2023/01/22

保坂和志の小説的思考塾vol.9をリモートで視聴。以下はぼくの感想で、トークの正確な要約や紹介ではないです。

https://peatix.com/event/3463903

●小説とは何かという時、多くの人はその「中味に何を書くか」を考えるがそうではなく「入れ物」として何なのかを考える必要があると保坂さんが言う時、そこで言われているのはおそらく「内容/形式」という問題ではない。そうではなく、見えているもの(実際に書かれることや、意識されること)よりも、見えていないものの方がずっと大きい、ということだと思われる。意識的に書かれることは、その背後で働いている大きなものの上に乗っかっているのであり、背後のものによって規定されている。そしてある作品に何かしらの「新しさ」があるとすると、それは書かれる内容の新しさによるではなく、背後に働いているもののありようの新しさによる。そして「書く」という行為は、そこに書かれる内容を書くというよりも、自分が囚われてしまっている(意識せずにその上に乗っかっている)背後で働いているものに探りを入れることであり、見えない「それ」を手探りで揺り動かしていこうとすることだと思う。

ここで「背後のもの」を、単純に無意識のようなものに限定するのは間違っている。それは、無意識であり、身体であり、身体が置かれている環境であり、その環境を規定している様々な諸コードであり、同時に、環境そのものが持っている「コードを越え出てコードそのものを書き換えることのできる潜在力」のことだ。書く人は、自分の無意識を媒介として、身体の潜在力や環境の潜在力にまで探索を広げていくことで、その「見えないもの=背景の力」の中からなにがしかを掴み取ってくる。このような、「背景をなすものの大きさ」を常に意識しなければならないということだと思う。

(物事を単線的な―-意識化可能な-―因果関係の連鎖として捉え=理解してしまうと、その背後にあるものの広がりとの通路が閉じられてしまう。)

この対極にあるのが、既に定まって意識化された諸コードの上に乗っかって書くことであり、既にある程度見えているゴール(目的)や評価基準に従って、その解釈格子の中で「高得点」を目指すような書き方だ。それは例えば、一定以上の難易度の技をいくつ以上入れて、それをなめらかな展開で繋ぎつつ、フィニッシュをピタッと決めれば高得点が期待されるというようなスポーツのような書き方や、既に「正解」の定まっている問題について、それを一定の形式に落とし込んだ形のものとして提示して、それを解く技能を競争するテスト勉強のような書き方だろう。ルールがあって、評価基準が明快な競争は確かにフェアではあるが、しかしそれは、権威や常識によって天下り的に決定されたルールや評価基準に盲目的に従うということになる。それの何が悪いと言われれば、おそらく悪くはないし(本当は悪いと思うが、ここではこれ以上突っ込まない)、社会的な成功を目指すにはそれが良いのだろう。

(だが、そのようなルールや評価基準はあくまで人と人との間で成立しているものに過ぎず、人と世界の間のルールとしては適切ではないかもしれないのだ。)

(例えばスポーツでも、ガチガチに固まったルールや評価基準の、その只中にありながら、それによってそれを超えてくるような創造的な選手は存在するだろう。しかしスポーツは、あまりにエリート主義的過ぎるとも思う。)

天下り的に与えられたルールや評価基準に従うのは嫌だ、あるいは、従おうとしてもどうしても従えない(自然とズレていってしまう)、そういう人たちが過去からずっと存在していて、そういう人たちが途切れることなく「書く」ことを続け、積み上げてきたことによって、現在あるような「小説(あるいはアート的なもの全般)」がある。そういうものが滅びないで、現在まで続いているという事実は、多くの人が考えるよりもずっと、そのような(ほとんど無駄のようにも見える)営みが、(世界と繋がっている)社会に対しても少なくない意味を持っているということだと思う(それは、見えないところにある「社会<世界の背景」の探査に関わっているのだから)。そのような人たちの存在や営みに連なるようにして「書く」ということを、おそらく保坂さんは言いたいのではないか。

社会的な問題を取り扱うにしても、それが、未だ輪郭の見えていない、問題化されていないような事象について、そこに見えていない問題があることを浮かび上がらせるようなものであれば、創造的な意味があると思う。既に問題化されて可視化されているような問題を取り上げて、それを上手に物語化することにも、啓蒙として一定の意味はあると思うし、それによって救われる人もいると思うのでぼくは否定はしないが、自分がそれに積極的に興味を持つというのではない。

