2021-10-30

●週に二回、月木で講義があると、その準備で追われてしまうのだが、11月1日は、大学祭(リモート開催)の撤収日で授業はないということを昨日知って、ちょっと一息つく。

U-NEXTのラインナップに鈴木清順の『カポネ大いに泣く』(1985年)が新しく入っていて、おお、と思ってさっそく観た。高校生の時、映画館で何度も観た(当時映画館は入れ替え制ではなかったので、何回も繰り返し観ることができた)が、長いこと観返すことができないでいた。高校生ではじめて観た時なのか、その後に観た時なのか憶えていないが、この映画を観て河内音頭にちょっとだけハマった(萩原健一浪花節河内音頭がとてもよいのだ)。

この映画はショーケンとジュリーという、グループサウンズを代表する二人のスターの共演だが(そして、後にジュリーと結婚する田中裕子も出ている)、ショーケンが歌いまくり、動きまくるのに対し、ジュリーは歌うことを封印され、、常にスカしているような感じで、演技も静的だ。この二人のコントラストは、『ツィゴイネルワイゼン』の原田芳雄藤田敏八とのコントラストを受け継いでいるかのようだ。そもそも、原田芳雄大谷直子藤田敏八という三人の関係が、ほぼそのまま、萩原健一、田中裕子、沢田研二の関係としてひきづがれている。

濃すぎるような熱演をする原田芳雄萩原健一が一方にいて、もう一方に、さらっと淡泊な感じであまり大きく動かない藤田敏八沢田研二がいる。晩年の鈴木清順には、『陽炎座』、『夢二』、『ピストルオペラ』という「動かない映画」の系譜がある。これらの映画では人物がほとんど動かず、『陽炎座』ではカメラもほとんど動かない。人物をなるだけ動かさないで、フレーミング、カメラの動き、モンタージュなどによって、どうやってアクションを生起させるかという試みだろう。『ツィゴイネルワイゼン』や『カポネ大いに泣く』には、動の要素と不動の要素が共存する。『カポネ大いに泣く』で不動(というか静)の要素を担っていた沢田研二は、動かない映画である『夢二』では主役を務める。

(それともう一つ、「スタジオの映画」の系譜として『結婚』、『オペレッタ狸御殿』がある。)

一見、めちゃくちゃな映画にもみえる『カポネ大いに泣く』の物語は意外に歴史的でありポリティカルだ。まず、アメリカへの移民(棄民)である芸人たちの一行が、現地の日本人コミュニティを束ねる悪い奴に搾取されるという話(同胞からの搾取)。そして、日本人コミュニティを仕切っている日本人マフィア(ボスが沢田研二)と、現地の白人たちによるマフィア、そして中国マフィアとの抗争がある(マフィアが暗躍する禁酒法時代)。萩原健一浪曲は、現地の野良のミュージシャン(野良のアーティスト集団)に受け入れられるが、彼はそこには交わろうとはせず、師と仰ぐ桃中軒雲右衛門が明治天皇の前で浪曲こを披露したことで浪曲が市民権を得たのだから、アメリカでも大統領の前で浪曲を演じることを目指すという、権威主義的な考えをもつ(そして実際、「夜の大統領」であるアル・カポネの前で浪曲を披露し、一定の成功を得る)。しかし一方、彼の得意な演目は「シャイアンの悲劇」であり、それを白人たちの前で演じるが、当然受けはよくない(ネイティブアメリカン風の女性が彼の浪曲に涙したり、黒人たちとセッションしたりもする)。そこに、貧しい労働者たちや浮浪者の存在、KKKや戦争、人種差別といった問題、日米での女性の地位の違いなともからんでくる。田中裕子の死後、萩原健一は「サムライを崇拝する白人女性」と共に暮らすのだが、萩原の切腹を見て女性はドン引きし、サムライはもうたくさんだ、とサムライを否定して映画は終わる(そもそも萩原はサムライではなく芸人だ)。

こんなに「ちゃんとした」内容だということは、高校生の時には意識しなかったし、分からなかった。

2021-10-29

●noteのVECTIONアカウントに投稿した「苦痛のトレーサビリティで組織を改善する」の英語版をMirrorに投稿した。そしてこれはARWEAVEにも登録されており、原理的には永遠に残る。

Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations

https://mirror.xyz/0x8B754F13f971A59fa05d1B5EA7830860c7C110af/vCDLvvHSQ67w_glfxUeC9ma7cJ0mIq2pdUTE8dljwmk

VECTION (Mirror)

https://mirror.xyz/0x8B754F13f971A59fa05d1B5EA7830860c7C110af

苦痛トークンで重要なのは、何が悪いとか、誰が悪いとか言う必要がなく(何が悪いのか、誰が悪いのかが分からないままでも)、とにかく苦痛なのだということが匿名で表現できるというところにある。

例えば「告発」ならば(たとえ匿名で行われるにしろ)、何が悪い、誰が悪いということを特定し、それを言う必要がある。何かや誰かを攻撃するのは気が重いし、言ったからには一定の責任を負うことになる。また、匿名でない場合、誰が悪いと言うと必ず、その「誰か」を支持する人たちから攻撃される。それら、気の重さや面倒くささや攻撃されるリスクなどを背負った上で、告発することを「決意する」必要がある。ただでさえ苦痛があるのに、決意へと至るまで、それに加えて気の重さや逡巡や覚悟を背負うという精神的重圧が加算されてしまう。そして、(匿名でない場合は特にそうだが)告発後にそれはさらに増すかもしれない。それら諸々を越えて告発に至る人の勇気は賞賛されるべきだし、尊敬もする。しかし、すべての人々にそのような立派な人であることを強いるのは酷だと思う。このような「告発」へのハードルの高さが、好ましくない環境の温存に寄与してしまう。

(あるいは、スラップ訴訟のような、「告発のハードルの高さ」を悪用して発言を封じようとする手法もある。)

「つらい」という愚痴を、「特定の何かや誰かを非難するという責任」をともなうことなく発することができ、それが数値化され、(第三者の意図によって歪ませられることなく)蓄積され、表現として形にもなる。そしてそれを元に組織が(人の権限によってではなく、自動的に)変化していく。ここで問題になるのは、「誰かの責任を問う(悪い奴をやっつける)」ことではない。「つらさ」を表現する(表に出す)ことであり、その(匿名的な)表現を通じて「つらい」環境を自動的に変えていくことだ。その時に、責任や主体性を特に問わないという特徴をもつ。

2021-10-28

●ものごとの良し悪しを明確には言えない、なにかに対する態度をはっきりと示すことができないというのは、中立性の問題ではなく、複雑性の問題なのだと思う。その人がそのようにあるのは、そのようにあるしかない複雑な事情の絡み合いの結果として「そのようにある」のだから、それを一面的な視点からの評価によって判断することはできない。

ある面からみればAだが、しかし別の面からみるとBだし、また、当時の文脈を考えればCという要素も考慮に入れる必要がある。最近の研究により、Dという要素についても検討することも可能になった、など。非難される行為にも考慮すべき点はあり、賞賛される行為にも留意しなければならない点がある。複雑さをみることは、物事をよりクリアに見ようとすることだが、それにより、物事に対する態度は「はっきりしたもの」ではなくならざるを得ない。このように、複雑性は「正義」を相対化するが、それは、どっちもどっちということではない。

白か黒かということではなく、ある行為について、どの程度にポジティブでどの程度にネガティブであるのか、それらがどのように構成されてひとつの事案となっているのかを考える必要があるし、そのための指標が必要になる。どっちもどっちではなく、悪53パーセントと悪47パーセントとでは違う、ということが、根拠に基づいた、ある程度の正確性が期待される形で、言えなければならない(さしあたっては、仮に悪47パーセントと評価できる行為より他にマシな選択肢がないので、それを選ばざるを得ないという場合もあるだろう)。悪47パーセントの行為が、あたかも75パーセントの悪と同等であるかのように非難されるのは正当なことではない、という議論が可能でなければならないと思う。

解像度を上げるというのは、具体的に53パーセントと47パーセントとの違いを識別可能にするということで、そのためには、多量で多角的な情報や、文脈や歴史的経緯にかんする高度な知識が必要であり、さらに、それらを踏まえた総合的な判断力が必要となる。つまりそれは誰にでもできるというものではない(というか、ほとんど人間には不可能だとさえ思える)。

