2001-06-01から1ヶ月間の記事一覧

ピエール・ボナールを巡って(ピカソ/マティス)

かなり久しぶりにピエール・ボナールの画集を観ていて、その、距離感覚が崩壊してゆくような「痴呆的」な悦びに、ヤバいと思いつつも浸ってしまうのだった。ボナールという画家が痴呆的であるというのではなくて、ボナールの絵画が、人を「痴呆」へと直面さ…

ジャン・ユスターシュ『ぼくの小さな恋人たち』『アリックスの写真』

ビデオで出ていたので、ユスターシュの『ぼくの小さな恋人たち』を見直してみる。改めて見直しても凄い。ユーロスペースで見逃した人はビデオででも是非。 これは世界に対して無防備に曝された身体によって浮かび上がる感覚についての映画であると言える。無…

あついあついあつい

あつい、あつい、あつい。白い日傘をさして、白い帽子を被った、ベビーカーを押している女の人を見ると、ついつい、ああ「夏」だと感じてしまう、というのはあまりにベタ、あまりに紋切り型な感性だ、と言うべきだろう。(これで背景が抜けるような青空で、入…

鎌田哲哉によるスガ秀実(「早稲田文学」7月号)

「早稲田文学」の7月号を眺めていた。鎌田哲哉氏の「進行中の批評」は相変わらず冴えている上に飛ばしまくっている。鎌田氏は、スガ秀実氏の批評の核を、レギュラーな警察的(表象代行作用)な知が「ある歴史的条件の下」で自明性を失い、イレギュラーな探偵的…

あついあついあつい

鋪装された道路を外れて土の上を歩くと、土中や雑草にたっぷりと含まれている生暖かい水分が空中に放出されているのが蒸発して足元からじわじわと立ち登ってきて、さらに湿気が増す。それと同時にむっとくる強い草いきれ。アスファルトのような照り返しはな…

あついあついあつい

蒸し暑い、というのはこういうことを言うのだろう。いや、暑さはたいしたことはないのだが。冷房の効いた室内から外へ出たとたんに(もう、自動ドアがザーッと音をたてて開いたとたんに)、ねっとりとした細かい水滴が身体じゅうに貼り付いて、あらゆる毛穴を…

ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をビデオで

ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をビデオで。どうもぼくはトリアーと肌があわなくて、『エレメント・オブ・クライム』も『ヨーロッパ』も『奇跡の海』も、最後まで通して観るだけでかなりツライのだった。やっていることの面白さ…

サミュエル・ベケットの『伴侶』(宇野邦一・訳)を読んでいた

昨日読んだ(初めて読んだということはないはずなのだが、ほとんど憶えていなかった)ベケットの『伴侶』がとても良かったので、ドゥルーズのベケット論『消尽したもの』などををパラパラとめくり返してみていた。 《ときどきイメージを作りだすこと(「できた…

サミュエル・ベケットの『伴侶』(宇野邦一・訳)を読んでいた

サミュエル・ベケットの『伴侶』(宇野邦一・訳)を読んでいた。これはまるで夢のように掴み難くて、夢のように難解で、夢のように分裂が分裂のままであり、夢のように逃げ場(外側)がなく、夢のように切実で、そして夢のように美しい物語なのだった。これを読…

フランス映画祭で、青山真治の新作『月の砂漠』

(6/20から、引き続き、青山真治の新作『月の砂漠』について。) まるで「2度目のバス」のような「2度目の家族」の成立を、この映画はどのように示すのか。それは実に簡単なことだ。カアイと呼ばれている娘は、とよた真帆のことを「アキラちゃん」、三上博史の…

フランス映画祭で、青山真治の新作『月の砂漠』

(引き続き、青山真治の新作『月の砂漠』について。) 『月の砂漠』はとりあえずは、「家族」という関係をつくり直す物語だと言える。自然なもの、所与のものとしてある家族ではなくて、新たに「人工的」につくり直されるものとしての「家族」。その意味では明…

フランス映画祭で、青山真治の新作『月の砂漠』

バシフィコ横浜(フランス映画祭)で、青山真治の新作『月の砂漠』。今日はあまり時間がないので、取り急いで、ちょっとだけ。この映画が混乱していて、物語の語りが不器用にギクシャクしているとしたら、それは主演の三上博史が演じる人物像による。彼は、普…

01/6/19(火)

帰り、まだ音がつづいているので、雨が降っているとばかり思って傘をさすのだが、もう雨は止んでいて、ずっと持続して聞こえていたのは、アトリエの前の道路から斜面を下った谷底(と言うほど大げさなものではないが)に流れている川の音だった。やや水嵩の増…

諏訪敦彦の『2/DUO』をビデオで

諏訪敦彦の『2/DUO』をビデオで。諏訪敦彦の映画はとても明解な図式によってつくられている。『2/DUO』も『M/OTHER』もどちらも、男女の、あくまでプライヴェートな関係に、ある「社会的なもの」が侵入してくることで、その関係が揺らぎ、破綻する様が描かれ…

