2023/11/23

⚫︎「一筆書きで描かれた顔」は、ほとんど悪ふざけのような(ようにしか見えない)シリーズだけど、図と地の問題、ゲシュタルトの問題、イメージ=顔の問題といった、ぼくにとって重要な問題がいくつも重なっているもので、しかし、それを今のところは、このような馬鹿げたものとしてしか形にできないということです。

 

2023/11/22

⚫︎「このわたし」の固有性について考えるためには、「決して一般性には解消されることのないこのわたし」性というものの「一般的性質(形式)」について考え、その一般的性質によって導かれた《この「このわたし」》について考える必要があるのではないかと、昨日の日記ではほぼ勢いで書いたが、考えてみるとこれはけっこう重要なことではないかと思えてきた。これはつまり、わたしの固有性を捉えるには、遠く(一般性としての「このわたし」の性質)へ行って、もう一度戻ってくる(《この「このわたし」》)という過程が必要があるという感覚で、これは「十年後」(長澤沙也加)という小説を読んだことで得られた考えだと思う。

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ただし、昨日も書いたが、「このわたし」という「一般化できないものの一般的性質」は、どこまでも改訂可能性のある「蓋然性の高さを目指す仮定」として運用されるしかなく(決してメタに至らない未メタ的なままのものであり、だから準一般的性質というべきかもしれない)、試行錯誤を通じて何度でも書き換えられるものでなければならないだろう。

ここで試行錯誤とは、まず「ここ」があり(わたし)、いったん遠くへ行って(「このわたし」の一般的性質)、再び戻ってくる(《この「このわたし」》)、ということの繰り返しというとになろう。

この時、最初の「ここ=わたし」と戻ってきた《この「このわたし」》の間にはズレが生じる。もしかすると前者と後者とは「(字義通りに)別人」である場合もあるかもしれない。

2023/11/21

⚫︎自分語りというものをことさら嫌う必要はないと思うが、自分語りとは「自意識語り」であり、そうである限りそれは「このわたしの生」を揺るがすところまではいかないのではないかという感覚がある。逆説を弄するように思えるかもしれないが、「決して一般性には解消されることのないこのわたし」性というものの「一般的性質(形式)」のようなものをいっぺん考える必要があるように思う。

(アラカワ+ギンズが考えていたのはこれではないか。)

ただし、「一般化できないものの一般的性質」なので、こうなのではないかと仮定して、その仮定の蓋然性を試してみることができるだけで、決して決定したり証明したりすることはできず、どこまでも改訂可能性のある「蓋然性の高い仮定」として運用されるしかないだろう。とはいえ試行錯誤によって蓋然性を高めていくことはできるはず。

つまりこれは決してメタにはなりきれない未メタ性としてあり、階層構造に至らない階層への指向性のようなものとなる。

「他でもないこのわたし」の一般化されない固有性を認めると、他でもあり得た多様な「このわたし」の具体性をいくつも並立的に想定(想像・創造)した上で、それらのどれであってもよかったはずだが、どれでもない「これ」として「わたし」を措定する必要があるが、メタ構造に収斂されない具体例は果てしなく増殖して際限がない(全体がない)。この、爆発的増殖を食い止めるのが(「このわたし」の一般的形式という遠回りを経た上で現れる)《この「このわたし」》の限定性なのではないか。

たとえば、マルクス・ガブリエルによる「このわたし」の一般的性質とは「先取りできない」ということになるのではないか。実際に認識を深めて誤謬を訂正するより前に誤謬の在処を「先取り」できない。実際に他者と応答するより前に他者との抗争や調停の結果を「先取り」できない。実際に具体例が現れるより前にその可能性の全体像を「先取り」できない。実際に試してみるより前にその仮定の真偽は「先取り」できない。このような「このわたし」の一般的性質(先取りできない)により《この「このわたし」》という限定性が導かれる。

(これは仮定であり、いわば「哲学的掛け金」のようなもので、証明することはできない。しかし蓋然性を試してみること―-わたしの性において-―はできる。)

