2007-07-01から1ヶ月間の記事一覧

ドゥルーズの『意味の論理学』は

●ドゥルーズの『意味の論理学』はドゥルーズの本のなかでも特に好きなのだけど、この本の第21のセリー「できごとについて」では、ジョー・ブスケという、第一次大戦で負った傷によって半身不随となった詩人について書かれている。ここではブスケの負った傷こ…

●お知らせ。(1)今、出ている「映画芸術」420号に、『ミリキタニの猫』(リンダ・ハッテンドーフ)についてのレビュー(「写生しないミリキタニが写生する時」)を書いています。(この号は、中田秀夫、山下敦弘、松江哲明、沖島勲、諏訪敦彦、青山真治、ジャ・ジ…

引用、メモ。昨日につづいて

07/07/29(日) ●引用、メモ。昨日につづいて、「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いか?」(樫村晴香)より。 ●量子力学と精神分析とにおいて、共に分配則が不在であること、について。 《とはいえ、分配則の不在に対するこの反発は、誰でも無意識裡にはもつ…

引用、メモ「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いか?」(樫村晴香)

●引用、メモ。視覚と言語と確からしさ(との結びつきが、他者との関係に依存すること)について。ここで重要なのは、例えばヒュームなら「習慣」という言い方しか出来なかった世界の(意味的関連の)確からしさを保証するものが、子供の頃に、非対称的な関係(絶…

黒沢清のヒッチコック化

●例えばゴダールの映画において、映像(イメージ)は、それ自身として存在する。つまり、そこに何かが隠されていたり、それと現実(実在)との関係が問われていたりはしない。イメージはイメージとして、それだけで十全なものとして存在する。(平倉圭氏などによ…

●とても「濃い」夢を見て目覚めた。とりたてて強烈だったり変わっていたりする夢ではなく、おそらく同窓会のようなものに出席していて、大勢人が集まっていて、いろんな人が、現れたり帰ったり、余興みたいなものをしたりしている席で、飲んだり食べたり話た…

岡崎乾二郎の作品で一貫して問題になっているのは

●岡崎乾二郎の作品で一貫して問題になっているのは、フレームと筆致(作品全体とそれを構成する諸部分)との関係で、つまり、個々のバラバラな経験を、それぞれを殺す事なく、どのように纏める(統合する、組織する、関係づける)ことが出来るのか、どのような原…

●久しぶりのいい天気。近所にある栗の木に、イガイガした実が、いっぱいついていた。一日、原稿を書いて過ごした。 ●八月じゅう、まるまる一ヶ月かけてやるべき目標が出来た。一時の、爆発的な制作モードは退潮したけど、制作は割といい感じでつづいているの…

『サイコ』(ヒッチコック)

●少し前に、ゴダールの『映画史』を、DVDの索引機能なども思い切り参照しながら、かなりしつこく観ていたのだけど、そうすると、嫌というほど繰り返し、『サイコ』(ヒッチコック)のテーマ曲を聴かされることになる。(『映画史』に、これほど頻繁にこの曲が使…

●犬や猫にとって遊戯とは、補食行動に必要な身体制御を獲得するための練習である。しかし、人に飼われ、人と共に生活している飼い犬や飼い猫は、基本的に補食行動をとる必要がない。補食行動のためという目的を失ってもなお行われる遊戯は、犬や猫の「主体」…

、岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」展と、それをめぐる対談

●吉祥寺のA-thingsで、岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」展、後期と、それをめぐる対談、「岡崎乾二郎をめぐって」(松浦寿夫×林道郎)。 ●ぼくは、今回の岡崎乾二郎の小品のシリーズは、まるで軽業師の曲芸のような作品だと思う。曲芸は、座って静かに鑑賞すると…

中沢新一「映画としての宗教」

●中沢新一の「映画としての宗教」の三回目(「群像」2007年5月号)を読んで、今、自分が考えていることとあまりにも近いので驚いた。中沢氏は、ドゥルーズやラカンという名前を出さず(ラカンは一度だけ出て来るけど、)、精神分析やポストモダン的な語彙や問題…

●用事があって久々に出掛けた。部屋から出て歩きだすと、妙に足下がふらふらする。目眩というほどのものではないが、なんとなく平衡感覚がおかしい。まっすぐ歩いていつもりなのに、右や左にふわっと流れる感じがする。(自転車にはこわくて乗れなそうな感じ…

●七月も半ば過ぎだというのに、夜中に寒さで目が覚めた。 ●半端ではなくお金がないので外に出られず、最近はずっと部屋に籠って、制作しているか、本を読んでいるか、ビデオやDVDで映画を観ている。若い頃にお勉強として観た古典映画をいまさら観直したりし…

●「近代絵画」のディシプリンというものが、ぼくには結構しっかりと刻まれてしまっていて、それはほとんどぼく自身と不可分なもので、だからぼくは一生それを引きずっていくしかないだろう。現代が、本当にもう完全に「近代」が終わってしまった時代であると…

