2021-11-06

保坂和志の小説的思考塾。命、あるいは死について考える時に、「死ぬ間際の苦しみの姿」にとらわれてはいけないというのはとても納得できる話だった。「死ぬ間際の苦しみの姿」は、我々の感覚(五感、そして感情)にあまりにも強く訴えかけ、そしていつまでも残る(さらに言えば「共有し易い」)。だからそれにどうしても強く囚われてしまうのだが、それはある意味で罠のようなものであり、そこに、我々が五感を通してしかものを受け取ることが出来ないことの弱点(限界)がある。とはいえ、五感を通す以外にどうやって何かを知り、何かを考えることが出来るのか。保坂さんが語っていたのは、ひとつは、五感にあらわれ得るもっともささやかなものに着目すること、そしてもうひとつ、ある考えに(空を飛ぶ鳥の影が頭に射すように)撃たれること。小鳥の影が頭に射すのは、どこか高いところを鳥が飛んだからで、それは「私」が考えたということでもなく、鳥が(鳥の影が)私にそう考えさせた。

(ぼくは、あともうひとつ、ロジックというものがあるのではないかと思う。ロジックを積み重ねることで、五感や実感では決して届かないような遠くまで行けることがある。)

●小説的思考塾で保坂さんは「ここはとても速い川」(井戸川射子)の話もしていた。去年、「新人小説月評」で読んだが、よい小説だった。よい小説だったが、紙面では一行コメントしかできなかった。

《井戸川射子「ここはとても速い川」(群像)。子供が、未分化で雑然とした世界の中から秩序=関係として「悲しさ」を読みとっていく。良作。》

しかしこれではあんまりだと思ったので、この日記にもう少し突っ込んだことを書いた。2020年10月17日の日記。《秩序=関係として「悲しさ」》という言葉で表現したものについて少し詳しく書いている。。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2020/10/17/000000

《たとえば小説の終盤に、主人公が、友人にしばしばセクハラしてくる女性教師(施設の職員)に抗議しに行く場面があって、全体の流れからこの場面を避けることはできないということは途中を読んでいる時から明らかで、そして、この場面をどう書くのか、この場面の説得力がどうなるのか次第で、いままで積み上げてきた(子供の目線で描かれることによって生まれる)世界の感覚的な生々しさまで台無しにしてしまいかねない危険ない場面でもあるだろうと予測される。

(なぜそう思うのかを明確に書くのは難しい。作品内で貫かれる論理・倫理と、作品の外から来る---一般的な---倫理との相克が、はっきりと出やすい場面だと思われるから、作品外の倫理との折り合いの付け方次第では、重要な場面で作品そのものを裏切ってしまいかねない、というのが無理に絞り出した回答となる。が、これはあまり正確な言い方とは言えない。)

この場面で、女性教師の気持ち悪さを際立てると同時に、その女性教師が負わされている別の文脈の重みが仄めかされ、「気持ち悪さ」にもそこに陥らざるを得ない由来があるかもしれないことが示される。小説のはじめの方から、女性教師の気持ち悪さは感覚的には十分な説得力が持たせられているのだが、その向こうにあり得る文脈がうかがえることで、感覚だけでは捉えられない世界の厚み(どの人物も関係に強いられる逃れられない瘤をもつ)がそこに裏打ちを与える。主人公は、ある種の「どうしようもなさ」として世界の厚みを知る。知ることで、ある「重み(悲しみ・諦め)」をまとわざるを得なくなる。

主人公は施設の子供であり、親代わりでもある施設の職員-教師に依存しなければ生きていけないという意味で、二人の力関係は非対称的であるが、職員-教師の側も常に強者ということはなく、別の関係のなかでは抑圧される側にあり、そして、弱者側である子供が、職員-教師もまた常に強者ではないと知る時、職員-教師と子供の関係に部分的な逆転が起り、子供の方がある意味で優位に立つ。しかしこの優位とは、気持ちの悪い抑圧者に対して「悲しみ」という情をもつということであり、必ずしも主人公にとって「好ましい(うれしい)」状態ではない。ここで、気持ち悪い抑圧者は必ずしも「敵」とは言えなくなり、抑圧された側が抑圧する側に抗議するという行為はなし崩しになってしまう。

