2021-09-10

●9月30日までの限定公開のYouTube動画で、絵恋ちゃん(「ちゃん」まで含めて固有名)のライブ映像(はじめから終わりまで、まるまる)をはじめて観た。

【期間限定公開】絵恋ちゃんバースデーライブ2019『生まれてきたのが気まずい』

https://www.youtube.com/watch?v=8elDrjBfkCM&t=1023s

絵恋ちゃんは、ぼくが知る限りでアイドルのなかでもっともおもしろい人の一人だとずっと思っていた。ただどうしても、曲がいまひとつ好みではないとも思っていた。だが、ライブのパフォーマンスがとてもすばらしかったので、「曲の好みでなさ」が大きく後退した(あまり気にならなくなった)。

地下アイドルであることの良さを最大限に発揮したライブパフォーマンスで、それはつまり、観客の数や会場の規模が大きくなった場合にはこの「良さ」の多くが消えてしまうだろうということだ。だが逆からいえば、地下アイドルという規模でなくては経験できないもの(小さな規模だからこそ実現される貴重なもの)がここにはあるということだろう。

●昔からブルーハーツを素直には受け入れられない。今では、昔、嫌いだった時とは違って、そこにかけがえのない良さがあるということは(ある程度は)理解できていると思う。ただ、ぼくのなかではブルーハーツは素直には響かない。しかし、あきらかにブルーハーツのパロディである「就職しないとナイト」には大きく揺さぶられる。それには、アイドルという存在のもつ媒介性が大きくかかわっていると思う。

就職しないとナイト (絵恋ちゃん)

https://www.youtube.com/watch?v=-pctduU0XPE

この曲は、この曲で歌われているような人々の心の声を、アイドルが代弁して歌っているのではない。アイドルは、彼らを上から見下し、罵倒するような位置に立って歌っている。しかしここにあるのはガチな罵倒ではなく、罵倒や見下しは(親愛の情のようなものをこめて)「演じられた」ものだ。アイドルとオタク(仮に、この曲で歌われているような人たちとする)との間には、穏やかな、ヌルいとさえ言っていいような共犯関係があることが「信仰」されている。アイドルはオタクを傷つけないし、オタクもアイドルを傷つけない(と、信じ得る空気が存在しているという仮定が前提とされる)。その上で、アイドルはあくまでも「上」に存在し、下々のオタクを罵倒し、踏みつけるサディスティックな女王なる(とはいえ、アイドル自身がヴァルネラブルな存在であることも明らかだ)。

演じられた空間で、アイドルはオタクたちに共感しているのではなく、上から目線で「お前たちはドブネズミ以下だ」と「客観的な事実」を突きつける役回りにある。オタクたちは、アイドルが告げる残酷な真実を自虐的に受け入れる。それはたとえ「残酷な事実」だとしても、アイドルという女神から与えられた神託であり、そうである限りその事実を喜びとして受け入れることができる(残酷な現実を耐え得るものとする)。だからこれは、革命の歌でもプロテストの歌でもなく、現状肯定の歌であり、残酷な現実を受け入た上て、その場所で生きるための歌だ。

ただ、これらはすべて演じられているのだし、演じられていると「自覚」されたものである。アイドルは、パフォーマンスの質によってオタクを魅了しつつ、この祝祭がフィクションであり偽物であることを随所に匂わせる。アイドルのパフォーマンスそのものが、高度に偽物性を帯びたものだ。アイドルは女神ではなく、アイドルとオタクとの共犯関係の了解のなかで「女神の役を演じる」者だということがその両者に前提として了解されている(そのことはアイドルのアイドル性を少しも毀損しない、それは共犯関係であってメタアイドル的なアイドル批判ではない)。そんななかで「お前たちはドブネズミ以下だ」という宣言は、この偽物の祝祭の外からやってくる、現実的で社会的な評価であろう。その評価は、この「偽物の祝祭」が終わった後に、オタクやアイドルを待ち受けているものだ(アイドルもまた「地下アイドル」でしかない)。

