●久々に『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最後の七日間』(リンチ)をDVDで観た。
リンチの映画を観ていると、人の顔で、目と口は同じ形をしているんだなあと感じる。リンチには、金髪へのこだわり(あるいは金髪と黒髪の対比へのこだわり)は確かにあるけど、それはどちらかというと距離の遠い、表面的なイメージとして重要なのであって、イメージとの距離がちかづいてゆくと、顔は、ほぼ目と口と肌の質感へと還元される傾向にある。ただ、これはあくまで女性の顔であって、男性の場合、目と口が際立つことはあまりなくて、それよりも、骨と肉との関係(鼻がしっかりしているとか、頬が張っていて肉が薄いとか、逆に、肉が骨からこぼれ落ちそうにたるんでいるとか)が重要であるようだ。
ローラ・パーマーの目と口は、横にがばっと広く切れ込んでいて、まるで顔からはみ出てしまいそうに大きい(特に娼婦モードのメイクをしている時)。ほお骨も割としっかりしているので、まるで邪悪なカエルのようだ。
食べ物を呑み込み、言葉を(声を、悲鳴を)吐き出す口と、イメージ(しばしば外傷的なイメージ)を受け取り、眼差しを送り出す目。ともに、吸入し排出する器官としてある。二つの形態の類似は、もう一方で、内側に暗闇を含み持つ口と、光をまぶしく反射する白目という、対比的な機能をももつ。白目が際立つ時、瞳は後退して眼差しは消え、目は視力(イメージ)を失って、ただ光を反射するスクリーンとなる。暗闇の中で明滅する光に晒されるローラの顔は、白く発光する二つの見開かれた白目と、光が当たってもなお暗い空洞でありつづける開かれた(赤く縁取られた)口という、異なる二つの機能をもつ類似した形態へと還元される。皮膚の質感−ひろがりは、バラバラに分解しそうな目と口とを同一の地平に辛うじて繋ぎ止め、それが(叫んでいる)「顔」であるといるゲシュタルトを最低限のところで成立させる。その時ローラはもはやローラではなく何者でもなくなってしまっているが、しかし依然として「叫びを叫んでいる誰でもない誰か」ではあるのだ。そしてその時、ローラの顔の表現の強度は、というより、この映画の表現の強度は、最大値に達する。
この映画のローラは、ほとんど人格を持ち得ず、つまり能動性をもたず、寄せては返す拍動に完全に受動化している。彼女は、自身をめぐる環境(ドラッグ、ドラッグによって強いられる人間関係、父親による性的な暴力、ボーイフレンドの無能力)と、自分自身の内側から迫ってくる欲動の波に完全に呑み込まれており、その時、その場にやってくる情動と欲望に束縛され、つまりローラの身体は、情動と欲望の純粋な表現形にまで解体されてしまっている。だからこの映画も(世界の徴候を読もうとするFBIの捜査官が消えてしまった後は)、ただひたすら、明滅する光と、その場その場で多少ニュアンスの違う、ローラの情動−叫び−快楽−苦痛(これらはすべて一体化している)への受動化と崩壊(自分自身を制御不能の「力」に完全に明け渡してしまうこと)を繰りかえし示すのみという、単調な展開となっている。
しかし、この単調さこそが、この作品がどのような「言い訳」や「方便」とも無縁に、純粋に(リンチ自身の身体に脈打つ)力の流れに忠実に従っているということの証拠でもあろう。それが、リンチの全作品のなかでの、この作品の特異性だと思う。例えば、ローラの受動化−崩壊が一気に頂点にまで達する父親と車に同乗している場面と、崩壊が比較的軽い次元に留まったままで単調に長く持続する、あやしいクラブのシーンとの、力の流れやうごめきの違いを、その肌触りを、感知し味わうことこそが、この映画を観ることなのだと思う。