プラトン(幾何学イデア)やアリストテレス(自然学・コスモロジー)によって生まれたギリシャの数学や自然哲学が、アレクサンドリアを通じてヘレニズム文化のなかで自然科学として発展したものの、それは、ローマ帝国キリスト教の支配によって長く異端として抑圧されることになる(自然科学が、神=自然を人間が操作し得る対象としているため)。しかし、ローマ帝国滅亡の後、15世紀のイタリアで、職人の技芸(技芸とは、自然の操作であろう)と自然哲学との結びつきが生じ、それが自然科学の復興へと通じる(ルネサンス)。
この、ルネサンスにおける技芸と自然哲学の結びつきが、ガリレイにおいて、(道具や技術を使った)実験と数理の結びつきとしてある「物理学」が誕生がするための基礎になっていると考えられる。つまり、ルネサンスが17世紀の科学革命の基礎になっている。これは、ほぼ同時代の哲学者、ベーコンやデカルトにおける自然=機械という考え方(デカルト心身二元論だけど)と重なってもいる。物理学は、自然哲学から、物事の本質という考えを切り落とし、諸事物の関係を取り出すことにその探求を限定した(距離の比→加速度のように)。そして、そのようなものとしての物理学の発展(熱力学)は、資本とテクノロジーと結びついて産業革命を引き起こし、世界をドラスティックに変化させる。
(以上は、ほぼ、放送大学「自然科学はじめの一歩」第14回「自然科学の小史」からの受け売り。)
古典物理学が、電磁気学、相対論から量子物理学へと変化、発展しても、物理学が実験(実験を可能とする技術)と数理との結びつきから成り立っていることに変わりはないと思われる。技術と数理の結びつきが新たな技術を生み、新たな技術が、あらたな技術と数理の結びつきを可能にすることで、物理学と技術は急激に共発展する。そして、数理と結びついた技術は、われわれが生きている「世界」の条件そのものを大きく変化させる。
たとえば、物理学とテクノロジーの結びつきは、核兵器をつくることを可能にし、量子コンピュータをつくることを可能にする。あるいは、シンギュラリティすら引き起こすかもしれない。それがある世界とない世界とでは、われわれが生きている根底的な条件そのものが大きく異なってしまう。
(このような、数理と結びついた「技術」のもつ圧倒的な力の大きさが、物理学的世界観---科学的実在論---の説得力を限りなく増大させる。)
マルクス・ガブリエルは(『世界はなぜ存在しないのか』の二章までしか読んでないけど)、物理学が描きだすのは「宇宙」であって、宇宙は世界全体を包摂するものではない(というか、世界全体を包摂するような意味での「世界」は存在しない)と書いている。それにはとても説得力があるように思う。
ただ、たとえ宇宙=世界という考え方が誤謬であるとしても、そのような誤謬が強い説得力をもってしまうことが必然的であるほどに大きな力が、技術と数理の結びつきとしての物理学にあるということを認めないわけにはいかないと思われる。たとえば、シンギュラリティによって「人にとっての意味」を成立させているあらゆる「意味の場」は絶滅するかもしれない。
このような、物理学のもつ絶対的とも言える強大な力を肯定しつつ、しかし(というか、だからこそ)世界=宇宙とは言えないのだ、ということが哲学的(あるいは、物理学的)に導きだせればいいと思うのだけど。
(物理学が、本質という概念を捨てて関係に探求を限定することで数理と深く結びつき、それによって爆発的に発展したのだとすれば、あらゆる関係から脱去する---上方解体によっても下方解体によっても還元されない---「実在的オブジェクト」というハーマンの概念は、物理学的世界=宇宙には決して包摂されない、別様な世界があり得ることを---デカルト的な二元論とは異なる形で---すくなくとも「考えること」は可能であることを示しているかもしれない。)
(たとえば、物理学によって可能になった量子コンピュータによって、「世界のあり様が根本から変わってしまう」として、そのように言われている時の「世界」は、かならずしも物理学的に還元できる「世界=宇宙」とぴったりとは重ならない---それは「社会のあり様」であったり「人のクオリア」であったりする---という事はできるだろう。「社会のあり様」ですら物理的に還元可能と考えることができるとしても、では「クオリア」は?、となる。あるいは、物理学においてさえもどうしも生じる、技術(実験・経験-アリストテレス性)と数理(理論-プラトン性)との間の食い違いというのがあり得て、そこから物理学には還元されない何かが出てくるという可能性もある。)