この祝祭が偽物であり、(アイドルとオタクの間に確かにあると幻想されている)共犯関係によってその幻が実現しているに過ぎないのだとしても、それによって発生する「楽しさ」が十分に強いものであり、そこにあると幻想される共犯関係のありようが、現実の社会的な関係よりもリアルでずっと貴重なものだと信じられるのであれば、その外にある現実からやってくる「お前たちはドブネズミ以下だ」とする評価を「客観的事実」として受け入れながらも、そのように評価する「現実の(社会の)評価基準」そのものを信用ならない、とるに足らないものだと「評価」し返すことができる。評価は甘んじて受けるが、それはたかだか社会的な評価でしかない、と、思い返す力となる。

ライブ会場で発生する充実した「楽しさ」の質が、「現実の評価基準」を相対化し得るほどの強さをもった時、つかの間だけ虚実は反転する。それは現実を変えないが、「現実の評価基準」への追随や盲従を抑制するだろう。ドブネズミ以下だという評価を受け入れたとしても、それによって自分を責めたり、傷つけたりする必要はない、と。客観的事実の受け入れと、現実的な評価基準の相対化とが同時に起きる時、その間にあるわずかな隙間に、社会的客観性とは別の、非社会的で現実的な(虚構的な、ではない)生の場があることを知ることになる。

(これはあくまで、「非社会的な現実の生」であって、現在の社会では我々はドブネズミ以下とされるが、本来あるべき社会では優れた存在として処遇されるはずだ、という政治的幻想へ向かうものではない。)

自虐しつつも、自分を貶める社会的な基準をも同時に貶める。フロイト的なヒューモアに通じるこの感覚は、「就職しないとナイト」の《運に才能ありません》のところの「ありません」というシャウト(演じられた偽のシャウト)が見事に表現していると思う。偽物であるからこそ、こそにかけがえの無さが宿る。

ただこの時、ドブネズミ以下でしかない「わたしたち」が、(とても強力に作用する)社会的な基準を貶めることのできる根拠は、(普遍的な理念や超越的な信仰ではなく)いまここで発生している楽しさであり、その楽しさを支えている、小さくて壊れやすい共犯関係(の幻想)でしかないので、それはとても危ういものだ。そもそもドブネズミ以下であることを受け入れた以上、垂直的(超越的)は信仰は望めない。

とはいえ、というか、だからこそ、ドブネズミ以下である「わたしたち」がこの現世を生きるためにその「危ういもの」が必要であれば、その「小さなもの」の維持のための努力やメンテナンスはとても貴重でかけがえのない仕事だろうと思う。

(おそらく、この貴重なものは、ある程度以上大きくなると、社会的なものに巻き取られてアジール性を失い、壊れてしまう。その、非社会的な小さなものは、「社会の中」で実現され、維持されなければならない。小さいものを小さいままで---拡大もさせず、消滅もさせずに---維持するのはとても難しい。)

2021-09-09

●いまさらだが、ようやくスマホにかえた。ガラケーのサービスが来年の三月で終わってしまうことと、ずっと使ってたガラケーが物理的に崩壊しつつあって、これはさすがに限界だと思ったため。周辺の細かいところから部品や塗装が剥落しはじめ、いまや本体全体としてもその形を危うくもかろうじて保てているという風情で、外に持ち歩くことはかなり前からできなくなっている(最近、写真を撮っていないのはそのためだ)。ずっと部屋の中で充電器に差されっぱなしで、メールを受信できる家電となっていた(ガラケー以外に携帯できる時計を持っていないので、ずっと外では時計なしだった)。

契約を続行すれば初期費用なしで使える機種で、スマホとしてはローエンドのものと言えると思うが、ちょっといじってみて驚いたのが、音声認識の精度の高さだ。話したことがほぼ正確に、そのままテキスト化される。カメラによるテキストのスキャンも正確で、本をカメラで撮るとそのままテキスト化される。ずっとガラケーだったので、浦島太郎的に当たり前のことで驚いているだけかもしれないが、音声認識、画像認識、そして(スマホなしでも知っていたが)自動翻訳の精度の向上の速さは驚くべきものがあると思った。

(ただ、ジェイン・ボウルズの「ジェ」が、いろんな言い方でやってみても、どうしても「ゼ」と認識されてしまう。ぼくの発音の問題かもしれないが。さらにしつこく繰り返していると「ゼイン」から「全員」になり、果てには「ジェインボウルズ」が「レインボーローズ」と変換された。何度も同じ音が入力されるのは、発話者が満足していないということだと認識するのだろうが、その反省による改良の結果、さらに要求から離れていてくということが起こる。これは人間間でも起こることかもしれない。ジェイムス・ジョイスの「ジェ」はいけるので、固有名の聞き取りは有名度に左右されるのだろう。これは人間の認識も同じだ。)