だからなにも言うな、ということではない。基本的に誰がなにを言ってもいいはずだが(というか、みんなもっと自由に気楽に発言すべきだとさえ思うのだが)、なにを言うにしてもそれが間違っている可能性が常にかなりあるということを自覚してなにかを言うべきだと思う、ということだ。

なにか行為を行う、なにか発言する、というのは「間違える」ということとほぼ同義だと考える。誰もが完璧に潔白ではあり得ないし、神のごとく完璧な情報と判断力をもつ者もどこにもいない。

(とはいえ、我々は美的感情に支配されているので、「あ、こいつ無理」と思ったら即「悪」のレッテルを貼って、それ以降は思考をストップさせてしまう、という傾向から逃れるのはとても難しい。「個人」という限定のなかでは、それは仕方がないと思う。でもそれは、否定ではなく保留でなければならないと思う。)

(倫理を美的基準で判断するのは危険だ。倫理的に問題がある人のことを「かっこ悪い」「クソダサい」「気持ち悪い」という言葉で非難することには大きな問題があると思う。ただし、我々が美的感情から決して自由になれないということは忘れるべきではないし、危険を察する直観的な第一センサーとして美的感情がある程度はよく機能するということも否定はし切れない。だが、それは個人としての行動選択に関する判断の基準としての有効性であり、美的感情の語彙で他者を非難してはならないと思う。)

2021-10-27

●すっかりアニメから関心が離れてしまっているけど、これは期待できそう。磯光雄、『電脳コイル』以来15年ぶりの原作・脚本・監督作『地球外少年少女』。

https://chikyugai.com/#introduction

小島信夫の「馬」には、主人公の妻トキ子が《年甲斐もなくヘップバーン型の髪をしている》という描写が何度かあらわれる。調べてみたら、「馬」が書かれたのと同じ年、1954年の春に、オードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』と『麗しのサブリナ』が日本公開され、その夏に、日本の女性の間でヘップバーンカットが流行ったのだという。

《フロントは 毛先を揃えた短いストレートバングにし、サイドの毛はバックのほうにぴったりと流し、バックはえり足いっぱいにカットするスタイル。オードリーヘップバーンの髪型を真似た事からヘップバーンカットと呼ばれる。》「ヘップバーンカット(1950年代)」(髪型の歴史)

http://history-of-hair.blogspot.com/2017/02/1950.html

1954年というと、戦争が終わってから9年しか経っていない。その時点でもう、女性たちはオードリー・ヘップバーンの髪型を真似し、《僕》と《トキ子》は二軒目の家を建てようとしている(という、小説が書かれる)。急激に復興し、文化や風俗も大きく変わっていったのだなあと思った。

(追記。ただ、《僕の家にとつじょとして馬が住みこむという発案をトキ子がしたとしても、年甲斐もなくヘップバーン型の髪をしている以上何をするかも知れず、咎めることができるものかしら》という風に書かれていることから、当時の男性---すくなくとも小島信夫---には、やや奇異な髪型のように感じられていたのかもしれない。)

しかしその一方で、《僕の家の高台から焼跡をこえておよそ百米ばかりはなれた道を、今日も駄馬が通って行く姿がふと目に入った時(…)》などと書かれていて、9年経ってもまだ「焼け跡」が残っているということも窺われる。

●「馬」の《僕》の家は、《戦前に朝鮮軍司令官の住宅が所せまく建って》いたところに建っている。これも、ちょっと不思議に思って調べてみたら、「朝鮮軍」というのは、大日本帝国陸軍の軍の一つ、朝鮮を管轄する部署で、朝鮮人によって組織された軍隊ではない、ということだった。

2021-10-26

●カント的な自由(従わないことも出来る法に自らの意思によって従う)というような自由でもなく、いわゆる「自由意志」という時の「自由」とも違うものとして、自由の感覚、「自由を感じる」という時の「自由」がある。それは、選択肢がたくさんあって、そのなかのどれでも選べるということとは違う。Netflixにたくさんのコンテンツが並んでいて、定額を支払えばそのどれでも選び放題、というところにはあまり自由を感じられない。