(どのような高度な計算機であっても、実際に計算してみるより前に計算結果を「先取り」することはできない。だとしても、その計算量や速度が膨大である場合、人間にとっては計算機に「先取り」されることになる。この場合の「先取り」をどう考えれば良いのか。本当に先取りされていたかどうかという結論は「先取り」できない、となるのか。)

(追記。たとえば天気予報。一週間後の天気の予想にはブレがあるが、明日の天気の予想についてのブレはかなり小さい。既に計算機は、明日の地球の気象状況をかなりの精度で「先取り」している。また、計算機によるシミュレーショが「実験」として認められている。これも計算機による「先取り」の一種ではないか。)

2023/11/20

⚫︎「十年後」(長澤沙也加)について、もうちょっと。

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⚫︎書き出しの最初の段落を読んだだけで、これが只者ではない小説であることが感じられる。

ニルバーナの、赤ちゃんがプールで泳いでいるジャケットのアルバムを貸してくれた男の子は、ロミに顔が似ている女の子と後に結婚するが、そのときはロミの肩を掴んだ。廊下の、階段の手前だった。

《アルバムを貸して「くれた」男の子》とあるので、この文は、アルバムを貸して「もらった」ロミの視点から書かれているように、まず思う。だがついで《…男の子は、ロミに顔が似ている女の子と後に結婚するが…》と続き、いきなり、未来から現在を見ているような先取りされた視点へと視点が移動し(そしてそれは、未来のロミの視点でもないだろう)、それがまた《そのときはロミの肩を掴んだ》と、今、肩を掴まれているロミを近くで見ている視点であるかのような言葉で着地する。一旦、遠回りしてから戻ってくるというか、近くには戻ってくるのだが、「掴まれた」ではなく「掴んだ」となるので、最初に予想されたロミの視点とはズレて着地する。異なる視点が接木されたかのように接続されている。さらに言えば、《ニルバーナの、赤ちゃんがプールで泳いでいるジャケットのアルバムを貸してくれた男の子》という言い方は、貸してもらったときよりも少し後になってからロミがその事実を説明しているようなニュアンスだが、《そのときはロミの肩を掴んだ》という言い方は、「そのとき」と言っているから過去を思い出しているとも取れるが、「肩を掴んだ」という行為の現在性が際立つような表現に見える。「アルバムを差し出した」ならば「行為」的だが、「貸してくれた」となると直接的な行為というより事実の記述で、それに比べて「掴んだ」という言い方の行為性の強さが現在を感じさせるのだと思う。つまり、少し前の出来事の説明→遠い視点からの記述→行為の現在性の発現という、(視点だけでなく)機能や時制としても異なる三つのものが一つの文に詰め込まれ、次々と現れている。

また、この文で示される、(男の子は)「ロミにアルバムを貸した」「将来、ロミと似た女性と結婚する」「ロミの肩を掴んだ」という三つの事実の間の因果的関係性が、この文を読んだだけの時点ではよくわからないまま開かれている。だから、時空や因果が錯綜した塊を、それ自体の充実を感じつつも、腹に落としきれないまま次に進むことになる。そして次には「肩を掴む」行為が行われた場所の限定が手短に置かれる。ここでの腹に落ちなさが、その先を進んでいく力となる。

最初の段落でガツンとやられたあと、小説は、ロミという人物に関する、のらりくらりとした、焦点を結ばないような記述がしばらくつづく。先が見通せないというか、角を曲がるまでその先が予測できないような記述を読んでいくうちに、最初の段落で問題になっていることは「アルバムを貸してくれた」ことよりもむしろ「肩を掴んだ(掴まれた)」ことの方だということがジワジワわかってくる。この、決して一直線にではない「わかり方」が面白い。《高校に入り急に男の人を気持ち悪いと思うようになった》と書かれるような、「自他の身体が性的なものとしてあることへの違和感」は、ロミという人物において小説の最後まで持続するが、それはあくまでも喉に刺さった小骨のようにあり続けるのであって、この小説の主題というわけではないだろう。

