかも、と思った。ホモソ的な男の子ノリで、パッとしない現在と、輝かしかった高校の日々が対比され、そこに佐々木という、はやし立てるとすぐ全裸になるようなユニークな奴と、仲間たちがいた、みたいな映画だとしたら、最後まで観ることすら厳しいのではないかと危惧した。しかし、そういう映画ではなかった。いや、かなりの程度そういう映画かもしれないが、しかし重要なところで、そうではなかった。そういう危うさまで含めて、とても面白かった。そういう「良くない」ところに正面から突っ込んでいるのに、なぜかそうなっていないという不思議さが、この映画のユニークさではないか。

(観ている途中で、あ、これは『岡崎に捧ぐ』(山本さほ)なのか、だから嫌ではないのか、と思った。)

(とはいえ、ホモソ的なものに対する嫌悪が強い人なら、最初の20から30分くらいで観るのをやめてしまうかもしれない。ぼくも、主人公が同級生とたまたま再会して居酒屋に行き、そこで関係ない客とケンカを始めて、そのケンカによって気まずかった同級生との関係が良好になる、という場面で、これを観続けるのきっついわ、と思った。)

映画の冒頭で、無人の佐々木の部屋、喪服を着て葬式に向かう主人公、佐々木の部屋で佇む(最期の)佐々木、そして、葬式後に舞台に上がる主人公が示されて、そこから、佐々木コールをうけて佐々木が全裸になって盛り上がっている高校の教室へ繋がる(背景には、主人公が舞台上で喋るセリフが流れている)。そして、今、まさに舞台に上がろうとする主人公の背中のカットにタイトルがでる。この映画で示される(時系列的に)最も新しい時間が、「舞台に上がろうとする主人公」なので、この映画全体が回想によって成り立っているということが冒頭に示される。すべてがこの「舞台に上がろうとする時間」に集約される、と。この冒頭がまず「嫌な感じ」で、ああ、これからノスタルジックに過去が語られるのか、そしてそのノスタルジーの中心に「教室で自ら全裸になるような男」がいるのか、と、少しうんざりしてしまう。

で、まさにそういう映画なのだけど、そういう映画ではない。この映画の面白いところは、語りの形式としては、回想からさらなる回想へ遡行するという構造になっているのだが、しかし観ていると、(現在時からの)回想ではなく複数の時間が同時に自律的に存在しているという感じになっている。映画の始めの方で「佐々木」という人物が伝説の人物であるかのように語られている部分では、今にも「喪失してしまった過去へのノスタルジー」が発動しそうな嫌な感じがあるのだが、実際に「佐々木がいる時間」が現われると、その感じが少しずつ変わっていく。

ここで重要なのは、佐々木が、語られる人物なのではなく、佐々木自身として存在していること(実際に画面に現われる、という意味で)。しかしそれでも、その佐々木は、友人(主人公)の視点によって現われていること(二人の関係の固有性が刻まれていること)。この二点ではないか。現在の主人公が高校時代の佐々木を見ている(これだとノスタルジーになる)のではなく、あくまで、高校時代の主人公が高校時代の佐々木を見ている。そして、「高校時代の主人公が高校時代の佐々木を見ている」という時間が、そのまま現在の主人公のなかに生きている。もっと言えば、現在の主人公と高校時代の佐々木との関係が描かれるのではなく、「現在の主人公」と「高校時代の主人公と佐々木の関係」の関係が、この映画の構造によって浮かび上がる。

この映画が『岡崎に捧ぐ』を想い起こさせるのは、まずは佐々木が(岡崎と同様に)ネグレクトされた子供であるということからくるのだが、それだけでなく、ここで描かれる佐々木が、友人の視点を通して現われる人物であり、主人公と佐々木との関係こそが描かれていること、そしてその佐々木が、伝説の人物としてでも、特別にユニークな人物としてでもなく、たんに一人の友人としての固有性において捉えられているという点だと思う。こんなに面白い(変な、困った)奴がいた、ではなく、たんに、こんな奴がいた、と。こんな奴がいた、こんな奴を見ているオレがいた、「こんな奴を見ているオレ」は今のオレのなかにもある。このような構造が、「あの変な奴がいたあの頃」というノスタルジーの発動を抑制し、それによって佐々木という人物を魅力的にしているのだと思う(ネタとして面白い奴ではなく、たんに人としてリアルである人物、という意味で)。