とはいえ、明示的に描かれてはいないが、この対話によって変化したのは主人公-子供だけでなく、女性教師-職員も何かしら思うところはあったはずだ。その後、女性教師は施設を去るのだが、それが女性教師の改心によるものなのか、施設による処置なのかは分からない。しかし、この小説が、抗議の場面を、相互変化の可能性のある対話の場面として書いたということが重要なのだと思う。

(この場面はここにまるごと引用---書き写し---したいのだが、ちょっと長いのであきらめてしまった……。)》

上に書いた《「気持ち悪さ」にもそこに陥らざるを得ない由来があるかもしれないこと》が、この小説では《未分化で雑然とした世界》に住む子供にも察することができるような形で示されている。それが女性教師との対決場面を、作品外の倫理をただそのまま作品内に持ち込んだ、ということとは異なるものにしているのだと思う。ここで主人公は、女性教師との対決を通じて、自分たちの感覚によって形作られる《未分化で雑然とした世界》としてでは存在が確認できない(その存在を指し示すことの出来ない)、「その外の世界」があり、「世界の事情」があることを知らされる(察せざるを得ないような形で提示されるから)。そのことにより主人公は、それを知る前には決して持つことのなかった新たな感情の質(大人たちでさえどうしようもできないことがあるという事実に対する悲しみ)を経験する。それにより、この小説に描かれた魅力的な子供たちの世界はおそらく壊れることになってしまうのだろうと思う。

 

2021-11-05

●以下に引用するのは『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ)のなかでももっとも美しいと思う場面の一つ。まだ青年だったペドロの元に、ペドロの父の死が告げられる。

しかしこの場面は一筋縄ではいかない。この場面は、(1)既に死んでいるペドロの母親=幽霊が、ペドロに「父の死」を伝える場面、なのか、(2)母の幽霊が、「夫の死」という悲しい場面を死後も何度も反復している、ということなのか、(3)あるいはこの場面全体がペドロの夢であり、父の死を告げられた時の悲しみをペドロが夢で反復している、という可能性もある。素直に読めば(1)ということになると思われ、(2)と(3)の読み方はやや穿ったものなのだが、そのようにも読める可能性があるように書かれているということによって、この場面全体に不思議な浮遊感が生まれていると思う。

濾過器にひとつまたひとつと水滴がしたたる。 石から滲み出た清らかな水が、水がめにポタリと落ちる。その音が聞こえる。耳を澄ます。ざわざわした物音が聞こえる。地面をこする。歩きまわり、行ったり来たりする足音。水滴は絶え間なくしたたり落ちる。やがて水がめから水があふれ、濡れた地面にこぼれる。

「起きなさい!」と誰かの声がする。

その声の響きには聞きおぼえがある。 誰だったかな、と思う。 しかし体がぐったりとして、睡魔の重みに押しつぶされ、また眠りの中に落ちてしまう。手が毛布をつかんで引っぱりあげ、体が安らぎをもとめてその温もりの下に隠れる。

「起きなさい!」とまた声がする。

その声は彼の肩をゆすぶる。上体をさっと起こす。目を半ば開く。濾過器から滴がしたたって水がめの水面をはじく。足を引きずる足音……そして啜り泣き。

そうだ、そのとき啜り泣きが聞こえたのだ。それが彼の目をさました。静かな、かぼそい啜り泣き。おそらくそのかぼそさゆえに、眠気の茂みを貫いて、驚きの巣くっている奥まで達して彼をはっとさせたのだろう。

ゆっくりと起きあがって、戸のかまちに寄りかかっている女の顔を見た。まだ夜が明けておらず、その顔は影になってはいたが、啜り泣いているのは確かだった。

「どうして泣くんだい、母さん」

足が床につくやいなや、そこにいるのが母親であるとわかったのだ。

「父さんが死んだんだよ」

そう言うと、悲しみを押さえつけていたゼンマイが切れてしまったかのように、何度ぐるぐる回りはじめ、誰かの手が肩にのびて、悶える体をおさえつけるまで止まらなかった。空が白んでくるのがドア越しに見えた。星は出ていなかった。鉛色がかった灰色の空があるだけだった。太陽の光線がまだ訪れない空。にぶい光 今から朝がはじまるというより、ようやく夕暮れが迫ってきたという感じだ。

