神奈川県民ホールへ「日常/場違い」展を観に行く。
関内駅で降りるのは、たぶん、去年の二月に「we dance」というイベントを観に開港記念館に行った時以来。横浜を歩くと、ぼくはいつも過去に戻るような感じになる。昔を思い出すというよりも、今の、この空間を、「十代の身体として」歩いている、というような感覚。横浜に毎日通っていた浪人時代と「今」とが直結して、その間に挟まっているはずの二十年以上の時間が消えてしまうというような。いや、それはちょっと違うか。十代の時に横浜を歩いていた感覚が、今の横浜という土地にまだに保存されていて、今の身体が、それとぴったり重なってしまう、というのか。だから、懐かしいという感じとは全然違うし、過去に戻るというのも、違うかもしれない。きっとこの感覚は、たまにしか横浜に行かないからまだ保存されているのだと思う。頻繁に通うようになると、そこに現在の時間が持ち込まれ、それにかき消されてしまうのだろう。
去年、開港記念館に行った時は、「ここまで来て山下公園に寄らないなんて !」と思いながら、そのまま帰ったのだが(イベントが終わった時はもう夜だったし)、県民ホールは山下公園の目と鼻の先なので、今日は寄った。山下公園は何年ぶりだろうか。というか、県民ホールに来ることも、ここ七、八年はなかったんじゃないだろうか。ぼくは割合と海に近いところで育ったし、高校も、校舎から海が見えるところだった。今年の正月に実家に帰った時にも海まで散歩した。でも、砂浜の海と港の海とでは、全然感じが違うものだなあと、バカっぽい感想が浮かんだ。かもめの飛び方は、カラスの力強い飛び方とは全然違う。凧みたいな感じで、海風を受けて優雅に飛ぶ。
●「日常/場違い」展は超面白かった。もうすぐ終わってしまうけど、観に来れて本当によかったと思った。しかしそれと同時に、すごく考え込んでしまった。美術って、もう、こういう方向に行くしかないのかなあ、と。いってみればこの展覧会は、すごく頭がよくてセンスもいい学生ばかりの高校の文化祭に行った、みたいな面白さなのだ。すごく面白い体験型イベントなのだが、ても、これって、作品と呼んでよいものなのだろうか、と。
例えば、利部志穂の作品は、彫刻ではないかもしれないし、もしかしたら美術でさえないのかもしれないけど、「作品」であることは間違いがないと思う。それは、作品と言ってもよい密度と凝縮力があり、その作家にしか作り得ないという、ある核のようなものが感じられる。作家は、作品を支配することは出来ないし、作品は、作家という存在に還元されてしまうこともない。よい作品とは、作家を軽く越えてしまうようなもののことだ。それでも、作品は「作家によって作られる」何かで、作家によってつくられたというしるしがどこかに刻まれている。しかし、雨宮庸介によるロッカー室や、木村太陽による段ボールで出来た巣穴のような迷路や、泉太郎によるビデオ装置を、作品ということが出来るのだろうか(久保田弘成のものは「作品」と呼べるものである気がした:けど)。
これは決して、つまらないということではないし、否定したり軽くみたりしているわけでも全くない。実際、すごく面白かったし、観られてよかったと思った。特に、雨宮庸介のロッカー室など、うわ、やられた、というくらい面白かったし、使われている映像もすごく質の高いものだと思った。逆に、「作品ではない」からこそ(というか、作品である、ことにこだわらないからこそ)、こういう面白さが「拾える」のではないか、というような強い魅力を感じたのだ。「作品」などというものにこだわっているのは、もう古い、ダメな感覚なのだろうか、という感じで、頭を抱えてしまったのだ。
ただ、作品は「作品」でさえあれば、美術だとか彫刻だとかいう外からの枠組みを必要としない(と、ぼくは信じている)。しかし、これらの「ものすごく面白い装置たち」は、逆に、作品という力学から自由であるために、美術とかアートとかいう枠組み(フレーム)を強く必要としてしまうのではないだろうか、とも言える。しかしこれもまた、ぼくの悔し紛れの負け惜しみでしかないかもしれないのだが。
久保田弘成のものが作品に見えて、ロッカー室や段ボール巣穴やビデオ装置が作品に見えなかったのは、前者の装置が「それ」として閉じているのに対して、後者は、それを観る観客の存在が前提にあって、観客がそこに加わることではじめて成立する装置である、ということなのかもしれない。例えば、ダンスや演劇のようなパフォーマンスでさえ観客が一人もいなくても成立すると思うが(そこに想像化、象徴化された他者の視線があれば成立する、お客様は「神様」でもいいのだ)、ロッカー室や巣穴やビデオ装置は、観客の存在(参加)なしには成立しない。
いずれにしろ、すごく面白くて、刺激的な展覧会であることは間違いないと思った。
●せっかくここまで来たのだからと、横浜から京浜急行に乗ってみることにした。ただ、電車に乗るためだけに、電車に乗る。横浜から、安針塚という駅まで行って、一度降りて、二十分くらい駅のまわりをぶらっと歩いて、また横浜まで戻る。昨日読んだ「海沿いの道」(柴崎友香)にも、《横浜行きの赤い電車》として京浜急行が出てくる。つまり舞台は京急沿線なのだった。あれはどの辺りなのだろうか、とか思いながら、窓の外を見る。各駅停車で行き、各駅停車で戻った。何故、安針塚までなのかと言えば、ぼくは子供の頃、佐藤さとるが好きだったから。京急田浦という駅を過ぎたころから、風景が俄然「佐藤さとる」っぽくなって、すごくテンションがあがる。帰りには、電車の窓からの大きな空が、真っ赤に染まっているのが見えた。