2021-11-13

●「無断と土」(鈴木一平+山本浩貴)をとりあえず最後まで読んだ。以下は、ざっと一読しただけの段階での雑な感想だが。

まずこの作品に要素としてあるのは、詩(演劇)、怪談、VRゲーム、そして天皇制であり、それらすべてを貫いているのが、(昨日の日記で引用した部分で明確に記述されている)「恐怖」という状態であり、また菅原文草という架空の詩人だと言えるだろう。

説話的な持続(統一)性という次元では、出所不明のVRゲーム(「WPS」)について、それが明確な意図をもった「作者」によってつくられたものだと推測し主張する者が、シンポジウムにおいてその論拠を示す発表のための草稿に、シンポジウムで行われた質疑応答が付け加えられたものという形式によってこの作品は統一を得ている(とはいえ、質疑応答は「準備されたもの」である可能性もある)。VRゲームが、(集合的・自然発生的に生まれたものではなく)誰かしら作者による意図をもつ制作物であることを示す論拠となるのが、菅原文草という詩人の存在であり、彼の残した作品群とその来歴(とその解釈)である。架空の詩人の来歴が、詩(そこからアダプテーションされ得る演劇の可能性)、怪談、(言葉で記述された)VRゲーム(さらにシンポジウムでの発表)という異なるメデュウム(異なる上演の形態)が並立する、一つの語りの場を成り立たせる。

そして、この作品に主題論的な統一性をもたらしているのが、恐怖と呼ばれる状態(情動)であり、その内実(実質)は、作品のはじめの方で明確に分析・記述されている。世界の縮減の(部分的な)失敗によって生まれる恐怖という情動。情緒のバグとしての恐怖は、この世界のなかでの行動を可能にする(この世界に降り立つ際の)肉体(あるいは〈喩〉)の統一的生成の失敗によって生まれ、その統一し切れなかった欠片は、自分とまったく無関係ではない(感覚器官となにかしらつながりのある)、しかし自分ではないなにものかとしてあらわれる。この、遠くにある自分ではない自分としての欠片にこそ、自分の行為や感情を「ただの自分ごと」に納めるのではなく、行為や感情に「共同性(共同的な場となり得るもの)」を宿らせる基盤となる可能性がある、と。

自分ですらない「遠くの自分」が共同性を形作る基層になる、ということは端的に矛盾であるが、矛盾するものたちが排他的でなく共存可能な高次元空間(切り開かれた空間のヴォリューム)を作り出すネットワーク(ダイアグラム)として詩を考えることができる。作中で示される菅原文草の詩やその読解はその実例としてあるだろう。つまり、詩こそが共同性の基層になり得る、と。そしてその実践は、怪談やVRゲームへつながっていく。

(とはいえことはそう簡単ではない。たとえば怪談---恐怖---は容易に差別やそこから導かれる暴力と結びつく。関東大震災後に怪談運動が破綻した後の菅原文草は、自身の詩の演劇的上演へのアダプテーションを試みるのと同時に、両義的な関心から天皇制へと接近していく。)

きわめて大ざっぱな把握だが、基本的な構えとしてはこんな感じだろうか。この作品では、一方で、共同性や共同制作の可能性が探られているが、もう一方で、それが特定の作者の存在へと(事後的に)収斂していく動きもはらんでいる。主題的には恐怖による自己という基体の分裂と、それを足がかりとした共同性が語られるが、説話的には、シンポジウムでの発表という基底は揺らがないし(まったく揺らがないとは言えないト書きとラストがあるが)、発表者も作家性を主張している。ここでも、この二つの傾向は排他的ではないことが、この作品そのもののあり方として主張されているのだと思う。

(最初のところにびしっと引き締まった「恐怖という状態の分析・記述」がしっかりあることがこの作品の充実にとってとても大きいと感じだ。その部分があるからこそ、「恐怖」がさまざまなものへと発展していっても、主題的な次元で通底していることがはっきりとわかり、揺らぐことがない。)

