●あたたかかった。川沿いを散歩している時、汗ばんできてジャケットを脱いだ。冬の南浅川は極端に水の量が少なくなる。浅川と合流する手前のところでは、ほとんど水が流れていない。歩いていてなんか腰が痛い。
柴崎友香「海沿いの道」(「モンキービジネス」vol.8)。この小説がこの作家の今までの作品と異なる点は、主人公の《わたし》にとっての「親しい友人」が一人も登場しないことだと思う。これは、かなり驚くべきことではないだろうか。《わたし》に最も親しいのはみーこと呼ばれる人物なのだろうが、それでも、《わたし》の彼の友達の彼女にすぎない。後藤さんは、彼の部屋の隣に住む(彼がたまにマンガを借りるという)中年男に過ぎないし、西川さんにいたっては、たんに彼のアパートの近くに住む主婦というだけで、何故みーこと西川さんとが一緒に縁日に出かけることになったのか分からない(みーこは西川さんの自転車に乗せてもらってさえいる!)。みーこという人物の性格が、これらの人物たちの関係を(強引に)媒介する役割をもってはいるのだが。
いや、たんに「親しい友人が登場しない」というだけなら他にもあったかもしれない。しかし、友達の友達とか、きっと誰かの知り合いだろう、というような距離の人たちとの間でも割合気軽に「親しさ」が成立する空気こそが、この作家の小説の魅力であるのだが、ここでは、その「親しさ」の成立しなさこそが書かれているかのようであることに驚かされる。彼は朝早く出かけて、遅くなってもまだ帰らない。そんな彼の部屋とその周辺で、《わたし》はアウェー感とともに一日を過ごす。だがここで、《わたし》にとって世界がアウェーなものであるといっても、ネガティブなものだというところまではいかない。あくまで、親しさの「成立のしなさ」が書かれているのであって、世界や人との「遠さ」が書かれているわけではない(前半においては)。《わたし》は、みーこによって巻き込まれるこのアウェー感を必ずしも嫌ってはいないようだ。親しさを構成出来ない人物でも、その人物への興味が成立しないわけではない。世界は、きらきらと輝いているわけではないが、かといって、世界に対する否定的な感情が支配的になることもない。そのギリギリの中間を、小説は薄氷を踏むように、絶妙なバランスで進み、記述が連なってゆく。ここで世界は、かつての『その街の今は』や『また会う日まで』のような、丁寧な描写で捉えられているのではなく、ぶっきらぼうとも乱暴とも言える筆致で書かれ、しばしば状況を把握するために立ち止まって考える必要さえある。しかしそのことよって、世界の細部はかえってくっきりと粒立ち、作品世界は、ほとんどスラップスティックコメディを観るかのような、クールなユーモアとがちゃがちゃした喧噪に満ちた場としてあらわれている。それが楽しい。
だが、世界が否定的な様相を帯びた場へと傾ききってしまうことはないといっても、その危険を感じさせる徴候は小説のなかに何度も書き込まれている。言葉を投げ出すようなざっくりした筆致や、世界を記述するのクールでニュートラルな態度は、実は薄氷を踏むような気遣いと配慮によって成立しており(おそらく、過度な気遣いと配慮が「親しさ」という空気の成立を困難にする)、それを強いるような薄皮一枚下にある深い空洞のような危うさの徴が至る所にあり、つまりこの世界はとても不安定だ。しかしそこで世界のネガティブな場への転落を抑え、こちら側に踏みとどまること(ニュートラルな態度-配慮を保つこと)を可能にしているのが、前日に行ったライブによって与えられた肯定的な何かであり、その音の感触が耳鳴りとともにまだからだのなかに残っているという感覚だろう(耳鳴りは、同時にこの世界との微妙な齟齬もあらわしている)。その耳鳴りが《消えてしまわないことを願》いつつ、しかし《そんな風に思うのは、まだわたしが弱いからだ》という言葉が書き付けられた後、世界は変質する。
それ以降、舞台は過去にさかのぼるのだが、しかしこれは本当に過去なのだろうか。むしろ、ずっと押さえ込んできた世界のネガティブな様相(空洞)が、抑えきれなくなって顕在化したと言えるのではないか。ここまでは、世界や人は、「親しさ」を構成できないとしても、決して「遠い」ものではなく、それはある「近さ」をもって《わたし》の前にあらわれていた。だからこそ《わたし》は、世界や人に対する愛着や関心を捨ててはいなかったし、それが気遣いや配慮を作動させてもいた。しかしこれ以降、世界や人は《わたし》から急速に遠のき、世界から切り離された《わたし》が、遠くて冷めた場所から世界を眺めているかのような投げやりな感触になる。つまり、世界はネガティブな場となるというより、近さと熱と表情を失った、のっぺらぼうのような場となる。ここまでくるともう笑えない。もはや気遣いや配慮は作動しない。《わたし》は、知らない街の《コンビニの明かりに照らされた範囲だけが暗いなかに浮かんだ島みたいな気が》する場所で、小沢さんたちの一家の顛末を遠いことのようにただ眺めている。ここでは、《こいつらといっしょにいたら、やばい》という否定的な感情だけが、かろうじて《わたし》と世界とを結びつけているようにみえる。というか、《こいつらといっしょにいたら、やばい》という否定的な感情をはっきりと「感じることが出来ること」だけが、世界へと近づき、それを肯定する道を辛うじて開いているようだ。この強い否定の意志を書き付けることこそが、この小説の目的だったのではないかとさえ感じられる。そして《わたし》は、たった一人でこの遠くて冷たい世界から自らの意志で離れて行く。
とはいえ、この小説のラストは不穏で不吉なもののようにも感じられる。《バスが来る気配がないので》、《車で来た道を逆向きに》、《歩道で出会う人》もなく、どんどん歩いて《少しずつ駅から離れて》ゆく《わたし》は、《止むことのない波の音に、押し出されるみたいな感じがして体が軽くなり始め》る。ここで《わたし》は、この世界や人から、さらにどんどん遠くへ離れて後退してゆき、波の音と同化することによって、闇のなかへと消失してしまうかのようでもある。
●とはいえ、やはり一番面白いのは後藤さんと西川さんだと思う。後藤さんがいきなり「お金、取られない?」と言うのとか、西川さんの干物や、鬱陶しいロングスカートと長い髪とか、へんな二人乗りとか、「緑色ならなんでも」とか。そういうのがぎっしり詰まっていることが、この作家のなによりすごいところだと思う。