結局、自由になる、ということは、

●白と黒のシリーズhttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/d070716.html(白い地に黒い線のみで描いているシリーズ)が、ちょっといい感じになってきた。このシリーズの制作を唐突にはじめたのが一昨年の秋頃で、この二年弱の間に、このシリーズの作品を何百…

●ラカンにとって「手紙は必ず宛先に届く」。それは、たまたま届いたところが、事後的に「宛先」となるからだ。偶然は、象徴的なもののネットワークのなかで(事後的に)位置づけられることによって、必然となる。(だからそれは、すべての手紙は誤配されるとい…

『チャパーエフと空虚』(ヴィクトル・ペレーヴィン)

●『チャパーエフと空虚』(ヴィクトル・ペレーヴィン)を読んだ。キワキワな感じの小説で、しかしそのキワキワが最後までしっかり持続する。一方に、いかにもポストモダン的な、キッチュで「面白い」お話があり、もう一方に、存在に関する深遠な(そして割と素…

人体クロッキー

●久しぶりにデッサン会へ出掛けて人体クロッキーをした。(今日のクロッキーhttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/d070713.html。)今日のモデルは、プロポーションがうつくしいとはあまり言えない感じで、酷く失礼な言い方になるけど、ちょっとカエルをイ…

『リオ・ブラボー』(ハワード・ホークス)

●『リオ・ブラボー』(ハワード・ホークス)をDVDで観直したのは、エドワード・ヤンが亡くなったからでもある。(『クーリンチェ少年殺人事件』では映画館のシーンで『リオ・ブラボー』の音声が引用されている。)これもまた、偉大な「男の子たち」の映画だ。こ…

七月二日の日記で

●七月二日の日記でぼくが書いたことは間違っていたかもしれない。そこでぼくは、中沢新一の「映画としての宗教」の一回目(「群像」2007.1月号)で示されていた、洞窟絵画にみられるイメージの三つの分類を参照しつつ、それを精神分析的な発達の過程と重ねあわ…

『カップルズ』(エドワード・ヤン)

●『カップルズ』(エドワード・ヤン)をビデオで。この映画も何度も観た。この映画についてはいろいろと思うところがある。悪い作品ではないが(好きなシーンもたくさんあるのだが)、エドワード・ヤンの作品としては必ずしも成功していない。軽いコメディータッ…

アトリエの雰囲気が変わってきた

●アトリエの雰囲気が変わってきた。(アトリエ風景http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/atelier.htmlの1〜3枚目の写真の感じから、4、5枚目+おまけの写真の感じへの変化。)この変化はおそらく、強い日射しに濃い緑が照らされる日がつづいた六月から、七…

J・D・ナシオ「精神分析における身体」

●「imago」という雑誌の1994年二月臨時増刊「ラカン以降」に載っていた、J・D・ナシオ「精神分析における身体」というテキストが面白かった。ここでは、精神分析において現れる三つの身体、性的身体(現実界)、語る身体(象徴界)、想像的身体(想像界)をそれぞ…

『ユービック』(フィリップ・K・ディック)

●『ユービック』(フィリップ・K・ディック)。SFとしてのネタというか、仕掛けとしてはもう古いのだろうけど、それでも面白いのは、ディック独自の質があるからだろうと思う。 (1)世界の外から告げられるこの世界の「真実(秘密)」が、必ず物質に刻まれた「文…

●昨日、出掛けた時に持っていって電車の中などで読んでいたディックの『ユービック』を、どこかに置き忘れてきてしまったみたいなのだけど、今日になってみると部屋に何故かもう一冊あった。(カバーをかけていないから別の本であることは間違いない。) ●ほぼ…

●七月一日の日記でドゥルーズの『シネマ2』についての平倉圭の書評に導かれつつ、この本についてやや批判的なことを書いたけど、それでも、『シネマ2』を、たがが外れて制御が困難になった「回想イメージ」を制御するために性急に「言語」が要請される、とい…

『クーリンチェ少年殺人事件』(エドワード・ヤン)

●『クーリンチェ少年殺人事件』(エドワード・ヤン)をビデオで。九十年代には何度も何度も繰り返し観た映画だけど、改めて観るのは久しぶり。あまりに好きなので、最近では、相当の覚悟がないと、そうやすやすと観直せないという感じだった。近所のレンタルビ…

『ヤンヤン 夏の想い出』(エドワード・ヤン)

●ドゥルーズ『シネマ2』の結晶イメージについての4章で、ルノアールとフェリーニが対照的に語られるところが印象的だ。結晶イメージとは簡単に言えば、現在という時間のなかで、あらゆる時間の層が「未来についての現在」「現在についての現在」「過去につ…

中沢新一「映画としての宗教」の一回目

●昨日読んだ平倉圭の書評が載っている「思想」は実は買ったのではなく図書館でコピーしてきたもので(ごめんなさい、お金がないので)、その時ついでに、なんとなく目についた、「群像」に連載されている中沢新一の「映画としての宗教」の一回目と二回目(2007.…