2021-10-16

●「東京画」(保坂和志)の舞台となる土地は小説では「××町」と伏せて書かれている。だがその位置は、部屋を借りようとする主人公に不動産屋が「人によっては車の音が気になるかもしれない」というので、《ここにくる少し前に遊歩道が環七の下をくぐるトンネルのようになっているところを抜けてきたから、環七に面しているのだったらなかわないと思いそれを訊くと、不動産屋は環七ではないという》という記述があって、そこから指定可能だ。玉川上水遊歩道が環七とぶつかった先には京王線代田橋駅があるので、この小説の舞台は代田橋駅周辺ということになる。

小説には、この周辺が八十年代後半の不動産投機の騒ぎから取り残されていること、全体から「うらぶれている」という印象をもつこと、とはいえ、そのような土地でさえ時代の変化には逆らえないことなどが書かれるが、それはあくまで1988年から90年の代田橋であり、新宿からも渋谷からも近く、下北沢まで歩いて15分程度という土地なので、さすがに今では様変わりしているのだろうと思っていた。

しかし、この小説を講義で取り上げることもあって「代田橋駅」をGoogleで検索してみると、上位に「首都圏住みたくない街」というウェブサイトがヒットして、その記事(2018年6月にアップされたものらしい)にはいまでもかわらず「うらぶれている」写真が掲載されていて、少し感動したのだった。

●この小説が書くのは「なぜ代田橋なのか?」、そして「なぜ代田橋を××町と書くのか?」。まず、代田橋という町の匿名性がある。作中では、《ここに住む人でなければ××町という名が口にされることもないし、ここに住む人たち自身もいまここに自分の住んでいる家があるというそのかぎりにおいてしか××町に何がしかの感情を持たないだろう》と書かれる。

たとえば、浅草や四谷であれば、地名の背後に歴史と伝統が貼り付いている。新宿や渋谷であれば、有名な繁華街である。下北沢であれば、独自の文化的なブランドイメージがある。これらの土地(地名)は固有名性(固有色性)が高い。

しかし代田橋という地名では、「名」に対象を指示するという以上の意味が希薄である。つまり、虚構的、抽象的な「どこか」ではなく、あくまで現実的で具体的な場所である。しかし、そこが「そこ」でなければならないということが「意味」としては希薄である(あるいは、歴史として希薄であり、物語として希薄である)。具体的に「指示」はされるが、象徴的な意味はない。現実にある「(他ならぬ)ここ」であるが、「意味」としては他のどこでもいいような「どこか」でもある土地としての代田橋が「××町」として表現される。

意味として希薄であり、歴史として希薄であり、物語として希薄であるような土地にも「風景の厚み」はあり、それは人々の生きた「時間の厚み」を表現している。そして、そのような土地の「時間の厚み」を書くときには、意味にも歴史にも物語にも頼ることができない。その「頼れなさ」は、固有名への頼れなさであって、だから「そこ」は「××町」と記される。

そして、「××町」でしかない代田橋は、その意味への頼れなさにおいて、他にもある無数の「××町」たちの存在を想起させるだろう。

2021-10-15

●三、四十分くらい眠ってすっきりしてから作業をつづけようと思った。肩がこっている時の短い睡眠でよくその姿勢をするのだが、仰向けで、両腕で顔を囲むように輪をつくって、右手と左手の指を組み、伸びをしている姿勢を眠っている間もキープするようにして眠る。

眠りに入ってすぐ夢をみる。その夢で、細長い板なのか、長い棒なのか、とにかく木でできた長いものを両手でつかんで頭の上に掲げている。つまり、眠っている(実際の)姿勢とほぼ同じく両腕を上に掲げているが、実際の姿勢では指と指とを組んだ状態なので左右の手の距離はゼロなのに、夢の中の姿勢では、長いものを持っているので右手と左手の間には距離がある。実際の姿勢が夢に反映されているがズレもある。夢の中で、掲げている木の板だか棒だかの、右手が握っている部分の近くに、穴なのか節なのか分からないが、凹凸があることを右手が感じる。右手の人差し指がそれを確かめようと無意識のうちに動く(夢の中の動きと同期して、実際の指も動いたのだろう)。その時、右手の人差し指が確認しようとした木の凹凸が、実は左手の人差し指の根本にある関節の突起だったと気づく。夢が破綻して目覚める。

この時、触れている客体(木材)だと思っていたものが触れられている自分だったという逆転と、左右の手の間にあったはずの距離がしゅるしゅるっと消滅するという、二つのことが一挙に起こった。このような、空間-身体図式のローカルの失調のようなものに、ぼくは強く惹かれる。