とはいえこの映画は、「佐々木が既に死んでいる」こと、つまり、佐々木の生の時間が完結していて、これ以上の新たな展開がなく、主人公が佐々木の存在を遡行的に掴むことが出来る位置にいることで成立しているという側面もあるだろうとは思う(その点では『岡崎に捧ぐ』とは異なる)。

(この映画が、ノスタルジックになりがちな語りの構造をもちながら、それを逃れ得ているのは、実在した人物がモデルとなっていること、その人物が演じている俳優の友人という関係にあること、という理由もあるのではないか。これは『岡崎に捧ぐ』と共通する。)

2021-06-02

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第八話。ずっとアンチ恋愛ドラマだったこの作品だが、ここでベタに恋愛ドラマ展開になる。これが、複数の可能性が並立するパラレルワールド的世界から、排他的な決定論的世界へと移行したということの意味なのだろう。松たか子が恋愛モードになったのは、第一話で斎藤工と出会った時以来のことだろう。恋愛モードに入るということは、排他的なモードになるということで、松田龍平が「ちょっと会えないか」と電話してきた時に、松田の様子を気にかけながらも、「二人で同じ気持ちになるだけだと思う」と言って断るところにそれが端的に表れている(たとえば、谷中敦に酷い言われ方をした時などに、松田に会いに行ってずいぶん救われたというようなことがあったにもかかわらず…)。

それと呼応して、三人が横並びになって(信号色の三色のシャツを着ていたりして)仲良くわちゃわちゃやっていた元夫たちの立ち位置も変わってくる。松田龍平は、市川実日子を亡くした傷が癒えることなく一人で徘徊することが多くなるし、一方、岡田将生は、松たか子に対して積極的に強いアプローチをかけるようになる。角田晃広の存在はドラマの前面からやや後退し、岡田の言ったことをリピートする面白おじさんみたいな役割りになっている。

(岡田と角田は、せっかく誘われているに---ハンカチにばかりこだわって---カレーを食べないし、部屋じゅう探し回るのにバルコニーを探さない、と、大事なところで外すのだ。)

ベタな恋愛ドラマ展開であるのと同時に、メタ恋愛ドラマ展開でもある。女性に慣れていないオダギリジョーに、(本当に存在するのかどうか分からない「お嬢さん」との)デートでの会話を松たか子が指南することを通じて、二人が親しくなっていくという展開はベタだが、松たか子オダギリジョーに教えた言葉を、オダギリジョー松たか子にほぼそのまま返すことで、松たか子がキュンキュンするという構図になっていて、これはつまり、自分が言って欲しいと思っていることが、そのまま相手から返ってきているのだから、自作自演に近いと言える(これは、瀧内公美角田晃広が、台本の読み合わせを通じて親しくなっていった過程---あらかじめ書かれた、自分のためにあるのではない言葉に、それを模倣するように後から「感情」がのっていくという意味で---とちょっとだけ似ているとも言える)。本当に天然なのか、完璧に演じているのか、どちらか分からないのだが、とにかく、ここでオダギリジョー松たか子の欲望を(絶妙に遅延させつつ)忠実に映す鏡のような存在になっている。不在の「お嬢さん」を媒介とすることで、オダギリジョー松たか子の欲望を引き出し、それを自分で忠実に演じる。