⚫︎この小説に書かれている主なことは、過去の方向にも未来の方向にも長いスパンで伸びる時間が、しかし線的にではなく、複雑に錯綜した形で織り込まれている「家族」という場に現れる時間のありようだと言えると思うが、しかしその中心にいるロミという人物は、「一人で歩いている」という未来しか想像できない、将来自分が「家族」を作ることが想像できないというような人物だ。彼女は基本的に男性にあまり興味がないように見える。しかし、愛想笑いという意識もなく、ただ自然に(というより、自動的に)笑っているような彼女の笑顔にヒルは惹かれる(ヒルは、ロミの笑顔を自然な笑顔として受け取り、マユリの笑いを嘲笑のように受け取る)。だがロミとヒルとが互いにわかり合えるようには思えない。ヒルはむしろ、マユリと深くわかり合える可能性がある。それでもヒルはロミに惹かれ、マユリとは決定的に行き違う。いわゆる三角関係というものとはかなり違う、三人の人物の行き違いが、この小説を縦軸のように貫いている。

ヒルとマユリは、とても深いところで通じ合っているにもかかわらず、決定的に行き違う。二人は、互いにわかり合っているのに、「わかり合っているということ」を「知ることができない」ままである。次の部分を読んだ時に、小説はこういうことが書けるから素晴らしいのだと思った。

(「神の視点」にあるから書けるのではなく、小説における具体的な記述の接合や運動のありようによって書ける、のだと思う。)

(ロミ、ヒル、マユリの三人が、放課後、家庭科室で語り合ったあと、時間が遅くなったので帰る、という場面。)

 廊下に出て、各々教室からコートやらマフラーやらカバンを取り、窓の外は完全に闇に包まれ先が見えない。三人の視線は闇に吸い込まれ、ガラスに反射した蛍光灯の光の下でぼんやりと三つの顔が浮かんでいる。「外が想像していたより暗い」という意味の言葉を三人はそれぞれの語彙と表現で繰り返し言いながら校舎を出て自転車置き場に向かう。

 ヒルとマユリは、そのときの闇の深さを十年後、同じ日ではないがそれぞれに夢で見る。その闇が、高校時代に三人で見た闇だとは気づかないし、ヒルはマユリが、マユリはヒルが、同じ闇の夢を見たことを知らないし、誰にも話さないし、夢の内容もすぐに忘れてしまう。

 

 

2023/11/19

⚫︎noteで「十年後」(長澤沙也加)という小説を読んだ。これは素晴らしかった。この作家の小説は以前「私鉄系第三惑星」というのを読んで、これも面白かったが、そこからさらに一歩も二歩も踏み込んだ大きな飛躍があるように感じた。多くの時間・空間が複雑に畳み込まれている非常に濃密で優れた小説だと思った。

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多数の異なる空間、時間、視点人物を融通無碍に行き来する自在な語りで語られるが、大きく括れば、前半は、高校の家庭科室での、ロミ、マユリ、ヒルが語り合う場面、後半は、ロミとヒルがショッピングモールでデートする場面と言えると思う。ただし、この大雑把な括りではとらえられない大きな逸脱があり、その逸脱のあり方こそがこの小説の魅力だと言える。前半部分を読んでいる時は、面白いけど、やや微妙なところもあるかなあと思っていたが、後半部分ですっかり心を掴まれた、という感じ。

後半部分で、それまでは回想的なエピソード上の人物でしかなかったキミカが唐突に前面に出てきて、この語りの逸脱がそのまま小説のクライマックスとなる。前半で、ロミの視点から、その家庭の幸福そうなイメージが羨望をもって語られるキミカだが、後半では、その家庭がゆるやかな崩壊の兆しをみせていて、その崩壊のただなかにいるキミカが、ショッピングモールのフードコートからの青い空と雲を見て、「あの雲の下まで行ってみたい」と、母親を置いてベビーカーの赤ん坊と共に外に出て、歩き出す。

この小説は、一見、とりとめもなく視点が移ろっていくようにみえながら、音楽的な主題の反復と展開があり、それによってロミ、マユリ、ヒルという人物像とともにその家族のありようが的確に描き出され、そして「家族」とはつまり時間の幅であり、それは「死者」のイメージをも含んだ過去であると同時に、登場人物たちの未来へと投射されるものでもあるということが、まさに自在に揺れ動く筆致によって示される。