●それとは別に、最近の芥川賞や文芸誌の保守化というか「萎縮化」のようなものに対する危機感が保坂さんにあるのだろう。そこには「貧しさ(本が売れない)」ということが決定的に絡んでいるように思う。単純に、社会的な(既に社会問題化されている)主題を持つ小説は「売りやすい」ということが大きいのではないか。例えば、保坂さんが無名で、『プレーンソング』という小説があったとして、それをどのようにして「売る(小説に相応しい読者と小説とを繋げる)」のかは、とても難しい問題だと思う。「新しさ」というのは、新しいが故に既成の文脈に落とし込むことが困難だから「売りにくい」。ぼくの持っている『プレーンソング』の単行本には橋本治の推薦文が帯についている。橋本治の小説と保坂さんの小説が似ているとはあまり思えないが、九十年代初頭の日本の文化的な状況の中で、橋本治の読者であれば保坂さんの小説を読める(受けとめられる)確率が高いのではないかという見立ては理解できるし良いと思う。そのようなことをするには編集者による創造性も必要となる。

●あと、重要だと思ったのは「続けてみないと個性はわからない」ということ。自分の資質みたいなものとは、何かをある程度続けてやってみて、あれ、自分は意外にもこっちなのか、というような感じで、じわじわとくる意外性のようにして出会うのではないか。

2023/01/21

●両国のアートトレイスギャラリーで、HO×RN(小野弘人×西尾玲子)「遠回りの作法―ミース・オン・ザ・グラウンド」のトークイベント「絵画の透明性・建築の透明性」(小野弘人・西尾玲子・上田和彦・古谷利裕)の二回目。ぼくは、以下の作品について話しました。

一回目はベタに近代絵画マニア的な内容でしたが、今回の(ぼくにとっての)テーマは、(18日の日記にも書きましたが)二つ以上の矛盾する像(空間)の並立(≒虚の透明性)という概念を拡張して、それを見る主体の分裂(幽体離脱)、さらに、その分裂された主体の再統合のために要請される「新たな時空経験(バイロケーション)」についてでした。

(「あなたは今、していますA3」については実際に体験していないので、あくまで想像として話したのですが。)

2da.jp

荒川修作の実験展 見る者がつくられる場」展覧会図録より

 

www.yuusukekarasawa.com

 

2023/01/20

●里見龍樹『不穏な熱帯』、第二部「歴史」第四章から引用、メモ。「忘れっぽい景観」および「人間以前でもあり、人間以後でもあるものとしての自然」について(人間以後の「自然」とは、関係性からの脱落によってあらわれる「自然」である)。

《(…)私がそのような歴史人類学的な文脈化のアプローチをあくまで一面的であると考えるようになった一つのきっかけは、パプア・ニューギニア北部、セピック川流域における人々と景観の関係についてのハリスンの民族誌であった。この民族誌のなかでハリスンは、西洋の景観とセピック地方の景観の根本的な性格の違いを指摘している。すなわち彼によれば、西洋で通常想定される景観が過去の歴史の痕跡を現在にとどめ、そのような痕跡の解読を促す「物覚えのよい景観」であるのに対し、セピック地方の景観は、人間活動の痕跡を急激に消失させる「忘れっぽい景観」である。このような議論を手がかりとして、私は、アシの島々をむしろ「歴史的記憶からの脱落」という観点からとらえ直そうと考えるようになった。》

《セピック地方の景観が「忘れっぽい」とはどういうことか。ハリスンによると、セピック川中流域では、河川の毎年の氾濫のために地形や景観が不断に変化し、たとえばかつての集落が土地ごと消失してしまうこともあれば、新たな土地が短期間のうちに形成されることもある。》

《(…)そのような消失は一面で、そこに住む人々が環境と関わる独特な仕方の効果でもある。すなわち、過去の諸世代あるいは死者の痕跡が過剰にとどめられるのを嫌うセピック地方の人々は、自然環境に手を加える際、そうした変形の痕跡が結果的には環境に溶け込み、人為的な産物とは認識不可能になるような仕方でそうしようとする。》

《たとえば川の付近に、カヌーによる移動のための新たな水路が欲しい場合、人々は、多大な努力を払って大きな水路を掘削する代わりに、「このあたりに水路ができたらよい」と思われる地点に、ごく小さく部分的な水路を掘っておく。そのような水路は、毎年増水の時期になると、川の氾濫によって急激に押し広げられ、結果的に、人々がもともと望んでいたような水路として形成される。しかもそのような水路は、事後的には、あくまで自然に生じた流れの変化と見分けることができず、その形成を導いた人為の痕跡は環境の中へと消失させられる。》