オダギリジョー松たか子が鏡像のような関係にあるということは、二人が共に強い「呪い」に拘束されているということからも言える。オダギリジョーは、社長からの呪いにかかっていて、松たか子は、社長の座に留まることへの呪いにかかっている。オダギリジョーは「介護」によって支配された状態(の後の虚脱状態)から、社長によって救われるのだが、それは「彼を支配するもの」が介護から社長に移動しただけということだろう。つまり、彼の人生はいまでも奪われ続けている。彼が、数学なんて生きる上では役に立たないと言う時、それは、数学を志すことが出来ず、思うようにならなかった自分の人生に対する無念さと諦観とを含んだ苦いアイロニーだととるべきだろう。

だが、オダギリジョーの呪いは、松たか子という存在によって割とあっさり解除される。

(松たか子のカレーは、オダギリジョーとの出会いによって生まれたと言えるのだから、オダギリジョーは、自分が与えたものを返されることを通じて「呪い」を解かれる、とも言える。)

では、松たか子の呪いはどうか。彼女の呪いは複合的なものだと言える。彼女が、自分でも向いていないと思う社長の座にこだわるのは、(1)市川実日子との約束、(2)社員の雇用を守るため、(3)職人たちが質の高い建築をつくっている今の「しろくまハウジング」という場を「良いもの」と考えているので、その「良い状態」を守るため、であろう。おそらく、(1)の呪いにかんしては、(「私」の)オダギリジョーとの出会いによってほぼ解消されていると考えていいのではないか。しかし、(2)と(3)にかんしては、まさに(「公」の)オダギリジョーがいるからこそ、社長の座を譲れないのだ。逆に言えば、「公」のオダギリジョーが消えてくれれば「呪い」も消えるので、こちらもオダギリジョーしだいとも言える。

松たか子が自宅へ持ち帰った仕事の合間に観て癒やされていたのは、イームズハウス(イームズの自邸)の写真だった。第三話に社長の席で観ていたザハ・ハディッドのヘイダル・アリエフ・センターとうってかわってモダニズムの有名な住宅建築。三話の時は、確か大学の図書館だったと思うけど、公共建築を若手のホープのような人が設計する話だったから公共建築の写真を観ていたのだろう。今回は、住宅を請け負う会社としてのアイデンティティが問われている局面なので(自宅のリビングでもあるし)、住宅建築の写真を観ているのだろう。それと、リビングの棚に妙な絵が立てかけてあったのだが、あれは前からあっただろうか(おじさんの顔と女性の裸が二重写しになっている、マグリットではなく赤塚不二夫風の絵)。

オダギリジョーがうっかり自分の過去を喋ってしまった「心を許しかけていた」同僚の人、(背中のカットも含めて2カット映るだけにもかかわらず強く印象に残る)絶妙に嫌な表情をしていて素晴らしいのだけど、この人どこかで観たことがある(それも一度きりではなく何度も)と思って記憶の闇に潜っていって、チェルフィッチュによく出ていた足立智充という俳優だったと思い当たった。最近観たのは『王国(あるいはその家について)』と『きみの鳥はうたえる』で、どちらの映画でも「嫌な感じ」がとても素晴しかった。

「勉強やめた」問題が言及されることはもうないのだろうか。経済的にも余裕があり、親が毒親というわけでもなく理解があって、本人も頭がいいという子供が、いきなり「勉強やめた」と言い出すということは、かなり大きなことだと思うのだが、ちょっとした反抗期みたいなものだったのだろうか。

オートチューンフェチで、男性ボーカルにオートチューンがかかっているとそれだけで「おおっ」と反応してしまうのだが、今回のエンディングはとてもよいオートチューン具合だった。

(追記。オダギリジョーはどこか、松田龍平と通じ合う感じがある。受動的で、相手の---松たか子の---欲望・要望をそのまま受け入れる。実際、二人は出会って---ぶつかって---いるし、松たか子の部屋で松田龍平だけはオダギリジョーを見ている。そして、三人の元夫は、みな眼鏡が共通してるが、オダギリと松田とは「ヒゲ」で繋がっている。)

