『おじさん天国』(いまおかしんじ)

●『おじさん天国』(いまおかしんじ)をDVDで。一時間ちょっとの短い映画だということもあるけど、あんまり面白いので、つづけて三回も観てしまった。しかし、同じ映画をつづけて繰り返し観るというのは、あまり良いことではないかもしれないと思った。映画を観るときはやはり、つぎつぎにやってくるショットのひとつひとつを、未知のものとして、その都度新鮮に捉える必要があって、つづけて繰り返し観てしまうと、どうしても「既に知っていること」を確認するような感じになってしまう。勿論それでも、新たな発見は常にあるのだが、それは既に知っている流れのなかでの発見になる。映画を観ることが、既に知っていることの確認になってしまう時に失われるのは、ひとつひとつのショットに内在している時間の感触だと思われた。
同じ映画をつづけて三回も繰り返して観たのは、二十歳くらいの時にはじめてホークスの『赤ちゃん教育』をビデオで観た時以来だと思う。『赤ちゃん教育』は、目の前に繰りひろげられることのあまりの凄さに圧倒されるうちに映画が終わってしまって、一体今のは何だったんだ、という「掴めない」という思いからもう一度繰り返し、しかし二度目もまた、一度目とまったく変わらずあれよあれよという間に終わってしまい、さらにもう一度観てみても....、といううちに朝になってしまった、という感じだった。だが、『赤ちゃん教育』とはまったく異なる映画である『おじさん天国』は、「掴めない」というより「掴みどころが無い」時間の感触によって出来上がっていて、しかし二度目以降になると、脚本や物語上の構造という「掴み易い」ところがみえてしまうのだった。そうなると、この映画でもっとも重要な、「掴みどころの無い」時間の感触を、構造的な理解が消してしまう傾向が出て来てしまう。
●にもかかわらず、三度もつづけて観てしまったのは、この映画があまりに幸福な調子で出来ていて、ぼくがずっとそこに浸っていたいと感じだからだと思う。物語の次元では決して幸福ではなく、「悪夢」に悩まされる「おじさん」が、悪夢から逃れるためにひたすら眠らないようにしているという話なのだが。
これは、純粋に作品から得られた感触なのか、監督のインタビューでエピソードを読んでしまったから、そうとしか感じられなくなってしまったのか、いまやどちらとも分らないのだけど、いまおか監督の前作『かえるのうた』は、死者が生還する映画だと思う。『かえるのうた』のラストで、主人公は、病気のために故郷に帰ってしまった友人と、その10年後にばったりと駅前で会う。(監督はインタビューで、この映画は、故郷に帰った後に自殺してしまった大学時代の先輩との関係を、女の子二人の関係に置き直した、という意味のことを言っている。だからこのラストは、あり得なくなってしまった先輩との再会のシーンなのだ。)この友人の生還が、死者の生還のように感じられるのは(監督のインタビューの話からだけでなく)、友人がかえるの着ぐるみのなかからあらわれること、そして、友人があらわれた後、この映画の登場人物のすべてが駅前の空間に唐突にあらわれて、ほとんど学芸会のような稚拙なダンスをみんなで歌いながら踊るという、この世のものとは思えないほどの幸福な感触のラストシーンへと繋がることからだ。(このシーンではもはや、物語上での現実的な秩序は後退してしまっている。)つまりこのラストシーンの幸福さは、先輩の死を決して認めない(認めたくない)という、死への強い否認の感情によって成立しているように思われる。
そして『おじさん天国』もまた、死への(友人が既に死んでしまったという事実への)強い否認の感情に貫かれているように、ぼくには思われた。この映画の冒頭に唐突にあらわれる「おじさん」は、『かえるのうた』のラストで生還してきた友人の転成した姿であるように思う。ここで「おじさん」は、死んでも生きてもいないような存在であり、つまりその存在によって「死の否認」が賭けられているような人物なのだ。この「おじさん」が存在している限り、既に死んでしまった人もどこかに存在していて、そこらの角を曲がった時にばったりと出くわして、「おっ、久しぶり、元気」とか言えることがあり得るのじゃないか、という「感情(思い)」を生き延びさせることが出来る、というような。
おじさん(下元史朗)は主人公の青年の前に唐突に、ピンクの自転車に乗って現れる。おじさんはぶらぶらしているだけでなにもしない。おじさんは悪夢を見るため、眠らないようにしている。悪夢とは次のようなものだ。真っ暗ななかで美女とセックスをしている。身体の相性もとてもよい。しかし気がつくと、その女性は目を開けたまま死んでいる。その顔を見ているうちに、その女性を好きになってしまう。おじさんは、眠いのを無理矢理我慢しているため(そして、眠気覚ましのために常に飲んでいるドリンク剤の効果もあってか)、すぐにペニスが勃起してしまう。(この感覚は男性なら誰にも覚えがあるだろう。)この勃起はいわゆる朝勃ちと同様に生理的なものであり、ほとんど性欲とは関係がない。しかしおじさんは、この勃起を納めるためだけに(そしてまた「眠る」ことを逃れるためにも)、目の前にいる女性と片っ端からセックスする。そしてまわりの女性も、それをすんなりと(独自のなげやりなやさしさによって)受け入れる。このような、非常に甘いというかヌルい環境のなかで、快楽も欲望もきわめて低い閾値で行われる性交の感触が、夢のなかの、高い快楽と強い愛情によってなされる(そしてそれが「死」へと結びつく)性交に対する抵抗となっているのだ。この感触こそが、この映画全体の基調になっている。この映画では、愛情も嫉妬も、欲望も快楽も、そして死さえも、ダイナミックなドラマや激しい感情の動きをつくりだすことのない、きわめて低い摩擦しかもたらさない、あらかじめ調整されたかのような淡々とした流れのなかに置かれている。そして何より面白いのは、その「低値安定」の調子こそが、非常に強い「死への否認」としてはたらいているという点だ。あたかも、感情の値を常に低いところに抑えていることによって、生の世界と死の世界とが繋がり、既に死んでしまった者をもこの世界のなかに再び召還することが出来るとでもいうような感じなのだ。(この映画では、激しい感情や強い快楽こそが「地獄」であり、それによって生の世界と死の世界とが分離してしまう、とでもいう感じなのだ。)この映画のラストでは、おじさんは「夢の女」を受け入れ、二人でバスに乗ってどこかへ去って行く。つまり「死」を受け入れた、ということになるのだと思う。(一応、「地獄」からは生還したのだけど。)しかしそれは、あくまで映画を「終わらせる」ための方便であって、この映画全体を貫いているのは、感情の摩擦を低い値に抑えることで得られるヌルい幸福の感触であり、そのような幸福な時間の流れであり、そしてそれが非常に「強い(激しい)」死への否認として働いているというところにある。そしてぼく自身が、そのような幸福にとても弱いのだということを、改めて思った。