《(…)かつてセピック川中流域の人々は、森の中に新たな道が必要な場合、それを切り拓いてすぐに使用するようなことはしなかった。新たに拓かれた道は、敵対する集団に待ち伏せという襲撃の機会を与えてしまうからである。この危機を避けるため、人々は逆説的にも、いったん切り拓いた道を長期間放置し、再び草木がそこに生い茂り、もはや使われている道ではないかのように見えるようになって、はじめてその道を使用した。》

《右の水路が、半ば人為的に、しかし河川の氾濫という自然の現象にあくまで沿った仕方で掘削され、そのため自然に形成された水路と区別不可能であったように、ここでは、人々が切り拓いた道が、放棄された、もはや道ではなくなりつつある道と、意図的に区別不可能にされている。》

《(…)ハリスンにおいて、地形や植生といったセピック地方の「自然」は、人々の「社会的」あるいは「歴史的」活動に先立って存在する原初的な状態では決してない。そうではなくて、彼はむしろ、他の集団との関係の中で、周囲の環境を改変しつつ生活する人々の社会的で歴史的な営みが、そのような営みの領域の外部へと自らを脱落させていくような側面に注目し、地形や植生といった「自然」の事象を、まさしくそのような外部に見出しているのである。》

《(…)ハリスンの議論は、水路や道といった事物が、所与の「社会」や「文化」という関係性から脱落していく運動に、人と区別不可能になった「非-近代的」というべき「自然」を見出しており、そこでは、「自然/文化・社会」という両極間の運動が、近代的な想定とは逆になっている。セピック地方の「自然」は、われわれの理解する「自然」と同一ではない(われわれは通常、水路や道を「自然」の中へと解消させはしない)が、かといってそれと無関係でもない(河川の氾濫や植物の繁茂は、われわれにとっても「自然」の事象である)。また、ハリスンが描く水路や道を、「自然と文化のハイブリッド(複合体)」などとしてとらえてしまうと(…)、右で述べた関係性からの脱落という契機をとらえ逃してしまうことになる。》

《右で見たような水路や道は、河川の氾濫や草木の繁茂といった人間〈以前〉の現象に根差しつつ、それと同時に、人々が環境に手を加えるのをやめることによって立ち現われる、ある意味で人間〈以後〉の「自然」としてある。》

●上の記述を読んでいて、唐突に、久々に、「造成居住区の午後へ」(丹生谷貴志)を想起した。

《その「場所」は、それ自体としては、哲学的概念の森林を彷徨ったり(!)、内面や外界を複雑に周回しなければ見つからぬといったほど難解な場所ではおそらくない。ちょっとした散歩で足りる。凡庸な場所。たとえば、郊外の造成地を歩いていると、街の区画が途絶え、荒く削られた未整理の造成地帯に出ることがある。住居地区の区画はそこで曖昧に途切れ、造成地区から続いてきた道路は未整理地区へ数メートルばかり走り込んでいるが、その周囲に白いビニールや半ば土に溶け込んだハトロン紙のゴミ袋、千切られたグラビア写真、空き缶を縁飾りにしながら、削られた石やアスファルトの層、黄土色の土ぼこりなどにまぶされて途切れてしまう。たとえば午後の二次頃から三時、或いは四時から五時頃にかけて、その時間に無為の散歩を許される者なら誰でもが知るように、造成居住区はただでさえ人影がなくなるのだが(とりわけ男たちの姿は……)、その曖昧な、路地が途絶えようとする境界区域はさらに人間の気配がない。ドゥルーズの言う「生」の場所はおそらくそこに現れるのである。そこは造成という人間的秩序(意思)が途絶える場所である。おそらく今しばらく進めば「人間」を必要としない、或いは「人間」をその構成要素の一部として組み込んで構成される「自然」的秩序の領域が始まるのだろう。しかしそこではそれは未だ始まっていない。「自然」の組織-秩序は、そこまで曖昧に迫り出してその崩れの末端を曖昧に食い込ませている「人間」的秩序によって破綻している。しかし、「人間」的秩序もその活発な精気を失って色彩を失いつつある。そこは「人間的」秩序が曖昧に破綻し、しかし未だ「自然」的秩序は始まっていない、中間領域であるだろう。》

《…造成居住区の午後にはなにがしかの「狂気」があり「錯乱」がある。「人間」的秩序はそこでとりとめのない雪崩の中に文字通り崩れだし、同じ崩れの場所に「自然」的秩序も雪崩続けることをやめない。なるほど、「女たち」「子供たち」「老人たち」の空虚な、下らぬお喋りがそのすぐかたわらで毎日、広がり出す。(…)それはすぐかたわらに広がるあの時間-場所の奇妙な無言の領域を押しやるのではなく厚みのない埃のようにその周囲に降り積もってゆくかのようであり、その言葉の細々とした計画の連鎖は決してあの領域を「境界の外部」へと隔離してしまうことはない。(…)》(『死体は窓から投げ捨てよ』所収「造成居住区の午後」より)