2021-06-01

●『現実界に向かって』(ニコラ・フルリー)、第四章「現実界に向かって」を読んだ。いわゆる、フロイト-ラカン的な精神分析に対して、そこから「折り返してきた」かのような、晩年のラカンによる「サントームに至る逆方向の分析」について書かれる。ここで書かれたような「最晩年のラカン」まで含めて精神分析をみないと、その重要性をみることも、それへの批判もできないように思った。サントームの例としてしばしば『フィネガンズ・ウェイク』が挙げられることについて、この本ではじめて腑に落ちた感じがした。以下、引用、メモ。

●意味と現実界を結びつける「症状」、享楽のモードとしての身体、分析の果てにあらわれる「意味のない暗号(症状)=サントーム」

想像界は意味の領域に属するあらゆるものであり、象徴界は構造であり、現実界はこの二つの秩序から逃れるあらゆるものである。象徴システムのなかでは、現実界は理解することもつかむこともできない。現実界はみせかけのほうに逃れるのであり、だからこそ現実界に訴えることが必要なのである。(…)現実界に焦点を当てることによって、後期ラカンがそうしたように、享楽するものとしての身体を前面に押し出すことへ向かうことになる。これは思考の歴史のなかでは前代未聞の実体を導入することに等しい。その実体とは、哲学が思考しないものであり、精神分析に固有のもの、すなわち享楽である。》

《もし現実界が意味を完全に除外したとしても、それでもなおひとつの例外がある。それは症状である。「症状は、現実界において意味を持ちつづけるまさに唯一のものである」。現在に至るまでみせかけとともに〔分析〕作業を行ってきた分析家は、現実界を再び見出さなければならない。そして、現実界に到達することは、症状によって可能になるのである。このパースペクティブでは、症状は現実界における知の欠如を補填するものであると言えよう。身体に対するシニフィアンの影響力を理解させてくれるのは、非常に個別的な症状である。症状は、主体がもつもっとも現実的なものとなり、その固有の享楽するモードとなる。症状は、つねに偶然的で危険な出会いによって構成されうるものでしかない。「各々にとって、ひとつの出会いがある。その出会いは諸々の存在との出会いであったり、語との出会い、あるいは結びつきとの出会いであったりする。これが、享楽するモードを条件づけているのである」。》

《症状はすぐれて身体に関連する局面、つまり純粋な享楽の側面をもっている。「意味の生産者としての言語のメカニズムにはもはや重要性は与えられない。しかし、それ以来、無頭なもの、意味の外部のものとしての欲動が強調される」。(…)ラカン言語学的な構造主義は、いずれにせよ放棄されている。お互いに引き離されていた症状とファンタスムは、両者が結合したものへと移行する。〔症状とファンタスムの〕二元論から、〔症状=サントームの〕一元論への移行がなされるのである。症状は、シニフィカシオンの主な支えであったが、他方でファンタスムは満足に関係していたことが思い出される。しかし今となっては、シニフィカシオンそのもののなかで満足をつかむことが問題となっている。》

《「(…)享楽は身体を通過するものであり、それは形式としての身体、あるいはむしろ様式(…)としての身体、生のモードとしての身体なしには考えられない」。なぜ症状が「身体の出来事」として定義されるのかを理解することができるだろう。(…)というのも、症状はもはや解読されるべき隠喩ではないからである。「身体の出来事」としての症状は、享楽に関係している。そして、この享楽は意味の外部の現実界であり、それはシニフィアンの構造それ自体から逃れさるものなのである。》

《ふつう「症状」と呼ばれているものは無意識の形成物であり、徹頭徹尾シニフィアン的なものである。ミレールが私たちに言うところによれば、ラカンが「サントーム(…)」と書くようになるのは、無意識の形成物ではなく、現実界に向かって方向付けられた最後の時点における症状の残余物である。サントームは、もはやいかなる暗号化された意味作用も包み隠してはおらず、もはや無頭の享楽するモードにほかならない。それは分析の果てに、最後になって現れる症状である。それは治らないものであり、現実界を内包するものである。》