(登場人物は高校生、と中学生で、自立以前のその年代の子供は否応もなく「家族のなかに組み込まれた」ものとして存在しているだろう。)

時間の幅として、ある意味で圧縮されたデータベース的に存在する「家族」という厚みのなかから、ここでキミカは、突出した「現在」として、一人で、というか、赤ん坊というひとつの重たい「責任」とともに、歩き出す。後戻りのできない一歩を、風通しのよい幸福な場としてあった家族に陰りや疲労のみえはじている、そのただ中で、踏み出そうとする。この、ふいに現在が突出するような場面で、完全に「やられた」と思った。

(その歩み出しは、不意の腹痛=便意によっていわば挫折するとも言えるが、この場面でキミカが一時、便意も忘れて立ちすくみ、《一体これは、どこから始まったことなのか》と呆然となるところでは、ここにまさに「生の感触」が掴まれていると感じた。この場面に限らず、この小説では「これは生の感触そのものだ」と感じられる描写がいくつかある。)

その姿は、自分の未来の像として「一人で歩いている」というイメージしか持てないロミと重なる。ただしロミのこのイメージは、具体的な未来ではなく、突出した現在でもなく、時間を越えて、ロミをロミたらしめている本質のようなものとしてある感じ。

ここに、ロミではないが、ロミと似ている女性と結婚するという、具体的な未来が描かれるヒルとロミとの相容れない点があらわれていると思われる。ヒルは、五、六歳の時に時空を超えてロミと出会っており、また、未来においてロミと似ている女性と結婚するのだが、それでも、今、ここにある、「一人で歩いている」というロミの本質とは擦れ違いつづけることになる、のが面白い。

話題が合う、共感できる、という意味では、ヒルとマユリとの間にはあきらかな接触点がある。高校の時に一緒に見た同じ「闇」を、十年後に共に夢にみるということを考えても、二人の精神のつながりの深さはうかがえる。しかしそこにも齟齬があり、ヒルは、ロミの方に、なんとなく親しみを覚える。しかしロミともすれ違う。

(ヒルが「腹痛」によってマユリを強く拒絶する場面は、強烈で、とても痛ましい。)

また、マユリ、およびマユリの母によって、この小説にもたらされるものもとても重要だと思う。彼女は、三人(四人)の主要な人物のなかで、歴史や時間の推移を最も明確に意識しており、たとえば、川にある小山の生成過程を意識していたりする。この時間感覚(時間認識)は、おそらくロミとは共有不能であり、ロミの世界には存在せず、しかし、ヒルとならば共有可能であるように思われる(ヒルの母もまた、「死体」のイメージを具体的な歴史のなかで刻んでいる)。死者に対する認識にも、二人は共通するところが多い。しかしそんなに近いのにもかかわらずヒルとマユリはそれでも相容れないと言う痛ましさ…。

ずっと一人でいるロミに対して、十年後のヒルには、ロミに似た妻と、子どもがいる。死や死体のイメージを多く含んだ小説だが、それが、書き出し(ニルヴァーナのジャケット)と終わりにある「赤ちゃん」のイメージ(ルイ、ヒルの子供たち)で挟まれる。

2023/11/18

⚫︎マルクス・ガブリエルの平坦な存在論において、さまざまな「意義の(諸)領域(意味の場)」は全てフラットであり、階層構造、メタ的構造を有さない。たとえばフレーゲは、実際に見ることのできる「明けの明星」や「宵の明星」を「意義」とし、それらを統合する上位概念としての「金星」を「意味」とすることで、階層構造を考える。しかし、マルクス・ガブリエルはあらゆる存在は「意義」の次元にあると考える。以下、『マルクス・ガブリエルの哲学』(菅原潤)、第二章「ユニコーンは存在する」に引用された『諸々のフィクション』からの孫引き。