2023/01/19

●昨日の日記に書いた多次元、例えば四次元に、神秘的な意味は全くない。たんに四つの座標によって表現される空間ということにすぎない。同様に、十の座標で表現される十次元や、百の座標で表現される百次元を容易に考えることができるし、そのような空間はおそらく数学的にはありふれたものだろう。コンピュータがあれば、百次元空間内の点aと点bの距離も簡単に計算できるだろうし、百次元空間に存在する百次元立方体の体積を求めることもできるだろう。ただそれは、数式、行列式、数値という形で表現されるのみで、その形を具体的にイメージすることができないということだ。

イメージすることのできない多次元状態をイメージ可能な次元に圧縮するということで考えているのは、例えは「顔」のようなものだ。顔は、三次元的な物体だが、それが表現としてもつ「表現座標」は多元的である。個人識別座標、年齢座標、感情座標、疲労度座標、人柄座標、意欲度(関心度)座標、性別座標、健康度座標、(相対する相手に対する)好感度座標、美的座標など、「顔」はそれを所有する人物の状態に関する、多数で様々な表現(座標)が交差した、多次元的表現物であると言える。多様な表現座標の交錯によって作り出される多次元的表現空間が、三次元的な物体として、ギュッと凝縮され、いわば次元数が潰された状態として三次元的に現れている。

多様な表現座標が圧縮されてあることで、「顔」は非常に豊かなニュアンスを持ち、多くの情報を表現する物体となる。人は、他人の顔からとても多くのことを、とても敏感に、そして直感的に読み取ることができる。しかし同時に、だからこそそこには、多くの誤解(短絡・混線)が生まれる余地がある。例えば、怒っているのかと思ったら、ただ疲労していただけだった、というような。

誤解の余地があるということは、解釈の多義性を持つということだ。つまり、多義性はそれ自体でポジティブなものでもネガティブなものでもなく、高次元的な表現の圧縮が行われる時、その表現性(ニュアンス)の豊かさに付随するものとして必然的に現れるものだ、と考えられる。だから(重要なのは表現の多元性の方であって)、多義性そのものを取り上げて称揚したり批判したりしても意味がないと思われる。

2023/01/18

●HO×RN(小野弘人×西尾玲子)の展覧会のトークイベントのための準備や打ち合わせを通じて、改めて「虚の透明性」という概念の持つ重要性というか、面白さを感じるようになった。コーリン・ロウとロバート・スラツキイによるテキストの厳密な解釈をやや踏み越えて拡大解釈をするならば、「虚の透明性」という概念によって、近代絵画(マネから抽象表現主義まで)が生み出した非遠近法的な絵画空間の可能性のほとんどを説明できてしまうのではないかとさえ思う。以下は、コーリン・ロウとロバート・スラツキイによるテキストに引用されている、ジョージ・ケペシュによる「透明性」の定義。

《二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけでなく絶えず前後に揺れ動いているのである。》

例えば、これはかなり逸脱した解釈だが、「虚の透明性」を、感覚不可能な高次元の時空を感覚可能な次元に圧縮するることによって生じる「ゆがみ」や「矛盾」のありようから、元の高次元時空の状態を(身体の全てを用いて)再現しようという観者の努力(積極的な意思)によって生じるもの、と考えることができるのではないか。下の図は、四次元空間の立方体を二次元に圧縮して表現したものだが、この図から、本来感覚不可能な「四次元」の時空を何とか感じようとすることで「虚の透明性」が生まれる、と。

(これは、スタインバーグによるものとも、クラウスによるものとも異なる、より普遍的で広がりのある「グリーンバーグによる近代絵画の規定」への批判の原理にもなり得ると思う。)

そしてそれはたんに「過去」を説明するだけでなく、この概念を、例えばエリー・デューリングの時空論に照らして発展させることで、現在進行形の作品や、来たるべき作品のための指針にさえなり得るのではないか、と。

●そしてこのことは、二つの欲望をぼくの中に掻き立てた。一つは、久々に(一時的に眠っていた)近代絵画マニアとしての血が騒ぎ出した、ということ。近代絵画(ベタに、マネ・セザンヌピカソマティス)について、マニアックに語りたいという欲望がでてきた。例えばマネの絵がいかに変であるのかを、具体的に一枚一枚の作品を示しながら主張したい。モネならば、誰でも見ればわかるし、見たままの素晴らしさで素晴らしいが(「素晴らしい眼だが、たんに眼にすぎない」とセザンヌは言った)、マネの絵はただ見ただけではその面白さは分からないし、その異様さに気づくことさえ難しいかもしれない。(好き嫌いで言うとどうしてもセザンヌマティスになってしまうのだが)近代絵画と言えばまずはマネ(とクールベ)であって、マネが絵画空間上に起こした革命が、そのまま抽象表現主義にまで繋がっていく。では、マネの何が革命的なのかについて、具体的に「ここ(ここがこうなっていいるから、そうなっている)」と言って示したい。