あるいは、「自由の感覚」という時の自由は、選択肢の数の問題では無く技術の問題であるかもしれない。絵が上手い人は自由に絵を描けるようにみえるし、歌が上手い人は自由に歌っているようにみえる。とはいえ、技術がある人は結局、行えることの選択肢が多いのだと言えるのかもしれないが、技術的に上手い人から感じられる自由さは、たんに選択肢の多さだけでなく、選択肢を選択するときの基準の立て方やそれを変更するやり方の柔軟さや自在さやセンスや新しさで、自由の感覚はむしろ後者にこそ宿っている。

だが、それだけでなく、選択肢が限られているように見える、あるいは、一択しかないようにみえる場面で、今までに考えられなかった新たな選択肢を発見できる、あるいは創造できる可能性がある、という時に感じられる自由の感覚というのがある。また、今までは出来なかったことが出来るようになった時に感じる自由の感覚もある。こちらの方が、技術のある人から感じられる自由の感覚よりも、ずっと強く自由を感じる。

結局、技術のある人から感じられる自由(選択肢を選択するときの基準の立て方やそれを変更するやり方の柔軟さ)も、その根本にあるのは「今までに考えられなかった新たな選択肢を発見できる可能性(それを摑む能力)」であって、それが縮減された形として、「予め出来ることのなかから(今、ここで)何を選択するかという時の基準の柔軟さや斬新さ」があるのだと思う。

だから「自由を感じる」には未知と困難と可能性(世界のなかにアクセス可能で未確定な情報群がありえるという状況)が必要で、「未だ~ない」という状態が必要なのだと思う。

(ただ、まったく前例のない斬新な「やり方」があった場合、それがチートなのかそうではないのかを判断することは難しくなるかもしれない。そして結局は、チートかそうでないかの判断は、既成の権力者に委ねられる、ということになってしまうかもしれない。)

(たとえば、仮想通貨を認めるか認めないかは、結局のところ国の法整備のあり方に委ねられる。)

(たとえば、新人賞にとても斬新な作品があった時、その「新しさ」を認めるか認めないかは、結局のところ選考委員の「見識」に委ねられてしまう。)

しかし、無限に繊細なセンサーが張り巡らされ、膨大な情報の蓄積と、とんでもない計算量をもつ計算機がそれを計算し続ける世界で、たかが人間ふぜいに今後も「自由」があり得るのかどうかは分からない。自由は、常に計算機によって先取りされ、自分で気づく(発見する・つくる)よりも早く予め告げ知らされることになるかもしれない。その、完全に幸福だが(自発的)自由のない世界で感じる「気分」を想像するのは、今はまだちょっと難しい。

それでも「自由の感覚」があり得るとして、それは本当にものすごい天才にしかありえなくなってしまうのかもしれない。

2021-10-25

●大学の講義で「馬」(小島信夫)を取り上げる予定なので、『若い読者のための短編小説案内』(村上春樹)で「馬」について書いているところを読んだ。だがこれは、小島信夫の小説について書いているというより、村上春樹が自身の小説のモチーフについて書いているように思えた。

《彼の手にはふたつの選択肢が与えられています。 ひとつはそのトキ子の企みを受け入れ、やがては破壊されて、精神病院に入ること。もうひとつは厳然ととその企み=妄想装置に戦いを挑むことです。最後に彼は立ち上がり、五郎に向かって戦いを挑む道を選びます。乾坤一擲ここでひとつ雌雄を決してやろうじゃないかというわけです。しかしそれはある意味では自分の影との戦いであり競争です。それはタフな闘いですが、いつ果てるともない、どこにもたどり着くことのできない不毛な戦いです。 人はどれだけ早く走ったところで、自分の 影に勝てるわけはないのです。》

《結局のところ彼はそれに敗れ、傷つき、敗北を認めた上で自ら進んで精神病院に入ろうとします。 しかしそれをトキ子が追ってきて、押し止めます。そうです、 彼は負けてはいなかったのです。彼が最後に戦いを挑んだことによって、おそらくトキ子の仕掛けた妄想の装置は呪文を解かれたのです。ちょうどオペラ「魔笛」の主人公がいくつかの与えられた試練をくぐり抜けて、その結果高いステージに達するようにです。》

