●昨日の日記にもちらっと書いたけど、エリー・デューリング「スーパータイム」(「思想」2017年12号)は、ほとんど『君の名は。』論のようにして読める。というか、「スーパータイム」のような方向から光を当てられるとき、『君の名は。』という作品の本当の凄さが浮き彫りになるように思う。
以下、昨日引用した部分との重複もあるが、「スーパータイム」から『君の名は。』と深く響き合う部分を引用する。
《〈スーパータイム〉というものは、永遠性、あるいは非時間的なものに与えられる別の名前ではない。〈スーパータイム〉は、一つの本質的な特徴によって、平凡な出来事や世俗的な出来事から区別される。つまり、その特徴とは、本質的に非-因果的であり、より正確に言えば、私たちが知っているような因果的秩序の領土から切り離されている、ということである。というのも、事物がすべての時間において作用し反作用しているというのは明らかだからだ。私たちがあつかっているのは、超空間的なもの、つまりは準-原因にほかならない。それは、魔術的ないしは神秘的な影響であり、私たちのものとは何らかの意味で直交している次元から、目に見える実在に影響を及ぼしているのである。こうして得られた時間の体制は、持続、継起、同時性という三つの名のもとにカントが形式化した客観的な「時間の秩序」を転覆させるように思える。超自然的な時間は、時間の枠組みや、私たちが慣れ親しんできた一般的な時間の形式よりも、硬直的でないものとしてあらわれるのである。》
《(…)それらの出来事は、それ自身としては目に見えず知覚できないままにとどまるので(それらの作用は感じられるかもしれないが)、はっきりと局所化されることは不可能である。したがって、超自然的な出来事は辺りを「浮遊」している。そうした出来事の作用は、スーパータイムが、拡散した、局所化できない源泉から放射されるものである。こうした事態が直接的に意味しているのは、厳密な局在化の可能性が欠如している場合には、出来事全体が線形的に順序づけられていないということである。いくつかの出来事は、未来と現在に同時に存在することができ、いわば、差し迫った仕方で与えられる。それらの衝力は同じ時間にいくつかの場所で感じられうる。強調されるべき第二の特徴は、超自然的な出来事の非-局在化可能性の直接的な帰結である。目に見えない影響は、非-局在化作用を通して、あるいは直接的な遠隔作用を通して働く。付言すると、「直接的」は必ずしも瞬間的ということを意味しない(遅延があるかもしれない)。しかしそれは、媒介が力の経験へと分解されうるということ、あるいは、今-ここで、いわばその場で、直接的に作用している当のものを拡散しうるということを含意している。超自然はあちこちに進行するのではない。その作用は、自らの効果を生み出すために媒介物を用いるかもしれないが、媒介物の連鎖を通って運ばれることはないのである。超自然が働く様態はむしろ、すべてを接続する媒体の様態であり、それによってすべての存在者が宇宙の残りの部分に潜在的に現前する。そのような超自然的なエージェンシーによって活性化された結果として、因果的連鎖それ自体が奇妙な非-局在的な質を獲得する。》
《極めて単純なことだが、パースペクティヴは空間的な言葉ではなく時間的な言葉によって再定義される。ここで重要なのは、ヴィヴェイロス・デ・カストロによると、変換や変身---アニミズム文化の文脈では決定的な観念---は、まさしく「パースペクティヴ」の同義語、あるいはむしろ、アメリカ先住民の存在論を特徴づけるパースペクティヴの交換可能性の同義語であるということを思い起こしておくことである。》
《このような事態は、一つのパースペクティヴが意味するものについて私たちがもつ現象学的な直感に矛盾する。より正確に言えば、この事態は、目線を特定の位置あるいは「視点」に結びつけるというまさにその考えによって一般的に意味されるような、目線の時間化ないしはベクトル化を複雑にする。よく知られているように、魂は西洋の伝統においてパースペクティヴを表すメタファーとして考えられてきたのだろうか---あるいはひょっとすると逆に、パースペクティヴは魂を表すメタファーとして考えられてきたのだろうか。いずれにせよ、主体と、その主体が世界に対してもつ関係とに関する特定の考えは、まさに視点という概念と密接に結びついている。ライプニッツが言うところによれば、魂は身体のうちにその視点を有する。それは本来表象の問題ではなく、状況の問題である。》
《対話行為がつづけられていくプロセスから創発する時間の形式は、それが実在的な生成と関連するにもかかわらず、あるいはむしろ関連するがゆえに、不可逆的な流れという馴染み深いメタファーによって容易に伝えられるものではない。こうした時間の形式は、諸瞬間が継起するというような、秩序だった線形順序をとらない。ところがこの場合私たちは、客観的な因果性の時間を二重化し活性化する超自然的なエージェンシーの本質的に不確定な(非-因果的で局在化できない)時間についてレヴィ=プリュールが行ったほとんど否定的な記述をすでに捨て去ってしまっている。トゥビナンパの〈スーパータイム〉がもつ非-局在的な性格が意味するところをより明確にするために、パースペクティヴ主義の言葉を表現し直してみよう。それはある種のパースペクティヴの両義性の表現に他ならず、そうした表現の典型はネッカーキューブのような軸測投影の構造物である。私たちが〈大いなる現在〉に相当するものを得ることがあるとすれば、それはなんとかして私たちの注意の時間的なスパンを広げ、図/地の反転及びそれと類似した「ゲシュタルトスイッチ」によって表されるような、一見瞬間的に思われる転換が現実的に持続していることを経験することによってであろう(これはサイケデリックで美学的な経験がそれ自身の仕方で成就していることではないだろうか)。ポイントは、非-局在性は過小-決定の問題ではなく、むしろ異質的なフレーミングのオーバーラップ、重なり合い、連結を通した過剰-決定の問題である。この非-局在性は、マナや「現前の領域」のような表現によって伝えられる漠然とした感じよりも、ネッカーキューブの上を漂う透明で捉えどころのない視点の方に一層関係が深い。》
《ウォーフはホピの時空を説明するにあたってそれを二つの様相ないし次元(客観的と主観的、顕現されるものと顕現されつつあるもの)に分けたが、ホピの形而上学についての彼自身のモデルは、変換群と一様な計量ともに相対論的なハイパースペースの結晶のような力になお強力に依拠していた。パースペクティヴの相互性はこれを最後に同じような仕方で省みられることはなくなった。しかし超自然が自らに固有の場所を見出す多元的宇宙は、私たちが三まで数えることを必要とする。それは、二つの異質的なパースペクティヴが単に相互に滑り込むという事実によって、三つ目のパースペクティヴを開始するからである。私たちに必要なものは、文字通りの透明性よりも、変換的で構造的な透明性である。自然と超自然は、同一の生地の表裏(実在の単なる二重の衣類)として相対するのではなく、視覚的な錯覚における図と地として相対するのである。あるいはむしろ、超自然はこうした場所交換のゲームにほかならず、それは〈スーパータイム〉という要素によって演じられるのである。》
《(…)すべては過ぎ去る、時間それ自体を除いては。それゆえ、〈スーパータイム〉の形式的な性格をもっともよく指し示すものが、次のような事実のうちに見いだされうる。それは、パースペクティヴの交換は時間の根本的な働きであるため、時間のうちで生起する出来事の継起としては、いかなる連続的な仕方を用いても十分に記述することはできない、という事実である。》