(カメラは、好みからするとレンズが---標準でも---広角すぎて、しかも、広角、標準、二倍、五倍と、四種類しかなく、なめらかにズームできないので、フレーミングがかなり不自由だ。前のガラケーカメラはなめらかにズームできたのだったが。二倍、五倍はデジタルズームなので絵が粗くなる。画質はガラケーよりも断然よいといえるが、これではどう使ったらいいのかと戸惑う感じだ。)

2021-09-08

●小説の原稿の校正。ここまでこぎ着ければ掲載されるでしょう。来月発売予定の雑誌に載るはず。小説を発表できるのは8年ぶりか9年ぶりくらい。前に発表した四つの短編群のつづき(というか、それぞれ自律しているがシリーズとして同じ)で、今回も原稿用紙換算で三十数枚の短いものです。

この小説には「ペル」という固有名を刻みたかった。子供の頃に家で飼っていた犬だが、記憶は茫洋としている。ただ、ペルがいなくなった(死んだ)ときにすごく悲しかったというのが、最も古い記憶の一つで、生まれて初めて感じた強い悲しみだったかもしれない(悲しみというより「理不尽だ」という感情に近かったと思う)。

そのペルのこと(ベルを失った悲しみのことではない)と、昔から近所にあって、長い間荒れ果てたまま放置されていた、古くて立派な日本家屋のある広い敷地(子供の頃はちゃんと人が住んでいたはずだが、いつの間にか荒れ果てていて、いつから荒れ果てたのか憶えていない)が、ある日とつぜん更地になっていた、ということについて書いた(「ついて」というか、それらがモチーフとなった)。気持ちをできる限り素直に表現しようとした結果として、まったく素直ではない形式の小説になっています。

2021-09-07

●『ロル・V・シュタインの歓喜』についてのテキスト(『現実的なものの歓待』第2章)で春木奈美子は、語り手であるジャック・ホールドのロルに対する欲望に「治療者の欲望」を見出し、それは「共感的理解の逆接的不寛容」であり、その治療は「表象空間に人間の生を閉じこめる」ことになると批判的に書いている。実際、小説を読むと、終盤のジャックとロルによるT・ビーチへの再訪とその夜の二人の接触からは、かなり強く「治療」めいたニュアンスが感じられるし、二人が結ばれた翌朝、《彼女はマイケル・リチャードソンについて、彼女の気の向くことについて私になんでも言える》ようになっていると書かれるロルは、あたかもトラウマを克服して治癒したかのようだ。そして小説の最後の場面、森のホテルの裏のライ麦畑でロルは、もはやホテルの部屋でのジャックとタチアナの逢瀬を見守る必要などなくなったかのように眠っている。

無理矢理に小説の終わりとして据わりのよいオチをつけたかのようなこのラストが、この小説の最も弱い部分であるようにみえる。「ジャックによって触れられるタチアナの肉体」の位置の自分の存在(と存在の欠如)を見出すことで「自分」を確保していたロルは、(タチアナに触れる者であるはずの)ジャックから触れられることで、《自分をタチアナ・カルルとロル・V・シュタインという二つの名前で呼ぶ》という錯乱=歓喜を迎える。その錯乱の後に、そんなに穏やかな「正気」に着地できる(治療が完了する)とは考えにくく、ロル(でありタチアナでもある「存在」)は、さらに深い混乱と困難に直面するのではないかと思われる。だから、このラストに現れているのは「話者」としてのジャックの欲望であり、このラストのあり方はロルという存在を、了解可能な意味・因果にどじ込めていると言える。逆にいえば、ジッャクという話者によってでは、このようにしか物語は語れないということだろう。

この物語はジャック・ホールドによって語られ、ジッャクの欲望に従って組み立てられている。ロルが、「ジャックとタチアナの肉体関係」をその外側から見ることによって「ロル自身の存在(の欠如)」を到来させるのと同様に、ジャックもまた、「ロルと(語られる「彼」である)ジャック自身との愛の関係」を、その外側から(語る「私」として)見ている(下図)。