ある日の会話

駅に、ヤマボウシの花の白が目に鮮やかなポスターが貼ってあった。しかし、この白い、花に見える部分は総苞片(ソウホウヘン)と言って実は「葉」であるらしい。Kさんに、この辺にヤマボウシって咲いてますかね、と聞く。ヤマボウシっていやあ、あれだねえ、…

ソクーロフの『精神の声(3話)』を久しぶりで観た

ビデオを整理していて出てきたソクーロフの『精神の声(3話)』を久しぶりで観た。このどうしようもない退屈さと、でろっとした気持ち悪さはやはり素晴らしい。この退屈で淡々とした時間は、しかし決して一様なものではない。基本的な流れとして、タジキスタン…

01/6/15(金)

粒が細かくて密度の濃い雨が、静かに吹きつづける風に流されながら次々と落ちてくる。それ程は強くない風で、重そうに葉をびっしりつけている枝がなまめかしくゆっくりと揺れ動きつづけている。四方八方に伸びている木の枝は皆、水分をたっぷりと含んだ葉の…

高橋源一郎の『日本文学盛衰史』

外に雨の気配を感じながら、一日中部屋に籠っていた。高橋源一郎『日本文学盛衰史』の後半部分を読む。前半の感想(6月7日の日記)に付け加えるべきことはあまりない。と言うか、後半は全然面白くなかった。後の方へいけばいくほどボロボロになる感じ。(ボロボ…

01/6/13(水)

ドアを開いて、アパートの廊下へ出ると、真新しい畳のようなにおいをがしていた。表へ出るとかなり強い雨が降っていて、傘をとりに一度部屋まで戻った。郵便受けの脇に生えている、一年じゅうわさわさと豊かに葉をつけている人の背丈ほどの木がびっしりと水…

マノエル・ド・オリヴェイラの『クレーヴの奥方』

銀座テアトルシネマで、マノエル・ド・オリヴェイラの『クレーヴの奥方』。これはもう必見。透明でどこか淡い感じの光のなかで、黒が黒々と輝き、白が繊細に浮かび上がり、白に近い薄い水色がこれ以上ないような美しさで映える。水色の衣装をつけた黒い髪の…

松浦寿輝の『官能の哲学』(岩波書店)

松浦寿輝の『官能の哲学』(岩波書店)。この本の中心をなす「修辞的身体」という文章を、大学の頃図書館で初出の本(現代哲学の冒険4『エロス』)からコピーして、何度も読み返した憶えがある。ぼくは基本的には「そういうタイプ」の人間なのだ。でも、今はちょ…

01/6/9(土)

夜中の3時前、ふいに一羽の小鳥がピーピーとかん高い声で鳴き始めた。その声が少し開いた窓から入ってくる。辺りはまだ真っ暗だし、鳥の声が聞こえてくるような時間ではない。かしましい夜の虫の声がジンジンと響いている季節でもなく、しーんと静まったなか…

01/6/8(金)

一斗缶から黒々とした液体が零れている。そのなかには、だらしなくふやけて膨らんだ吸い殻がびっしりと浮かんでいる。パチンコ屋の店員が、吸い殻入れのなかの濁った水を、店の表の下水道に捨てている。吸い殻が下水道へ落ちてしまわないように、大きな茶漉…

高橋源一郎の『日本文学盛衰史』

なんとなく、高橋源一郎の『日本文学盛衰史』を読みはじめて、半分くらいまで(「原宿の大患3」まで)読んだ。つくづく高橋源一郎という作家は、「感傷的」な作家なのだなあ、と思う。明治の作家たちの群像を描いていると言えるこの小説の登場人物たちが、自…

是枝裕和の『DISTANCE』を観る

昨日の日記で触れた是枝裕和の『DISTANCE』が、決して「物凄い傑作」ではないのには幾つか理由がある。 昨日、夏川結衣の足の裏の汚れが、テマティズムともフェティシズムとも無関係だ、と書いたけど、この映画が、あからさまに「水」と「炎」という主題に貫…

是枝裕和の『DISTANCE』を観る

澁谷のシネマライズで、是枝裕和の『DISTANCE』を観る。物凄い傑作と言う訳にはいかないにしても、とても面白い映画だった。この映画がどんな映画かというと、夜も更けて冷えてきて、伊勢谷友介とARATAと浅野忠信が焚き火を囲んでいるところに、後から夏川結…

松浦寿輝の『巴』(新書館)を読む

松浦寿輝の『巴』(新書館)を読む。どの本だか忘れてしまったけど、松浦氏の本に、《何ものをも表象しないし、何ものによっても表象されえないものが「女」だ》とかいうことが書かれていたと記憶しているのだが、つまりはそういう見方のことを「マッチョ」と…

『みーんな、やってるか』と、たけし氏の冴えない側面

北野武の『みーんな、やってるか』という陰惨な映画をビデオで観ながら思ったのは、漫才ブームも終了し、『オレたち、ひょうきん族』のようなバラエティーも行き詰まりをみせていた頃、ビートたけし氏がテレビでやたらと量産していた、どうしようもなくやる…