2021-10-14

●夢。朝、出かけるための支度で忙しなくしている時(一面が硝子張りで外の光がさんさんと注ぐ部屋にいる)に携帯に着信があった(夢のなかではじめてスマホを使う)。出ると、相手は五十歳代くらいの女性で、「あなたはわたしを裏切りましたね、あなたには大変失望しています」と冷静だが厳しい調子で言われる。この電話を受けている「ぼく」は三十歳くらいであるようだ。電話の相手が「先生」だと分かり、これはまったく身に覚えのないことで、今からすぐにでも「先生」のところに出かけていって丁寧に説明をしなければいけないと思うのだが、今日は一日決して抜けられない用事があるのだ。先生、それは誤解です、改めてきちんと説明にうかがいますが、今日のところは…と言い終わらないうちに、いいえ、説明には及びません、こちらにお越しになる必要はありません、と、にべもなく通話は切られる。用事に遅れるわけにはいかないのでそのまま支度をつづけながら、今すぐに「先生」のところに出向いて経緯を説明して弁明したいのに、それができないことへの苛立ちと強い焦燥感がわき上がり、それによって目が覚める。

特になんという面白味もない夢かもしれないが、いままでこういう感じの夢を見たという記憶がない。とても自分が見る夢とは思えない夢で(夢のなかの自分も自分ではないかのようだった)、まるで他人の夢に入り込んだかのように馴染みのない、疎遠な、異物のような夢だった。このような夢を自分がみたということに驚いたのだ。

2021-10-13

●講義のために「東京画」(保坂和志)を読み返したのだが、これは本当にすごい(『この人の閾』所収)。95年か96年くらいにはじめて読んだときに、「小説」でこんなことが書けるのかと衝撃を受けた。いや、「小説」がどうとかということではなく、このような思考が可能であり、それをこのように表現する(記述する)ことが可能であるということに驚いたのだったが、その驚きは今もかわらなくあった。「小説」は、こういうことが書けるということを保坂和志以前は知らなかった(この文の主語は「小説」)。似ているものを探すとすれば吉田健一の『瓦礫の中』だと思うが、ただ、吉田健一が好きな人で、吉田健一の小説のもつ可能性(潜在性)を、こういう方向に拡張(徹底)しようとした人は、他にはいなかった。

(あと、この小説を読むと不思議と思い出すのが橋本治の『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』で、作風はまったく異なるものの、バブルの絶頂の時に、それに染まることないままで、そのなかで失われていくものの姿を的確に掴んで、それを記録しようとする意志が共通していると思う。)

「東京画」の特異性は、バブルのなかで失われていくものを、歴史や物語としてではなく、「風景を見ること」と「見ることによって惹起される思考」のみによって掴み取って、それをまた風景へと返し、風景として描出しようとしているところだと思う。別の言い方をすれば、(1)世界=空間のなかに描き込まれていることと、(2)「空間に散逸的に記述されているもの」を拾い上げる視線の推移、そして、(3)その視線の推移に伴う思考のプロセスという、三つの要素を縒り合わせることを通じて、(歴史や物語という形とは違った)「空間の厚み」として、時間のある一断面を表現(記述)しようとしている。空間中に散逸する細部、それを見る(発見する)視線の推移、視線の推移から生まれる思考(推論)。そして(4)として、それに絡む感情(違和感や疑問、愛着や反感、納得)もある。

これはいわゆる「小説の情景描写」とは異なる。風景(の記述)は、状況の説明でも、背景(文脈)の設営でも、感情の(比喩的)表現でもなく、どちらかというと(ミステリにおける)解かれるべき謎のようなものとしてある。だが、ミステリにおいて「謎」は作者の手によって作られたものだが、「風景」は作者がつくったものではない。

小説において(1)と(2)は、風景をどのように書くかという問題として、絡み合って一体化した一つの問題としてあるだろう。そして、「風景をどう書くか」という問題に一定の解答を導く過程で、必然的に(3)が生まれてくるのではないか。そして(4)は世界=風景から直接的にもたらされるもので、視線や思考やその記述を生みだそうとする発端であり、モチベーションとなるものだと思われる。

また、この小説はその大部分が、世界=風景と、それを見て、思考し、記述する話者=主人公の視線だけで成立しているという点でもきわめて先鋭的だと言える(話者は、自らの身体と視線だけによって世界=風景という「謎」に対峙し、先行する文献やテキストへのアクセスに対して禁欲的であるということも、大きな特徴だろう)。話者以外の登場人物は、マンションの隣の部屋に住む夫婦の他は、(人物ではないが)三匹の猫(プニャ、シロ、そして「うらぶれている」の原因発見のきっかけとなった「比較的小さくてまだおとなになりきっていない猫」)くらいだろう。冒頭に出てくる不動産屋や夕涼みする老人たちは、人物というよりむしろ世界=風景の(厚みの)側にいる。

隣の部屋の夫婦は、その土地(風景)の先住者(先輩)であり、まだ十分に「猫好き」になるに至っていない話者に対する「猫好きの先輩」として存在するという意味で登場人物だろう。猫たちは、老人たちと同様、風景の側にあるとも言えるが、しかし話者は、老人たちに深い敬意を感じはしても、それで感情を大きく動かされることはない。この小説の話者は、猫に対する時にだけ(世界=風景に対してもつ「関心」以上の)強い感情の揺れ動きと愛着をもつ。