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どちらも、自分(の分身)と自分の欲望の対象との関係を、その関係の外に立って見ているという点で相似的であり、対称的であろう(自分が、見られる・語られる=オブジェクトレベルと、見る・語る=メタレベルのどちらにも存在する)。だが、ロルが、ジャックとタチアナ(=ロル)との関係に見出しているものと、ジャック(私)が、ロルとジッャク(彼)との関係(を語ること)に見出しているものは異なっている。

春木奈美子は、ジッャクは「欲望しうる対象を欲望する主体」であるのに対して、ロルは「欲望しえない対象---存在そのもの---を欲望する主体」であるとする。ジャックは、ホテルの窓から見た「ロルの姿」によってもたらされた不安を、《ロルもまたこちらを見ているはずだ》と思うこと(「ロルからの視線」へと還元すること)で解消する。名前のない不安にロルと名付けること(意味の体系のうちに位置づけること)によって蓋をして、意味に結びつけられたロルを欲望する。ここでジャックはラカンが「宮廷愛」と名付ける愛の形式を生きる。ジャックは、「無理難題を課してくる非人称的で、共感不可能な女」=貴婦人としてロルを対象化する。この時、ロルは、不条理(無意味・存在の欠如)のいっさいを引き受けてくれる謎として存在し、謎は、不条理を表現すると同時にそれを隠蔽する。ジャックは、ロルという謎を欲望し、謎に奉仕している限り、不条理(存在の欠如)と直面するのを避けることができる。

ジャックは、治療者としてロルという謎を解こう(治療しよう)とする。謎を解くとは、ロルという存在を意味の体系のうちに再構成するということであり、そのような欲望のなかでこの物語(ジッャクとロルの愛の関係)が組み立てられる(ジャックは語り手となる)。

対して、ロルが「ジッャクとタチアナの関係」に見いだしているのは、謎でもその解決でもない。ロル→「ジッャク→タチアナ」という構造が表現するのは、「ロルの存在(の欠如)」という事実そのものであって、その意味や隠喩ではない。構造と事実とは、謎とその解読(=意味)によって結びついているのではなく「直接的」に繋がっている(おそらくこれはラカンが「結び目」と言っているものだ)。ロル→「ジャック→タチアナ」という構造は、ロル→「マイケル→アンヌ=マリ」という出来事と直接的に響き合うことでそれを表現し、それをやり直す。そしておそらく、ロル→「マイケル→アンヌ=マリ」という出来事もまたオリジナルな出来事ではなく、別の出来事の反復として、それと直接的に響き合うものとして到来したのだろう(少なくともタチアナはそのように感じている)。

つまり、ロルは「意味」の次元で生きてはいない。ジャックから「何を望んでいるのか」と問われたロルは、「ただ望むの」と答える。このやりとりは「意味」としては成立していない(意味がない)。ロルは意味を望んでいるのではなく、唐突に「それ」と響き合ってしまう(未だ到来していない、あるいは決して到来することのない)未知の何かを、その具体像を全くもつことないまま、ただ望んでいるのだろう。

しかし、このようなロルのありようを、ロル自身の存在の形式に従って、その内側から「語る」ことは困難だ。それはほとんど支離滅裂なものにしかならないだろう。だからこの物語には、登場人物たちの関係に偶発的に巻き込まれたに過ぎない存在である、ジャックという(凡庸な欲望を持つ)語り手が必要だったのではないか(ジャックはたまたまタチアナの愛人であったことで、ロルによる「愛の関係」に巻き込まれる)。作家自身が狂気に陥ってしまわないためにも。しかしこの「ジャックの語り」として組み立てられた小説には、ジャックの視点に還元出来ないものが確かに含まれている。

2021-09-06

●『ロル・V・シュタインの歓喜』(マルグリット・デュラス)という小説の全体としての形は、下の図のようになっていると言えるだろう。ロルが、ジャックによって服を脱がされ裸にされたタチアナの肉体の位置に、自分の存在を確保する場所を見出す。ロルは、空である自身の存在を、ジャックによって見られ、触れられたタチアナという、自分の外側に見出すことで自分を保つ。だが、小説の最後でジャックと結ばれることで、ロルは、ロルでもありタチアナでもある者とならざるを得ず、錯乱(歓喜)する。