(ここで描かれているVRゲームからは、デュシャン-荒川+ギンズの匂いが濃厚にある感じがした。もちろん、それだけがあるというわけではないとしても。ここではVRゲームのもつ空間構造それ自体が重要なアイデアであり、このような構造はデュシャンにも荒川+ギンズにもないものだが、しかしその構造を構築するための基本的なピースのなかにデュシャンと荒川+ギンズが埋め込まれているように思う。とはいえそれも、ホラーというジャンルからきているものだということもできるが。)

(おそらく動機には「慰霊」があり、作中の詩人、菅原には関東大震災があり、荒川には戦争があり、この作者たちにはおそらく東日本大震災がある? この小説の主張に従うのならば、動機とは事後的に生まれる、あるいは事後的に選択されるものだが。)

(この作者たちは、実際にVR、あるいはVRゲームをつくろうとするのではないかと感じた。VRゲームをつくることは、養老天命反転地をつくるよりは困難さが---かかるお金とかが---ずっと少ないと思われる。さらに、とても小さな規模での実践から巨大なプロジェクトまで幅広く構想可能だろう。そのことが、荒川+ギンズに対するこの作者たちの優位だと思う。)

2021-11-12

東工大の講義は22日まであるのだが、そのすぐ後、25日に佐々木敦さん、山本浩貴さんとのトークがある。

scool.jp

講義が終わってから準備したのでは間に合わないので、(講義の準備に追われているのだが)トークの準備も少しずつしておく必要がある。で、評判の「無断と土」(鈴木一平+山本浩貴)をようやく読み始めたのだが(本当に最初の方をちらっと読んだだけだが)、出だしからいきなりすごい。「0 はじめに:音・喩・恐怖」で、荒川+ギンズの仕事と恐怖を絡めて記述してある部分は、ぼくが今まで読んだことのある荒川+ギンズにかんするテキスト、恐怖にかんするテキストのなかでもっとも解像度が高く強い説得力のあると思えるものだった。荒川+ギンズが「懐かしさ」と呼び、デュシャンが「エロティシズム」と呼んだものは、普通は「恐怖」と呼ばれる。これにはすごく説得力がある。

(下に引用するテキストがいかにすごいことを言っているか。ぼくももう何年も何年も考えているようなことなのだが、それを、高い精度のままで、こんなにも凝縮された簡潔な形で整理できるものなのかと驚嘆した。)

《かように生物は、探索し知覚した情報から特定の世界とそこに存在する肉体(そこに接続した視覚や平衡感覚等)を構成=リプレイすることで、ようやくそこに降り立つ。二〇世紀末に荒川修作+マドリン・ギンズが〈建築する身体 Architectural Body〉という概念とともに行った議論の通り、その降り立ちが失敗した場合、肉体は激しい可能の洪水を前に、自らにとって不透明な肉体が自らの位置する座標から離れた場所で、しかも自らの肉体の感覚器官と一定程度連帯したかたちで多数存在しうるという圧を、強い質感とともに受ける。荒川+ギンズはそれを懐かしさとして認識し、また彼らの先行者であるマルセル・デュシャンはエロティシズムとして検討したが、多くの生物にとっては恐怖という情動が充てがわれることだろう。そこで恐怖とは、一方では感覚器官間のもつれ、誤認の物象化、知覚対象の唐突な変容の予感などとして経験され、また一方では、世界によるこの私の自由意志の収奪、(この私とは異なる場所に私があらわれるという意味での)分身の発見、(この私において異なる私が現れるという意味での)肉体の役者化=世界の上演化としてイメージされる。世界を単一に束ね得るような(主に視覚的な)宿が無く、不確かな(主に聴覚的な)ノイズばかりが由来も定まらず反響し、起こる世界の変容あるいは複数化。いずれの場合でも観測されるのは、表現主体における表現の生成過程を自らの自由意志のもとで測定しそこねた肉体が世界の側から強引に採掘する〈喩〉の型であり、感覚器官の連合をめぐる極めて叙情的なバグであり、多宇宙=可能世界そのものの歪な擬人化である。》