表の中庭では、行ったり来たりする足音が聞こえる。 くぐもった物音。家の中では、女が戸口に立ちつくして、体で朝の訪れをさまたげている。腕のあいだからは空の切れ端が見え、足元には光が射し込んでいる。光がこぼれて、床はまるで涙で濡れたようになっている。 それから例の啜り泣きだ。やわらかだが甲高いあの啜り泣きがふたたび聞えてくる。身をよじらせる悲しみ。

「父さんが殺されたんだよ」

「じゃ母さんを殺したのは誰?」》

冒頭の濾過器と水がめの描写。なにかがゆっくりと蓄積し、ひっそりと誰にも意識されないままにそれが満ちていき、ある時不意に、しかしあくまで静かに、なにかがあふれ出てしまうという感覚。

そして、《足が床につくやいなや、そこにいるのが母親であるとわかったのだ》という「分かり方」。これは、通常の知覚による物事の把握の仕方とは根本的に異なっている。夢のなかで何かを理解する時の分かり方であるか、あるいは、常識的ではないもの(この世ならざるもの)の存在を把握する時の分かり方だろう。そして、最後のペドロの言葉によって、この母親はこの世のものではないのだろうと推測される。

 

2021-11-04

Bunkamuraル・シネマで、ヴェンダースのレトロスペクティブをやるようだ。ただ、ヴェンダースは現役の映画作家で、けっこう旺盛に新作をつくってもいるのに、このレトロスペクティブで取り上げられる作品はすべて20世紀につくられたものばかりだというところに悲しみを感じる。せめて一本くらいは「ヴェンダースの現在」を示すような作品があってもよいと思うのだが…。

ヴィム・ヴェンダース レトロスペクティブ ROAD MOVIES/夢の涯てまでも

https://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/21_wim_wenders.html

ヴェンダースと言えば、『夢の涯てまでも[ディレクターズカット版]』を観るためだけに、アマゾンのスターチャンネルEX -DRAMA & CLASSICS に入会したいのだが、どうやってもアマゾンギフト支払いで入会する方法が分からない(アマゾンギフトで支払いできますと一応書いてあるのに、どこを探しても、カード支払い前提の「7日間無料体験」以外の入会手続きの入り口がみつからない)。

それこそ、ル・シネマまで観に行けば観られるのだが、いまのぼくには、五時間近い映画を映画館で観る根性がない。

(ル・シネマでのレトロスペクティブは、過去の作品のヴェンダース自身による4Kレストア版の完成をうけたものみたいだから、少し時間が経てば、それが他の配信会社---U-NEXTやNetflix---にも降りてくるかもしれないが。)

2021-11-03

●お知らせ。11月25日(木)に、佐々木敦さんの最初の小説『半睡』刊行にともなうトークイベントを、佐々木敦さん、山本浩貴(いぬのせなか座)さん、ぼくの三人で、三鷹のSCOOLで行います。19時スタートです。

「はじめての小説と「小説」の終わり---『半睡』と、その他の話---」

scool.jp

●去年の11月27日の日記に『半睡』について、次のように書いた。

《ぼくがこの小説で最もリアルだと感じるのは、(「新人小説月評」にも書いたが)様々な仕掛けの隙間から聞こえてくる、濃厚な欠落の気配であり、語り手自身が、自分自身の語り---覚醒した意識---を制御できず、信用もできていないという感触だ(追記、周到で綿密な意識的企みと、意識に対する根本的な不信との、両方がある)。たとえば、内田百閒、鈴木清順山本直樹七里圭の作品を貫いている共通の場面(瀕死の状態にある人について、まだ望みがあるのではないかと会話している時に、どこからか出所不明の「駄目だよ」という声が聞こえてくる)について、話者=主人公はつぎのように書く。

「(…)けれども結局のところ、もっとも怖いのはやはり、それでもそれを言ったのは「私」だったのだという解釈ではないだろうか。私は、私でない私の酷薄極まる声を聞いたのだ。」》