《グレートヘン(ゲーテファウスト』の登場人物)は宇宙において、連邦首相は形式的システムにおいて、フェルミ粒子は基本法から生存権を導出する制度において存在していない。グレートヘンが宇宙において存在しないことは、グレートヘンが存在しないことを意味しない。フェルミ粒子が法的権利と義務を有していないことは、フェルミ粒子が存在しないことを意味しない。》

⚫︎グレートフェンはゲートの『ファウスト』という意義の領域(意味の場)に存在し、連邦首相はドイツの政治システムという意義の場に存在し、フェルミ粒子は物理学という意義の領域に存在する。存在とは、ある特定の意義の領域において存在することで、それは別の意義の領域には存在しないし、すべての意義の領域を貫いて存在するものもない。すべての意義の領域を「予め」包摂する全体=世界は存在しない(具体的な意義の領域が存在するより前に「世界」という「先取り」が存在することはできない)。

⚫︎マルクス・ガブリエルは、フィクション的存在を、非空想的存在と空想的存在に分ける。非空想的存在とは、小説ならばテキストに実際に書き込まれたものそのもののことで、空想的存在は、小説を読むことによって読者の中で生じた経験の中にあるもののことだ。後者は、読者が小説をパフォーマンスすること、あるいは解釈することで存在するとされ、フィクション的存在には後者が不可欠であるとする。ボルヘスの「アレフ」で、宇宙のすべてがある一点に現れているという場所の「描写」には、宇宙のすべてが長々と書き込まれているわけではなく、その記述から読者が「宇宙のすべて」に相当するものを感じとる(想像する)ことができるかどうかが問題となる。フィクション的な存在の中に非空想的なものと空想的なものが混在することにより、意義の領域(存在)の「改訂可能性」が生じる。以下、『マルクス・ガブリエルの哲学』(菅原潤)、第二章「ユニコーンは存在する」より。

《(…)空想的対象を思い描くためには想像力の補填が必要になる。例えば半沢直樹に登場する東京中央銀行は東京には実在しないが、そのことによりドラマの一切が絵空事として片づけられることはなく、東京として描かれたイメージの一部を改訂する形でわれわれは物語を受容する。同じことは芸術以外のフィクションにも適用される。つまりは自身の前提としていた知見を一部を改訂して他者との折り合いをつけるのであり、不同意の事実によって関係が断絶するということはあり得ない。》

⚫︎マルクス・ガブリエルは、このような「不同意」と「改訂」こそが共同性や社会の基礎となるとする(理念や理想が先にあるのではない)。まず『諸々のフィクション』の孫引き、ついで『マルクス・ガブリエルの哲学』、第二章からの引用。

《不同意とは異議の差異であるが、それは二人の個人が相入れない命題的立場を有したりそれをさらに言語的に分節化したりする際に初めて顕在化するものではない。何かを他人と違って見ること自体が、一つの不同意の形式である。場所が変われば同一の対象の見え方が変わるという洞察にしたがえば、両立可能性はあり得ない。そのことを洞察していけば不同意も容易に調停できる。》

《ガブリエルによれば、ここで言われる「不同意」は政党間のイデオロギー的対立とか、宗教的価値観のにまつわる武力衝突とかのような深刻なものに限定されない。むしろ「他人とは違って見ること」から、すでに不同意は始まっている。つまりは同一のもの、あるいは同一のものとされるものについての相違なる意義の領域のあいだの不一致が「不同意」であって、自身の意義の領域を改訂し不同意を減らしていくことが社会の成立だと考えられている。》

《ここで重要なのは、ガブリエルが「社会」を構想するにあてった何らかの特質をその社会に賦与していないことであるガブリエルによれば、社会のあり方も先回りできないものであり、その都度の改訂作業を通じて社会の共同性が確認されるということになる。》

《こうした不同意の直面をガブリエルは社会的事実と呼び、真偽を決定できる真理とは別次元で考える。》

⚫︎芸術の自律性について。さまざまな点でグレアム・ハーマンと相入れないマルクス・ガブリエルだが、ここについてはほぼ一致しているように思われる。『諸々のフィクション』の孫引き。

