●お知らせ。「群像」11月号に「死を置き換える/『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』論」が掲載されています。それと、「文藝」冬号の、「自分の小説観を変えた三冊」というアンケートに答えています。
●日曜にデジカメの動画モードで撮った動画をパソコン上で再生してみる。カードリーダーにメモリーカードをセットしてデータを読み込む。モニターに呼び出されたサムネイルをクリックする。動画をフルスクリーンモードにすると、小さなパソコンのモニターなのに、かなり画像は荒く、ボケた感じだ。音も一応拾っているが、ジーッというノイズと、何故か、走った後の心臓の鼓動のような、ドッ、ドッ、ドッ、という一定のリズムを刻むノイズが混じっている。例えば、ほんの五十秒程度のフィックス(手ぶれあり)の映像。
日曜日の河原。画面の左上半分は河原で、右下半分は土手の傾斜と土手の上の道が写っている構図。緑の芝生が遠くまでずっと広がっている。画面中央やや右には傾きかけた看板。河原の一番手前には、赤い帽子に白いシャツの男性、白い帽子の女性、オレンジのシャツの子どもの三人がいて、おそらく祖父母と孫だと思われる。男性と子どもはグローブをしていて、女性はオレンジ色のバットを持っている。子どもがボールを投げ、女性が空振りする。転々と転がるボールを女性が追いかける。男性はただ立っている。女性がボールを子どもに投げ返す。手には白い手袋。土手の上の道では、白い帽子に水色のベストの男性が空を見上げて突っ立っている。実はこの人は凧をあげているのだが、動画からではそれは分からない。この男性のすぐ後ろを、画面奥から来た自転車と画面手前からの自転車がぶつかりそうになりながらすれ違う。向こうから来た自転車に乗っている人の白いシャツがカメラに近づき、画面の端を広く覆って、すぐにフレームの外へ出る。
遠くまで見える芝生の広がりには、大勢の人たちが点のように散って、それぞれバラバラに動いている。川の近くでは、赤い点、緑の点、青い点、白い点にみえる子どもたちがわらわら動く。土手の近くではグレーの男性がゲートボールのようなものの練習をしている。黄色いシャツ、白いシャツ、赤いシャツの家族連れの三台の自転車が、川から土手の方へ進んでゆく。ぎこちなく歩く幼児。円を描くようにくるっと回る自転車。もっと先へ行くと、何をしているのか分からなくなるが、とにかく大勢の人が点在し、それぞれ動いている。画面には川を渡る橋も映っていて、橋の上ではひっきりなしに車が行き来している。橋の向こうには学校のような建物があり、さらに先には小さな山が写っている。空には雲がないが、鈍い青だ。動画の持続時間の途中、画面を上下に切り裂くように、真ん中あたりを唐突に右から左へと自転車が通り抜ける。
言葉で書くと順番に並べるしかないのだが、これらの事が、きわめて不鮮明な画面の中のあちこちで、同時に、すこしの時間のズレを含みながら、一分にも満たない時間のなかで、散発的に、畳みかけるように起こっている。その動きは全体として制御されたものではなくバラバラで、それぞれの動きは互いに無関係で、次にどこで何が起こるのか予測もつかない。フレームの外から、どのタイミングで何が飛び込んでくるのかは、予想のしようもなく、常に唐突である。それらのすべてを見るためには五十秒ではまったく足りないが、映像は五十秒で消えてしまう。しかし、これだけのことがあちこちで起こっているのに、全体としては、きもちよく広がる河原の、のんびりとした休日の風景である。この感じは、動く映像というものがあらわれる前には、決して捉えることが出来なかったものだと思われる。
この感じに比べると、例えばスーラの「グランド・ジャット島の日曜の午後」でさえ、あまりに制御され過ぎていると感じられてしまう。あるいは、この感じに最も近いこと(個々の物や動きの無関係性)を絵画で実現したのがマネだと思うのだが、そのマネでさえも、ここまでの散発性には届かないように思われる。