2021-11-10

●講義の前日は、二回、リハーサルをする。一度目は、時間を気にせず、一度、最初から最後まで通してみて、その過程で、ざっくりと作っておいたスライドを手直ししたり、補足したりする。それで一応完成したスライドで、二度目は、100分にちゃんと収まるのかをやってみる。講義をしていくなかで、スライド80枚くらいなら、なんとか100分に収まるということが分かってきた。だがそれは、ずっと早口で喋りっぱなしで、ということでだが。

(もっとゆったりとやりたいとも思うが、一回の講義で、一つの作品について、最低限のことは言いたいと思うと、80枚くらいのスライドは必要だ、ということでもある。一本調子の喋りっぱなしになってしまうなあとは思いながらも。)

「小説を読む」講義なので、喋りっぱなしといっても半分は朗読となる。授業で扱う小説の部分は、あらかじめ(傍線を引いたり書き込みしたりしていない状態のものを)学生に配布しておいて、授業では、ぼくが線を引いたり書き込みしたりしてあるものをスライドで提示し、それをぼくが朗読して、つづけて、その部分を解説する、ということを繰り返す。短編小説でない限り授業で小説のすべてを読むことはできないが、できるだけ多くの部分を読むようにする。

(下のスライドは、小島信夫「馬」についての講義で使うものの一部。)

 

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2021-11-09

アマゾンプライムに入会すると自動的にアマゾンミュージックも聴けるようになるのだが、プライムだけでは曲数に限りがあって、さらに料金を足してアンリミテッドに入会しないと、あの曲もないのかこの曲もないのか、という感じになる。とはいえ、今まで使えなかったものが使えるようになって、いろいろ試してみるのは楽しいので、あの人のあの曲はあるのかと検索してみて、ああ、アンリミテッドじゃないと聴けないのか、とかいろいろやってみるのだが、そのうちに、野宮真貴が歌っている松田聖子の「ガラスの林檎」に行き当たり、おお、これは意外だがなかなかいいのではないかと思い、その次にEPOの「音楽のような風」が聴こえてきて、この曲が八十年代に流行ったのは知っているし、なんとなく聴き覚えがあるけど、こんなにいい曲だっけ、となった。これらの曲は、野宮真貴が2015年に出した「世界は愛を求めてる。What The World Needs Now Is Love 野宮真貴渋谷系を歌う。」というアルバムに入っているのだった。

ガラスの林檎」や「音楽のような風」は渋谷系というより王道JPOPのように思うけど、野宮真貴の過剰に明瞭なボーカルは王道JPOPにすごく合うのではないかと思った。曲の良さがよりストレートに出る感じだし、格段に上品になる感じ。

(このアルバムではフリッパーズ・ギターの「ラテンでレッツ・ラブまたは 1990サマー・ビューティー計画」のカバーも収録されていて、この曲はカジヒデキとデュエットしているというか、カジヒデキのボーカルの方がメインだとさえ思えるのだが、このカバーもとても良かったので、本当に本当に久しぶりにアマゾンミュージックで検索してカジヒデキの「MINI SKIRT」を聴いた。こんなことがなければ「MINI SKIRT」を改めて聴く機会は一生なかったかもしれなかった。)

当時(90年代後半)、カジヒデキのルックスは---少なくともぼくにとっては---衝撃だった。今だったらああいう感じの男の子は普通にいるけど、当時としては相当に攻めていた。80年代に橋本治が『革命的半ズボン主義宣言』という本を書いていたけど、それには「インテリが言ってる」感がどうしてもあったけど、カジヒデキはまさにそれを体現している感じだった。

