●noteで、福永信『星座から見た地球』論「マイナス1、プラス1 『星座から見た地球』と『あっぷあっぷ』のなかを動いているもの(1)」を公開しています。このテキストの初出は「新潮」2012年5月号です。
https://note.mu/furuyatoshihiro
●一昨日書いたことの補足のようなことだが、「わたし」という問題を、自意識や承認欲求のような問題に矮小化するのは違うように思う。「わたし」という問題は厨二病的な問いではない。
「わたし」という問題を、世界の連続性を観測によって保証する観測基底として考えることができる。その時、「わたし」という問題は「世界」という問題と同等になる。いわゆるセカイ系というものも、このような視点から考えられるべきなのではないか。
とはいえ、九十年代のアニメにおいて「わたし」は、多くの場合、自意識の問題であった。「エヴァンゲリオン」にしてもそうだし、「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」でさえも、その傾向が強い。あるいは、「ウテナ」は、「わたし」が「わたしの欲望の主体」であるための、神話的で政治的な闘いが描かれたともいえる。
だが、2000年代以降は様子がかわる。「涼宮ハルヒの消失」や「シュタインズゲート」で、(作品内の)世界の連続性を保証しているのは、ただ、主人公の意識や記憶の連続性だけだ。キョンや岡リンの意識や記憶がなければ、世界は、互いに相互作用もなく関係をもつこともできない複数の不連続な世界へと分離していってしまう。キョンや岡リンという意識と記憶の連続性を保った観測者の存在によってだけ、分断され世界が連続性をもつ。
あるいは、「エンドレスエイト」において、登場人物たちは、「どうも世界がループしているらしい」ということに気付くことはできる。しかしその反復が正確に15532回だという事実は、ただ、長門有希の記憶の連続性によってのみ保証される。宇宙全体が反復しているので宇宙の内側に「物的証拠」は存在しない。もし、その作品宇宙のなかに長門有希が存在しなければ、同じ二週間が反復しているという事実はあっても、それが15532回という具体的な回数をもつという事実そのものがなくなってしまう(長門がどうやって連続性を確保しているのかいう問題‐矛盾はここでは置いておく)。
しかしこのことは同時に、では、「わたし」の連続性を誰が保証するのかという問題を生じさせる(「エンドレスエイト」につづく「消失」では、まさに長門の連続性が保証されないということが問題になっている。しかしそのかわりに、キョンの連続性が世界を支える)。ここで「他者」が、あるいは「モノ」が、「わたし」の連続性を、補完したり、批判したり、否定したりする存在として登場する(「ハルヒ」世界における、宇宙人、未来人、超能力者の違いは、たんに「この世界内」の立ち位置や視点の違いではなく、それぞれが依拠する、この世界そのものの基底=連続性を支えるもの、が違う、だから、その意味でも正確に異世界人たちなのだ)。とはいえ、それによって完全に補完されることはない。そして、「わたし」の連続性が成り立たないかもしれないという不安定さは、そのまま、この世界の基底面での連続性を絶対的に保証するものは何もないという認識に繋がる。
(例えば、『ゼーガペイン』は、世界の連続性が「わたし」によって保証されるのではなく、世界の不連続性を「わたし」が否応なく経験するという話だろう。)