2021-10-12

スマホのカメラの広角ぎみのフレームとどう折り合いをつければいいのか。スマホのカメラにまだまだ慣れない。それと、スマホで撮った写真をアップする時は位置情報を消す、ということに気をつけないと。

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2021-10-11

●講義のために『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ)を読んで、自分がいままでこの小説のラストを誤読していたのではないかと気づいた。いままで、ペドロ・パラモは最後の場面で、(小説の最初に出てきて、主要な語り手であるフアン・プレシアドをコマラに招き入れた)ロバ追いのアブンディオに殺されるのだと思っていた。しかし、よく読むと必ずしもそうとは言えない。

まず、妻を亡くした悲しみから泥酔して我を失ったアブンディオが、妻の埋葬のための費用をペドロ・パラモに無心するつもりで、酔いと悲しみの混乱のうちに自分ではそうと意識しないうちにペドロをナイフで刺してしまうという(凝縮されて充実した)場面がある。そして、それに続く場面。

《「これがおれの死だ」とつぶやいた。

太陽が少しずつ昇ってきて、まわりを鮮明に照らしだした。ペドロ・バラモの前には、荒涼とした無人の土地が広がっているばかりだった。太陽が徐々に暖まってきた。その目がかすかに動いた。現在をかき消して、ひとつの記憶からべつの記憶へと飛び移っていたのだ。不意に心臓が止まったりすると、時間や命の息づかいも停止するように思われた。

「とにかく、新たな夜が来なければいい」と思った。

亡霊の群れで満たしてしまう夜が恐かった。 亡霊たちと顔をつきあわせるのが恐ろしかった。

「もう少ししたら、アブンディオが手を血だらけにして、おれが断った施しを無心にくるはずだ。そのとき、おれは奴を見ないですむように、目を覆い隠すこともできないだろう。奴の声を聞かなけりゃなるまい。 夜明けが訪れてその声が消えるまで、その声がかれ果ててしまうまで」》

この場面は、二通りの解釈が可能だ。ひとつは、ペドロ・パラモは「自分が息子であるアブンディオに殺される場面を妄想、あるいは予言している」という解釈。《もう少ししたら、アブンディオが手を血だらけにして、おれが断った施しを無心にくるはずだ》という言葉は、まだ、その場面がやってきていないことを意味するはずだ。ならば、この場面の前に置かれている「ペドロが刺される場面」は、ペドロによる妄想(自分は息子に殺されたい)であるか、予言(自分は息子に殺されるであろう)であるはずだ。

もうひとつの解釈は、ここでペドロ・パラモは(他の登場人物達と同様に)既に死んでいて、幽霊であり、自分の死の場面を何度も何度も反復して経験している、というものだ。だから、ペドロは、もう少ししたら息子のアブンディオが自分を殺しにやってくることを知っているのだ、と。この場面だけ読めば、この二つ目の解釈の方が適切であるようにも思われる。しかし二つ目の解釈は、これにつづく、この小説の最後の部分によって否定されるだろう。

《肩を叩かれたので、体を起こして身構えた。

「あたしですよ、旦那さん」とダミアナが言った。「昼ごはんを持って来ましょうか?」

ペドロ・バラモは答えた。

「あっちへ行くさ。いま行くよ」

ダミアナ・シスネロスの腕につかまって歩こうとしたが、二、三歩進んだところで倒れた。心の中で何かを哀願するようだったが、ひと言もその口からは洩れれてこなかった。乾いた音をたてて地面にぶつかると、石ころの山のように崩れていった。》

ここには、ペドロ・パラモの死が、《石ころの山のように崩れ》るような死であることが書かれている。これは、ナイフで刺された血まみれの死とはあきらかに異なるように思われる。つまりペドロは、自分が望んだ、あるいは予言した(息子による父殺しという劇的な)死ではなく、たんに石が崩れるように死んだのだということが、突き放されて記述されていると読める。

おそらく、どの解釈が適当か、ということよりも、最後の最後の凝縮された短い場面の連鎖のうちに、解釈が何度もひっくり返るようなねじくれた構造になっているということが重要なのだと思われる。

2021-10-10

●週二回講義があると、どうしても準備に追われてしまう。それに、講義の中身を詰め込みすぎで、一本調子の早口で喋りまくって無理矢理時間内に納める感じに、どうしてもなってしまう。

今、九回目の『ペドロ・パラモ』についての講義のスライドをつくっているのだが、これも、グスグズしているとすぐ追いつかれてしまうな。

(はみ出してしまったジェイン・ボウルズを、どこに組み込むかもまだ決まっていない。組み込むためにはどこかを削るしかないのだが。)