●分析の終わり、残余、サントーム

《症状は、たしかに象徴的な側面を含んでおり、ある部分では暗号化されたメッセージをもってはいる。しかし、他方では症状は、それ自体では意味をもたない享楽の側面をもっているのである。そこには一つの現実界が、意味の外側にある何ものかが存在する。これこそがラカンが話存在(…)と呼ぶことによって完成させたものである。》

シニフィアンに対してシニフィエや意味が与えられるためには、これまで見てきたように、私たちが属する共同体によって与えられる同意が必要なのだから、象徴秩序のなかではすべてはみせかけである。(…)すべての真理は虚構の構造をもっており、語の単純な使用法によって現実的な参照点に到達することは私たちには不可能である。こういった語は、つねにある意味から他の意味へと横滑りする。しかし、現実的無意識に向かう方向のなかでは、これとはまったく異なることが問題となる。意味を離脱したシニフィアン、何も意味しないにもかかわらず、私たちの享楽の領域に属する何かを、現実界の領域に属する何かを固定させてくれるような語を見出すことが問題となるのである。》

精神分析家の主な機能が解釈であることは変わらない。解釈は、疑いようもなく、分析家の欲望を構成するものである。象徴的な無意識、つまり言語のように構造化され、その固有の論理をもつ無意識は、分析主体の知らない知を運搬していることが重要であった。(…)この観点からは、無意識は外部の場において先取りされているシニフィアンから構成されるディスクール、つまり家族や社会の空気の語らい(ディスクール)である。このシニフィアンの貯蔵庫は、つねに大他者からやってくるものであるが、無意識が必然的に形作る場でもある。》

《このような構造にもとづく解釈では、意味が注入されている。そして、無限に解釈を続けることができるゆえに究極的な意味は存在しないことと同様に、決定的な真理がもつ何らかの価値を定めることはできない。可能な意味の複数性が存在するときには、真であるものは存在しないのである。》

《ポスト解釈的である時代には、症状の解読を目指して作業することはもはや重要ではない。それは、あらゆる解読は、また新たな暗号化にほかならず、そこには無限退行が生じるからである。むしろ、ファンタスムと、症状が含んでいる意味の外部にある還元不可能な享楽の要素を考慮にいれることが重要なのである。このようにして、症状からサントームへと移行することが可能になる。》

《分析主体は、自分の症状の謎に直面した際に、はからずも意味を醸成させる傾向をもっているが、そういった分析主体の傾向とは反対に進むのである。そうしなければ、最終的にはその解読作業を享楽することになるのが常であり、道を誤り、終わりなき分析に至ってしまう。むしろ、症状がもつ満足の側面を強調するのと同時に、ファンタスムと享楽についてファンタスムが担っている部分を強調しなければならない。ここにファンタスムと症状の結合、欲望と享楽の結合が見出される。ここには新しい結び目があり、それはまさにサントームと名付けられている。「主体のなかのサントームを目指す実践は、無意識のように解釈しない(…)」。》

●解釈の新しいモダリティ 『フィネガンズ・ウェイク

《(…)解釈の新しいモダリティを切り出すための一歩が踏み出されている。「そのモダリティは、快原則に奉仕するようには解釈しない」つまり、享楽のためのものなのである。その解釈は、主体の分割ではなく「困惑」へと〔主体を〕連れていく。切断の実践は、句読点を打つ実践と比べて、非意味論的(…)であり、語ることのなかで享楽されているものに直接的に触れるのである。分析家が支持する無意識の解釈〔=逆方向の解釈〕は、享楽を、享楽が身につけているシニフィアン連鎖から根本的に分離することを可能しなければならないのである。》