(カジヒデキとは同い年だが、当時もしぼくがあの格好で町を歩いていたら---そもそもまったく似合わないわけだが---絶対ヤンキーにカツアゲされたと思う。昭和とはかなり違ってきたとはいえ、まだ、男はイキって「男」を示さないとなめられるれるという時代だった。フリッパーズ・ギターの、誰もがすんなり受け入れられるだろう分かりやすい可愛さとは違って、あの、おかっぱと半ズボンにはかなりの違和感があったし、その違和感こそが革命的だった。)

(というか、ソロデビュー当時、カジヒデキは既に30歳くらいだというのも驚きだ。)

今観ると下のMVも普通におしゃれな感じにしか見えなくて、ここにかなりの違和感があったということが今ではもう分からなくなっている。

ラ・ブーム~だってMY BOOM IS ME~ / カジヒデキOfficial Music Video】

https://www.youtube.com/watch?v=9mnZecT4aYw

2021-11-08

●「かかとを失くして」(多和田葉子)をすごく久しぶりに読んだが、改めて面白かった。ヨソモノ、女性、(貧しい国から豊かな国へ)金で買われてきた花嫁が、異国の地で出会う様々なとまどいと理不尽なことがら。リアリズムで書かれているのではないし、なにかを告発しているというのでもない。そして、主人公はそこまで分かりやすく酷い目に遭うというのでもない。だが、だからこそ、空気のように漂ってねばつく差別と非対称性がとても生々しく摑まれている。この感じは、この作品が発表された1991年当時よりも、現在の方がずっと理解されやすいのではないかと思った。

(日本が、豊かな国の側よりも貧しい国の側に近づき、かつては隠蔽されていた「空気のような差別」があからさまに顕わにされるようになり、しかしその反面として、「空気のような差別」に対するセンシティブな感覚も育っている、という現在。)

講談社文芸文庫の「作者から文庫読者のみなさんへ」によると、この小説はもともと「偽装結婚」という、まさにそのまんまなタイトルだったという。タイトルが「かかとを失して」という(とてもセンスはよいが)ふわっとしたものなったのは、91年当時の世相の反映なのだろう。おそらく現在だったら、「偽装結婚」そのままでいくのではないか(はっきりと「売れ線」が変わった、ということだと思う)。

(邪推にすぎないが、「かかとを失くして」と「三人関係」の二篇が収められた作者の日本で最初の本のタイトルが、小説として明らかに優れていると思われる「かかとを失して」の方ではなく『三人関係』となったのは、作者がこのタイトルに納得し切ってはいなかったということなのだろうか。)

2021-11-07

東工大の講義、古典というか、既に歴史的評価が定まった二十世紀の海外作家の小説(の翻訳)を読んでいく授業から、そろそろ日本語で書く現代作家の小説に移行する。当初は、現代日本の小説家をできるだけ幅広く(といっても限界はあるが)学生に触れてもらいたいと考えていたのだが、方針を変更して、欲張らずに今まで通り、一回の授業につき一人の作家(基本、一つの作品)を深掘りして読んでいくことにした。

(この講義にかんしては、数ヶ月前から準備をしているのだが、週に二回講義があると、準備した分はみるみるとなくなって追いつかれて、講義の終盤になってきて自転車操業のようになってしまっている。)

この授業のために、既に何度か読んだ小説だとしても、一つの作品をかなりしつこく読むことになって、新たな発見がけっこうあった。まず、複数の候補から授業で取り上げる作品を選ぶために読み、決まった作品を準備のために熟読し、スライドを作りながら読み、授業のリハーサルで読み(100分に収まるかどうかの確認と、読めない漢字をスルーしてしまっている可能性があるので一度声を出して読んでおく、黙読だと読めない漢字を音ではなく意味で読んでいることがよくあって、そしてそのことに気づいていないこともしばしば、ということを、この講義で気づいた)、そして授業で読む(朗読する)。面白い小説は、しつこく読めば読むほど面白くなっていく。