文學界」の新人小説月評では、下のように書いた。

佐々木敦「半睡」(新潮)。フロイト『夢判断』七章の夢解釈に対するラカンの再解釈がある(『精神分析の四基本概念』五章)。息子を亡くした父親が遺体の隣の部屋でうたた寝して夢をみる。息子が父の傍らで腕を掴み「父さん、僕が火傷するのが分からないの」と責める。目覚めると、弔いの蝋燭が倒れて棺に燃え移っていた。フロイトはこの夢を、父は前意識で火に気づいていたが、息子と再会する夢が睡眠を長引かせた(夢による願望充足)と解釈する。対してラカンは夢こそが父を目覚めさせたとする。父には息子との関係において意識から排除された(記憶に回帰することのない)レベルの(死因にもかかわる)後悔があり、その関係の不調(現実)が「責める口調」として夢に入り込み父はその現実から逃れるために目覚めた。それは覚醒した現実(表象)の中では出会うことのない、夢という形のもう一つの現実であり、夢から覚醒への移行の中で「出会い損なうように出会う」ことしかできない意識の空隙としての現実である、と。

本作は小説の外(現実)にある日付、作品、出来事へ向かう多数の参照に満ちている。しかし、現実=覚醒への過剰な参照はむしろ記述とそれが依って立つ基盤としての現実とのつながりを危うくし、語り(記述)への不信を招く。話者が読者にとって信頼できないというより、話者自身が自分の記述(意識)を信頼できていない。

だがあからさまな隠蔽は隠蔽ではなく、解読可能な暗号は明示と変わらない。夢としての現実は、解読格子そのものを歪ませ瓦解させる力としてある。夢としてしか現れない現実があるとすれば、不眠とは夢=現実を剥奪され、(夢へと)目覚めることの出来ない宙づりの「目覚めへの過程(半睡)」を強いられることであり、目を見開いたまま現実を遮断されることである。半睡と不眠は反転して同値だ。夢としての現実は目覚めた意識(記述)にとっては空隙としてしか現れない。だが、半睡=不眠とは常に目覚めへと向かう過程にあることでもあり、意識(記述)は積み重ねられることにより「塗り残し」として空隙=現実の在処をあぶり出し、暗示することになる。》

2021-11-02

●メモ。『デビッド・リンチのホテル・ルーム』のエピソード3「Blackout」は、リンチの作品のなかでも最重要作の一つだと思うが、いまのところ、配信でも観られないし、大昔に出たVHS以外にはソフトも出ていない。だが、YouTubeでなら観られる。これはほんとに凄い。

"Hotel Room: Episode 3 (Blackout)" - David Lynch (1993)

https://www.youtube.com/watch?v=plNZagqMivs&t=1195s

下は、『デビッド・リンチの ホテル・ルーム』全3話の、日本語字幕つき。ただし音の状態が良くない。

David Lynch's Hotel Room - Japanese Laserdisc With Laser Rot

https://www.youtube.com/watch?v=eO8QBm5jwsQ

デビッド・リンチのホテル・ルーム』について書いた、2007年8月30日の日記。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20070830

そして「Rabbits」。

David Lynch - Rabbits (2002)

https://www.youtube.com/watch?v=UamdEY8LBIU

●メモ。kiki vivi lily、トーフビーツ、9m88、KM、maco marets、KID FRESINO  ft. 長谷川白紙、そしてaiko

kiki vivi lily「Lazy」Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=uzMZhYUAAa4

kiki vivi lily「New Day (feat. Sweet William)」Lyric Video

https://www.youtube.com/watch?v=qfqknqpeRis

tofubeats - CITY2CITY

https://www.youtube.com/watch?v=OOHq92yELeQ

9m88 - Tell Me (Prod. by Mitsu the Beats)

https://www.youtube.com/watch?v=qWEsv4DJddE

KM - MYPPL (feat. Daichi Yamamoto) (Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=3kAuuIBz1mI