マティスにかんしても、どうしてここがこうなっていて、こうなっていることの何がすごいのか、について、具体的に作品に即して説明したいという気持ちがある。画家の人生とか主張とか、美術史上での意味とかではなく、この画面の上で何が起こっているのか、について。例えば、マティスにはダイナミックに変化し続ける制作過程を写真に撮って残している作品がいくつかあるが、それが決して無限のバリエーション展開ではなく(この点でピカソマティスはかなり異なる)、そこで何が探られていて、どうして「ここ」が完成地点なのかについて、それを(あくまでぼくの仮説だが)ちゃんと示したい。

でも、そういうことは「西洋美術入門」のような本には驚くほど書かれていない(百メートル先から物に触れようとしているみたいな、あやふやな書き方しかされていない)。それをちゃんと示しておかないと、近代絵画がやってきた達成がなかったことになったまま、過去の、何となく立派だとされるものとして、ふわっと消費されてしまうだけだという感じがある。近代絵画が、その本質が理解されないまま、派手なARコンテンツの(有名かつ著作権フリーである)都合のいい元ネタのようにして搾取されているのをみるのはとても辛い。なので、「入門書が教えてくれない近代絵画入門」のようなことをやりたい、と。

●もう一つは、「虚の透明性」という概念を、二つの矛盾する像(空間)の並立から、それを見る主体の分裂(さらに、その分裂からの再統合のために要請される新たな時空経験)へと拡張して、そこにエリー・デューリングの時空論を通すことで書き換えると、ずっと放置したままになっている「幽体離脱の芸術論」の続きの展望が見えてきそうだ、ということ。そして、それを考えるために重要な実作として、柄沢祐輔さんのs-houseがあり、桂離宮があるなあ、と。それ以外でも重要なヒントとなる建築の実作を、小野さん、西尾さんからいくつか教えていただくことができた。

以下は、エリー・デューリングの講演、「時間の形としての東京:東京のパラドックス」からの引用だが、これを「虚の透明性」の新たな説明と考えてみると、何が生まれるのか。

《(…)時間が意識に対して現れるのは、異なる速度(あるいはリズム)で並行して展開する二つ以上の運動を一元化するという問いが想起される時だけである。》

2023/01/17

●分厚い。自立する。というか、ハードカバーの本は大抵自立するのか…。

●この本の翻訳が出るのか。

もちろん、読みたいし、読むつもりだが、それにしても、インターネットでリアルタイムに情報が入ってきて、外国語ができなくてもDeepLで翻訳すれば大まかには何が書いてあるか分かってしまう時代に、クラウスが八十年代から九十年代にかけて書いた著書が、二十年から三十年以上も遅れて、ここ五年くらいの間にようやくポツポツと日本語で読めるようになる(『オリジナリティと反復』は九十年代に翻訳が出ていたが、古本が高騰しすぎていて実質上読めなかった)という、恐るべき遅延がここにはあるのだが、こうなったら、遅れを取り戻すための「お勉強」としてではなく、この遅延それ自体をポジティブな意味のあるものと捉え、さまざまな遅さと速さとの折り重なりによって成り立っている「今・ここ」において読む方がいいだろうと思う。要するに、美術批評史的な文脈など気にしないで今の自分の関心に沿わせて勝手に読む、と。ポストモダンも既に終わった現在、(モダニズムに対するカウンターとしてあからさまにポストモダン的である)クラウス(あるいはオクトーバー派)のテキストが今読んでも面白いと思えるポテンシャルを持つかどうかは分からないが。

(下の写真、『反美学 ポストモダンの諸相』もどこかにあるはずだが見つからなかった。)



 

2023/01/16

●昼間は東工大で『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』についての講義をして、夜は、家でリモートで、アートトレイスギャラリーの「虚の透明性」にかんする二回目のトークイベントの打ち合わせをした。頭を切り替えるのがけっこう大変。

(社会派でなければアートじゃないとでも言わんばかりの時代に「虚の透明性」とか言っている。前回は、絵画(近代絵画)篇だったが、次は、インスタレーション・建築篇になる予定。柄沢さんの作品についても話す。)

●手に入れた。重たい、分厚い、自立する。896ページ。