そして、そのようなロルを(ロルの物語を)、その外側からジャックが語っている。ここで、ジャックがロルについて語ることになる(ジャックがロルに強く惹かれることになる)起点としてあることがらが、ジャックが、タチアナと密会するホテルの窓から、ホテルの裏にあるライ麦畑に横たわるロルを目撃したという出来事だ。ジャックは、ロルから見られているのを、見る(逆向きの赤い矢印)。その時にジャックはロルという存在に把捉され、彼女を愛し、彼女について語らざるを得なくなる。

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上の図では、一方的に見られ、触れられ、利用されるだけに見えるタチアナだが、そもそもこの物語の発端となるT・ビーチでの出来事を(その時のロルを)見ているのはタチアナだけである。T・ビーチで、ロルが、マイケルによって裸にされたアンヌ=マリの肉体の位置に、自分の存在するための場所を見出すことに失敗した(見出し損なった)、という出来事が、ロルを狂気に追い込み、後のそれをジッャクとの関係において反復させる。そしてこの起源ともいえる出来事を語ることができるのは、その時、ロルの傍らにいて、ずっと彼女の手を擦っていたというタチアナだけなのだ(下の図)。

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タチアナの視点を取り入れ、上の二つ図を合成すると、下のような図になるだろう。小説の語り手はジャックだが、この物語はジャックのみでは語り得ず、(T海岸の場面に限らず)タチアナの視点が必須であり、タチアナの視点は潜在的に常に利いていると考えるべきだろう。一見タチアナは、何も知らされないまま、ロルとジャックのための疑似餌として利用されるだけのようにも感じられるが、(ジャックがタチアナから聞いた話として、ジャックの視点に還元することのできない)タチアナ視点の独自性が随所で機能している。ジャックが、語る者(私)であると同時に語られる者(彼)であるのと同様に、タチアナは、ロル(ロル+ジャック)から見られる者であると同時に、ロルを見る者でもある。

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(この物語の起点が、物語を構成する三つの視点にとって三者三葉なのが興味ぶかい。ロルにとっては、T・ビーチの出来事が物語のはじまりだが、ジッャクにとっては、ホテルの窓からロルを見つけた場面こそが物語のはじまりであり、それ以前の物語は遡行的に補完されたものだ。そして、タチアナが言うには、ロルの狂気の起源はT・ビーチの事件では決してなく、それより前、学生時代から既に予兆はあったとされる。)

(ロルはすべての人に見られている。T・ビーチの事件はS・タラでもT・ビーチでも知られているし、ロルがその事件の被害者(?)であることも、みんなが知っている。だから、ロルが匿名的存在としてSタラを散歩したり、T・ビーチに再来したりしても、みんな彼女を見ているし、彼女がロルであることを知っている。自分が誰なのかわからないのは、彼女自身だけだとも言える。)

2021-09-05

●『現実的なものの歓待』(春木奈美子)に書かれているデュラス『ロル・V・シュタインの歓喜』の分析がとてもおもしろい。以下、同書の第2章「女たちの余白に」第1節「デュラスの描くふたりの女」から引用。

(「苦悩」を表象---意味や理解可能な因果---に閉じこめてしまうような態度を「共感的理解の逆接的不寛容」と呼ぶなど、まさに「精神分析的な文体」だ、と思いながら読んだ。)

《ロルの最初の「事件」を「原因」と見立て、その後の展開を必然的な「結果」とみるホールドは、心的因果性の構築を目論む治療者の欲望を表している。必然性を症状や狂気の説明原理として取り込もうとする試みは、必然性によって偶然性を囲い込むこと、すなわち不可解な〈他者〉性の排除に他ならない。このように治療者側の持ち前の論理に従う「治療」は、言語との出会いで生じた「疎外」の事実に立ち向かわせることはなく、治療者の知によって患者の起源の事実への書き込みを行うことになる。それは、意味に回収されえない領域を無きものとして「いまここでの」表象空間に人間を閉じこめることを意味する。そうした理解のうちにすべてを回収するような行為は、治療とは言えない。こうしたアプローチがいう「語り」とは、いわば余白を許さない社会的ディスクールであり、まさにそのような不寛容なディスクールの余白に、精神分析ディスクールは位置する。それは共感的理解の逆接的不寛容によっては、もはや支えられない主体へ、いわば「到達せぬ苦悩」を抱く主体へと宛てられている。》