KM  Filter (feat. JJJ & Campanella)

https://www.youtube.com/watch?v=nUtomh8BK4I

maco marets - Hum! (Official Video)

https://www.youtube.com/watch?v=K7fefF0-wmk

KID FRESINO - youth ft. 長谷川白紙 (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=G0yJEDIADyY

aiko-『食べた愛』music video

https://www.youtube.com/watch?v=CZLs8GuCq2U

●メモ。

10月22日(金)[SjQ『Torus』Online Performance ] Live streaming from Soto Kyoto

https://www.youtube.com/watch?v=28a0VrFtrpU&t=265s

SjQ Radio 特別編 《『即興と設計』あるいは『即興的創造』》 ゲスト:細馬宏通細田成嗣

https://www.youtube.com/watch?v=BM1b4vscHWk&t=1280s

 

2021-11-01

●昨日の日記を書いていて思ったのだが、新劇場版「エヴァ」は、アスカとマリの関係を軸にしてリビルドすると面白くなるのではないだろうか。アスカの子供時代のトラウマに遡行するのではなくて、アスカの現在の闘いを描いていくような感じで。

エヴァ破」から「エヴァQ」までの空白の14年の間に、アスカとマリのパートナーシップがどのように変化し、深化していったのかを中心に据えながら、その背景として、ミサトや赤城博士、加持などの動きがあり、ヴィレの成立や、ヴィレによるネルフ(ゲンドウ)に対するレジスタンスがどのように行われ、ゲンドウや冬月がそれにどう対処したのか。そして、14年ぶりに戻ってきたシンジをどう受け止めるのかということについても、シンジの側から描くより、受け入れるヴィレの側から描いたほうがおそらく面白いと思う。

(まあ、それはもはや「エヴァ」ではないが…。)

「新劇場版」の特徴は、(90年代にはとてもリアルだった)「シンジの感情」にもはやリアリティがなくなってしまったというところにあるのではないか。だからこそ「エヴァ破」のポップさが可能になった。「エヴァ破」によって、ウジウジして、かつドロドロし、ウツウツとしていたシンジはすっかりすっきりしてしまい、だからその後の「エヴァQ」でどん底に突き落とされたとしても、自分はシンジなのだからシンジのキャラを演じなければとばかりに、悩んだり落ち込んだりしている風に振る舞っているように見えてしまった(いや、それは言い過ぎだが、その落ち込みに、こちらの感情までが引っ張られるほどの強さは宿らなかった)。

エヴァQ」では、シンジよりも、ミサトやアスカなどヴィレの人たちの方があきらかにずっとシビアな状況にあってキツそうだったし、だから、物語がヴィレから離れて、シンジとカヲルくんに集中すると退屈に感じてしまった(最初の30分はすごく面白いと思った)。シンジの感情にそこまで付き合ってはいられないと思ってしまう。

エヴァQ」の後半のカヲルくんとの場面、そして「シン・エヴァ」の出だしの第三村の場面は、どちらもシンジに対するセラピーの場面だと言えるが、そもそも「シンジの感情(落ち込み)」自体にリアリティがないので、そのためのセラピーにもリアルさや切実さが宿らない。

エヴァ破」でポップなシンジをつくり出してしまったため、終幕に向けて、もう一度、ウジウジ、ドロドロしたリアルなシンジを取り戻すためにどん底へ突き落とす必要があり、その必要のために「エヴァQ」があったのではないかと推測するのだが、もはや「リアルなシンジ」を取り戻すことはできなくなっていて、それよりもむしろヴィレの人々の方が面白くなってしまったが、「エヴァ」である限りシンジを中心にするしかなく、父(ゲンドウ)を倒す息子(シンジ)というありふれた構図にするしかなかった、ということなのではないかと思った。

(「エヴァ破」の路線を引き継いで、そのまま「ポップなエヴァ」にするという選択肢もあったはずだが、そうはしないという選択を示したのが「エヴァQ」で、それでまた少し「エヴァ」への関心が戻ったのだが、その方向にちょっと無理があったということかもしれない。)

2021-10-31

●今まで、カードがないとアマゾンプライム会員になれないと思い込んでいたのだけど、アマゾンギフトでも毎月定額支払えば会員になれると知って、さっそく会員になり、ほんとうに今更なのだがようやく「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観た。で、あー、これは自民党が選挙で勝つわけだ、と思って脱力した。

