紫、「コードギアス」、「まなびストレート」

●おそらく、紫陽花の季節だということが理由なのだと思うけど、最近、ぼくの描く絵のなかに紫が侵入してきている。紫という色は、とても魅惑的な色なのだが、同時にとても危険な色だ。紫は、少し油断しているとすくに画面を「紫に染め」てしまう。「染まる」っていう言い方は、おそらく絵を描く人にしか通用しない感覚的な言い方なのだと思うが、それはつまり、緊張感の無い感じで紫が画面を支配してしまうという感じのことだ。「蔓延する」という言葉に良いニュアンスがないように、(絵を描く時において)「染まる」という言葉に良いニュアンスはない。かならずしも、画面のなかで多くの面積を占めていなくても、紫は容易にその画面を支配し、染めて、「甘く」してしまいがちだ。そして驚くべき事に、紫の「染める」力は、その作品の内部のみに留まらず、その隣に置かれた(紫を使っていない)別の作品までをも「染め」てしまう。こんな恐ろしくも魅惑的な色だからこそ、遣う時は大胆にやらないと、まったく制御が出来なくなってしまう。
(中西夏之の紫は、甘くなってしまいそうな、キワキワなものであることによって魅惑的だ。しかし正直言うと、ちょっと紫の不安定さに頼り過ぎな気もする。あるいは、画面が甘く染まってしまうことをもいとわずに、大胆にガンガン紫を遣うモネ。)
●『コードギアス 反逆のルルーシュ』の5話から10話まだをDVDで。どこかで見たことのあるようなありがちな細部ばかりが、つぎづきにパッチワークされる様に継ぎ足されてゆく。(だから、見ていて様々な他のフィクションをいろいろ想起させる既視感に満ちている。)なんて「安い」アニメなんだという印象。しかし、展開に困ったら新たな(どこかで見たことのある)設定や人物を安易にどんどん継ぎ足してゆくので、話の構造はどんどん複雑になってゆく。(ここで構造というのは、ほぼ人物たちの関係のことだが。)細部の密度がスカスカなまま、構造だけがやたらと複雑化してゆく様が、面白いと言えば面白い。ひとつひとつのシーンや個々の人物はまったく薄っぺらなのだが、それらの関係が複雑になってゆくことで、物語の示す世界像の全体としては一定の厚みとリアリティが出て来る。(とはいえ、主人公のルルーシュと、その反転形であるスザクという軸が中心にあってぶれないからこそ、周縁の乱暴な複雑化が可能なのだけど。)とてもはやいテンポで、新たな(どこかで見たような)細部が付け足されては消費されてゆくので、目の前はちゃかちゃか動いていて、どんどん物語が展開しているように感じられるのだが、実のところあまり進展はしてなくて、停滞している。ちゃかちゃかした停滞というこの感じが、面白いと言えば、まあ、面白いかもしれない。(いわば、襞のように内側に何重にも折り返されることによって、線に広がりが出て平面化してゆくような物語だろう。)しかしこのような話は、次々とはやいテンポで新たな(どこかで見たような)細部をつけたしつづけているうちは成り立っても、話を収束させにはいった途端に、失速し、退屈になってしまう(あるいは破綻してしまう)危険があるように思う。
●『がくえんゆーとぴあ まなびストレート』1、2話。これはさすがにきっつい。この「世界」を受け入れるためには、自分のなかにある多くのものを握りつぶして抑制し、ぐっと耐えなければならないだろう。そこまでしてつづきを観る価値があるのかは、ちょっと考え中。ただ、ぼくは小中学校と、一クラス55人以上、一学年13〜15クラスみたいな環境で、いわば学校のなかには学生がうじゃうじゃ溢れているという感じで育ってきたので、「少子化」という環境にある学校の感じがなかなかリアルにイメージ出来ない。以前、『風人物語』というアニメを観た時にも、そこには学生の少ない「がらんとした学校」の感じが描かれていて、登場人物が「野球部の男の子たちは、試合をするために部員を九人も集めなくちゃいけないから大変だね」みたいなセリフを言っていて、そうか、今は全然違うんだなあ、と思ったものだった。だからぼくには、「少子化の学校」というリアリティが、よく分かっていないかもしれない。