《芸術作品の過度な自律性が意味するところによれば、芸術作品にまつわるあらゆる知覚、あるいは芸術作品に対するあらゆる接触さえも、芸術作品の一部でなければならない。芸術作品を知覚するためには、芸術作品を解釈する、つまりパフォーマンスしなければならない。交響曲の鑑賞は交響曲の一部であり、ピカソの彫刻の鑑賞は彫刻の一部であり、ル・プレ・カテランの食事は食事の一部である等々である。われわれの―-芸術作品の構成をめぐる思いなしを含めた-―経験が自己構成する芸術作品に関わる仕方が、伝統的に美的経験と呼ばれる。美的経験の抱える問題は、われわれを芸術作品に吸収することである。芸術作品の一部になったわれわれは、芸術作品から逃れられなくなる。芸術作品を出入りする自律的方法が人間にはない。》

2023/11/17

⚫︎YouTubeで動画を観ていたら龍角散のCMが挟まれて、《空気の中には外敵がいっぱいで… 喉イガイガ ! 》と言っていて、今まで特になんとも思わずに流して聞いていたが、改めて意識すると、こんなにキッツイ表現する ? と驚いてしまった。「空気の中には外敵がいっぱい」って、なかなかすごい(怖い)表現だ。「外敵」って、余程でないと使わない(ある意味、政治的に偏った)言葉だ。

ここで、龍角散のCM(だけ)をことさら批判したり危険視したりする気はない(もっともっとヤバイ広告などYouTubeを観ているといくらでも湧いて出てくる、それらに比べれば一見してヤバイものには感じらないマイルドなものだと言っていいだろうし、だから、これまでなんとも思わずスルーしてしまって、改めて驚いたのだ)。ただ、あくまで一般的な、空気というか、傾向の話として、「一発でわかるようなわかりやすさ」に流れるのはやはり怖いなと、改めて思った。

【CM】龍角散ダイレクト「のどを元気に龍角散篇」 株式会社龍角散 - YouTube

また別の話で、これはもうかなり前で、もしかすると十年以上前のことかも知れず、この日記にも書いたことがあるかも知れないことだが、電車の四人がけのシートに一人で座っていたら、途中駅で、向かいの二人並びの席に会社の上司と部下と思われる中年男性と若い女性が座った。しばらくすると女性の方が、上司に悩みを相談するような感じで、同僚の若い女性の体臭が気になって一緒に働いていてとても辛いという話をし始めた。なんか嫌な話が始まったなあと思いつつ、至近距離で対面しているので否応もなく聞かされる形で話を聞いていた。俺も臭いかと上司が言うと、いや、たばこの匂いとかは割と平気だけど、若い女性の生々しい体臭が辛いと言う。しばらく話していると、その人は自分の部屋の匂いを一定状態に保つ努力をしていて、だから部屋に人を入れたくないという話をし始めて、そこで、それまで自分が感じていた「嫌な感じ」が変化してきた。おそらくその人は本当に過度に嗅覚が敏感で、匂いは暴力のように強く彼女に作用し、その人にとって「世界」は、まさに《空気の中には外敵がいっぱいで… 》という状態で気が休まらないなのだろう、と。だから、せめて自分の部屋にいる時くらいは「自分にとって平穏でいられる」匂いの状態の中で過ごしたくて、そのためにさまざまな努力をしていて、しかし、他人が一人でもそこに侵入すると、それだけで、努力によって保たれた均衡が崩されてしまうということなのだろう。そこまで嗅覚が鋭い人の感覚的な経験を、ぼくはそれまで想像したこともなかった。だから同僚への態度も、匂いによって差別的な印づけをするというような意図ではなく、その人にとっては、だだ単純に、しかし切実に「辛い」ということなのだろう、と思った。

(これに対して上司は、人は一人では生きていけないから、自分を開いて、もっと社交的になった方がいいぞ、というアドバイスをしていた。)

そう考えれば、体が弱っている人とか、アレルギーのキツい人とかにとっては、《空気の中には外敵がいっぱいで… 》という表現がまさに適切である場合もあるのかも知れないとも思う。

(「この世界の現れ」は、本当に、一人一人それぞれ異なるのだ。)