いきなり、ポストポカリブスのコミュニティが(幻想の)昭和ノスタルジー感満載で、うわーっと思ったのだが、こういうものを抵抗なくつくってしまえる想像力も、それをすんなりと受け入れてしまえる観客も、ちょっとヤバいのではないかと感じた。「保守的」という概念を見事にイメージ化している、とも言える。庵野秀明が骨の髄まで昭和のおじさんなのは仕方ないとして、受け取る側が、これにひっかかりを感じないということはないと思うのだが…。これが「国民的なヒット映画」だというのは不味いのではないかと、柄にもなく思ってしまった。

(冒頭のパリの場面がほんとうにすばらしいので、その後にくるのが昭和ノスタルジーであることへの失望が大きい。)

(ヴィレのなかには、一応、申し訳程度の多様性はある感じだけど…)

食事をとろうとしないシンジを叱りつける、トウジの妻の父親に、あそこまで昭和のオヤジ感を出す必要あるのか、とか。そもそもこの映画は、マリの歌う昭和歌謡からはじまるのだが、まあそれは、マリが歌うことによる異化作用があるわけだが、その後でこんなにベタに昭和がくるのか、と。昭和ノスタルジー世界のなかで黒綾波が「感情」を獲得していく過程の白々しさ。幻想の里山的コミュニティから家出したシンジがたどりつく場所が、ロマン派絵画のパロディのような風景(廃墟と険しい山々)なのも、紋切り型すぎて、うーん、となった。

おそらく誰もこの映画に、新しさ(新鮮さ)や知的な刺激、論理的な納得というものを求めてはいないくて、観客はただ、長年「エヴァ」にひっぱりまわされてきた感情の落しどころを与えて欲しいと思っているのだろうから、とにかく、あらゆる登場人物に、納得しやすい紋切り型の落しどころをつくってあげるというのがこの映画の最大の目的なのだとすれば、これが正解なのかもしれないが(ゲンドウの自分語りとか、「いや、まあ、それはそうなんだろうけどね…、というか、それ言わなくても分かってるから…」と思ってしまう)、みんなが欲しいのはこういう説明と納得なのか、と思いながら観続けていると、心がだんだん空しくなっていくというか、倦むのを感じる。保守化というのは、思想や政治的信条のことではなく、こういう感覚(こころもち)のことなのだなあと思った。アニメーションの技術としてはすばらしいので、やたらと豪華でしかし空疎な神殿を眺めているかのようだった。

(でも、戦闘シーンなどは、豪華なイメージのインフレーションになってしまっているようにも感じた。)

ただ、この作品の、アスカの荒んだ感じの描写には強さを感じていた。アスカはここで、若さも性的魅力も成熟さえ剥奪されて、ひたすらギスギスして荒んでいる。ケンケンの家で全裸でうろついていても二人の間に性的な関係があるようには感じられないし、シンジでさえアスカを性的に見ていない。そのようなアスカの徹底した荒みの強さ(荒んで当然という環境を強いられているのだが)を見ると、この物語をもっとも苛烈に生きているのは、つまりこの物語の中心にいるのは(物語の最大の被害者なのは)シンジではなくアスカの方ではないかとさえ思えてくる。というか、意識的にそのように表現されているように思われた(そのような荒んだアスカをマリが「姫」と呼んでいるのもよくて、アスカとマリの関係は面白いと思った、マリは、シンジではなくアスカを「迎えに行く」べきだったのではないか)。

しかし、最後の方になってシンジによって回収されたアスカは、恥ずかしいほどあからさまに性的なイメージとして描かれる。えっ、ここでも(観客へのサービスのために)譲歩しちゃうのか、とがっくりきた。

(何よりの優先事項が、観客に対して「登場人物たちへの感情に落しどころをつくる」ことなので、たとえば加持のやっていた「ノアの箱舟」のような計画とか、ループものみたいな設定とか、そういう物語の骨組みのところが全部とってつけたようになってしまった感がある。)

エヴァ」は90年代には挑発的な作品だったはずだし、「シンジの感情」も、表現として新しいものとしてリアルだったはずなのだが、「シン・エヴァンゲリオン」ははじめからそのような作品ではなく、『男はつらいよ さよなら寅さん』(そのような映画は実在しないが)みたいな映画だと思って観れば納得できるのかもしれない。そういう意味で、庵野秀明の「勝ち」なのか。