《「到達せぬ苦悩」とは、決して不可知論やイデアリズムに肩入れするための文句ではない。存在に必然性を与えてくれるように幻想させる言語との関係の残余として、言語を超えようとする欲望があり、失敗を繰り返しながらも、そのような欲望をあきらめない、そのような態度を言うのである。「到達する」と言うなら、言語を超えようとする欲望が言語そのものに導かれていることになり、また本人にとって「苦悩」でないのなら、その時点ですでに幻想に荷担していると言えよう。意味が常に存在を構成するのではない。存在は、時に意味に先行し、時に意味に後続する。この意味で、わたしたちは、意味とは一致せず、むしろその不一致に留まる限りでの、言い換えれば、己のなかの〈他者〉へと無限にさらされている限りでの、存在であると言える。現前する他者との共有ではなく、己に内在する〈他者〉との分有のうちにある意味は、常に捉えきれない不確実性に留まる。この欠如は、否定的なものに聞こえるかもしれないが、人間の本質とも言えるだろう。》

精神分析的なディスクールで「言語」と言うとき、それはふつうに言語という語がもつより意味が広くて、可変的(代替可能)な記号・表象・意味が成立するためにその背後で働いているシステム、というくらいの意味にとった方がいいと思われる。道具を使う動物は人間以外にもいるが、道具をつくるための道具を使うのは人間だけだ、同様に、言語的なコミュニケーションを行う動物は人間以外にもいるが、言語についての言語(再帰的なメタ言語)を使えるのは人間だけだ、と酒井邦嘉が言っているが、そのような可変的で再帰的な記号を使えること(たとえば、同じ映像がモンタージュによって異なる意味になる、置かれた伏線の意味がその後の展開によって変化する、というような「操作」が可能であること)、そのようなシステムの内に置かれてあることが「言語」と呼ばれているのだと思われる。

(以前は、象徴界は言語で、想像界はイメージだ、みたいに説明されることが多かったが、今では、象徴界は構造で、想像界は意味だ、と説明されることが多いようだ。精神分析で言う「言語」は、意味を成立させている---ファルス関数的な---構造、という感じだと思われる。)

2021-09-04

Aphex Twinの「Nanou 2」という曲とは奇妙な出会い方をしていて(厳密には出会いではなく、再会であり、再-出会いなのだが)、その事情は2018年5月5日のこの日記に書いた(この日が、再-出会いの日だ)。

偽日記 2018-05-05

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20180505

で、この日以降も、というか、この日以来ますます、この曲が頭のなかで響くことが多くある。頭のなかで完璧に再現できているというわけではないが、この曲っぽい響きというか、この曲の響きの「印象」のようなものが、頭のなかに突然ふわっと現われるということが、割とある。

かといって、Aphex Twinのファンになるわけでも、「Drukqs」という、この曲が収録されたアルバムの他の曲を聴き込んだりすることもなく(というか、このアルバムを通して聴いたことすらない)、ただ「この曲」にのみ執着があるようだ。

「Nanou 2」という曲は、Aphex Twinのなかで特に有名曲というわけでもないようだが(Aphex Twinについて詳しくないのでそこもよく分かっていないが)、この曲を、ハープを用いて演奏している動画をたまたま見つけたので、このような日記を書いた。2001年に発表された曲だが、ハープ演奏の動画は、今年投稿されたものだった(Tamara Youngさんには下の動画以外にもAphex Twinのカヴァー動画がある)。

Aphex Twin- Nanou 2

https://www.youtube.com/watch?v=3uhTwxqE4Co

Aphex Twin - Nanou2 - Harp cover by Tamara Young

《Been overwhelmed by the response I have been getting from my little videos and have been wanting to cover this for a while and had a few request so gave it a go. I tried to do the best version I could suitable for the harp . Main issues were with all the bass notes rattling and also cutting through, this piece really uses opposite ends of the spectrum! and trying to keep the resonance without making massive noises dampening.... no sustain pedal built on the harp unfortunately ! I hope the beautiful simplicity of this piece still comes through though :)》

https://www.youtube.com/watch?v=RuC2kYMVLI4

●下の動画も、今年投稿されたもの。こういうのをつくってもらえると、曲の構造が分かって楽しい。

Nanou2 midi piano tutorial

《made with piano from above, couldn't find it anywhere so went to the effort of posting myself.enjoy》

https://www.youtube.com/watch?v=4F2vZCy4BaM