少女革命ウテナ」というアニメが面白かった。アニメに詳しい人なら、今さら何 ? 、っ感じだろうけど。しかし、面白いと思った後で、どうしてぼくはこんなものが面白いと感じるのだろう、という疑問がわくのも事実。簡単に言っちゃえば、一人の(二人のか?)の少女の過去からの自己解放と自立の物語であり、イノセントなものへの賛美でもあるようなもので、内容的にはありふれたビルドゥングス・ロマンのようなもの。
主題としてはは単純でありふれたものでしかないのに、それを語るために用いられるイメージは、異様で奇形的で病的ともいえるようなものの連続。いかにもアニメオタクのフェティシュを刺激しそうな奇形的な体型の美少女キャラ、シュールな舞台設定、深読みを誘発させるために、様々な文脈から掻き集められた断片的な要素、アングラやサブカルチャーを強く意識した、エグくてドギツいイメージの連発、全く笑えないアニメギャグ満載、過剰なまでに強調される装飾的な細部。しかも、これが延々39話という長さで持続するのだ。(第一話を見ただけの段階では、そのあまりに病的なイメージの羅列に強い抵抗を感じた。うわッ、何だこれ、っていう感じ)
ひとつひとつは全く現実性を欠いた、異様で、しかもチャチなイメージの連続でしかないのに、しかし全体を通してみると強いリアリティを感じてしまう。
これは何故なのか。
ひとつには、とても綿密な構成、というのがあげられる。「ウテナ」は「エヴァ」のように、そのあまりの過剰さによって構成が破綻してしまい、逆に、その破綻によって多くの人の欲望を引き付けた、というものではなく、複雑で錯綜した構成であるにもかかわらず、きっちりとしすぎているほど、きっちりと構成されている。
この物語を構成する基本的な身ぶり、というか要素は、「裏切る」ということにあるように思う。視聴者に、あるありふれたイメージや物語を示して、そこに感情を引き付けさせておいて、最後にひっくり返す、というか冷や水をあびせる。その、裏切る、という行為を様々な位相で仕掛けておいて、裏切る行為の積み重ねによって複雑に物語を進行させて行く。同じような物語を何度もなぞるようにして語り直しながら、その都度、裏切ってゆく、という作劇上の特徴が、39話という長い持続を必要としたのだろう。そして最後は、最も強度のある、見事なイメージを示してきれいに終了する。
シリーズ全体を構成している、幾原邦彦という監督は確信犯なのだ。いかにも「アニメオタク的」な文脈を前提とした、その内輪でつくられた作品のようなフリをして、アニメオタク的なアイテムを構成要素として使いながらも、その優れた構成力によってそれを裏切り、裏切るという行為を何重にも仕掛けることで我々の感情を引き付けつづけておいて、最後に圧倒的なイメージを見せつける。彼は、自分が使っているイメージも物語も全てチャチで現実性を欠いたまがいもの、であることを十分に知っていながら、それらを用いて、何か別のものを構築しようとしているのだ。
これは「感じる」作品ではなくて、「読む」あるいは「分析する」ことを要求してくる作品なのだ。感じる、という次元においては全く下らないものでしかないだろう。美学や審美眼は通用しない。一見、病的で歪んだイメージの羅列にもみえる「ウテナ」だが、作品の"あり方"としては、とても理知的なものなのだ。
例えば、村上隆のような美術家に欠けているのは、イメージを使って"構築する"という作業だと思う。エヴァ庵野ウテナの幾原は、それ自体としては、マニアックに閉じていて、悪趣味で、病的で、チープなものでしかないイメージを、それと分かっていて使用しながらも、別の「何か」を構築しようとしているのだ。だからこそ彼らのつくるものは作品と呼び得るのだし、オタク的な閉閾を超え得る。美術家が、アニメからイメージを借りてくるのは一向に構わないと思うのだが、それを使って何か別のものを"構築"しようとしない限り、それはだだ、曖昧な「気分」を売っているというだけだ。
それ自体としてはチープなものでしかないイメージを使用して、それらを複雑に組み立てることによってしか、現在の、リアリティある作品をつくれないのだとしたら、ひとつの、たったひとつの良質なイメージによって、世界のあり方を示そうとする絵画というものは、もはや成立しないのか、とも思えてくる。しかし、ここで性急に、自虐的な結論を出すのはやめよう。