《どうして彼女は「愛している」と夫に言えなかったのでしょう? そしてまたどうして「僕」は トキ子にその明言化をきっちりと迫らなかったのでしょう?》

《おそらく契約を明化することによって、互いに裸で正面から向かい合うことによって、 様々な傷口や自己矛盾が白日のもとに明らかになることを、彼ら二人は恐れていたのではないでしょうか。だから二人は、<家>や<馬> という別の存在に、そのような妄想的外部装置に、自分たちの感情や欲望を付託しないことには、その契約をうまく有効化することができなかったのです。自分を分裂化したり妄想化したりしないことには、そのような「明確に与え、明確に受け取る」 契約状態に耐えていくことができなかったのです。》

ぼくにはこの小説が「癒しと赦し」の物語だとは読めないし、《僕》がタフな闘いを挑んで高いステージを目指すような人物とは思えないし、ラストの「トキ子による愛の告白」をもって二人の対等な関係への出発点となる、という風に読むこともできない。そんな(判で押したような)ちゃんとした話とは思えない。

村上春樹は、建てられる二階屋の財源が、そこで世話をされる馬から得られていることについて《どう考えてもあまり説得力がな》く《額面通りには受け取れない》とし、これはリアリズム小説ではないのだから、その財源がきちんと説明される必要はないと書く。しかし、馬の住む二階屋の財源が馬自身の価値によって担われており、まさに馬車馬のように働かされている《僕》にはそれを負う能力がなく(《僕》は当初、建築費用はトキ子のヘソクリ=自分の稼ぎだと思っていたが、そうではなかった)、《僕》は馬のおかげで建つその家の二階にちょこんと間借りさせてもらうだけだ、ということは、《僕》に能動的な能力が決定的に欠けていることを書くこの小説では重要な要素の一つで、決して軽くみられるべきではないと思う。働きづめだった《僕》は、「馬のおかげで建つ二階屋」のおかげで、入院という形でではあるが「休息」を得ることさえできる(とはいえ、心は乱れて休むどころではないのだが)。

このこと一つをとってみても、最後に置かれた「トキ子の愛の告白」によって二人の関係が対等になるとはとても思えない。この「二階のある家」は確かに、トキ子から《僕》への愛の贈与(愛の告白への返答)なのかもしれないが、しかしこの家屋の存在そのものが、《僕》の能動力の徹底した欠落を表現してしまっているように思われる。二人の関係がこれによって変わるとは思えない。

(馬は、確かに幾分かは《僕》であり、《僕》の影ではあるだろうと思う。しかしそれは、「馬」によって《僕》の能動性や性的魅力が表現されている---だから《僕》はそれを取り戻し、乗りこなすべく奮闘する---という物語があるのではなくて、《僕》のものであるべき能動性や性的な能力が「馬」によってあらかじめ---《僕》の外部へと漏れ出て---奪われてしまっている、というニュアンスであるように感じられる。だから、二階のある家は《僕》のものではなくあくまで「馬」のものであり、《僕》はその片隅を間借りしているだけなのだ。)

 

2021-10-24

●あるYouTuberがお気に入りの香水の紹介をしている動画をたまたま観た。その人は、匂いを言葉で説明するのは難しいんだけど、と言いながら、酸味はほとんどなくて、甘い系の香りで、でもくどい甘さじゃなくて、スモーキー系というか、パウダリー系の甘さ、と言っていて、ぼくは香水に関する知識などまったく持っていないのだけど、その言葉を聞いて、具体的な匂いがイメージできてしまったことにびっくりした。パウダリー系の甘さ、という言葉によって具体的な匂いのイメージ、匂いの感触が表現できる(喚起される)ということは、言葉のもつイメージ喚起力の驚くべき側面なのではないか。

(ぼくが全然知らないだけで、「パウタダリー系の甘さ」という語は、香水の匂いを表現するための常套的な語彙の一つなのかもしれないのだが、少なくとも、ぼくは香水の匂いについて表現する語彙の差異の体系を知らないのに、その匂いを直接的・直観的にイメージできてしまったのだ。)

(服飾系の通販番組などで頻繁に使われている常套的表現である、「落ち感」「抜け感」という言葉も、はじめて知った時は、その表現力と的確さに驚いたものだった。)