《このようにしてミレールは、ラカンがなぜジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を参照したのかを説明する。それは「〔『フィネガンズ・ウェイク』〕がパロールエクリチュールの関係、音と意味との関係を絶えず享楽するテクストであり、圧縮と曖昧さと同音異義語で織りなされたテクストであるにもかかわらず、古臭い無意識とは何の関係もないからである。シニフィアンシニフィエの結合は、このテクストではすべて無効なものとされている。だからこそ、このテクストは解釈を誘発することはないし、たとえ超人的な努力がなされたとしても翻訳を誘発することないからである。このテクストはそれ自体が解釈ではない。そしてこのテキストは、読解の主体を見事なまでに困惑へと至らしめるのである」。(…)それは、もはやいかなる可能な意味ももたないシニフィアンであり、まさに特異的な主体に固有の享楽するモードを凝縮しているシニフィアンである。私たちは意味と意味作用の周辺を捨て去ったのである。》

2021-05-31

●U-NEXTで『あのこは貴族』(岨手由貴子)を観た。確かに、ここまで明示的に「階級」を描いた物語は他にあまりないかもしれない。ここで面白いのは、二つの階級がたんに対比されるのではなく、かといって交流が起るわけでもなく、「接点」が描かれているところだと思った。

あきらかに「階級」の異なる水原希子高良健吾の接点となる場が「大学」と「夜の店」だというのも面白い。この二つの場は、普段なら決して交わることのない異なる階級に属する人たちの接点となり得る場だと指摘しているかのようだ。とはいえそれは接点に過ぎず、交流が起ることは稀であろう(水原希子は一回のお茶に平気で五千円払える同級生とは付き合えないし、夜の店には客とホステスという立場の違いがある)。だからこそ、水原希子高良健吾の間に何かしら「通じるもの」があったことは極めて貴重なことだろう。しかしそれでも、二人の(プライベートな)関係は、階級差があるため、それが(社会的に)定着するための場(形式)が存在しない。つまり持続可能性が低く、不安定なものとならざるを得ない。

(とはいえ、二人の関係は不定期ながら十年くらいは続き、水原希子高良健吾を、この十年で最も親しかった友人、というようなことを言う。)

階級が描かれるとは言っても、ある階級を代表するような人物が描かれるのではなく、むしろ所属階級から浮いてしまうような人が描かれる。一方に門脇麦石橋静河の階級があり、もう一方に水原希子山下リオの階級がある。

裕福ではない地方出身の女性である水原希子は、自身がその内にいる環境から抜け出すために、必死で勉強して東京の大学に入る。彼女はこの時点で「脱出」にある程度は成功しているわけだが、親の経済的な事情から退学せざるを得なくなる(階級による引き戻し)。とはいえ水原希子は働いて東京に居続けているので、地元・地縁の重力からは逃れ得ている。山下リオは大学を卒業できるが、地元に戻って「地元では有名な企業」に就職する。だがそれは彼女にとって良い場所ではないらしく、独立して起業を考えているところで水原と再会する。

門脇麦は東京出身であるが故に「上京する」ことで家・地縁から逃れるという手法が成立しない。東京生まれだからこそ東京(山の手)に閉じ込められる。東京の「いい家」の子が家・地縁から逃れるためには、石橋静河がそうしているように海外を拠点とするなど、階級ネットワークと別のネットワークのなかに居場所を見つける手立てを考える必要がある。門脇麦は、「東京のいい家」の家族関係のなかで居心地が悪そうではあるが、そこから積極的に抜け出そうとはせず、階級ネットワークの規則に従って結婚相手を探すことに(消極的に)同意する。門脇麦には、石橋静河にとってのバイオリンのような、階級ネットワークから抜け出すための武器がないため、そこから抜け出し得ると想像することもないのだと思われる。

門脇麦水原希子という交わらない二つの階級に二度の接点が訪れる。一度目の接点により水原希子高良健吾を失い、二度目の接点は門脇麦高良健吾と別れるきっかけとなる(おそらく、「別れることも考え得る」という可能性に気づく)。逆から見れば、一度目で高良健吾水原希子を失い、二度目で高良健吾門脇麦を失う。

最初、高良健吾は、特権階級のイケメン男性で、「この世の美味しいところは全部俺様がいただく」的な人物に見えるのだが、最後までいくと、階級ネットワークのなかに最も強く縛られて身動きがとれない不自由な人だと思えてくる。映画の終盤になると彼は常に疲労し切った様子だ。養分として東京に搾取されまくっていると言う(これは確かに事実だろう)、地方出身の女性である水原希子山下リオと、まさに彼女たちを養分として吸い上げる特権階級男性の高良健吾と、どちらがより自由(能動性が高い)と言えるのかよく分からない。

水原希子にとって「大学に行く」ことは、地縁・階級ネットワークからの切断の契機となるが、高良健吾にとって「大学」は階級ネットワークの内部組織でしかない。水原希子は、地縁・階級ネットワークから離れた東京で、友人である山下リオと起業することができる。勿論、それもまたより大きなネットワークのなかで(高良健吾的な高い階級の人たちに)搾取されているだけだと言うこともできる。しかし少なくとも信用できる友人と共に生きることができる。高良健吾は、結婚のために希有な「友人」であった水原希子を失う。

門脇麦は、ただそれが階級内ルールだという理由で、義務として押しつけられるように結婚相手を探していたのだが、高良健吾と「出会う」ことでその意味が変化し、結婚が積極的な行為となる(「いい人を見つける」から「好き」に変化する)。門脇麦はおそらく、高良健吾と自分の関係のなかに、階級内ルールとは別のもの、個と個としての出会いをみていた。しかし高良健吾にとってそれは、階級内ルールの忠実な執行に過ぎなかった。門脇麦は幻影をみていたわけだが、しかしその幻影こそが、彼女に「階級ルールの外にあるもの」を意識させたのではないか。一度の幻影をみることなくルールに従って結婚していたら、自らの意思で離婚を選択するということを考えることもなかったのではないか。勿論、自分の「腕」によって自律している友人、石橋静河の存在も大きいだろう。

(高良健吾はおそらく、「幻影」を一度もみることができなかった人なのではないか。)

(追記。ただ、ラストシーンがちょっとよく分からなかった。最後に、門脇麦高良健吾が偶然再会して、石橋静河がコンサートをしている空間を挟んで、微妙な距離で見つめ合う。これが、二人の出会い直しの可能性を示唆するものなのか、それとも、二人の関係が修復不可能であることを示すためにわざわざ---距離を介して---再会させたのか、あるいは、どちらの可能性もある---未来は確定されていない---ことを示すオープンエンド的なものなのか、よく分からないし、そのどれであったとしても、この映画のラストとしてそれはふさわしいのだろうか、と、疑問に思った。いきなり一年後に石橋静河のマネージャーをやっているというところに飛ぶ前に、離婚後の門脇麦を示すシーンが一つでいいから欲しい感じがした(説明しすぎか…)。あるいは逆に、水原希子山下リオのシーンで終わってもよかったかも(これでは説明不足か…)。いや、ポンと一年後に飛ぶというのはいいとしても、ラストに門脇麦高良健吾が再会する必然性がわからないというか、二人の再会で物語を閉じることに対して、どうにもしっくりこない感じをもった。あるいは、わざわざ再会させるなら、見つめ合うだけでなく、もう一歩踏み込んだところまで描いてから終わって欲しいという物足りなさを感じるのかもしれない。)

2021-05-30

●お知らせ。朝日新聞の下の記事で取材を受けました。

(扉)シュレーディンガーの猫、エンタメ彩る ありえた世界は「今を変える希望」

https://www.asahi.com/articles/DA3S14921894.html

●「多量の文章を読み込んで少なくない量のテキストを書く」ミッションを、なんとかやり終えることが出来た。明日、宅急便に持っていってもらえば、6月1日の締め切りに間に合う。解放感から、夜中に唐突に本の整理をしはじめる。

(自分の書いたテキストをプリントアウトしてみると、思っていたよりも量が多かった。でもこれは数人しか読まない。)